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昨日と同じように見事な秋晴れの下、久しぶりにウーヴェの家から出勤したリオンは、恋人がまるで死んだように眠っていたために仕方なく駅前のお気に入りのインビスで手早く朝食を済ませ、警察署への道を煙草を銜えながら歩いていた。
その姿からは彼が刑事であると気付く人間はそうそうおらず、いるとすれば彼をよく知る者かもしくは世話になったことのある人間だけだった。
見た目と職業のギャップなど何処吹く風の顔で出勤したリオンは、ふわぁと大きな欠伸をしながら庁舎の階段を一段飛ばしに駆け上り、己の職場に向かう途中にすれ違う親しい同僚達に手を挙げ、さっさと目を覚ませと笑われる。
「・・・やっぱあれだよな、夜通しってのはもうさすがにキツイね」
もう俺も若くないって事かなぁと昔を思い出せばもの悲しくなると呟き、ドアを開け放って室内にいた人間に元気よく挨拶をする。
「グリュース・ゴット」
「おはよう。ねぇ、ちょっとリオン、あなた随分とお肌が艶々してるわよ?」
同僚の中で紅一点のダニエラが羨ましいと愛らしい唇を尖らせながら問いかけてリオンの前に立つと、彼女曰くの艶々している肌をつんつんと突いてくる。
「へ?艶々?」
「ええ。羨ましいぐらい。ねぇ、コニー」
「コラーゲンを腹一杯飲んだのか?」
今話題の美容食品でも食ったのかと、朝一番のコーヒーを飲みながら目を細めるコニーに首を傾げ、コラーゲンて何だと問えば、ダニエラの瞼が真っ平らになってしまう。
「これは違うわね。リオン、白状なさいっ!!」
「ぉわっ!?」
ダニエラが飛び上がるようにリオンの首に腕を回して白状しなさい、この二日間の休みでドクとデートをしたんでしょうと締め上げられ、ギブギブと近くにあったデスクを叩く。
「あー・・・そうか・・・どうだったんだ?」
薄々とは事情を知っているコニーとダニエラの手荒い歓迎に苦笑したリオンは、椅子を引いて後ろ向きに腰掛けると、彼らがいつも目にしている笑みを浮かべて頬杖を付く。
「んー・・・雨降って地固まるって感じかな?」
背もたれを軋ませながら笑うリオンに二人は顔を見合わせた後深々と溜息を吐き、聞くんじゃなかったと顔を歪める。
「で、ヴィーズンには行ったのか?」
マスビールが値上がりしたことを嘆いていたコニーだったが、逆にお前はどうだと問われて行ってきたと胸を張り、中で起こったケンカの仲裁に入って怪我をした事も告げると、もう一度どうだったと問われて無言で肩を竦める。
「ヴィーズンは当分行けないかもな。ほら、人混みが苦手だし、オーヴェ」
「それもそうね・・・でも折角なのに残念ね」
「本当にな」
それだけは残念だと肩を竦めた時、リオンの背後のドアが開いてヒンケルがやって来る。
「あ、クランプスだ、クランプス」
「ぷっ」
「誰がクランプスだ、馬鹿者!」
ヒンケルに対し、休暇時の恨みを晴らそうとするようにリオンがクランプスと叫べば、ダニエラとコニーが同時に吹き出し、ヒンケルの顔がみるみるうちに険しいものになってしまう。
「リオン、来い」
「えー、殴るしぜってーイヤです」
「当たり前だ!」
「ぃてぇ!!」
ヒンケルの拳から身を庇うようにダニエラの背後に回り込んだリオンだが、残念ながら彼女との身長差は20センチ以上もある為、全く隠れることが出来ずにヒンケルの拳が頭の上に落ちた衝撃にしゃがみ込むが早いか、拳を開いたヒンケルが襟首を掴んでそのまま引きずっていってしまう。
「助けてっ!クランプスに食われるっ!」
「お前など食えば食あたりになる!」
子どものようにじたばたと騒ぐリオンを煩い黙れと一喝したヒンケルを無言で見送ったダニエラとコニーは、リオンがいない間は本当に静かだったとしみじみと呟き、でもやはり物足りない日々だったとも囁き合ってお互い肩を竦めあうのだった。
