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ウーヴェが最近はリオンの足となっているAMGで実家に戻った時、門を開けて欲しいと連絡をした直後から玄関前の階段では大騒動が起きていた。
帰宅前にウーヴェは朝起きたら目の不調が解消されていたことをレオポルドに電話で短く伝えていたのだが、寝起きの不機嫌さを一気に吹き飛ばしたギュンター・ノルベルトがすぐに迎えに行くからと、ハンナが用意した朝食を子どものように掻き込んで危うく喉を詰めそうになり、そんな兄を呆れたどころか冷め切った顔で見つめたアリーセ・エリザベスが今からリンゴのタルトを焼くと言い出して周囲を呆然とさせていた。
そんな兄妹をやれやれと見守っていたヘクターとハンナだったが、ウーヴェが間もなく帰ってくると分かった瞬間からそわそわし始めて落ち着かず、イングリッドとレオポルドに笑われていたが、一人少しだけ冷静に事態を見ることが出来るミカの目にはこの部屋にいるすべての人間が落ち着きをなくして舞い上がっているようにしか見えなかった。
そんな家族の浮かれ気分を知ってか知らずか噴水を少し回り込んだところで車を停めたウーヴェは、運転用のサングラスを外してドアを開けいつものように眼鏡を掛けようとするが、それを必要としていた己はもういなくなったと気付いて思案するものの理由はともかく長年掛け続けているものを外すのも何やら気恥ずかしさを覚えるため愛用の眼鏡を掛けて運転席から降り立つと、階段の上の手すりに身を乗り出したギュンター・ノルベルトに名を呼ばれて顔を上げる。
「フェリクス! 目が元通りになったというのは本当か!?」
「ああ。……ノルの顔も、ちゃんと、見える」
目は見えるようになったが兄との会話はやはりまだまだ緊張感を覚えるもので、何となく羞恥を感じつつギュンター・ノルベルトを見上げると、その兄の身体を手すりに押しつけるように背中にのし掛かったアリーセ・エリザベスが今からリンゴのタルトを作るから早く上がってきなさいと笑い、ウーヴェの顔に苦笑とそれ以上の笑みが浮かぶ。
こうして己の帰宅を心待ちにし笑みを浮かべると同じように笑って出迎えてくれる二人を見上げ、幼い頃もそうだったがまたこれからこの二人をはじめ父や母との関係も変化していくのだと胸中で呟いたウーヴェは、階段の先で待っている二人に目元にだけ羞恥を残した顔で笑いかける。
「おはよう、ノル、エリー」
「ああ、おはよう」
「おはよう。お帰りなさい」
先日のように三人で肩を並べて廊下に進むと涙で顔をぐしゃぐしゃにしたヘクターとハンナ夫妻が出迎えてくれていて、この二人の涙には弱いとウーヴェが左右の兄姉に告げた後、大きく一歩を踏み出して二人の肩に同時に手を回す。
「ヘクター、ハンナ、おはよう。……いっぱい、心配を掛けた」
もう目もちゃんと見えるようになったし今のようにギュンター・ノルベルトともまだ緊張するが普通に話せると笑って肩を撫でると、己の腕の中で二人が何度も頷く。
「ええ、ええ、ウーヴェ様。良かった。本当に、良かった」
仲の良かった家族が前のような関係に戻れる姿を目に出来て嬉しいこと、目がちゃんと見えるようになったことも嬉しいと泣きながら笑うハンナの涙を手で拭ったウーヴェは、明日の予定について話があると二人の肩を抱きながらリビングに行こうと歩き出す。
リビングでは他の家族と同じように駆け寄って抱きつきたい衝動を堪えているイングリッドとそんな妻の気持ちが手に取るように理解出来るレオポルドがソファに座っていたが、ウーヴェがヘクターとハンナと共に入ってきた途端、レオポルドが立ち上がって鬼気迫る表情でウーヴェの前に立つと、大きな掌を白い髪にそっと乗せもう目が見えているんだなと再確認の問いをする。
「ああ。もう、大丈夫」
