テラーノベル
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「BLACK CAT」での慌ただしくも、どこか夢見心地だった時間が終わりを告げる。
深夜の静寂に包まれた街を抜け、ナオミのマンションへと戻った頃には、日付はとうに変わっていた。
「先にお風呂、入ってきなさい。あんた、ずっと立ちっぱなしだったでしょ」
ナオミの言葉に甘え、穂乃果は一人、浴室の湯船に身を沈める。立ち上る湯気が、強張っていた筋肉をゆっくりと解きほぐしていく。指先を見つめれば、さっきまで洗っていた皿の感触や、湊に整えてもらった髪の余韻が、まだ確かな熱を持って残っている。
(私、ちゃんと働けてたかな……)
直樹の隣では、何をやってもダメだと言われ続けてきた自分。けれど今夜は誰かの役に立ち、誰かと共に笑い、ナオミや湊に「居ていい」と許された。
石鹸の香りに包まれながら、自分自身の肌をそっと撫でてみる。直樹のために地味に押し殺していた「安住穂乃果」を、お風呂の熱と一緒に洗い流していくような——そんな夜だった、と思った。
風呂上がり、火照った体に部屋着を纏い、リビングへと向かう。ナオミはまだ着替え中なのだろうか、室内は静まり返っていた。
ふと視界に入った大きな窓の向こう。高層階から見下ろす街の灯りが、零れた宝石のように瞬いている。
吸い寄せられるように、穂乃果はベランダへの窓を開けた。
「……っ」
思わず身震いするほどの、鋭い夜の冷気。季節は十一月。いくら暖冬で昼間は二十度まで上がるとはいえ、火照った肌には冬の足音すら感じる冷たさが容赦なくまとわりついてくる。
けれど、今の穂乃果にはその寒さがどこか心地いい。キンと冷えた空気を肺いっぱいに吸い込めば、職場の噂も、直樹への澱んだ嫌悪感さえも、真っ白に浄化されていく気がした。
「……綺麗」
白く濁る吐息が、夜の闇へと溶けて消える。
「……そんな格好で外にいたら、湯冷めするわよ」
背後から届いたのは、少し湿り気を帯びた、けれどいつになく柔らかな声だった。
振り返ると、そこには髪を下ろし、厚手のバスローブを無造作に纏ったナオミの姿。
バーで見せる完璧な「女王」の姿ではない。化粧を落としたその顔は、街の灯りの中でいつもと違う輪郭を持っていて、穂乃果は思わず視線を外せなくなった。
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