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「……あの?」
女性社員が不審な目を向けて来ているけれど、取り繕う余裕なんて、少しも無かった。
三神さんとは会社帰りに何度も会ったし、その時の様子はとても荷物を見に来たように思えなかった。
それに、頻繁に流れていたクラシック。倉庫代わりの部屋で、優雅に音楽など聞くのだろうか。
「あの、隣の人ってどんな人なんですか? 荷物置き場にアパートを借りるなんて珍しい気がして……」
不動産屋ならアパートの契約をする時、個人情報を手に入れているはずだ。
「申し訳ありません。個人情報ですので詳細は申し上げられないんです」
確かに不動産屋がペラペラと、入居者のプライベートを話す訳がない。
逆に私の情報を口外していたら許せないし、当然の対応といえた。
でも、三神さんについて、何も分からないままだ。
言いようの無い不安を感じた。浮かない顔の私に、女性社員はおずおずと声をかけて来た。
「あの、物件の紹介はどうなされますか?」
「さっき話した条件でお願いします……すぐに入居出来る部屋を探して下さい」
あのアパートに居るのが怖かった。
もう三神さんを感じの良い隣人なんて思えない。
一度不信感を持ってしまうと、何もかもが気になりだしてしまう。一刻も早く引っ越しをしたかった。
何件か物件を紹介してもらい、その中から二件を選び現地に案内して貰った。
どちらも今の部屋より狭いし、他にも細かな欠点が有る。
焦りは有るものの、やはり即決は出来ずに、持ち帰り検討することにした。
明日連絡すると約束して不動産屋と別れた私は、アパートへの帰り道を重い気持ちで歩いた。
三神さんは、どういう人なのだろう。
何度も会話をしているのに、個人情報は殆ど知らない。
初めて会ったのは、引っ越しの挨拶に来た時。
そこまで考えて、私はハッとして足を止めた。
挨拶の時、三神さんは、今日から隣の部屋に住むと言っていた。
不動産屋の話が本当なら、初めから嘘をついていたことになる。
一体どうして……三神さんが越して来た時を、もう一度思い返してみた。
あれは確か、雪香の行方を探していてミドリと初めて会った頃だった。
雪香が私の名前を使っていたと知り不安になっていた。
そんな時出会った三神さんは、まともで安心出来る人に思えて、不審に感じた事なんて一度も無かった。
蓮やミドリよりずっと信用出来ると思っていた。
それが初めから嘘をつかれていたなんて。三神さんとは週に一度か、多い時は三度程顔を合わせていた。
会社から帰って来るタイミングが同じで、ポストの前で話しかけられて……でも、私は決まった時間に帰宅していた訳じゃない。
残業も有ったし、買い物をしてから帰るときもあった。
それなのに、頻繁に遭遇した。偶然時間が合うなんてことが、そんな何度も起こるのだろうか。
それに、何故郵便受けのスペースでばかり会ったのだろう。
例えば近所で買い物をしている時に会うとか、駅で会うとか、そういった偶然は一度も起きなかったのに。
まさか……意図的に時間を合わせていた?
そうだとしたら、ずっと監視されてた事になる。浮かんだ考えに、背筋が寒くなった。
再び歩きだしながらも、気分の悪さは消えなかった。
私の考え過ぎなのかもしれない。でも三神さんには、不審な点が多過ぎる。
雪香の関係のトラブル続きでさえ無かったら、もっと早く違和感に気付いていたと思う。
そこまで考えた瞬間、心臓がドキリと跳ねた。
まさか、三神さんは雪香に関わりが有る?
そういえば引っ越して来た時期だって、雪香が消えた後だった。
海藤の様に、何か雪香と関わりを持っていたのだろうか。
妄想が膨らんで、段々それが真実のように思えて来る。
アパートが視界に入って来ると、緊張で体が強張るのを感じた。
もし三神さんが居たらどうしよう。
いつも遭遇していた、ポストとその周辺を、少し離れた位置から隈無くチェックした。
誰もいないのを確認してから、一気に階段を上り部屋へ駆け込んだ。
しっかり戸締まりをして、シャワーを浴び落ち着いてから、今日見て来た物件の資料を開いた。
早く決めたいから、多少の欠点は妥協するしかない。
何度も資料を見比べ、実際見た部屋の様子を思い出しながら、一時間程悩みなんとか一方に決めた。
明日契約出来たらいいのに。時計を見るとまだ夜の八時前だった。
まだ電話が繋がるかもしれない。
スマートフォンをバッグから取り出し、不動産屋に連絡しようとしていると、ブザーの音が聞こえて来て、私はビクッと体を震わせた。
ドキドキとしながら、玄関に目を向ける。
誰だろう……このアパートには、モニターなんて付いて無いからここから相手を確認出来ない。
何かのセールスだろうか。
それとも……また雪香がやって来た?
