テラーノベル
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氷室の大きな声が昇降口に響いた瞬間、全身が一気に硬直した。いつも冷静沈着な彼が、あんなふうに声を荒げて取り乱すなんて――今まで一度も見たことがなかった。
健ちゃんが去ったあと、握られた手から熱と微かな震えが伝わってくる。その熱は不安と同じくらい強くて、今にも燃え広がりそうだった。
あのあと一度だけ健ちゃんは振り返ったが、なにも言わずにそのまま背を向けた。その姿が校門の外に消えると、張りつめた空気だけが残った。
廊下の奥から「え、今の氷室?」と囁く声が聞こえ、気づかないふりをしても、突き刺さる視線が皮膚を焼くように痛かった。それでも氷室は俺から目を逸らさず、手を握りしめ続ける。硬い表情のままの彼に、そっと声をかけた。
「……蓮、大丈夫?」
やんわりと声をかけても、そこからうまく言葉が続かない。どうして彼がここまで感情を爆発させたのか、なんとなく理由はわかっている――健ちゃんが俺に近づくたびに、氷室が少しずつ変わっていったのを感じていたから。それを確かめたくて、思いきって訊ねた。
「俺……そんなに蓮を不安にさせてたかな?」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。氷室は短くまぶたを伏せ、そして俺の手をさらに強く握る。
「……不安じゃない。ただ、神崎に譲る気がないだけだ」
まっすぐな言葉が胸に落ちた瞬間、嬉しさと同じくらい、正体のわからない怖さが広がった。氷室の瞳に宿る熱は、守るためのものなのか、それとも失うことを恐れているからなのか――まだ判断できない。
ただ一つだけ確かだったのは、この瞬間、俺たちの関係が形を変えたということだった。
手をつないだまま昇降口を出る。秋の冷たい風が頬を掠め、氷室は強く手を黙ったまま、俺を引きずるように歩いた。氷室に握られた手は熱いはずなのに、指先だけが妙に冷えていく。もし今この手を離したら、もう二度と繋げない気がして――俺はただ、指先の冷たさを必死にごまかした。
途中、彼がふと立ち止まり、俺を振り返った。その表情はさっきの鋭さが嘘のように静かだが、奥に僅かな揺らぎが確実にあった。
「奏……悪かった。大きな声を出した俺、すごく怖かっただろう?」
謝られるなんて思っていなかったから、言葉がすぐに出なかった。こんなにもまっすぐに欲してもらえることが、心の奥では嬉しい。けれど、その熱が行き場を失ったとき、俺を縛る鎖に変わるのでは――そんな予感が背筋を冷たく撫でた。
「ううん……俺も、ちゃんと蓮に話せてなかったのが悪かったのかなって」
本当はもっと伝えたいことがある。健ちゃんとの会話のこと、氷室の変化に気づきながら、なにもできなかったことを含めた全部――。
でも、それを今ここで言葉にすれば、この関係が壊れてしまう気がして、喉の奥で絡まってしまう。
歩き出した氷室の横顔は、街灯に照らされて影が深く落ちていた。その影は、なぜかとても遠くに感じられた。
(……このままだと、きっとまたすれ違う気がする――)
頭の中で警告するように、警鐘が何度も鳴った。しかもそれは、前よりもはっきりと。胸の内の不安を示すそれに、俺は顔を歪ませたのだった。
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