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呼吸の感覚も、もうわからない。 吸っているのか吐いているのか。鼓動があるのかないのか。
そのどれも、意味を持たなくなっていた。
天井を見上げる。白。
床を見下ろす。白。
壁も同じ。
すべてが一つの色に溶けているように見える。
意識は、わずかに揺らいでいた。
しかし、それを「意識」と呼べるかどうかは疑わしい。
目を閉じる。
目を開ける。
その区別すら消えていく。
夢の中でも、現実でも、同じ世界が広がる。
境界は消え、時間は止まり、すべてが「今」の連続だけになった。
かつては、ここから出ようとした。
かつては、名前を思い出そうとした。
かつては、「ボク」と名乗った。
けれど今、それらの「かつて」は、ただの記号でしかない。
小窓からパンが滑り込む。
手を伸ばす。
口に入れる。
それだけの行為が、存在のすべてになった。
噛む。飲み込む。
味はなく、感覚も薄い。
ただ身体の機能が動くだけ。
誰が食べているのか、誰が受け取っているのかもわからない。
意味は、最初からなかったのかもしれない。
夢を見た。
広い空。風が吹いている。
身体が透ける。腕が胸が顔が、溶けていく。
手を伸ばしても届かない。
足元も、空間も、境界がない。
誰かが囁く。
――消えていくよ。
その声が脅しなのか、慰めなのかもわからない。
でも、恐怖はなかった。
その瞬間、奇妙な安堵さえ感じた。
壁に額を押し当てる。
冷たさがあったはずだが、今は感じない。
手も足も、存在しているかどうか確かめられない。
呼吸も、心臓も、血の流れも。
そのすべてが霧のように薄れて、意識から溶けていった。
時間は、もはや連続しない。
昼も夜も、昨日も明日も。
あるのは「白」と「静寂」だけ。
差し入れられるパンも水も、形だけがある。
それを受け取り、口に運ぶ自分は、もう「自分」ではない。
ただの反射であり、動作の連鎖。
夢の中では、誰かが笑っていた。
顔は真っ白で、目も鼻も口もはっきりしない。
その顔の中に、かつての自分もいるはずだった。
けれど、その自分も、次第にぼやけ、波紋のように広がって消えていく。
現実でも同じことが起こる。
壁と床と天井と身体が、すべてが溶け合う。
触れた感覚も、痛みも、冷たさも、暖かさも、すべてが消えていった。
「ボク」という存在は、もはやどこにもない。
名前も、一人称も、感情も、思考も、すべて溶け去った。
夢と現実、時間と空間、身体と世界。
区別は消え、全てが一体化する。
そこにあるのは、無。
だが、その「無」は空虚ではない。
悲しみでも恐怖でもない。
ただ、存在が希薄になっていく感覚。
パンを受け取る。
噛む。飲み込む。
味も感覚もない。
手が、口が、ただ動く。
身体だけが生きている。
心はもうない。
自我も、意志も、消えていた。
意識の端に、かすかな感覚が残る。
――ここにいる。
しかし、それは思考ではない。
自分という認識ではない。
ただ「存在する機能」がそこにあるだけ。
手足は動き、呼吸は反射し、心臓は脈打つ。
それだけ。
何かを感じる必要も、考える必要もない。
壁の白、床の白、天井の白。
光も影も、音も匂いも、すべてが薄れていく。
やがて、存在することさえ疑わしくなる。
でも、消えてもいい。
存在しなくても、痛みも苦しみもない。
ただ、流れるように、溶けていく。
最後に、目を閉じる。
開けても閉じても、変わらない白。
夢も現実も、過去も未来も、すべてが一つになった。
そして、意識は消える。
声も言葉も、名前も記憶も。
呼吸も鼓動も、存在する感覚も。
残るのは――何もない。
ただ、白と静寂だけがある。
空間も時間も、身体も心も、すべてが霧のように消えた。
存在していたはずのものは、もうどこにもいない。
けれど、それでも、この「白」と「静寂」は、ただ流れている。
終わりも、始まりもない。
すべては消え、すべては溶けた。
――消滅。