テラーノベル
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今日も1日たくさん人を殺した。
雪のように白い顔で、絶望する凡俗たちを切り伏せ、真っ赤な血の海と、漆黒の闇が支配する街のどこか。
ああ、何て楽しい素敵な1日なのでしょうか。
真っ赤な返り血を浴びるたびに、自らの生命力がそこから満ちていく感覚を昼彦は覚えている。新たに手に入った妖刀酌揺との経験値を高めるため、幽に願でで、刀を振る任務を最近は担っている。妖刀3年戦士にはまだまだ敵わないが、少しずつ形を掴みつつあった。
一旦迷い込んだら出ることが出来ない、天地も左右も物理的法則も無視された廊下の中を、弾むような足取りで昼彦が進んでいく。誰が作曲したか分からない、鼻歌すら混じりながら、足音を響かせ続けた。
役目を終えて戻った毘灼の拠点内は国も年代もバラバラな意匠の壁や窓、襖に扉などが複雑怪奇に入り組んで出来ていて、シンプルな扉もあれば、金箔が施された豪奢な襖もある。昼彦の目指す扉は、深い艶が印象に残るとある木製の扉ーー拠点内の最奥に近い場所、厳重な結界付きのそこには、今会いたい人物がいる。
「今日は起きてるかな?」
目的の扉の前に到着した昼彦は、楽しげに呟くとアンティーク硝子のドアノブをそっと握った。
窓一つない暗い部屋に、黒檀で出来たシノワズリを思わせる天蓋の寝台。薄闇の空間にぽっかりと浮かぶ白は、吊るされた蚊帳。寝台の側に備えつけられた光源を点け、その柔らかな薄布をゆっくりと昼彦は上げる。
「……まだかぁ」
今日こそはと思っていたが、現実は昨日とは変わらず。耳を澄まさないと聞こえないほどの寝息を立てながら、純白のクラシカルな裾の長いネグリジェを身に纏った少女が横たわっていた。
『夢見てるのかは、どうでもいいから早く起きないかな?』
そう思いながら、寝台の脇に腰掛け、眠るその人の黒髪を一房、緩く持ち上げた。本来、彼女の髪は短かったが、治療の際に施した玄力の影響で背中程の長さになっている。軽く持ち上げたせいか、指の隙間から黒い絹糸が流れ落ちていく。僅かにひやりとしたその感触が癖になり、彼女がここに来てから1週間、毎夜訪れるたびに繰り返し弄んでいる。
寝台で眠る彼女、六平千鉱は昼彦の戯れにも反応せず、重く瞼を閉ざしたままだ。ここに連れてこられたときよりも白さを増した柔肌と、閉じられた桜色の口唇。しっかりとした密度の睫毛。人形職人が丁寧に作り上げたような顔をしているが、周囲より色が異なる皮膚のーー左頬の大きな傷跡が、彼女が不完全な存在だと証明しているようだ。
「勿体無いよなぁ、顔の傷治したらどこかの箱入りお嬢様みたいなのに」
「幽にお願いしたら、消してくれるのかな?」
「ああ……!でもこの傷を見るたびに俺達を思い出すって聞いたしな〜」
ーーそれは、嫌かもしれない。
反応は返ってこないから、この部屋に鳴る音は全て昼彦の独り言。それでも、千鉱の髪で手遊びをしたり、十字に刻まれた顔の傷の縁をなぞってみたりすることを繰り返しながら、この時間を楽しんでいる。
「あと、やっぱりあのコートより、今の格好の方がいいよ。あれ重そうだし、硬そうだし、自覚無いかもしれないけど、少しサイズ合ってなかったよ?態と大きいものを着て、自分の実像を見せたくなかった?案外可愛いところあるんだね?」
頬を一撫でした掌は、千鉱の細首を辿りながら、鎖骨辺りで止まる。胸元には、治療したとは言え、跡までは治りきっていない切りつけた傷跡が覗く。薄紅に盛り上がった美しい一線の先を辿るように、柔らかな胸から薄い腹の下部までを昼彦はゆっくり右手で往復した。
1枚の布を隔てて感じる、少女から女性への過渡期にある肉体の感触が、昼彦の内側をジリジリと興奮させるが、その正体を昼彦は掴めていない。
