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#恋愛
水羽凛
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#医者
GUMI。
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「絢香!」
俺は走りながら声を振り絞って彼女の名前を呼んだ。
空港のロビーにいる大勢の人たちが俺を避けていく。完全に不審者扱いだったが通り道が出来て好都合だ。
――数時間前。
夜勤明けだった俺は病棟でパソコンに向かっていた。
すると総合受付から電話で面会者がいるから降りてきて欲しいと言われた。
かなり面倒だったが急用だというのでしぶしぶ病院のロビーまで下りていった。
みるとそこには絢香と仲が良かった長髪の男が立っていた。名前は憶えていない。
「安西さん、ですよね」
「……そうだけど」
そう答えると男はホッとしたように息を吐いた。
「ああよかった、お会いできて。僕のこと覚えてらっしゃいますよね? 実は、話したいことがあって……」
ずいぶん憔悴したような顔をしているのが気になったが、俺がこいつと話すことなんて何もない。
「仕事中ですので失礼します!」
そういって歩きだそうとするとそいつは必死の形相で俺の腕を掴んでいった。
「待ってください。お願いですから聞いてください」
どうしてこいつがこんなに必死なのか――今の俺には知る必要のないことだ。
とにかく病棟へ戻って残った仕事を片付けなければならないから。
「離してくれませんか? 警察呼びますよ」
そう、乾いた声でいうとハッとした様子で手を放した。
「……それは困ります。じゃあ、これだけ言わせてください。今すぐ絢香さんを追いかけてください。今ならまだ間に合うと思うんです」
「……は? なんだって? いきなり押しかけてきてなにいい出すのかと思えば……悪いけど絢香とは別れたんだ。お前もし知ってるんだろ」
彼女は突然病院も辞めた。よほど俺から離れたかったんだろう。もし追いかけても拒絶されるに決まっている。
「お願いします」
男は俺の足元に膝をつくと額を床に押し付けた。
「なにしてんだよ! やめろって」
「どうか彼女とおなかの子供のためにもやり直してください」
「おい。お前、いまなんて!?」
我が耳を疑った。
おなかの子供?どういうことだ。俺の子だってことなのか?彼女が妊娠しているなんて聞いてない。
俺は男の腕を掴んで起き上がらせた。
吐き気がするくらいに綺麗な顔をしている。絢香はこいつのことがお気に入りだったようだし、
「お前の子供なんじゃねえのかよ」
その可能性は大いにある。考えたくもないけれど。
「違います。彼女とはそういう仲じゃなかった。あなたの子供で間違いないです。彼女の同僚の先生がそう言っていました」
「同僚の医者?」
「はい。若い、男性の……名前はわかりませんが」
相原かもしれないと思った。少し前に二人で話をしていたところを見た。それにあいつの実家は産婦人科の病院を経営していると聞いていた。
「そもそもお前がどうしてそのことを知ってるんだ。相原とだって接点があるのはどうしてなんだ?」
絢香が妊娠していると聞いて今すぐ彼女のもとへ駆け付けたい衝動にかられているのは事実だが、とにかく冷静にならなければと思った。
「端的に言います」
そういって告げられた事実に俺は怒りを覚えた。絢香と俺を別れさせるためにこの男を仕向けたのが和美だったなんて。
「この事実を絢香さんはおととい知りました」