父さんにも心配を掛けたと笑ったウーヴェは己の髪を撫でていた父の手が微かに震えていることに気付き、長年接触を断ってきたことと心配をかけ続けてきたことへの反省と感謝の思いを改めて口にすると父の口からは手と同じで震えながら気遣う声が流れ出す。
「俺よりもリッドがずっと心配していたからな」
長年の確執も今回の目の不調についても誰よりも心配していたのはお前の母だと彼女を見やって告げたレオポルドは、何を話しているのか気になるが自ら近寄ってこない妻に笑いかけ、母にちゃんと話をしてこいとウーヴェの背中を押す。
「母さん……心配を、かけました」
「もう、良いのですね?」
「うん。もう大丈夫だ」
事件のことも目のこともそして誰よりも胸を痛めていたであろう父と兄とのことについてももう大丈夫だと幼い頃と変わっていない笑みを浮かべて頷くと、イングリッドが手を伸ばしてウーヴェを抱きしめ、静かなその抱擁にウーヴェもただ黙って頷いた後母の背中に腕を回す。
言葉ではなくこうして触れあうことからももう大丈夫だと分かって欲しいと思うウーヴェの気持ちはしっかりと母に伝わっていて、離れた後にそっと涙を拭ったイングリッドは、ウーヴェの額に優しくキスをしながらすべてリオンのお陰だと笑いウーヴェも素直にうんと頷く。
「全部……あいつのお陰だ」
こうして心穏やかにここにいられるのもすべてリオンのお陰だと目を伏せ、まださすがにレオポルドやギュンター・ノルベルトと話をするのは気恥ずかしいがそれでも前とは全く気持ちが違うことが嬉しいとも告げると、イングリッドの優しい手がウーヴェの髪を撫でる。
「そう。……そういえば、レオから聞いたけれど、明日あの教会に行くの?」
「ああ、うん。ハシムをトルコに連れて帰ることになったから、メスィフと一緒に立ち会ってくる」
あの事件の最中、事情はともあれ存在してくれただけで救われていたし最後まで見届けたい気持ちから立ち会いを希望したこと、これからも墓参りはしたいがトルコに行くことは厳しいだろうから自宅に写真を飾ることを伝えたウーヴェにイングリッドが何度も頷き、あなたが決めたのならばそうしなさいとウーヴェの決断を優しく支持する。
ただイングリッドにとってはハシム以上に複雑な感情を持つ女性がまだその教会の墓地に眠っている為、それを問いかけるべきかどうかを思案するが今ならば大丈夫との思いから己の疑問を口にする。
「ウーヴェ、あなたの……お母様の墓はどうするの?」
その言葉に籠もる感情は複雑なもので聞かされたウーヴェにとっても言葉では表しきれないものだったためか、今はまだ分からないがとにかく明日教会に行ってくるとだけしか答えられなかった。
「そう。気をつけて行ってらっしゃい」
己の身を常に案じる母の言葉に頷いたウーヴェは、ギュンター・ノルベルト達が部屋に入ってきたことに気付いてソファに向かう母をじっと見つめるが、腿の横で手を握った後、母の横に大股で歩いて行き小首を傾げて見つめてくる母を安心させるように笑みを浮かべる。
「そのことについてはノルとも相談する。でも……俺の母さんは……母さんだけ、だから」
もしかするとこの先遠く離れたあの墓地で眠る彼女のことを母と思う日が来るかも知れないが、その日が来たとしても自分の母はイングリッドだと照れたように口早に告げると、彼女が両手で口元を覆い隠す。
ウーヴェ自身は聞かされていないために知る由はないが、遠い昔ウーヴェがこの家にやってきてからのことを思い出したイングリッドが堪えきれないのか顔を背けると、事情を察したレオポルドが妻の肩を抱いて宥めるように髪に口づける。
「リッド」
「……大丈夫、大丈夫よ、レオ」
ウーヴェの言葉が嬉しかったことと今までのことでホッとしただけと笑みを浮かべる妻の頬にもキスをしたレオポルドがそっとソファに促すと、家族がソファに勢揃いする。