ただ、千鉱が憎む炎の紋様が、身体を這うように上下を移動する様を千鉱自身がもし知ったなら、きっと自分達を憎む新たな燃料になるのだろうーー
背後から、扉をノックする音が聞こえる。
「……昼彦、幽が呼んでいる。今日の報告を聞きたいと」
『毘灼』統領側近の男の声がする。その音が、本日の彼女との逢瀬が終了のサイン。
「……あぁ、そろそろ行かないと。報告とか準備とか本当に面倒くさい!」
そう言いながら、昼彦は千鉱の腹に頭を埋める。薄い布越しに感じる彼女の体温と、微かに感じるどこか甘い香りが名残惜しさを増長させる。昼彦は、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「次来る時には、目を覚ましてね。そろそろ、物足りなくなってきたから……」
雪の上に落ちた3滴の血のように赤く
雪のように白く
黒檀の窓枠のように黒い
この部屋には、君の赤い血のような双眼が足りない。
初めて千鉱を見たとき、一瞬同性に見えるけれど違う?という不思議な戸惑いが生まれた。幽から、六平の子供は俺と同い年の女の子だと聞いていたから、想像しうる少女らしい形をしていると思っていた。でも、目の前で妖刀を握る漆黒の存在は、自分と同じような殺しが身近にある少年にしか見えなかった。
ただ、対峙するたびに、最初にみた印象と今、目の前にいる千鉱という存在のピントがずれていく。最初に抱く『闇からやって来た悪鬼のような無骨な少年剣士』『殺しに塗れそれを平然と受け入れる18歳』という像は、六平千鉱自身が作り上げてきた『復讐を完遂するための最適解』の虚像であると、ずれる角度が徐々に増す毎に気づいていくのだ。
全て失ってからたった1つの願い事のために、愚かしいほど純粋に、世の汚泥を呑み込みながら地獄に突き進むことを受け入れた、存在。
誰かが告る父親の紡いできた物語を信じて、それを心のよすがにするしか知らない子供。
それがラッピングを剥がした六平千鉱の本性。それを『毘灼』統領の幽は未成熟な青さがあって蠱惑的と称し、心惹かれるとしたが、正直、昼彦にはよく理解出来なかった。
人を殺すという行為に対して自分と同じ側として、千鉱に正しく狂っていてくれたらと思っているしーーその反面、違うからこそ殺し合うことで2人の間に友情が紡がれる事実に魅力を感じるのであって、どうして『青さ』という弱点になり得る部分を美点とするのだろう?
『今日まで』は、そう昼彦は考えていた。
「……必ずもう一度、その両腕を切り落としてから、お前を地獄に送ってやる」
妖刀酌揺を使った騒ぎをいくつか起こしていたら、案の定、千鉱を釣ることが出来た。仙沓寺での騒乱から今まで休む間もなく毘灼側から攻勢をかけてきたのだ。肉体も精神も万全ではないだろうに、その身を削りながら昼彦を追ってきたのだ。
某所にある港の倉庫内、組同士の非合法な商品のやり取りの現場は、既に死体の山と血の池地獄。クズは全員地獄送りの信条は揺らぐことなく、千鉱が振るう淵天によって、その光景が作り出された。今、この空間に生きている存在は、千鉱と組の護衛に来ていた昼彦のみ。昼彦が握るのは、妖刀酌揺。その現実をまざまざと見せつけられた千鉱は、怒りに満ちた瞳で昼彦を睨みつける。自分に向けられる高純度の殺意に、昼彦は恍惚の表情を浮かべた。
「……最初はどうなるかと思ったけど、酌揺結構馴染んできたよ!」
「お前のような人間が、持つべきものではないし、相応しくない!」
「ただの兵器に、相応しいなんてある?妖術の素養や肉体的な面ではそれはあると思うよ?でも、千鉱の言うそれは『人として』なんていう曖昧な基準でしょ。それってさ……」
--意味あるの?