絢香は送別会のために相原や同僚の看護師たちとレストランで食事をしていてたまたま和美とこいつの話を聞いてしまったということらしい。
「ショックだったようで倒れてしまって……その場にいた同僚先生から安西さんの子を妊娠しているんだと聞き、せめてもの罪滅ぼしにあなたに真実を伝えようと思いました」
「……そんな。俺だけ何も知らなかったのかよ……」
握っていた拳に汗がじっとりと滲んでいるのが分かった。悔しさと情けなさと絢香への申し訳ない気持ちで心がくしゃくしゃだ。
「絢香さんはいま空港にいます。10時45分の便で実家に帰るそうです。このことは懇意にしている喫茶店のマスターから聞きました。今なら十分間に合います」
俺はそのまま病院の外へ飛び出すとタクシーを止めた。白衣姿で乗車してきた俺を見て運転手は少し驚いていたようだった。
「すみません。羽田まで急いでいってください。お願いします」
車の中で相原に電話をかけるとあまりにも淡々と「全部事実ですよ」と言った。
「お前、隠してた罰として俺の残してきた仕事やっておけ!」
パワハラだとわめく相原の電話を切って後部座席のシートに背中を預けた。
絢香に会ったらなんていえばいいだろう。
やり直そう――は本心だけど彼女は俺に愛想を尽かしてしまっていたじゃないか。
いまさら復縁に応じてもらえるのか?仕事優先で彼女のことをほったらかしにした俺を許してくれるのだろうか。
人生でこんなに自信がないことなんてなかった。
でも、空港で彼女の姿を見つけた瞬間無意識に走りだしていた。
人目も憚らず大声で名前を呼んだ。きっと恥ずかしいって怒るだろうな、なんて考えながら。
「正臣。なにしてるの、そんな恰好で……」
保安検査場の前で足を止めた彼女は俺のもとへ駆け寄ると困ったような顔で咎めた。
「絢香、妊婦が走ったらダメだろ! 転んだら大変だ」
「……え。いま、なんて」
驚く絢香を思いきり抱き締める。
「行くな。行かないでくれ!」
「いきなりなんなの……なんで、きたの……とにかく、離して」
俺の腕の中から抜け出そうとする絢香を更にきつく抱きしめる。
「いやだ。離したくない」
「バカなこと言ってないで離してよ。苦しいんだってば!」
そういわれて一瞬ひるんだ。
でもお腹だって圧迫していないし、呼吸もちゃんとできていて全く苦しそうにも見えない。
俺から逃れるための嘘に騙されてなんかやるもんか。
「もうどこへも行かないって約束するなら開放してやってもいいけど?」
少し意地悪だったかもしれない。
けれど絢香を手放したくなかったんだから仕方ない。
「わかった。約束する」
「絶対だぞ? あ、いっておくけどこれプロポーズだからな!」
腕をほどき彼女の顔を覗き込んだ。
すると大粒の涙がぼろぼろとこぼれ堕ちている。
「あ、絢香? ごめん、本当に苦しかったのか? てか、大丈夫か」
おろおろと情けないくらいに動揺する俺の頬を絢香はパシンと両手でたたいた。
「……違うってば……ばか。ずっと不安だったから、正臣が迎えにきてくれて……ほっとした」
「そっか、ごめんな。一人で全部抱えさせて、不安にさせて悪かった。これからは……」
ずっと一緒にいよう。そう言おうとしたのにポケットに入っている病院用の携帯電話が鳴る。
「出なくていいの?」
絢香は不安そうに俺に聞いてくる。
「いい。俺がいなくちゃ仕事が回らないチームじゃないだろ! それに絢香とこの子以上に大事なものなんて今の俺にはない!!」
そうだよ。俺がいなくても外科医の代わりなんていくらでもいる。けど、この二人には俺じゃなきゃダメだろ?