その一人一人の顔を見たウーヴェが小さく深呼吸をした後、昨日新たに友達となったメスィフからの願いと己の思いをしっかりと伝えると、それぞれの顔に長年感じていた思いが表れる。
ウーヴェが長年彼の墓に参ることをあまり良しとしていなかった面々には安堵の色が、そう思いつつもウーヴェの気持ちを最優先に考えてきた母と姉の顔にも安堵の色が浮かんでいて、最後にヘクターとハンナを見たウーヴェは、二人には本当に世話になったと頭を下げると二人が慌てて首を横に振る。
「世話だなんて。ウーヴェ様がいらっしゃることは本当に嬉しいことでした」
ただあの事件に囚われている顔を見るのは辛かったと素直な思いを口にするハンナにヘクターが頷くと、次からは休みになればリオンと一緒に遊びに行っても良いかとウーヴェが言葉を繋いだためそれに対しても二人は大きく何度も頷く。
「ええ、ええ。それはもちろんです、ウーヴェ様」
おやすみの時にはぜひ遊びに来て下さいと頷かれてありがとうと返したウーヴェは、ここにいる間も目の不調のこともありロクに二人の相手が出来なかったことも詫びるとこれもまた二人が気にするなと笑顔で首を振る。
己の言動がその人を結果的に傷付けていたとしても皆笑顔で受け入れてくれていたのだと改めて気付かされたウーヴェは、最も傷付けてきただろう遺伝上と戸籍上の父を見ると二人がほぼ同じ表情で見つめ返してくる。
「この間は泣いてしまって、ちゃんと、話をしてなかったと思った……」
そんな前置きをしなければならない程まだ緊張感を覚える二人に正対し、それでも自らの言葉で思いを伝えようと顔を上げたウーヴェに二人がまるで会社の重要な会議に臨むような顔つきになる。
「……お前は悪くないと言ってくれたけど……あの時、ちゃんと話をすれば、二人にも皆にも長い間心配をかけなくてもすんだと思う。許して、欲しい」
事件の被害者だから悪くないと言ってくれるがあの時自分が脅されていたことを言えずに一人で抱え込み逃げ出すように家を出てしまわなければもっと違った未来になっていたのに、それをする勇気がなかったことを許して欲しいと頭を下げると、ギュンター・ノルベルトが一度口を開いた後、やるせない溜息を吐いて腕を組む。
「ずっとずっと、避けてきたことも、許して、欲しい……」
どういった形でそれを償えるのかは分からないがこれからは己で考えて見せられるようにしたいと、先日ただ一人で抱え込んでいたことをリオンに暴かれた後の狂躁とも思える顔からは想像出来ない程落ち着いた様子で二人を見ると、ギュンター・ノルベルトがもう一度溜息をつき、償いなど必要はない、元はと言えば己の身から出た錆なのだからとウーヴェの言葉から自らも反省するべき所はするべきだと自戒の言葉を零すが、もしもお前が許してくれるのならと言葉を切ると遠い昔に見つめていた彼女の面影が残る顔を正面から見つめ、時間が掛かっても良い、いつになっても良いからいつか彼女を許してやって欲しいと告げると、ウーヴェ以外の家族の口から何ともいえない溜息や呆れにも似た思いが零れ落ちる。
「……いつか、そう、出来ればと、思う。ただ……今はまだ、難しい」
先程イングリッドと話をしたことを思い出しながらやや俯いたウーヴェだが、ハシムの墓を改葬する際彼の写真を貰って家に飾ることにしたようにいつか彼女の写真もそこに飾れるようになればと、今度もまた真っ直ぐにギュンター・ノルベルトの顔を見ると、時間が掛かるかも知れないが最良の医者に治療を委ねようと思うと笑い、その医者が何を指しているのかを理解したギュンター・ノルベルトの顔に家族ですら驚くほどの穏やかな笑みが浮かび、納得したことを教えるように何度も頷かれて安堵する。
「彼女は名医だからな。任せておけば大丈夫だな」
「……そう、だと思う」