殴られた頭を押さえながら恨めしそうにヒンケルを睨んだリオンは、こほんと咳払いをされることで表情を切り替え、デスク前で直立不動の姿勢を取る。
「ボス、先日はありがとうございました」
ヒンケルの気遣いがなければきっと自分は今でも行方を眩ました恋人を見つけることが出来ずに悶々とし、それどころか仕事に支障をきたすようなことをしでかしただろうと告げ、ありがとうございましたともう一度礼を言って椅子に座る。
「会えたのか?」
「Ja.ボスの読みの通り事件が解決したあの教会にいました・・・あの時教えてくれた刑事にも感謝です」
地元警察として事件に関わった経緯のある刑事の貌を思い浮かべ、情報を教えてくれて助かったと小さく笑えば、お節介なことをしたけど結果は良かったかとヒンケルが安堵の溜息を零す。
今回の一連の出来事の間、ヒンケルは滅多にみないリオンの激怒振りや落ち込み振りを目の当たりにし、日頃陽気で快活なリオンが心の奥底に押し殺しているもう一つの顔を見た事に驚きと奇妙な納得すら感じていたのだ。
リオン・フーベルト・ケーニヒという一人の若者の素顔を初めて見たような、そんな不思議な感覚を抱いていたが、これもまたリオンの持つ貌なのだろうと己を納得させていた。
そんな日々が漸く終わりを迎えそうだと安堵し、手を組んで顎を乗せて上体を乗り出すように椅子に腰掛けたヒンケルは、それでどうだったと総ての結果の話をしろと暗に告げ、リオンが腰掛けた椅子がくるりと一回転して元に戻るのを黙って見つめる。
「そう、ですね・・・ボスの読み通りだったんですが、気になったことが幾つか」
「気になること?」
「Ja.誘拐犯がどうして2時間近くもアウトバーンを走って逃走できたのか、事件が解決した後どうして担当していた刑事が聴取どころかウーヴェと面会すら出来なかったのか。後、何故、あんな大惨事とも言える事件の被害者がウーヴェだと誰も気付かなかったのか。その辺ですかね」
長い足を組んで肘を突いたリオンが上空を見ながら呟くと、ヒンケルも確かに言われてみればその通りだと溜息を零す。
「初めてウーヴェに会った時にボスは何も覚えていませんでしたか?」
「ああ。何処かで会ったと言う感覚すら無かったぞ」
もっとも、あの事件からもう20余年は経過するのだ。10才の子どもが年を重ねた姿など事件の資料として見かけただけでは一々覚えていないのが実状だった。
肩を竦めるヒンケルに同意を示したリオンは、それでもやはり何かが気になると呟いて顎に拳を宛い、一見しただけでは同一人物だと分からない程の変化なり何かがあったのかも知れないと呟いてヒンケルに先を促される。
「犯人の似顔絵でも手配写真でもそうですけど、人の印象って目の色や髪の色でがらりと変わりますよね。それなのかなって思ったんですけどね」
リオンの苦笑混じりの呟きにヒンケルが考え込むように顎に手を宛い、ダメだ思い出せないと呟くと同時にリオンがもうボケ始めた、介護ヘルパーを呼ぼうかと不気味な笑みを浮かべて見つめる。
「誰がボケたんだ?」
「ボス」
不気味な笑みを声に乗せて流したリオンの頭を軽く叩いたヒンケルは、もし気になるのならば先日のメモを参考に調べてみろと告げ、事件については調べないとリオンが笑った事を思い出して前言を撤回する。
「本人に直接聞きます。例え時間は掛かっても必ず教えてくれると約束しましたし」
昨夜交わした誓いの言葉を脳裏に響かせながら目を伏せたリオンを無言で見つめたヒンケルは、それならば俺は何も口出ししないがもうあまり周囲を巻き込むようなケンカはするなと、それだけは苦々しく思っている事を伝えるように呟き、今度オーヴェと一緒に飲みに行こうとリオンが誘ったために時間と場所をセッティングしてくれと頷く。