これで俺の気持ちは絢香にしっかりと伝わっただろう。もっと早くこうしておけばよかったんだ。
「これからは仕事よりお前を優先する」
そう宣言した俺に羨望のまなざしを向けてくれるのかと思いきや……。
「わかったから電話に出たら?」
さっきまでかわいく泣いていたはずの彼女が急に真顔になってそんなことをいう。
「……は? 今の話聞いてたろ?」
「うん。だけど、仕事放り出すのはなんか違うと思うから電話出て? 主治医に電話繋がらないとほんと困るんだから」
それから俺は病院にトンボ帰りすることになり、絢香はといういと――、予定通り飛行機で実家へ帰った。
仕事よりお互いを優先したいといいながら、絢香も俺も”患者第一“の考え方からはまだ抜け出さないのだと思い知らされた。
次の休日、俺は着なれないスーツを着込んで絢香の実家へと向かった。
空港から高速バスに乗りついて1時間ほど。
東京とは比べものにならないほど空気が澄んでいてのどかな田舎町といった感じだ。
「あ、いたいた。正臣!」
ポンと肩を叩かれて後ろを向くとワンピース姿の絢香が立っていた。
「絢香! この間よりもお腹が大きくなったみたいだな」
お腹に手を当ててからそっと背中に手を回す。久しぶりに感じる絢香のぬくもり。たまらず首筋に唇を押し付ける。すると少し離れたところにいる中年の女性と目が合った。
その女性はどこか絢香に似ていて、はにかみながら軽く頭を下げる。
「なあ、絢香。あそこにいる人って……」
「ああ。私のお母さんだけど? 車出してくれたの」
慌てて絢香から手を放す。すると「どうしたの?」と首をかしげる。
「お義母さん来てるなら早く言えよな!」
「そういうの気にするの?」
「気にするよ!」
ただでさえ、よい印象の男でないだろうに。挨拶もしないで娘に抱き付くなんて最低だろ、俺。
気まずさを引きずりながら絢香の母親の運転する車に乗り実家へと到着した。
洋食店を営んでいたと聞いていた通り、一階は店舗のような作りになっている。
その奥の階段から二階に上がりリビングへと通された。
「どうぞ、くつろいでください。下の子たちがいないから静かなのは今だけだけど」
お義母さんはそういいながらお茶を入れてくれた。絢香の弟たちは小中高とそれぞれ学校へ行っているという。
「改めまして、絢香の母です。忙しいのにわざわざ来てくださってありがとうございます」
にこり、と微笑まれてほんの少しだけれど緊張が解けた気がした。俺は座ってたソファーから降りるとフローリングの床に正座した。
「こちらこそ、ご挨拶が遅れて大変申し訳ありませんでした。本来なら守るべき順番があるのにこのような形になってしまい、どうお詫びしていいのか分かりませんが……僕は、絢香さんのことを一生大切にするつもりでおります。結婚させてください」
ゆっくりと、そして丁寧に頭を下げる。すると絢香も俺と同じように床に座った。
「お母さん。いろいろあったけど、先生のことが好きなの。私は正臣さんと結婚して二人でこの子を育てようと思う。いいかな?」
俺はそっと絢香の手を握った。
その手が震えていてやはり彼女も不安なのだと思うとつい目頭が熱くなる。
「……正臣さん」
名前を呼ばれて顔をあげた。お義母さんの表情は心なしか険しく見える。
「はい」
「絢香がはじめ、独りで赤ちゃんを産むといいだした時、私はあなたのことは絶対に許せないと思った」
お義母さんがそう思うのは当然のことだろう。もし俺が親の立場だったら相手の男なんてボコボコにしても気が済まないと思うし。
「それに今でも仕事人間でほかの女にうつつを抜かすような人なんて娘のことを幸せにできないと思ってる」
「――お、お母さん! それは誤解だったって言ったよね?」
慌てて絢香が訂正したが、信用を失うには十分すぎる話だ。
俺が仕事人間なのは事実だし、和美の事だって結局は関係を切れなかった俺が悪い。
それに結婚するつもりはあったにせよ予定外で妊娠させたのは男として無責任極まりない行為だった。