時という医者は本当に名医だと頷く兄にウーヴェも同意を示し小さく息を吐いた後、ハシム以外の墓について改葬はどうすると問いかけるが、これに対しての家族の意見は皆反対というものだった。
家族が反対する思いも理解出来、頷きつつギュンター・ノルベルトを見れば己の思いをこの場で口にするつもりはないようで、それをしっかりと見抜いたウーヴェはそれ以上何も言わずに今度はヘクターとハンナを見つめれば、二人が何やら思案しているように目を伏せたため、名を呼んで先を促すと家族の問題も解決したから自分たちはもう満足だ、そろそろ家に帰るとヘクターが切り出しハンナも頷く。
「もう帰るのか? ずっとここにいれば良い」
二人の言葉に真っ先に反対の声を上げたのはギュンター・ノルベルトで、実の両親に対するもの以上の思いを持っているからかもっともっとゆっくりすれば良いと二人に翻意を促すが、家の様子も気になるし何よりもハンナの体調も気になることを伝えると全員が息を飲んで口を閉ざしてしまう。
「ハンナはウーヴェ様やギュンター様らが前のようになって下さったのを見られただけで満足です」
もう十分に満足した、これ以上は何も望むものがないと笑う彼女にギュンター・ノルベルトが拳を握って腿に押しつけて込み上げる感情を堪え、そんな兄の様子に妹も前髪を掻き上げて顔を背けるが、夫がいてくれて良かったと呟きながらその腕に顔を押しつける。
「ハンナ」
そんな兄と姉の様子を見つつも彼女の前に膝をついてその手を取ったウーヴェは、帰る前に是非とも俺の我が儘を聞いて欲しいと彼女を見上げ、我が儘と呟かれて目を細める。
「もし二人が良かったら俺の家に来てくれないか?」
「ウーヴェ様の家ですか?」
「ああ。よく考えたらまだ来て貰ってなかっただろう?」
あれだけ世話になってきたのに家に一度も呼んでいなかったことを許してくれと詫びて皺だらけのハンナの手を何度も撫でたウーヴェは、だから今日はそのお礼ではないが家に来て泊まって欲しいと二人を見上げて伝えると、躊躇いがちな声が本当に良いのかと返してきたため、黙って頷いて今度はヘクターの手も取り同じように何度も手の甲を撫でる。
「リオンが戻って来たら一緒に食事をしよう。リオンも喜んでくれると思う」
「ありがとうございます、ウーヴェ様」
ヘクターの声にウーヴェが頷き、そういうことなので二人を今日家に招いてそのまま泊まって貰うこと、その後は自分が二人をあの村の家まで送っていくことを父や母に告げると、兄と姉も己の感情をひとまず抑えてその意見に賛成してくれる。
「そうね、それが良いわね」
「そのままハシムの改葬に立ち会ってくる」
二人が暮らす家がある小さな村はウーヴェの事件が終結した教会がある山の麓だからウーヴェが二人を送ることについて何も反対はなかったが、事件のことで長年悩んできた家族にとって改葬というある意味重要な事態をウーヴェ一人で経験することへの不安がどうしても拭い去れなかった為、大丈夫だと分かっているが心配してしまうと素直な思いを母が吐露する。
「うん。母さんがそう言うのも分かる。ただ……もう一人で大丈夫だし一人で歩けない子どもじゃないとリオンなら言うと思う」
だからその思いに応えたいしまた自分でもそう思うと母を安心させるよりも己に言い聞かせるように思いを口にしたウーヴェに父が真っ先にその通りだと頷き、最後には母も認めるように頷いて二人を頼むと笑みを浮かべる。
「あなたが大丈夫と言えば……きっと大丈夫なのよね、フェル」
「ああ。もう、本当に大丈夫だ」
リオンの言葉を借りれば犯人達の思惑に長年踊らされてきた自分たちだが、もうそろそろケリを付けても良いだろうしその機会が訪れたんだとアリーセ・エリザベスに頷くと、ギュンター・ノルベルトが何度か深呼吸をした後に行っておいでとウーヴェの背中を押す。