蓮から引っ越しをすると聞き来たのかもしれない。理由は分からないけど、雪香は私と話したがっていた。
そろそろと音を立てずに玄関に行き、ドアスコープから外の様子を確認する。
人の気配は有るものの、死角に立っているのか見えなかった。
「……どちら様ですか?」
中に居るのは灯りでばれているだろうから、居留守は使えない。
仕方なくドアを開けないまま声をかけると、直ぐに返事が返って来た。
「遅くにすみません、三神です」
「え……」
まさか三神さんだとは思いもしなかった。一体、何の用で……。
「あの……何か有りましたか?」
ドア越しに問いかけると、三神さんがドアスコープの前に移動して来るのが見えた。
三神さんは、今日も私服姿だった。
「倉橋さんの手紙が紛れていたから届けに来ました」
言葉通り、三神さんは手に何通かの手紙を持っていた。
「……わざわざすみません」
私のポストに入れておいてくれたら良かったのに……。
そう思ったけれど、わざわざ届けてくれた物を受け取らないわけにはいかない。
気は進まなかったけれど、仕方なくロックを外しドアを開ける。
「こんばんは……あれ、もう休むところだった?」
部屋着姿の私を見て、三神さんが言った。
「……いえ、手紙ありがとうございました」
短く答えて手を伸ばす。けれど、三神さんは直ぐに手紙を渡してくれなかった。
「三神さん?」
「……倉橋さんは昨日送別会だって言ってたよね?」
「そうですけど」
余計な世間話などしたく無かったから、つい素っ気ない返事になってしまう。
「これからどうするの?」
「……まだはっきりと決めて無いんです」
探られているようで不快だったけれど、引っ越す迄は揉めたくない。
質問に答えると三神さんはゆっくりと頷きながら、手にしていた手紙を差し出して来た。
「すみません」
私は白い封筒を受け取った。
素早く差出人を確認すると、三神早妃と書いてあった。知らない名前、でも三神って……。
私は眉をひそめながら、封筒を裏返した。
宛名は、三神孝史。心臓がドキンと大きく跳ねた。
強い不安に襲われながら封筒から、目の前に立つ三神さんに視線を移す。
その瞬間、冷たく暗い目と視線が交わった。
背筋が、凍るような思いになる。
「……どういうこと?」
やっとの事で出した声は、掠れて聞き取れない程だった。
それでも三神さんには伝わったようで、冷たい目はそのままに答えて来た。
「その名前、覚えが無い?」
「名前って……知らない……でも三神さんに関係有るんですよね?」
本当に、全く覚えが無かった。
「……やっぱりね」
三神さんは呆れた様な表情になった。
彼が何を言いたいのかまるで分からない。この行動の意味も。
「思っていた通りだった。倉橋さんは他人に関心無いからね」
冷酷な目で見下ろされて、息をのんだ。
「……あの、よく分からないので……失礼します」
波風立てたくないと、気を使ってる余裕はもう無かった。勢いよくドアを閉めようとすると、驚く程の速度で伸びて来た腕に阻まれる。
「……!」
このドアを開けるべきじゃ無かった。
取り返しのつかない過ちを犯したんだと気付き、足が震えた。
「……退いて!」
なんとかドアを閉めようとしても、びくともしない。
「会社を辞めたなら、君を気にする人はもう居ないね」
聞こえて来た感情の無い声に、私は目を見開いた。
確かに、今私を気にかけてくれる人は一人も居ない。
新しい仕事が始まる、半月後迄は誰とも関わらない。空白の時間。
その事実に気付き、大きな不安に襲われた瞬間、目の前が真っ暗になった。