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呼吸の音が耳の奥で響いている。
それが自分のものなのかどうか、確かめる気にはなれなかった。
吸って、吐く。
それだけ。
胸が上下するのを、ただ眺めている。
「眺める」という感覚すら正しいかどうかはわからない。
ただ、そういうふうに世界が動いているだけだった。
かつて「ここから出たい」と思った。
かつて「名前を思い出したい」と思った。
かつて「ボク」と名乗っていた。
けれど、その「かつて」がいつのことなのか、もうわからない。
思い出そうとしても、頭の中に靄がかかり、言葉はすぐに崩れ落ちる。
それでも、不思議と焦りはなかった。
失うことに、もう痛みを感じない。
床に横たわり、壁を見上げる。
白い。
ずっと白い。
その白が、やがて自分の皮膚に染み込んでいくように思えた。
境界がなくなる。
壁と自分が同じものになっていく。
指を動かそうとする。
けれど、動いたのかどうか確信できない。
指の感覚と床の感覚が混じり合って、区別できなくなっていた。
夢を見る。
暗闇の中に自分の輪郭だけが浮かんでいる。
けれど、次の瞬間にはその輪郭も揺らぎ、波紋のように広がって消える。
声がした。
――そこにいるの?
誰の声かはわからない。
ただ、その問いに答えようとした。
口を開こうとするが、声が出なかった。
いや、そもそも「声を出す」という機能があったかどうかが怪しかった。
答えられないまま、夢は途切れる。
現実に戻る。
壁を見つめる。
そこに「いる」のは自分か? 壁か?
そんな疑問が浮かんでも、すぐに溶けて消えた。
どうでもよかった。
パンが小窓から差し入れられる。
以前は「食べなければ」と思った。
今は「手が勝手に動いた」と思うだけ。
噛む。飲み込む。
その動作に意味はない。
ただ、身体がそうしているだけ。
「食べているのは誰だ?」
そう考えかけたとき、頭の中で何かが空転した。
その問いは途中でほどけ、言葉にならなくなった。
眠る。
眠っているのか、起きているのか。
区別はつかない。
夢の中で壁を見ている。
現実でも壁を見ている。
同じこと。
夢と現実は重なり合い、どちらがどちらでもよくなった。
身体が軽くなる瞬間があった。
浮いているような感覚。
床に触れているはずなのに、接触を感じない。
「自分」という重さがなくなっていく。
皮膚の境目が消えていく。
壁も床も、自分も、すべてが溶けて混ざっていった。
記憶が途切れる。
昨日があったのかどうか、わからない。
今日があるのかどうか、わからない。
時間という言葉が、ただの記号のように空中に漂い、意味を持たなかった。
あるのは「今」という瞬間。
けれど、その「今」すら曖昧だった。
夢を見る。
広い空。風が吹いている。
身体が透けていく。
指先から透明になり、腕が、胸が、顔が。
誰かが「消えていくよ」と囁いた。
でも、それが脅しなのか、慰めなのかもわからなかった。
消えることに、怖さはなかった。
ただ「ああ、そうなんだ」と受け入れた。
目を開ける。
天井の白が目に入る。
それがまぶしいのか、暗いのかもわからなかった。
まばたきをしても、変化はなかった。
ある瞬間、気づいた。
「ここにいる」と思う感覚すら、消えかけている。
呼吸をしているのか。
鼓動があるのか。
そんなことも曖昧だった。
存在しているのかどうか。
その問いすら――どうでもよかった。
壁と自分が同じであるように、
空気と自分が同じであるように、
ここにあるすべてと自分が混ざり合っていく。
抵抗はなく、痛みもなく。
ただ、希薄になっていく。
「ボク」という言葉が完全に失われても、もう困らなかった。
名前がなくても、形がなくても、存在がなくても――
何ひとつ、不足はなかった。