「行って、事件を完全に終わらせておいで、フェリクス」
そうしてケリを付けた後自分たちの前にまた戻って来てくれれば良い、その時やはりまだまだ認めたくはないがリオンと一緒に戻って来なさいとも告げると、ウーヴェが素直に頷きそういうことなので準備が出来たら家に帰ろうとヘクターとハンナに笑いかける。
「良かったらハンナの料理を教えてくれ」
「ええ、ええ」
ウーヴェの言葉にただただ頷くヘクターとハンナの手をもう一度撫でた後、何かを思い出した顔で顎に手を宛がったウーヴェは、黙って妻の肩を抱いて様子を見守っていたミカへと顔を向け、明日の予定はと問いかける。
「今のところ何もないよ」
「……もし良かったら、明日の夜か明後日にでも、その……」
皆の視線が集まる中で逡巡している証に小さな声でヴィーズンに行かないかと問いかけると、義兄の顔が一瞬で明るくなる。
「良いのかい?」
「……リオンが、あいつがうるさい、から……」
一度ぐらい行っておかないといつまでも言い続けそうだし下手をすれば一生言い続けられかねないと目尻のホクロを赤くして顔を背けると、確かにあいつならば言いかねないとレオポルドが腕を組んで何度も頷く。
「メスィフも行きたいと言ってる、し……」
だから良かったら皆で行かないかと提案すると家族がそれぞれ考え込むように腕を組んだり顎に手を当てたりするが、やはりリオンが行きたがっているからと言い訳じみた事を呟くウーヴェにレオポルドがギュンター・ノルベルトに何やら声を潜めて問いかける。
「うちと取引のある会社でビアツェルトを出している所はなかったか?」
「……ヴィーズンツェルならあった気がするな」
父と兄の会話にウーヴェが小首を傾げてどうしたと問いかけると大手が提供しているテントは人が多すぎるから小さなテントに行かないかとレオポルドが提案し、それでも良いとウーヴェが頷いたのを見たギュンター・ノルベルトが携帯を取りだして秘書であり有事の際にはボディガードにもなる友人に電話をかける。
「ヘクター? 俺だ。少し調べて欲しいことが出来た」
『休みなのに仕事の話じゃないだろうな、ギュンター』
友の声が多分にからかいを含んでいることにギュンター・ノルベルトも笑みで返し、ヴィーズンのテントに会社関係で伝手がないかと問いかけ調べて連絡が欲しいと伝えると、何かを察したらしいヘクターが少し考えた後に了解と答えた為通話を終える。
「ヘクターの返事待ちになるが行けそうならそのテントに行こう。無理なら適当に入れば良い」
人出が多いために騒々しいだろうがたまには良いだろうと笑うとウーヴェも悩みつつも行くと決めた以上は楽しもうと気分を切り替えて義兄を見ると、ここ数日で最も楽しそうな顔をしていて、もう一人誰よりも喜んで歓喜の舞を踊りかねない恋人の顔を脳裏に描く。
「リオンにも話しておく」
「ああ。……明日、ヘクターとハンナを頼んだぞ、ウーヴェ」
ウーヴェの言葉に父が頷き長年自分たちの面倒を見てくれた恩人の世話を頼むとも告げると、出来る限りの事はすると頷いて立ち上がり高い天井を見上げて溜息を一つ。
「……こうして、皆と普通に顔を合わせられるようになれて、本当に良かった」
その独り言はこの部屋にいる者すべての気持ちを代弁しているようで、それぞれが長かった冬の時代がようやく終わりを迎えて春に向かっているのだと実感すると、ごく自然に笑みを浮かべてしまうのだった。
今日もウーヴェの父の家ではなく自宅に帰ってこいと連絡を受けたリオンは、事件が発生したが偶発的なもので犯人となってしまった人物の事情聴取も驚くほど簡単にすんだため、同僚達と拍子抜けするほどの簡単さに口笛を吹いて感謝するほどだった。
