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薄く目を開ける。
麻里子はいつのまにか、藍色の座布団の上で横になっていた。
「ーーーまあ、そうだよな」
ぼやけた意識に、誰かの低い声が響く。
「でもやっぱり営業が査定するとさ、傷や事故歴をわざと見落とすってのも確かにあるんだよ」
温かい誰かの手が、麻里子の頭を撫でる。
「俺もその気持ちはわかる。ちょっとでも高く値段付けてほしいもんな」
懐かしい声。
「実際に下取り車を見てみると、事故歴があったり、査定表にプラスオプションでナビって書いてあるのに外されてたりさ」
優しい手が、麻里子の髪の毛に沿って上から下に撫でる。
何度も、何度も。
「だから査定専門の人間を置いて、イベントを中心に査定させようっていうのが、今回の専務の提案でさ―――」
「ああ、なるほど」
少し離れたところで大貫の相槌が聞こえる。
「その間、営業は商談に集中できるし。中古車の分野での赤字は防げるし。悪いことばかりでもないんだよな」
自分のすぐ上で聞こえるこの声は。
宮内の声だ。
もう他の人間は帰り、二人だけ、酔っ払って寝入った部下の様子を見つつ、仕事の話をしているらしい。
結局、麻里子を最後まで心配してくれるのは、結城ではなく、宮内なのだ。
今頃、結城は何をしているんだろう。
もしかして、本当に坂井と一緒にいるのだろうか。
若くて。
気遣いもできて。
意外とガードが固くて。
見るからにいい子そうな。
飽きるほど毎日一緒にいるあの子と。
やばい。
泣きそう。
丸まって、腕で顔を覆う。
撫でていた手に力が入る。
泣いていることを宮内は気づいているらしい。
麻里子は思わずその手を取った。
「でも中古車の赤字を防ぐより、1台売れたほうが会社としては利益大きいのは間違いないけどな」
大貫に気づかれないようにだろうか、宮内がそのまま話を続ける。
この腹に響くような声が、耳に、体に心地よい。
握った手に軽く頬を摺り寄せる。
今、結城が坂井と一緒にいるなら。
何か如何わしいことをしているなら。
私だって―――。
麻里子はその手を両手でつかんで、胸に抱いた。
「ーーーでも新車一台より、中古車一台の利益の方が大きいって聞いたことありますよ」
(——————?)
「まあ、車種によるんでしょうけど」
(—————?!)
驚いて顔を上げる。
そこには麻里子に手を握られた結城が座っていた。
宮内は彼の向こう側に座っている。
びくんと起き上がった麻里子に、結城はぽかんと口を開き、見下ろしている。
「なんで――――いるの?」
口走ってから、『しまった』と思った。
そして、『しまった』という顔をしてから、また『しまった』と思った。
全てを察した結城の顔が凍り付いていく。
やばい。
気づかれた。
今まで、麻里子の頭を優しく撫でていてくれた手とは信じられないほどの力で、振りほどかれた。
「じゃ、俺、麻里子さんも起きたようなので帰ります」
結城は取り繕った声を出し、わざとらしく「よいしょ」と立ち上がった。
「おお。起きたか」
宮内が身体をずらして麻里子を見下ろした。
「じゃあ、帰るか」
宮内に続き、大貫も立ち上がる。
「結城」
大部屋から出て行こうとしている結城を呼び止める。
「私のことは送って行ってくれないの?」
「あはは。麻里子氏、パワハラ―」
大貫が笑いながら出ていく。
何かを察した宮内が二人を見比べ、軽くため息をつく。
彼は結城の肩に手を置くと、暖簾をくぐって大部屋を出ていった。
「ーーー結城」
二人きりになったここは、なぜか声が響くような気がした。
「なんですか」
結城が振り向かないまま言う。
「いつ、戻ってきたの?」
(いや、そんなこと、どうでもいいんだって。今のことについて、誤解をとかなきゃ)
――――誤解?
自分で思った言葉に違和感を感じる。
「坂井さんを送ってすぐ戻ってきましたよ。あなたはもう寝転んでましたけど」
結城がうなじを見せたまま、言葉を返す。
「ーーーーー」
「質問は、以上ですか」
やっと結城が振り返った。
「じゃあ、俺からも1つ、聞いていいですか?」
アルコールを一滴も含んでいない、まっすぐな視線。
「さっきーーー手を握ったとき、俺の手を、誰の手だと勘違いしてたんですか」
結城の夢を見てて。
寝ぼけてて結城の部屋だと思って。
結城の手だなーって嬉しくなって、握ったんだよ。
営業8年目。
調子のいい言葉も、取り繕う技も、人並みに身に着けてきた。
それなのに。
今、一番取り繕わなければいけない相手に、
今、一番適切な言葉が、
出てこない。
「……四年間、ずっと我慢してきました」
いつまでも黙っている麻里子に痺れを切らし、結城が口を開いた。
「女性にとって貴重な時間を犠牲にしてでも、あなたの彼氏というポジションに留まりたかった。 でも、さっきので、決心がつきました」
結城は視線をずらさずにはっきりと告げた。
「俺は、あなたを信用できない」
結城の冷たい視線が、突き放した言葉が、麻里子の胸を刺す。
「そんな………待ってよ」
麻里子はやっと出た声を、言葉を、手繰り寄せる。
「私、宮内課長とはなにも……」
「宮内店長ですよ、麻里子さん」
結城がふっと笑う。
「麻里子さんの時間は、止まってるんですね。宮内課長と付き合ってた当時で」
「ーーー違う」
「何が違うんですか!」
結城が目を見開く。
「…違うよ。私、結城と付き合ってから、本当に、宮内店長とは何もないんだよ?」
結城がその顔のまま言う。
「偉そうに言わないでもらっていいですか?
あんたと宮内の間に何もなかったのは、あんたが宮内に抱かれなかったんじゃない。
宮内があんたを抱こうとしなかっただけだ」
結城は一歩麻里子に近づいてさらに続けた。
「宮内だけじゃない。あんたは、俺や宮内が守ってやらなければ、とっくにヤラれてるんですよ。
松田にも、大貫にも、重原にも、他の営業やエンジニアにも!」
「――――なに、それ」
「この四年間、本当に守ってもらった記憶はないですか?」
今までのことを思い出す。しかし思い当たることはない。
「ーーーもう、いいです」
結城はかくんと頭を落とした。
「責めたいわけじゃないです。 でも俺は、もうあなたを信用できない。 信用できない彼女と、結婚なんて考えられない」
ずっと言ってほしかった二文字が、こんな悲しい形で言われるなんて。
溢れてきた涙で、恋人が滲んでいく。
「……別れましょう。麻里子さん。つか、別れます」
恋人でさえなくなってしまった彼は、いよいよ溜まった涙で、見えなくなった。