コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
修学旅行中、私はひとりで立ち止まっていた。メガネを旅館に置き忘れたまま、みんなとはぐれてしまって、視界はぼやけて、水の中にいるみたいだった。
誰かが声をかけてくれたのは、そのときだった。
「大丈夫? ここ、わりと人多いから、動かないと逆に危ないよ?」
やわらかい、でもどこかいたずらっぽさを含んだ声。その人は、私の顔を覗き込みながら、「もしかして、メガネ忘れた?」と笑った。
「うん……」
「そっか。じゃあ俺が連れてってあげる。ほら、手、貸して」
差し出された手はあたたかくて、少しだけ汗ばんでいた。そのぬくもりに安心して、私は彼の後ろをついていった。
「名前? うーん、内緒にしとこうかな。そういうほうがちょっとドラマチックでしょ?」
そう言って、彼はくすっと笑った。その顔は、最後までよく見えなかった。
それから何年も経った。私は高校二年生になっていて、あのときの出来事も、心の片隅に小さく仕舞っていた――はずだった。
でも、同じクラスになった叶くんに告白されたとき、胸の奥にしまっていた記憶がふと、かすかに疼いた。
「……私のこと、ずっと見てた?」
「うん。気づいてなかった? ちょっとショックなんだけど」
苦笑しながらそう言う叶くんの目は、真剣だった。
「 昔、京都で迷ってた子がいてさ。メガネ忘れて、動けなくなってて。それ、君でしょ?」
「えっ……」
「俺、あのとき、名前も言わなかったし、顔も見えてなかったかもしれないけど……ずっと覚えてた。あの日のことも、君の手の感触も」
冗談めかすような口ぶりなのに、彼の声には嘘がなかった。胸がぎゅっと締めつけられるように苦しくなって、でも同時に嬉しかった。
「……どうして、何も言ってくれなかったの?」
「言ったら、君の記憶の中の“誰か”が壊れちゃいそうでさ。でも……もういいかなって思ったんだ。今の俺を、ちゃんと見てくれるなら」
叶くんは、少し照れたように目をそらした。
「だから、今度はちゃんと、俺のこと見ててね。もう、ぼやけたままじゃダメだよ」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。ちゃんと、今ここにいる彼のことを見ようと思った。