その事件を送検にまで漕ぎ着けるのはマクシミリアンの仕事だったため、今日は帰りますと元気いっぱい-朝出勤したときは打って変わったほどの元気さで手を上げてコニーらに何かを言われる前に職場を飛び出し、駐輪場に停めてある愛車の自転車に跨がると浮かれ気分でペダルを漕ぐ足に力を込める。
ウーヴェから聞かされたのは自宅に帰ってこい、美味しいものを用意しているとの言葉だけだった為、今日の晩飯は何だろうなと自作の晩飯期待ソングを歌いながら帰路につく。
自宅アパートの前で自転車を降りて肩に担いだリオンは、警備員に最近帰っていなかったようだが秋休みかと問われて一つ頷き、今日から通常営業だと笑ってフロアに入り、エレベーターに乗り込む。
晩ご飯は本当に何だろうと期待に胸を弾ませたリオンを乗せた箱はあっという間に最上階に辿り着き、自転車をドアの横に置いてベルを鳴らすと、少しの間を置いてリオンを招き入れるようにドアが内側に開く。
「お疲れさま、お帰り、リーオ」
「ハロ、オーヴェ! 今日も頑張ってきた!」
「そうみたいだな」
どうやらご機嫌だったようだと苦笑するウーヴェの頬にキスをしたリオンはウーヴェからのキスを同じく頬に受けて腰に腕を回すと今日の晩飯は何と期待に満ちた声で問いかけるが、長い廊下の先に小さな姿を発見し何度か瞬きをした後、ウーヴェのこめかみにキスを残して駆け出し彼女の身体に腕を回してしっかりと抱きしめる。
「ハンナ! 来てたのか!?」
「ウーヴェ様が招待してくれたんだよ」
「そっかー……てことは、今日の晩飯は……」
「ああ。ハンナが作ってくれた」
「いやっほぅー! すげー楽しみ!」
ウーヴェの予想通りリオンが飛び上がって喜んだことにハンナと顔を見合わせるが、いつまでも浮かれているのを見ると少しだけ意地悪をしたくなり、眼鏡の下-やはり眼鏡を外すことは出来なかった-で目を眇めたウーヴェは、普段お前が飛び上がって喜ぶような料理を作れなくて悪かったなと呟くと拳を突き上げた姿でリオンが固まってしまう。
「またまたー。そーんな可愛くないことを言うのはこの口かー?」
解凍された途端腰に手を宛がって上体を折り曲げて睨め上げるリオンに今度はウーヴェが上体を反らしてしまうが、鼻をむんずと掴まれて目を白黒させる。
「ハンナ、オーヴェが可愛くねぇことばっか言うんだぜー」
「まあまあ」
リオンの泣き言にハンナが楽しそうに笑って二人の背中をぽんと叩くと食事の用意が仕上がるのはあと少し時間が掛かることを伝え、リオンが先にシャワーを浴びてくると残してベッドルームに駆け込んでいく。
「ウーヴェ様、今日は本当によろしいのですか?」
「うん? ああ。ヘクターと一緒にベッドを使ってくれ」
ゲスト用のベッドは一応ある事はあるがそれで二人に寝てもらうことは出来ないので今リオンが飛び込んだベッドルームを使って欲しいと告げてキッチンに向かったウーヴェは、それではウーヴェ様はどうすると問われるがリオンの部屋のベッドで二人で寝るから問題ないと笑い、食事の仕上げに掛かろうとハンナの肩を撫でるのだった。
シャワーを浴びてすっきりとしたリオンを待っていたのは滅多に使わないがさすがに今夜は使うことにしたダイニングルームのテーブルに並ぶ何種類かの料理で、四人でそれを堪能した後、リビングに移動してウーヴェは食後のバーボンを、リオンはスプリッツァを飲みながらハンナとヘクターから家族についての話や彼女らが歩んできた人生についての話を聞いていた。
こんな穏やかな時間を持つことが出来て嬉しいとウーヴェの酒が無くなりヘクターもソファでうつらうつらとし始めたのを見たハンナが小さく笑い、今回自分の病状の報告を兼ねてやってきたが来て良かったと目尻に浮かんだ涙を指先で拭いたため、リオンが黙って立ち上がるとソファ越しにハンナの身体に腕を回す。
「オーヴェの目が調子悪かったからあまり思い出作り出来なかったんじゃねぇの、ハンナ?」