その昼彦の言葉が、千鉱に届いた次の瞬間には、既に淵天から涅 千が解き放たれ、昼彦の視界が漆黒に包まれていく。ただ、かつて演劇場で喰らった気配よりは幾分劣るのを感じた。やはり、万全ではない。だから焦る必要はない。昼彦は余裕を持ちながら鞘から刃を抜いた。
「酌揺」
昼彦の呼びかけに応じて、のっぺらぼうの遊女達が宙を舞う。目に映るそれらを見ないふりを本当はしたい千鉱であったが、構わずに昼彦に向けて刃を下ろした。キーンっと鳴り響く金属の高音。鍔迫り合い。それらを何度か繰り返していく。長いようで短い夜の時間。ふと、昼彦は思っていたことを投げかけてみたくなった。
「千鉱って、リアリストだと思っていたけれど。意外にロマンチスト?」
「……は?」
「結局、やりたいことは尊敬している父親を殺された復讐と、その大好きなオトーサンの作り上げた刀が高潔な存在だから、汚れたカスに使われたくない。ってことでしょ?」
「お前は何が言いたい?」
「当事者側から伝えられたキレイな物語だけで、よくそこまで素直にいられるねってこと!」
「……はっ?!」
昼彦のその言葉を聞いた千鉱は、思わず後ろに跳んで距離を取る。その様子を楽しげに笑いながら見つめる昼彦は、さらに言葉を続けた。
「とある国では、金髪碧眼が美女の定番で、伝わる童話は大体同じような容姿のお姫様のお話だったのに、突然、『雪の上に落ちた3滴の血のように赤く、雪のように白く、黒檀の窓枠のように黒い』美しい姫君の物語が長く伝わるようになった。どうしてだと思う?」
「お前が何を言っているのか分からないっ!」
「その3色は無くなってしまうかもしれない、国の国旗の色だったんだって。自分達のアイデンティティを繋いでいくために、子供の物語にそれを潜ませた。物語の機能って夢でなく何らかの思惑を刷り込むためだって、幽から教わったんだ。気持ちがいいお伽話は受け入れやすいからだって--」
ねぇ、千鉱。君が信じていた物語は本当?
昼彦の紡いだ言葉が、千鉱の内部まで深く侵食していく。
「……っ、俺は父さんのことを……」
仙沓寺での一件で、心のどこかでは感じていたのだろう。証拠に、刀を握る手が微かに震えている。ただ信じていた世界が、透明な硝子の棺みたいな箱庭でしか生きていなかったが、余りも幸福だった日々が、どこか本当でなかった事実。
生まれてから信じてきたこと、アイデンティティにひびが入るのを実感しているのだろう。まあ、肉体的にも精神的にも良好ではない状況での追い討ちなのだ。相当効いてくる。しかし、千鉱は投げられた言葉達を振り払うように、昼彦に向かっていく。
「--錦!」
渾身の力を込めて、あっという間に間合いを詰めていくが、普段の冷静さを無くした状態の千鉱の動きは読みやすい。狙いを定めて昼彦は思い切り切りつけていった。
ぶしゃあっ
左胸部から右下の腹部まで、横一線の真紅の血飛沫が溢れ出た。血液が珠のように散っていく様と、見開いた赤い瞳がゆっくりと閉じていく様子、倒れていく千鉱の姿が昼彦にはスローモーションに映った。映画のワンシーンのような映像はあまりにも美しくて、この瞬間をリピート出来ないことが悔しいなと、昼彦は思った。
どさっと千鉱が地面に倒れた音と共に、昼彦は現実に帰ってきた。横たわる身体を抱き起こしてみると少し驚く。目に映って認識していた身体よりも、ずっと華奢だったこと。着て戦うには重量がある防刃コートは大きくて、中身をすっかり隠していたことに。
このままここで殺してしまえば、淵天との命滅契約を破棄させられるが、それは何だか勿体無いような気を昼彦は感じた。片手で足りる程度であるが、対峙してきた中で見えてきた千鉱の実像--分厚く思い漆黒に身を包み願いのためだけに生きるしか出来ない、その姿のある種の儚さを手放すのが惜しいと。
ああ、これが未成熟な青さの魅力か。
抱き抱えた身体を持ち上げて、拠点に帰ろうとする。恐らく、持ち帰ったとて幽はどちらかと言えば歓迎するだろう。反応が楽しみだと考えていたら、腕の中の千鉱が僅かに身動ぎをした。そして唇が少しだけ開き羽音よりも小さな声で呟いた。
「……さん……ごめんなさい」
それは血に塗れた剣士の声とは思えないほどに、幼い子供の謝罪。これが本当の六平千鉱なのだと初めて昼彦は実感出来た。
今日は、任務が長引いていつもよりも遅い帰還になった。足早に複雑に絡み合った廊下を昼彦は進んでいく。鳴り響く足音の響きさえ、今は聞こえないほどに、夢中であの扉を目指した。もしかしたら、今日は目を覚ましているかもしれない。囚われの状況に対して、悪態をつかれようが構わない。