「おっしゃる通りです。だから僕は失墜した信頼を回復するために準備をしてきました。女性問題については、関係を切るために弁護士を通して法的手段にでました。彼女も仕事が大切でしょうから今後一切かかわることはないでしょう」
和美のしてきたことは法に触れるものが多かった。
病院への不法侵入や俺に対するストーカー行為。絢香への恐喝。今まで目を瞑ってきたがこれ以上続くことは許すことはできない。
本来ならもっと早くこうした態度を取ればよかったのだろう。絢香には本当に申し訳ないことをしたと思っている。
「それから仕事の件ですが、絢香さんがこちらで暮らしたいと望むなら僕は喜んで転職するつもりです。幸い、こちらの地域は医師不足とのことですので仕事はすぐに見つかるでしょう。もちろん、仕事漬けにならない条件で採用してもらうつもりです」
俺がそういういと絢香は驚いたように目を丸くしてこっちを見た。
「正臣、本気なの?」
彼女の目を見てゆっくりとうなずいて見せる。今の病院に居たら絢香や生れてくることどもの時間を優先することは難しいだろう。
おそらく絢香は『仕事なら仕方がない』というかもしれない。
でもその言葉に甘えた結果すれ違いが起きたわけだし、同じ過ちを犯すほど俺も浅はかではない。
「子供が小さいうちは家庭に専念するし、お金が必要になれば死ぬほど働いて稼いでくるさ。東京にはたくさん医者がいるわけだし俺が地方の医療に貢献するのもいいと思わないか?」
「……いいと思う。ありがとう。……お母さん、私は正臣さんと結婚したい。彼と幸せになれるように頑張るから」
お義母さんは「わかったわ」と言って俺を真っ直ぐに見つめる。
「正臣さん。絢香の事、よろしくお願いします」
強張っていた表情緩ませると、目頭を押さえた。大切な娘を守るために必死だったんだろう。今以上に認めてもらえるように俺も精進しなければいけない。
「はい。世界一幸せにします。もちろん、お義母さんや弟さんのことも……みんなさんと家族になれたら嬉しいです!」
その夜。帰宅した弟たちと初めて対面した。あすみは「思春期だから……」と言っていたけれどみんな素直でいい子たちだった。
絢香から野球をしていると聞いていたのでそれぞれにクローブとシューズを手土産に渡すと予想以上に喜んでくれてなんだか俺の方が嬉しくなってしまった。
「弟たち、すごく喜んでた」
空港までのバスを待つ間ベンチに並んで座り、絢香は嬉しそうにそう言った。彼女の姉としての顔をみたのは今日が初めてだったけれど、その表情は慈愛に満ちていた。家族を大切にしている女性でよかったと思う。
「プレゼント作戦大成功だったか?」
「ううん、そうじゃなくて。正臣の存在が嬉しいんだと思う。大きなお兄さんができたって感じでさ。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。また近いうちに来るよ。婚姻届けも一緒に書こう」
本当は帰りたくないのだけれど、さすがに仕事をさぼるわけにはいかない。また絢香に怒られそうだし……。
「うん。あ、でも婚姻届けは正臣のご両親にご挨拶してからじゃないと!」
「ああ、それはそうなんだけど。前にも言ったけど、母親は他界していて父親は日本にはいないんだ」
俺の父親は発展途上国で医療活動を行っている医者だ。母親と俺を日本に残して何年も帰ってこないこともあった。母親が死んだ時ようやく帰国したような男なのだから俺が結婚しようと知ったこっちゃないだろう。
「メールでは承諾を得てるし、早く入籍したいんだけど?」
焦るわけではないが、入籍してどうどうと絢香の夫を名乗りたいし、病院にだってきちんと申告したら休暇だって取りやすくなる。
そしてもう二度と、彼女と離れたくないから俺は法律で彼女を縛ってしまおうと思う。
――なんていったら、自分勝手だと怒るだろうな。
「正臣がそれでいいならいいけど、私は会ってみたいなぁお義父さんに!」
「そうか……。会うのは難しいけど電話してみようか? 掛けたタイミングで出てくれたことないけど」
時差もあるし通信環境がよくないらしく電話はほぼ不通と思っていていいくらいだ。でもまあ、絢香が望むことは形にしてやりたい。
