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そう言うと、絢斗君はほっとした様子で。
「ありがとう。真白、俺の家でも不自由などはさせないから」
絡んだ指先がそのまま絢斗君の唇に移動して、私の手の甲にちゅっと、キスが落とされた。
「っ!」
しなやかな唇の感触に目を見張る。
誰か見て無いかと慌ててしまう。
気がつくとメリーゴーランドはゆっくりと動きを止めて、音楽も止まって。
こちらを見ている様子の人はなくてほっとした。
人の目があるところで手の甲とはいえ。キスはちょっと恥ずかしいと、訴えようと口を開きかけたが。
隣で瞳を細めて、嬉しそうに微笑む絢斗君。
そこにメリーゴーランドの穏やかな光が、絢斗君の笑顔をさらに魅力的に倍増させていて、結局なにも言えずじまいになってしまった。
メリーゴーランドが完全に止まり。
スタッフの人の掛け声で周囲の人達が名残惜しそうに、それぞれ跨った木馬から降り出す。
私も絢斗君に手を引かれて、馬車から降りた。
「真白、これから一緒に暮らすからと言って、真白に家事を押しつけようとか。お願いしようとかは思ってない。とにかく側に居てくれたらそれでいい。俺が安心する」
「うん」
「家まで送って行く。詳しいことは車内で話そう」
「うん。いつも送ってくれてありがとう」
「これからは送る必要もないな」
またにこりと笑われると、気恥ずかしくなってしまった。
面映ゆい気持ちのまま、手を引かれながらメリーゴーランドを離れる。
公園内の屋台は、そろそろ店仕舞いが始まっていて。少し人の流れが減ったような気がする。
それでもまだ、イートインスペースで楽しそうに飲んでいる人達の笑い声が聞こえる。
そんな至って変哲のない場面を見ながら、不思議な気持ちになっていた。
自分で決めた事とは言え。
ずっと好きだった人とこれから、暮らして行くことになるなんて。
一ヶ月前にはそんなこと、考えもしなかった。
むしろ、絢斗君と再会するなんて夢にも思ってなかった。
少し、乙女チックかもしれないけど。運命的な出会いと言ってもいいかなと、思った。
公園を後にして、絢斗君の車に再び乗り込んでも──どこかふわふわした気持ちで。
それでも、これが運命と言うのならば。信じてみたくなった。
ふわりとした気持ちでも、絢斗君と帰りの車内で色々と話していくうちに。ゆっくりと現実味を感じ始めた。
今後の事や自衛も兼ねて、絢斗君の家にお世話になる事は変わらないが。
──裁判が決着が着くまでは、私が家の事も心配と言うこともあり。
まずは『半同棲』と言う形に落ち着いた。
これから母の裁判が本格的に始まり。
答弁書が揃う頃合いまでは、母には自衛も兼ねて友達の家に身を寄せると言う建前で、絢斗君の家にお邪魔する事にした。
実家の家には念の為、防犯カメラを付けて対策。
お互いの答弁書が揃えば、被告の動向が和解に向けて審理を望むのか。そうで無いかとがはっきりするそうだ。
絢斗君はさらさらと、運転しながら説明してくれた。
少額訴訟はこちらから送った訴状に対して、相手が期日までに答弁書を提出。
それを受領し、審理に向けて証拠を用意。そして法廷で審理。このほとんどが和解で終わるケースが多いらしい。
相手が異議申し立てを行うと通常手続きによる審理・裁判が行われるが──その頃には松井さんが沼知議員の悪事をメディアに暴露している頃合いだそうで。
九鬼氏や宇喜田弁護士は、私達を相手する余裕などない。
きっと審理の場にすら現れず、こちらの言い分を飲み。お金を支払って、最速で終わりにしてくるだろうと言うのが絢斗君の見解。
ざっと説明を聞いて窓の外を見ると、いつの間にか見覚えある景色で家が近いと思った。
「多分、九鬼氏本人の直接の謝罪は無し。手紙、もしくは代理で終わると思う。そこは櫻井家の意に添えないかもしれない。申し訳ない」
赤信号で車が止まり。
ふぅっと息をしながら、私に申し訳なさそうに視線を送ってくる絢斗君にとんでもないと、手を振る。
「ううん。悪いってことをちゃんとした場で認めてくれたら、もう、私はそれでいい。きっと家族もそうだと思う。それに、今日本人に会って大変だっし」