あの真っ赤な双眼に映り込みたい。
願わくば、憎しみを含んでいても自分の名前を呼ばれたい。
理由は分からないが、そんな気持ちを抱えながら只管に前に進む。同じ道順なのに、焦るせいか、やけにあの部屋が遠くに感じられた。
やっと辿り着いた、アンティーク硝子製のドアノブの前。弾む気持ちで昼彦はノブを握ったが、ふと違和感を感じる。部屋の中に2人分の気配。片方は千鉱だとして、もう一方として考えられるのは--
ほんの少しだけ、音を出来るだけ立てずに昼彦は扉を開いた。数センチほどの視界から見えたのは、寝台の脇に腰掛けている幽だった。この部屋に彼がいるなんて、最初に千鉱が運ばれた際の治療時だけだと昼彦は思っていたが、部屋の中と嫌に馴染む幽の雰囲気を見て、それがただの勘違いであったと実感させられた。それが、少しだけ残念に昼彦には感じられた。この薄暗い小さな空間は2人きりのものでは決してなかったのだから。
ただ、今はこのイレギュラーな状況の果てを知りたくて、昼彦はもう少しだけ扉を開いた。
寝台の下に敷かれたラグの上には、玄力で作られた薬品のアンプルや薬瓶に注射器などの医療器具が並んだトレイが置かれていた。当然だ、この拠点に連れてこられてから眠り続けている千鉱は食事を摂っていない。それに代わるものを投与されていても、何ら違和感がある状況ではないのだ。そう認識すれば、何でもない顔をしてこの部屋に入ることだって簡単なのに、何故かそれが出来なかった。
相変わらず目覚める様子のない千鉱をじっと見つめる幽の表情は、薄らと楽しそうではある。頭の先から指の先まで、しっかり味わうように見つめたかと思えば、薬瓶の1つを手に取り、蓋を開けた。
食べごろの林檎色のような液状の薬。
幽は、瓶を持っていない左手で千鉱の頬に触れる。そして閉じられた唇に指を捩じ込んで、口を開かせ、その開いた小さな空間にトロリとした薬を流し込んだ。
反射的にそれをごくりと飲み込んだ千鉱の様子を確認した幽は、飲みきれなかった薄赤の雫を親指で拭うと、ゆっくりと千鉱の唇に自分のそれを合わせる。角度を変えながら、丁寧に、彼女の桜色が薄らと鮮やかになっていく。始めに、頬に触れていた左手はいつの間にか千鉱の後頭部に回り、より深い接吻に至った。不規則に水音が聞こえてくる。
その様子を声を立てることを出来ずに、昼彦は見つめていた。自分の知る限りの『幽』という存在は、このような類の行為とは縁遠い存在であったから、内心動揺しているのだ。ただ、まだ続きがあるようだ。
口付けを終えた後、幽は千鉱の身につけた白い襦袢の帯を、静かに解いていく。開く袂から覗くのは、薬の効果か定かではないが、昨日よりも薄くなった刀傷の一線。薄紅よりも淡い紅色に変化した一筋は、あと数日できっと消えてなくなるのだろう。その傷跡にそって、幽は千鉱の身体を指先で愛撫していく。最初は2本の指でなぞるだけだったが、やがて掌全体で繰り返し身体に触れていく。
昨日、昼彦自身も似た行為をしていたはずではあるのに、衣服によって隠された知らない部分が暴かれているからか、薄布1枚の有無で明確に意味合いが違っていくようだ。
少女らしい丸みを描いた乳房
鍛えられているが滑らかな艶を持つ白い腹部
少しだけ頼りなげな細腰
僅かに残った、戦いの日々で刻まれた細かい古傷達
それらは、昼彦が見たことのない千鉱の一部。余り想像はしたことがなかったそれらに対して、信じられないほどに綺麗だと昼彦は思った。
「……っう……あっ」
触れられたことで、千鉱が生理的に漏らした声は艶をどこか帯びていて、いつもの彼女ではないようだった。
ゆったりと、幽は千鉱の上体を抱き起こしていく。滑らかな布地の襦袢がするりと、身体から離れた。まるで蝶の羽化のように、不要な皮が剥がれ落ち、黒い絹糸のような髪が背中を彩っていく。
漆黒のスーツを隙なく身に纏った幽と、全てを晒されて白い裸の千鉱のコントラストが昼彦の目に焼きついて離れなかった。
抱き起こした千鉱の耳元を喰みながら、お互いの身体を密着させていく幽は、何か彼女に囁いているのだろうにも見える。そのまま顔を千鉱の首筋に埋め、空いた方の手で彼女の胸に触れようとしていたが、動きが止まった。
「昼彦」
急に呼びかけられて、身体がびくりと跳ねた昼彦とは反対に、何事もなかったように、幽は話しかける。
「……今日の成果について、報告を聞こうか?」