スマホの電話帳を開くと急に絢香が立ち上がった。
「いきなりどうした?」
「ねえ、待って……緊張してきた。どうしよう」
そわそわと落ち着かない絢香に俺は笑っていう。
「大丈夫だよ、どうせ繋がらないから。ほら、座れって」
絢香を隣に座らせてテレビ電話のボタンを押す。すると数コール後に真っ黒に日焼けした親父の顔が映し出される。
『おお、正臣! どうした?』
よく通る張りのある声でそう言った。
「久しぶりだな、親父。元気か?」
『元気だぞ。ああ、そうだ。結婚するんだろ? おめでとう』
「ありがとう。そのことで電話した。親父に俺の大切な人を紹介したくてさ」
スマホを絢香の方へ傾ける。
「は、はじめまして! 竹光絢香です」
絢香の声が震えているのに気付いた。俺は片方の手で彼女の手を握る。
親父は、『はじめまして。正臣の父です。こんなきれいな人だなんて驚きました。息子じゃなくて私と結婚しません?』そういいながら白歯を見せて豪快に笑った。
「なにいってんだよ、親父。ごめんな、絢香」
我が父親ながら恥ずかしくなる。女性はとりあえず口説くみたいなの、もう若くないんだしいい加減止めたらいいのに。
「ううん。正臣のお父さんだなって感じ。似てるね」
「はあ? それ、全然嬉しくないんだけど」
いやたしかに似ているところは多い。母親からもよく『そっくり』だと言われていた。でも、
「俺はこの人のように家族をないがしろにするようなことだけは絶対にしない」
いいながらスマホの画面に視線を戻すと親父は嬉しそうに頷いていた。
『いい心がけだな、正臣。絢香さん、息子のことを好きになってくれてありがとう。あなたがそばにいてくれたら安心だ』
そんな親父の横から小さな子供が二人顔を出した。現地のこどもだろう。澄んだ大きな目でこちらを見つめてくる。すっかりスマホを独占されてしまい絢香もどうしていいか分からないといった顔をしている。
「あ、なんか切れちゃった、みたい。かけなおした方がいい?」
そう言って絢香はそれにスマホをよこした。子供たちが切ったのだろう。
「もういいよ。絢香の事紹介できたし、久しぶりに親父の顔も見れたし」
正直、あれ以上話すことも見つからない。それに、俺が思っていた以上に親父は誰かに必要とされているのだと改めて知ることができた。
「あ、バスが来ちゃった」
遠くに見えた高速バスを見つけて絢香が残念そうにつぶやく。俺の手を強く握ると寂しそうにひとつため息を吐く。
「次の休みにまた来るよ」
「え、いいよ。大変だから」
「なんでだよ。来なきゃ来ないで嫌なくせに。ていうか、俺が二人に会えないのは耐えられなさそうだからできるだけ会いに来るよ。電話もする。だから絢香も寂しい時はちゃんと寂しいっていうんだぞ」
そうじゃないと、言葉にしないと、またすれ違ってしまいそうで怖い。
物理的な距離があるからこそ俺はうざいくらい絢香に愛を伝えたいと思う。
***
ーー数ヶ月後。
「安西先生、内線です」
病棟の看護師さんがそう言って電話の子機を渡してくれた。
「もしもし、安西です。はい、はい! すぐに伺います!」
俺は電話を切るや否やナースステーションを飛び出してエレベーターに飛び乗った。
向かうは産科病棟。
「でもあれ? 何階だっけ……」
長年勤務していた病院を辞め、絢香の家の近くの総合病院に再就職した俺。
まだ二週間しかたっていないので院内の配置がよく分からない。
慌ててエレベーターの中の案内板を確かめて産科病棟へと急いだ。
今朝破水した絢香は産科病棟へ入院した。立ち合い分娩を希望していた俺は勤務中に抜け出してもいいと許可をもらっていた。
「あ、先生。こっちです」
俺の姿を見つけた産科の看護師さんは絢香のいる分煙室へと案内してくれる。
研修医の時に何度か見学しているでも、夫として、父親としてあの場に立ってみると情けないくらいに慌てふためく自分がいた。
「絢香、頑張れ」
どうしたらいいのか分からず彼女の手を握った。苦しそうな絢香の顔。的確に指示を出す助産師と看護師たち。あの場にいながら何もできない自分に腹が立った。
