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3ヶ月後、ニイナは表向きは「社会福祉研究」という、この都市で最も空虚な名目を携えて下層区に降り立っていた。
目的はミズノの足取り。そして、もう一つ目的があった。
ニイナが足を踏み入れる度、最高級のワックスで磨き上げられた漆黒のブーツが、上層区から流れついたゴミで汚されていく。
その光沢が失われていく様を、気にも止めずにニイナは進んでいく。
下層区は、人間が住んでいるとは思えないほど荒んでいた。人々は今日を生きるために奪い、傷つけあう。
セレクトピアの闇の側面ーーーー醜く澱んだ塊が、この街にはこびり付いていた。
鼻をつくのは、腐敗した肉と、放置された絶望が混ざり合った特有の悪臭だ。ニイナは無表情で鼻を覆い、まるで汚染区域のデータを採取するかのような事務的な視線で辺りを見回した。
すると、1人の少女がニイナに近寄り、手を差し出す。
ーーーー「お恵みを」
短く、掠れた小さな声。差し出された手は土と乾いた血で黒く汚れており、風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど痩せこけたていた。
その少女の瞳は、一切の希望が奪われていた 。
全てを諦め、生命活動を続けるだけのその体を見て、ニイナは酷く冷たい笑みを浮かべる。
「かわいそうに…いいわ、これを受け取って。貴方の『価値』に見合うものよ 」
ニイナは懐から色鮮やかな飴の袋を取り出し、少女の汚れた手のひらに押し付けた。
泥の中に咲いた毒花のようなその色彩は、下層区の景色の中で酷く歪に浮いていた。
「この飴、街の交換所でパンと交換できるらしいわよ。……もちろん、貴方がこの街の人に奪われなければの話だけど。」
ニイナは少女の耳元に顔を寄せ、甘美な毒で誘惑するように囁く。
「なぜ、生まれた時の知能指数だけで人生が決まるのかしらね…ねぇおかしいと思わない?」
その言葉は、まるで甘美な毒薬のように少女の心に「暴動の種」として染み込んでいく。
「この世界の不条理」「自身の生活への理不尽さ」それらが、じわじわと少女の心に沁みわっっていく。
「ただ生まれただけ、何も悪いことしていないのに…明日の生活も保証されていないようなこんな暮らしを強いられるなんて、認められないわよねぇ?」
飴の袋を包む少女の手を、そっと包み込む。少女の体がビクッと震え、顔を上げる。ニイナの顔がすぐそこにあった。
全てを諦め、暗く澱んだ少女の瞳に僅かな光が差し込む。
計算通りに灯ったその光を、ニイナの冷徹な眼差しは見逃さなかった。
「ねぇ、私に協力してくれない?この理不尽から、貴方を救ってあげる。」
少女の目に映るそれは、救いをもたらす聖女の微笑みに見えただろう。
だが、その実態は、甘い蜜で破滅へと誘う悪魔の抱擁に他ならなかった。
ニイナは懐から一枚の写真を取り出し、少女に渡す。
「この写真の人物を探して。私は、週末に必ずあそこの酒場にいるわ。情報がわかったら、来て、お願いね。」
少女はニイナの微笑みに、静かに頷き、街の闇の中に消えていった。
少女の足取りは、澱んだ街の空気に似合わないほど、軽快な音を立てていた。
「不愉快な音……、一つ目の調律はこれでいいかな」
ニイナは踵を返し、下層区唯一の酒場に足を踏み入れる。
酒場の中はむせかえるほどのアルコールと汚れた汗の匂いで溢れていた。
ニイナは匂いに耐えるように、顔を顰めて、カウンターに座り、バーテンに酒を注文する。
(この非効率的で不潔な空間が、セレクトピアのバグそのものね)
店内は屈強な男たちで溢れかえっていた。
彼らは安酒を煽り、無意味な力自慢や、湿った愚痴を喚き散らしていた。火種すら不要なほど容易に口論が勃発し、殴り合いが始まる。その低俗なエネルギーの衝突を、ニイナはただ冷めた表情で鑑賞していた。
バーテンが、注文した酒を持ってくる。
赤く、血をそのまま注いだようなカクテルを一口口に含む。アルコールが喉を通り、焼いていく感覚が伝わる。
ニイナの顔と身なりを見て訝しげに「ここいらのものじゃないだろ、あんた。何もんだ」と尋ねてくる。
「…ちょっと探し物があってね。ねぇ、ここでの生活に不満はない?」
バーテンがニイナの質問に不機嫌そうに眉を上げる。
「不満だと?……そんなもん、この街に染み付いている…ねぇやつの方がどうかしてる!」
力強く、憎しみと絶望を孕んだ拳が叩きつけられ店内の喧騒を切り裂くような鈍い音が響き渡った。
「だが、俺たちにはどうにもできない。評議会に逆らうことも…この壁を越えることも、俺たちにはできないんだ」
下層区を定義するのは、絶望を象徴する二つの境界だ。一つは上層区に続く『選別の壁』…許可なき越境は即座に銃殺の対象となる。もう一つは、隔離区との境界『終焉の壁』。壁の先には、魔法生物たちが飢えた牙を剥いて待っている。すなわち、ここは巨大な「行き止まり」なのだ。
バーテンの言葉に、ニイナはほくそ笑む。
迷いのない足取りで机の上に立つと、血のような赤いカクテルを高く掲げ、支配者として冷徹な声で宣言した。
「どうせ、行き止まりなら、この壁を内側から壊してみる気はない?」
さあ、もう一つの目的ーーーー『ドラゴン』という協力者たちへ、最高の贈り物を届けてあげましょう