小さく笑って見せると、絢斗君も微笑して「そう言ってくれると、助かる」と言うと。青信号になり。また車が走り出した。
裁判はだいたい、三ヶ月もあれば平穏に終わると言うのが絢斗君の見通し。
絢斗君は全てが終わったら母や祖母に。結婚を前提にお付き合いをしていると、言うことを打ち明けたいと希望した。
ちゃんと、私の家族のことまで視野に入れてくれているのが嬉しかった。
(三ヶ月後には、全て終わっているんだな……長いようで、あっと言う間な気がする……)
それから本格的に『妻』として同棲を開始。
絢斗君サイドの人達にも徐々に紹介をして──籍を入れる段取りが良いだろうとなった。
確かに、この通りにすると私と絢斗君とは事件が切っ掛けで急速に親密になり。スピード婚に至ったと周囲から見てもおかしくないだろう。
ここに『契約妻』と言うワードは、きっちりと隠されていると思った。
絢斗君の手際の良さと言うか。見通し……いや、どこか計画めいた、手順の良さに私は舌を巻くばかり。こうしていると本当に交際期間を得て、結婚に進んでいるような感覚に陥る。
でも、そうじゃないと。現実を見るように窓の外を見ると、いつも私が使う最寄り駅を通り過ぎた。
家が近い。
(うん。ちゃんと分かっている。私はまだ契約妻だ)
全ては私が契約妻でもいいと望んだこと。
そうやって着々と望んだ未来が迫っている。勝手な思いかもしれないけど。それでも幸せな結婚にしたい。
だからこそ。それまでに本当は学生時代から、絢斗君を想っていたことを言わないといけない。
何より。私のことを忘れている、絢斗君の契約妻と言う誘いに乗って。全てを知らないふりをして、絢斗君の手を取ってしまったこと。
高校二年のあの夏。幼さと悲しみ故に、自分の気持ちを絢斗君に何も伝え切れず。一方的に終わってしまったこと。
その全て過去を気持ちを打ち明けたい。絢斗君をちゃんと理解して、そうして本物の絢斗君の妻になりたい。
全てを打ち明けても、きっと絢斗君なら理解してくれる。
家に着いて車から降りる間際。
絢斗君からおやすみと、手を取られ。今度は唇に不意打ちのキスをされた。
そのキスもこれからも一緒に暮らすと言うこともしっかりと、受け入れ。
非常階段のキスの時とは違い。
自分から自然と、絢斗君の背に手を回すようになっていたのだった。
※※※
『絢斗の思惑』
真白との別れ際のキスはライチの香りがした。
きっと、真白がイベント会場で飲んでいたドリンクの残り香だろう。
帰路に着く車内の中で、真白の唇の感触を思い出し。真白の残り香を求めるように唇を舐める。
しかし。
「足りないな」
車内の中で独りごちる。
この時間の夜の道は空いていて、運転しやすくて良い。
視界の奥にある月に届かんとする、幾つもの背の高いビルの明かりや。ポツポツと時折り現れるコンビニの光が、暗闇を拒むような意思めいていて夜の運転の方が好きだった。
思いのままにハンドルを切っているとつい、スピードを出してしまいそうになる気持ちを諌め。スピードを落として思考は真白のことを思う。それは──。
「真白には何か、まだ迷いがあるな……」
今日は九鬼氏との対面があり、悠馬も参戦し全て計画通りに運んだ。
九鬼氏とは初対面だった。宇喜田弁護士の無能さもあるが、あの短気な様子では裁判は何の山場もなく終わる。
万が一、九鬼氏が通常裁判に移行しようと言う段取りをこれからしても。真白にも説明したが、その前に悠馬とその仲間達が動く手筈。
その後も俺の相手をするよりか、マスコミや世論の相手に手一杯になる。裁判後もなりを潜めるだろう。
これで真白の悩みを解決するのには充分。
なのに、全てを手放しで俺に堕ちてくる様子はない。
しかし、この手に捕まえている実感はある。
目の前の信号が黄色になり、緩やかにブレーキを踏んで止まる。
それとも、先ほどの公園でのイベント。純粋に真白に楽しんで欲しいと言う気持ちと、俺は夏祭りの記憶を上書きしたいと言う目的もあって、真白を連れて行った。
真白はそれで昔の事を思い出したとか。
もっと他のことで、真白は真白で思うところがあったかも知れない。
その真意は不明だが真白が僅かに見せた、何か悩ましげな視線が気になった。
「まるで捕獲した白鳥が時折り、羽ばたくみたいだ」