「赤ちゃん出てきますよ!」
やがて生まれてきた赤ん坊は絢香の胸の上に置かれる。ずっと会いたいと思っていたおなかの中にいた我が子。
髪が黒々としていて、目が大きくて鼻筋も通った美人さんだ。かわいい。この世の中に何よりも愛おしいと思えるものがまた一人増えた。
「おめでとうございます! 先生、無事産まれましたよ?」
そう声をかけられてようやく声が出た。
「……あ。絢香、よく頑張ったな。ありがとう、産んでくれて、ありがとう。ありがとう……」
ぐしゃぐしゃに泣いて、泣きすぎて、涙をぬぐった先に産まれたばかりの我が子を見つけてまた泣いてしまった。
「ちょっと、大丈夫?」
少しあきれ顔で絢香は言った。大変なことを成し遂げた後のはずなのに、俺にまで気を遣ってくれるなんて母は強しといのは本当のようだ。
「これから仕事に戻るんでしょ?」
「ああ、そうだな。もうそろそろ行かないと。でも仕事は約終わらせてまた来るから」
本当はこのままずっとここにいたいけれど、そんなこと言ったら絢香に怒られそうだ。
「わかった。待ってるね、お父さん」
“お父さん“と呼ばれて妙に背筋が伸びた。
「おう! 絢香は少し休んで。なにかあれば俺のこと呼ぶように!」
「わかった」
絢香の額にキスをして俺は廊下に出た。
待合室にいるお義母さんに無事に産まれたことを伝える。朝から付き添ってくれて感謝しかない。
「俺、仕事に戻るので絢香と子供の事、よろしくおねがいします」
「任せておいて。正臣さん、お仕事頑張ってくださいね」
「ありがとうございます、お義母さん」
外科病棟へ戻る途中、親父にもメールを送る。生れたばかりの娘の写真を添えて。
ナースステーションへ入ると拍手で迎えられて面食らった。
「安西先生、おめでとうございます!」
声をそろえてそう言われると嬉しいやら恥ずかしいやら、反応に困る。
「みなさん、ありがとうございます」
まだこの病院に来て間もない俺の、しかも家族のことをこんな風に祝ってくれるなんて本当に温かいスタッフたちだと思う。
「部長、すみません。途中抜けさせてもらっちゃって」
回診から戻ってきた外科部長へ頭を下げると、「今日はもう帰っていいよ」と肩を叩かれる。
「いやでも……」
またやらなければならない仕事がある。
「医者の代わりはたくさんいるけど、子供の父親は君だけだろ?」
「はい。ですが……」
「後なにが終われば帰れるの」
そう言われて業務の内容を話すと「それは僕がやっておくよ」と部長は言ってくれた。
今までの俺なら上司に仕事を任せるなんてしなかったと思う。でも、仕事よりも大切なことが増えすぎて……。
「感謝します、部長」
俺はもう一度頭を下げると絢香の病室へと向かった。部屋に入ると絢香は眠っていた。
ベッドサイドの椅子に座り、その寝顔を見つめる。
眉がへの字に下がって唇が少し乾いている。相当疲れたのだろう。命掛けで子供を産んだんんだから当然か。
そっと手を握ると絢香は目を開けた。
「ごめん、起こした」
「……正臣。仕事は?」
起き上がろうとする絢香を制して、ベッドのヘッド部分を起こした。
「早退させてもらった。ありえないくらい理解のある職場だろ?」
「いい病院だね」
「本当に、いい病院だよ。で、絢香は体、どう?」
「……大丈夫じゃない。でも、不思議と気分はいいよ。ねえ、赤ちゃんみてきた?新生児室にいるの」
「まだ。まず、絢香に会いたかったから」
俺はベッドの端に座りなおす。そっと絢香を抱きしめると「愛している」と耳元でささやいた。
終わり
コメント
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うわああああ安西先生side尊すぎる😭💕第9話、最高の結末すぎて胸がいっぱいです!!最初の空港ダッシュから泣きそうになったし、お義母さんに頭下げるシーンで涙腺崩壊しました…「仕事より大切なものがある」って気づけたの本当に良かったね!そして最後の出産シーン…「俺の代わりはいるけど父親は一人」って言葉に全部詰まってる…水羽さん、本当にありがとうございます!!!😭🌸