歩き疲れたと君が愚痴をこぼしたとき、僕は迷うことなく君の手を引いた。「あとひとつだけ行きたいところがあるんだ。」
「えー、もうヘトヘトなんだけど。」
君が少し拗ねた声で返す。その声に、僕は小さく笑った。
「これで最後だから、ね?」
君の手を握りしめながら階段を登る。
僕がずっとあたためていた場所。都会のど真ん中にある雑居ビルの屋上。
鉄の階段はギシギシと軋み、足音が静寂に響く。
辿り着いたそこは、真っ暗で何も見えない空間だった。
周囲の高いビルに囲まれ、都会のネオンは一切ここには届かない。
スマホの灯りを消せば、足元すら見えないほどの暗さだ。
耳に入るのは隣のビルから漂う換気扇の音と、室外機の低い振動音。
普通の女の子なら、こんな場所に怖くて近寄りたくないだろう。
「わぁ!すごい!星がいっぱい見える!」
でも、君は違った。
僕の隣で君がはしゃぎ出す。その姿はまるで子犬のようだ。
瞳を輝かせ、空を見上げる君の横顔に、僕はどんどん惹かれていくのを感じた。
「こんなに星が見える場所があるなんて思わなかった!都会なのに!」
君が楽しそうに笑う。その笑顔を見るだけで、僕はもう十分だった。
「もうちょっとだけ待ったら、もっと綺麗な景色が見れるよ。」
咄嗟に出た言葉だった。口から出たのはでまかせだ。
本当は、心の準備ができていないだけだった。
慣れない初めてのデート。
僕にとっては、人生で初めてのデートだった。
マッチングアプリでやり取りを始めた瞬間から、君に告白する場所を探していた。
やっと見つけたこの屋上で、君に気持ちを伝えようと決めた。
でも、いざその瞬間が来ると、勇気が出なかった。
「少し横になって、二人で空を見ようよ。」
君の手をそっと握りながら、僕は地面に背をつけた。
心臓の鼓動がやけに大きく響く。焦りと緊張で額に汗が滲むのが分かる。
君の手は、僕の手汗を感じていないだろうか。そんなことばかりが頭を巡る。
ふと君の顔を見れば、君は夢中で空を眺めている。
その姿を見ていると、不思議と少しだけ緊張が和らぐ気がした。
「見て。星がすごく綺麗だよ。」
君が静かな声で呟いた。
さっきまでのはしゃぎようが嘘みたいに、落ち着いた声だった。
僕も空を見上げる。瞳が暗闇に慣れると、そこにはさっきまでとは比べ物にならないくらいの星々が広がっていた。
周囲のビルに遮られ、四角く切り取られたような夜空。
その中に散りばめられた星々が、まるで描かれた絵画のように静かに輝いていた。
「こんなに綺麗だなんて思わなかったよ。」
君が僕にそう言う。声にほんの少し驚きが混じっていた。
「ここ、いい場所でしょ?」
僕はそう言いながら、内心では自分を鼓舞していた。この瞬間を逃したら、きっと後悔するだろう。
でも、まだその言葉が口から出ない。心の中で、もう少しだけと時間を稼ぐ。
君が空を見上げる横顔に、僕はそっと視線を向ける。
「綺麗だね。」
僕は君の方に目を向けた。君の瞳はまだ空を向いたままだ。
その横顔は、まるで遠い星に何かを問いかけているように見えた。
時がようやく僕に味方をした。心臓が高鳴る音が耳の奥に響く。
迷っている暇なんてもうない。僕は君の手を強く握りしめ、意を決して問いかけた。
「君の、恋人にしてくれませんか。」
肝心な時にこんな頼りない声しか出せない自分が情けない。もっと堂々と言いたいのに、緊張が言葉を押し潰す。
君は空から視線を落とし、静かに僕の方を見つめた。その瞳は深い闇のようで、それでもどこか温かさを帯びていた。
「ちゃんと、言って。」
鼻をすすりながら、君はそう呟いた。その声は震えていたけれど、どこか優しさが滲んでいた。
君の瞳に吸い込まれそうになる感覚を覚えながら、僕はもう一度深く息を吸った。そして、心の奥底から絞り出すように、改めて言葉を紡いだ。
「僕の恋人になってください。」
君の返事を待つ時間は、世界が音を失ったかのように静かだった。
僕の鼓動が耳に響き、冷たい夜風が頬を撫でる感覚がやけに鮮明だった。
「私でよければ、お願いします。」
君のその言葉が耳に届いた瞬間、僕は全身の力が抜けるのを感じた。肩に乗っていた緊張が一気に溶けていく。
思わず手を離してしまいそうになり、慌てて君の手を握り直した。
僕の顔が熱くなっているのが自分でも分かった。
「君はほんとにかわいいね。」
君が静かに微笑みながらそう言った。
その言葉に、僕は少しだけ戸惑った。
「かわいい」なんて言われるのは、当時の僕にはあまり良い気持ちではなかった。
でも、それが君なりの愛情の表現方法だと知っていたから、ただ頷くことしかできなかった。
二人で再び空を見上げる。無数の星々が広がる空は、まるで吸い込まれるような感覚を覚えるほどだった。
そろそろ帰ろうかと思ったその時、空を横切る光が視界に飛び込んできた。
「見て!流星群だよ!願い事しなきゃ!」
君が再び子犬のようにはしゃぎ出す。その姿が愛おしくて、思わず微笑んでしまう。
「ねえ!なに願ったの?」
君が丸く大きな瞳で僕を見つめながら尋ねる。
「うーん、恥ずかしいから内緒。君は?」
「君が言わないんだったら、私も内緒かな!」
「じゃあさ!二人で一緒に言おう?そしたら、お互いの恥ずかしさも少しはマシになるんじゃないかな!」
君が得意げに提案する。その無邪気な言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
「それはいい案だね!そうしよう!」
君は嬉しそうに頷き、勢いよく僕の手を握り返した。
「やった!じゃあさ。せーので一緒に言おうね!いくよ!」
『『せーの!!』』
流れる星に願いを込めた。願い事なんて、生まれて初めて考えた気がする。
特に期待なんてしていなかった人生。君が隣にいるだけで、もうそれだけで十分だった。
『『いつか、また二人で星を見に来られますように―――。』』
星空は、何も答えない。ただ静かに輝き続けるだけだった。
でも、その無音の空が、僕ら二人の願いをそっと包み込んでくれるような気がした。
これが、僕と君の物語のはじまりだった。
その日から、僕らはひとりぽっちじゃなくなった―――。
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