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#お仕事
#秘密
翼は、見えない糸で手首を引かれるかのように、ゆっくりとうろへ近づいていった。さっきまで胸を占めていた警戒は、獲物を目前にしたときの熱に塗り替えられていた。
いた。
うろの奥、濃密な闇の底に、黒く光るものがうずくまっている。微動だにしていない。にもかかわらず、周囲の空気だけがわずかに緊張し、その存在の重みを知らせていた。背中は鈍い艶を帯び、暗闇そのものが凝固した塊のようだった。
「……でかい」
「ミヤマか……いや、違う。この艶……オオクワガタか……?」
確信した瞬間、それまで五感を支配していた不吉な予感は、朝の霧のように薄れていった。頭の中は別の映像で満たされる。教室のざわめき、机の上にケースを置いたときの沈黙、そしてつづいて起こる歓声。誰もが自分を見上げる。
翼は息を殺した。震える指先を、ゆっくりと、それでも確実に、うろの奥へ差し入れていく。
指が闇の境界を越えた。そこは音のない場所だった。蝉の声も、自分の呼吸も、すべて置き去りにされたようだった。
「――その虫に、触れてはいけないよ」
声だった。
低く、奥まったところから滲み出るような声だった。老人の忠告にも聞こえるし、幼い子どもの警告にも聞こえるし、あるいは、この林そのものが喉を震わせて発した声かもしれなかった。
翼の指が止まった。心臓が口からこぼれ落ちそうになる。首だけをぎこちなく回してあたりを見た。しかし、そこにあるのは静まり返った木々だけだった。
「……気のせいだ」
自分に言い聞かせるように繰り返し、再び手を伸ばした。あと数センチ。指先の震えは、もはや恐怖ではなく期待のための震えに変わっていた。
「触れてはいけないよ。それは、君が思っているものとは、まるで違うものだ」
今度は、すぐ背後だった。右耳の後ろ、冷たい唇が触れそうな距離で囁かれた。腐りかけた花の匂いと、古い鉄の匂いが混じっていた。
背骨に沿って、氷の刃のような冷たさが走った。
逃げたかった。それなのに、目の前の黒い光沢から視線を外せない。腕は自分のものではなく、指先だけが別の生き物になったみたいに、なおも前へ進んでいく。
指先が、ついにその肉体に触れた。
硬かった。だが、それはクワガタの甲殻が持つ、あの研ぎ澄まされた硬質さではなかった。冷たく、どこか粘り気があり、油を引いたように異質な滑らかさを帯びている。
次の瞬間、翼は得体の知れない熱情に突き動かされ、それを掌のなかに強く包み込んだ。
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