赤信号を見つめて、そんなことを思う。
だが、それも仕方ないことだろう。
一緒に暮らすと言う提案や母親の裁判のこと。
真白の立場からしたら、今は取り巻く環境が目まぐるしく。頭では理解していても、心がそれに追いついてないかもしれない。
「同棲していけば。俺の側にいれば……」
時間と共に解消されるはず。
近くにいたらこれからは、より真白の心に迫って。全てを陥落させる自信はあった。
真白が可愛くて愛しいと思う気持ちに偽りはない。そこに囁く睦言も心からの言葉。
ただし、タイミングは狙っている。
男が女を口説くのだから、計算ぐらいはする。
真白だからこそ、口説くのも計算するのも全てが愉しい。
「……元より『妻』なのに口説くも何もないか」
それでも真白には全て捧げたい。捧げて、真白の全てを手に入れたい。
心までは望めなくても、だ。
赤信号から青信号になり。再び車を走らせて、これからのことも考える。
家に招き入れるならば、最初は体に深く触れる行為は控えた方がベターだろう。柔らかく抱きしめるぐらいの接触がいいはず。
環境が変わっているところに無理はしたくない。
真白から求めてくれたらそれでいい。焦りは禁物。
そして、あの書斎。
真白には以前、書斎の説明をしているから勝手に開けようとはしないはず。そもそも鍵を付けている。
一緒に住むとなると、部屋の中にある真白に関するものは片付けた方がいいとは思う……が。
迷っていた。
俺としては自分の妻になろうとしている人の写真を、飾っているに過ぎない。
ましてや、法を犯している訳でもない。
「だからと言って、真白は歓迎はしないだろうな」
真白が書斎の中の秘密を知ると。なんで、どうしてと思うことだろう。
果てた後の写真を撮っているのだから、怒る可能性が高い。
俺に向ける視線は、猜疑心に満ちたものになるだろう。ましてやパートナーとなる相手がそんなことをしていたら、気持ちは複雑になるに違いない。
でもその視線は思いは。
全て俺に向けられたもの。
俺だけのものだと思うと──見てみたくなる 。
真白が眉根を寄せて瞳を潤ませ、戸惑う姿。
もしくは白い頬を赤く染めて、怒りを露わにするかもしれない。
想像するだけで、どれも魅力的だと思った。真白は何をしても、可愛いのだから当然と言えば当然。
真白を傷つけたいなんて思わない。いつも笑顔でいて欲しいのは当たり前。
ただ、怒りも、悲しみも、苦しみさえも。
真白の感情の全てを手に入れたい。真白の全ての表情が見たい。真白のあらゆるものは、俺だけが独り占めしたいのだ。
そう思うと、あの部屋が有る方が真白の感情を引き出せると思った。
そうやって真白の反応を想像するのは楽しい。一日中、考えても飽きない。
「それに、あの写真は本当に美しいから隠すのはもったいない」
俺が密かに愛でて、愉しむには良いだろう。
一緒に住むからこそ、手の内に入ったからと言って油断はしない。
あの部屋に秘密がある方が、緊張感が生まれて良いだろう。
迷った上で自分への戒めとして──今しばらくは。
あの部屋は、あのままにしとこうと思った。
「それとは別として、単純に真白の可愛い写真は沢山飾りたいしな。真白の記録は沢山残したい」
そう考えると、また新しいフォトフレームやパネルなどを購入したいと思った。
一緒に暮らすのに、秘密を抱える。
しかしそれは真白への愛ゆえと思う反面。
あの約束した夏の日みたいに真白が、忽然と消えてしまうのでは無いかと言う。怖れにも近い不安な思いもあった。
その不安を打ち消すのがあの部屋の本来の役割かも、しれないと──自己分析してみるが。
「だったら……居なくなる前に、閉じ込めてしまうのもいいかも知れない」
心の一番奥の黒い想いが溢れる。
誰の目にも触れさせず。足枷を付け。
朝も昼も夜も愛し合う。
俺が真白の全てを支配する。
そうしたら、やっと安心出来るかもしれないと、思ってしまうあたり。
「やはり、俺は王子ではないな。悪い魔法使いだ」
|真白《お姫様》にはずっと解けない魔法を掛けて、俺を王子様だと思って貰おう。
真白とこれから一緒に暮らす。
それはきっと楽しい日々に違いないと、胸の高鳴りを静かに感じながら夜の道を駆けていくのだった。