【Loneliness】
病室の空気は、いつもと同じはずだった。
窓のカーテンは半分開けられ、午後のやわらかな陽射しが、清潔な白の壁を照らしている。
ベッドの傍らでは、小さなテレビが無音で流れていた。何気なくつけていた、それだけだった。
だが、画面の中の字幕が、空気を一変させた。
『Mrs. GREEN APPLE・大森元貴、失語症か!?業界に激震』
キャスターの口元が、ニュースの深刻さとは裏腹に緩んで見えた。
スタジオには笑い声すら混じっていた。
「天才が、壊れた」
「原因は過剰な仕事量とプレッシャー」
「もともと繊細なタイプですからねぇ」
元貴の目が、テレビに釘付けになっていた。
顔色が、見る見る青ざめていく。
「もと……貴くん?」
付き添っていたマネージャーが声をかけるも、彼は反応しない。
ただ、息が――うまく吸えなくなっていた。
「苦しい……」とでも言いたいのか、唇がかすかに震える。
だが、そこからは声は出ない。喉はもう、完全に閉じてしまっている。
「ちょ、ちょっと待って、ナースコール押すから――!」
胸がひゅっと潰れるような音がした。
「ヒュッ……ヒュッ……」
それは空気が喉を通らずにこぼれ落ちる、命の音。
「看護師さん! 先生呼んでください!早く!」
スタッフが駆け込んでくる。
元貴はベッドに手を突いて何とか体を起こそうとするも、指は震え、脚は硬直し、ついには白目を剥くようにその場で倒れ込んだ。
全身がけいれんしていた。
⸻
「元貴が……?!」
着信の内容を聞き終える前に、滉人は電話を切っていた。
誰かに気づかれるかもしれないことなど、どうでもよかった。
病院の廊下を全速力で走る。スタッフが振り返る。看護師が制止する。
全部無視した。
病室の扉が開いた瞬間、彼の足が止まる。
「――っ、元貴……!」
モニター音。酸素マスク。固定された両手両足。
そして、ただただ目を見開いて、何も見ていない目で天井を見つめている元貴。
滉人の叫びも、届かない。
「先生、どうなってるんですか!?なにが……」
「過呼吸による低酸素状態からの痙攣発作です。かなり危険な状態でした。今は落ち着いていますが――」
医師の表情が曇る。
「……このまま、“音楽の場”に置いておくのは、あまりにも危険です。彼の心は、音楽=恐怖と認識し始めています。完全に無縁の、真っさらな環境へ避難させるべきでしょう」
滉人はうなずけなかった。
音楽を愛していた元貴が――“音楽から逃げなければならない”だなんて。
⸻
その数時間後。
ようやく元貴の呼吸が安定し、病室は再び静けさを取り戻していた。
そこへ、音もなく扉が開く。
「……やあ、失礼するよ」
例の社長だった。
黒いスーツに光沢のある靴。
場違いなほどに明るい顔と、薄っぺらな笑み。
「いやぁ、大変なことになったねぇ……メディアってのは怖いねぇ。まあ、私の件とは……まったく関係ないことは言っておこうと思ってね」
ベッドの元貴を見下ろす。
反応はない。
目は開いていたが、そこには何も映っていなかった。
耳も、きっと聞こえていない。
ただ“耐える”だけの器と化した表情。
生きているのに、そこに“彼”はいなかった。
「……ま、治ったらまたご一緒できる日を――」
「出ていけ」
低く、鋭く、凍りつくような声が背後から響いた。
社長が振り返ると、そこには滉人が立っていた。
いつもと違った。
怒りというより、底なしの静けさ。何かが確実に決壊しているような目。
「……君に言えることじゃないだろう?」
「出ていけ。今すぐ、二度とこの前に現れるな。名前も口にするな。……音楽の前からも、消えろ」
社長の顔が引きつる。
だが、滉人の目が本気だと悟ると、小さく鼻を鳴らして肩をすくめ、何も言わずにその場を去った。
病室には静寂だけが戻っていた。
滉人は元貴のそばへと歩み寄り、そっと手を取る。
「……もう大丈夫。俺が守る」
「全部、捨ててもいい。俺と逃げよう。なにもなくていい。お前さえいれば、それでいい」
元貴は応えない。だが、ほんのわずかに、滉人の手を握り返すような動きがあった。
それだけで、滉人は涙をこらえた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!