抱き起こした千鉱の身体に、もう一度襦袢を纏わせ、静かに横たえる。未だ夢の住人である千鉱の顔に刻まれた十字傷に触れながら、幽は続けた。
「ここで報告を聞いてもいいが、食事がまだだろう?遅い時間だが、夕食を味わいながら話をしよう」
千鉱の力の入らない右手を手に取り、その甲に口付けを落としてから、幽は立ち上がり、寝台の蚊帳を下ろして千鉱の姿を隠した。何事もなかったように、昼彦の方に歩いてきた幽がドアを引いて部屋から出てくる。
「おかえり」
微笑んでいるのか否か分からない表情を浮かべながら、穏やかに昼彦に話しかけた。そして、労うように昼彦の肩にポンと触れて移動するよう促した。
「ただいま、幽」
どういう顔を向けたらいいか分からなかった昼彦は、とりあえず曖昧に笑うことにした。なるべく、幽から微かに香るような彼女の気配を無視しながら。すると、明日の天気を告げる調子で幽が話しかけてきた。
「……そういえば、治療薬を飲ませるときに襦袢を汚してしまった。着替えさせるから、着せる物はお前が選んでいい」
何度も握った宝石のようなカッティングが施された、硝子のドアノブが、じっとりと重く感じる。いつもは任務の後に訪れるが、そのルーティンを破って今ここにいる。開く扉の重さを感じながら、部屋に入り込んだ。
意匠の細かい寝台の他には何もない部屋、薄闇の中で吊るされた薄い白布だけが明るく見える。昨日は寝台の下にあった医療器具はすっかり片付けられ、何事もなかったよう。いつものように、備え付けのライトを灯して蚊帳を上げていく。
変わらず眠っている千鉱の姿に、どこか安心をしてしまった。身に纏っているのは、とある悲劇のヒロインの名を冠した型の真っ白な寝巻き。何となく、襦袢以外を着せたかったという理由で選ばれたものは、長い黒髪と相まってよく似合っていると昼彦は思う。
いつもと同じように、寝台の脇に腰掛けてその姿を見つめる。変わらず伏したままの瞼にだんだんと苛立ちが募っていく昼彦が口を開けた。
「そろそろ、目を覚ましてもいいんじゃない?飽きたでしょ?」
「このまま、眠っていたら食べられちゃうよ?ハジメテって大切なものじゃないの?こういうのは好きな男にあげたいんじゃないの?」
「眠っている間に、次の契約者も殺して違う妖刀が使えるようになっているかも!それか、うまくやって座村をぶっ殺して飛宗とあいつの首を銀盆に飾って持ってこようか?」
昼彦の言葉に返答は何もなく。ただの音として霧散していった。一通り喋り続けた昼彦は、溜息を1つついたのち、千鉱の腹に顔を埋めた。柔らかな彼女の体温を感じると、先程までの感情達が収まってくる。
そして、ふとあのお伽話を思い出した。様々な国に伝わって、今現在広く伝わっている結末の辺りを。思い浮かべた瞬間、昼彦は自嘲気味に笑いながら呟いた。
「……俺ももしかしたら、ロマンチストだった?」
優しい仕草で千鉱の顔に触れる。何度か触れているはずなのに、少しだけ昼彦は緊張した。顔を近づけていくと、自身の長い薄桃色の髪がかかってきて邪魔だったので、咄嗟に耳に髪をかけた。そして、静かに自分の唇で千鉱に口付けた。初めて触れるそこは温かくて蕩けそうな心地を与えてくる。この時間が永遠に終わらないで欲しいすら思えるほどに--
ゆっくりと唇を離していき、昼彦は上体を起こしていく。まさか自分が王子様にでもなるわけがないが、どうしても、千鉱に『こうしたい』という気持ちを抑えられなかった。まあ、こんなことで目が覚めるなんて……と思い、いつもの如く黒髪を一房絡め取って遊ぼうかなと昼彦が思った瞬間、千鉱の身体が震える。それに驚いている昼彦を尻目に、伏せられた睫毛がふるふると揺れる。そして、この部屋に足りなかった真紅が徐々に現れはじめたのだった。
待ち焦がれた双眼は、昼彦の記憶よりも、血よりもずっと鮮やかで美しい宝石のよう。
瞳を開いた千鉱は、まだ夢の続きにいるらしい。目の前にいる人間が誰かも分からずに、昼彦に向け、愛おしい人に向ける柔らかな微笑みと共に、掠れる声で囁いた。
「……ここにいたんだね……父さん」
今まで生きてきた中で、1番美しい笑みを知ってしまった昼彦は自分の内側にめぐる感情の正体が友情でないことに気がついてしまった。この先、もう抑えることは出来ないだろう。
ただ、目の前にいるのが、最愛の父ではないと千鉱が気づく瞬間がすぐに訪れるはずだ。少しでもそのときを先送りしたくなった昼彦は、再び唇を千鉱のそれに重ねるのであった。
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