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了解しました。では第一章「はじまりの光」を、社畜としての苦しい日常 → 無理をしてでもチケットを取る決意 → ドイツへ渡航するまでを、細かく丁寧に書きます。
この章だけでも相当な文字数になるため、長編らしく厚みを持たせて描写していきます。
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小説 ― 第一章 はじまりの光
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朝六時。
目覚まし時計が鳴るより早く、素山めろでいの瞼は、重たいのに諦めきったように薄く開いた。枕元のカーテンは閉めきられたまま、外の天気が晴れか雨かもわからない。狭いアパートの天井には染みがひとつ、昨夜の雨でまた広がっている。
「あー……行きたくない……」
小さく声に出すが、答えてくれる人間はいない。
布団の中でしばらく動けずにいると、胸の奥にまとわりつくような不快感が重たくなる。上司の顔、昨日ミスを押し付けられた同僚、メールボックスに溜まった案件の山。思い浮かべるだけで胃がキリキリする。
それでも彼女は身体を起こし、髪をまとめる。
ピンクとラベンダーのツインテール。職場では浮きまくるスタイルだが、これをやめたら自分が自分でなくなる気がして、辞められない。鏡に映る顔は疲れ切っていて、リボンやアイメイクで誤魔化さなければすぐにでも崩れてしまいそうだ。
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会社はブラック企業の見本のような場所だった。
定時で帰る人間はいない。会議は夜にずれ込み、休日出勤は暗黙の了解。誰も文句を言わないのではなく、文句を言った者から消えていくのだ。
めろでいもまた、消えたくなかった。だから何も言わない。
笑顔で「はい」と答え、頼まれた仕事を抱え込み、残業の山に沈む。
気づけば終電、帰って寝て、また翌日。
唯一の救いは、帰宅してテレビをつけた時。
そこに彼がいる時だけだった。
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ミヒャエル・カイザー。
バスタード・ミュンヘンのエースストライカー。
画面越しに映るその男は、煌めくように美しく、傲慢で、誰よりも自信に満ちていた。
「……すごい」
何度見ても、そのプレーに息を呑む。
彼は観客を支配する。ゴールを決めた瞬間、悪魔のような笑みを浮かべる。その姿は王子様というより、もっと強烈で恐ろしくて、けれど抗えないほど魅力的だった。
めろでいの部屋は狭くて、薄暗くて、畳は擦り切れている。
けれど画面の中で彼が走るだけで、ここは一瞬だけ金色の空に変わる。
彼女の「生きててよかった」と思える唯一の瞬間だった。
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ある日、ネットで目に入った文字があった。
【UEFAチャンピオンズリーグ 準決勝 ミュンヘン開催】
チケット販売の情報だった。
値段を見た瞬間、めろでいは目を丸くした。
「……高すぎる」
社会人数年目、ブラック企業の薄給。貯金なんてほとんどない。
それでも――手は勝手に動いていた。
「……買っちゃった」
クリックを押した瞬間、胸がドクンと鳴った。
カイザーに会える。画面の向こうではなく、現実に。
ずっと夢だと思っていたことを、自分の指先が決めてしまった。
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それからの日々、めろでいは必死に働いた。
出費を抑えるために食事はカップ麺。休憩時間も副業の入力作業。
睡眠時間は減り、身体は限界だったが、それでも心の奥は熱に浮かされていた。
「仕事がんばる」
小声でそう呟きながら、机の上に置いたチケットを見つめる。
ピンクのリボンのついた手帳に、日記を書いた。
《あと二週間。カイザーに会える》
机にはスーパーで買った小さな花を飾った。枯れてもまた新しい花を買い、手帳の横に置いた。
それは彼女の、手作りの希望だった。
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出発の日。
成田空港のロビーで、めろでいは浮いていた。
他の観戦客はカイザーやバスタードのユニフォームに身を包んでいる。
金髪のウィッグ、美しいドレスのような衣装。ファン同士で集まり、キャーキャーと声を上げている。
「……かわいいなあ」
めろでいは小さく呟いた。
彼女たちはめろでいよりも若く、可愛く、美人で、堂々としている。
比べれば、自分なんてただの場違いな社畜にしか思えなかった。
それでも、彼女は足を止めない。
飛行機に乗り、揺れに耐え、十数時間後、ミュンヘンの地を踏んだ。
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ホテルに着いても眠れなかった。
窓の外は異国の街並み。石畳の道、遠くに見えるスタジアムの光。
胸が高鳴って止まらない。
「……明日、会えるんだ」
枕に顔を埋めながら、涙が滲んだ。
こんな気持ちになったのは、何年ぶりだろう。
社畜としてすり減っていく日々の中で、明日だけは、奇跡が待っている。