「そんなこと無いよ、リオン。ウーヴェ様が前のように皆様と仲良く出来るようになっただけでハンナは満足だよ」
「そっか。じゃあハンナにとって良い思い出になったか?」
「ええ、ええ、もちろん」
末期ガンだと告知され手術を受けることも出来ない為に自由な時間が出来、思い出深い屋敷に逗留できたことは本当に嬉しいことだったと笑い顎の下で交差するリオンの腕を撫でたハンナは、明日ウーヴェに送ってもらうが改葬が無事に終わるように祈っているとも告げるとウーヴェが礼を言いつつ頷く。
「明日送っていくのか?」
「ああ。午後から教会に行くだろう? 二人がもう帰るというから送っていくことにした」
「そっか」
今までずっと世話になっていたそのお礼がようやく出来たと笑うウーヴェだったが、ハンナの病気のことを思い出すと自然と笑みが薄れていき、彼女の前に午前中のように膝を突いて見上げるとそのまま伸び上がってハンナを抱きしめる。
「……身体、痛いところは無いのか? 本当に家でヘクターと二人で良いのか?」
「大丈夫ですよ、ウーヴェ様」
それにレオポルドも定期的に人を行かせると約束してくれたことを伝えると、ようやくウーヴェが納得したように頷く。
「……ヘクターも寝てしまったようですし、そろそろ私も寝ましょうかね」
「ああ、そうだな」
夜更かしは身体に良くないと笑って立ち上がるハンナにウーヴェが自然と手を差し出すが、私は大丈夫だからヘクターを頼むと笑われ、ソファで眠り込む寸前のヘクターを起こすと眠そうに目を瞬かせる。
「ほら、あんた、ベッドに行くよ」
「……ん? あ、ああ、そうだな」
眠気で足下がおぼつかないヘクターを横から支えてリビングを出て行くハンナを見送ったウーヴェは、リオンが背中から抱きついてきたことに気付いてその腕にもたれるように首を傾げると髪にそっとキスが落ちてくる。
「……後少ししか残ってねぇけどさ、忘れないような思い出作ろうぜ、オーヴェ」
今回、ウーヴェの過去を暴いて家族間の溝を解消することになったが、そもそもの発端は彼女が末期ガンを患った一報を受け、残された時間を一緒に過ごせたらとの思いからウーヴェが実家に戻ったことだったが、彼女のことよりも自分たちのことばかりに目がいってしまい、本当に彼女との時間を大切に過ごせたのかという後悔がウーヴェの中に沸き起こってくる。
その気持ちをリオンが読み取ったのかどうなのか、リオンの腕にしがみつくように腕を回したウーヴェをしっかりと抱きしめ、ハンナの最期が笑顔であれば良いと多くの知人や友人、そして家族を喪った者特有の悲哀を込めて囁くと、腕の中でウーヴェが身を捩ってリオンの腰に両腕を回して肩に額を押し当てる。
「……リーオ……っ」
「だからさ、明日は二人を送って行って、ハシムの新しい写真を貰ったらすぐに帰って来いよ。俺は一緒に行けないからここでお前が帰ってくるのを待ってる」
この家でお前の帰りを待っていると告げてウーヴェの背中を宥めるように撫でたリオンは、俺たちもそろそろ寝ようと囁きリビングから廊下に出てリオンの部屋へと向かう。
二人が肩を並べるだけではなくこうしてぴたりと寄り添い、これからも起きるであろう出来事を乗り越えて行くことを簡単に想像させるその後ろ姿を、ベッドルームから顔を出したハンナとうたた寝をしていた筈のヘクターがが微笑ましそうな顔で見守っているが、二人はそれに気付かないのだった。
この日、家に初めてヘクターとハンナを招いたが、食事の時に自然と賑やかにしてくれるリオンとそんなリオンを見ながらヘクターとハンナが笑って過ごし、リビングでも穏やかなゆったりとした時間を持てたことをウーヴェとリオンは後々になっても忘れることは無かった。
だがそれは何も二人だけの思いでは無かったようで、ヘクターもハンナもレオポルド達より一足先に眠りに就くその時まで決して忘れることはないのだった。