「リオン」
「何ですか?」
これからも仲良くしろなどと告げるのはどうも口幅ったい気がしたヒンケルは、何でもないと手を振って仕事に戻れと素っ気なく告げ、呼んでおいて何でもないなんてマジでボケ始めたかと嘯きながら出て行くリオンの背中目掛けてブロックメモを投げつけるのだった。
投げつけられたメモを難無く躱した後、頭の後ろで手を組んで口笛を吹きながら己のデスクに戻ってきたリオンは、興味津々な顔で見つめてくるコニーに首を傾げ、どうしたと椅子に逆に座りながら問い掛ける。
「あ、そう言えばさ、ヴィーズンのマスビールはやっぱり値上がりしてたのか?」
リオンにしてみれば当然の問いだったが、その問いがもたらしたものはコニーががっくりと両肩を落としてしまうというものだった。
「コニー?」
「・・・可哀想にね、ヘラが口を利いてくれないそうなのよ」
「へ?何だそりゃ?」
庁内一の愛妻家を豪語するコニーの愛妻、ヘラことヘレーネがどうやら御機嫌斜めなようで、ここ数日口を利いて貰っていないとデスクに突っ伏したコニーの肩を慰めるようにダニエラが撫でつつ苦笑すると、リオンが脳裏に何度か見た事のあるコニーの愛妻の顔を思い描いてくっきりと、それはそれは見事に眉間に皺を刻む。
「・・・原因は何なんだよ、コニー」
「コニーはマックス達とヴィーズンに行ったんだけど・・・」
どうもヘラに話をしていなかったらしく、家に帰ったコニーを待ち構えていたのは愛妻が燃やす嫉妬の炎だったらしい。
「さすがは嫉妬で有名な女神様の名前を持つ女だなぁ」
眉間の皺をそのままに嘯くように呟いたリオンの脳裏、めらめらと燃えさかる炎を背負ったふくよかな身体を揺らしながらコニーに詰め寄るヘラの姿が思い浮かび、一体あの女の何処が良いんだと失礼な言葉を言い放ち、じろりとヘイゼルの瞳に睨まれてしまう。
「ヘラは優しくて気立てがいい女なんだ。あの豊かなバストは最高なんだぞ」
「・・・窒息しそうだから俺はイヤだ」
コニーが己の妻の美点を捲し立てるのだが、女性の好みが決定的に違うリオンにしてみれば豊かなバストに埋もれて窒息してしまいそうな己を思い描くだけで夢で魘されそうだった。
「結婚してからちょっと太ったけど・・・それでも優しい事に変わりはない」
「まあコニーが幸せならそれで良いけど」
コニーの自宅に一緒に行ったことがあるリオンは、その時出迎えてくれたヘレーネの笑顔を思い出し、確かにあれはあれで可愛いのかも知れないと頬杖をつくが、やはり自分はどちらかと言えば標準体型の女性が好きだと口笛を吹く。
「昔はヘラも細かったよなぁ」
「そうだな・・・モデルをしていたぐらいだしな」
雑誌などでモデルを務めるほどの美人だったが、結婚してからはあっという間にいわゆる幸せ太りをしてしまったようで、今の彼女には昔の面影が殆ど無かった。
昔のモデル仲間で付き合いのある人は殆どおらず、外を歩いたとしても彼女だと気付く人はそうそういないと聞かされ、それ故家に引きこもりがちになっているとも教えられていたことを思い出したリオンは、椅子の背もたれを煩く軋ませながら脳裏に浮かんだ問いを口に出す。
「ヘラが昔のスタイルに戻ったら皆気付くかな?」
「どうだろうな?太っただの痩せただので面相も変わるし、彼女も仕事をしているときは髪を染めたりコンタクトを使ったりしていたからな」
まだ付き合っている時に撮影が終わったばかりの彼女と待ち合わせていたコニーは、彼女が生まれ持った美しいブロンドが蛍光に近いピンクに変化しているのを見た時はさすがに誰だか理解出来なかったと苦笑し、あの頃の彼女は文句なしに輝いていたと、遠い昔を懐かしむ様の頬杖をつく。
「そっか・・・見てみてぇなぁ、ヘラの全盛期の写真」
ぼんやりとコニーを見つめながら呟き、同僚の愛妻がモデル全盛の頃はどれ程美人だったのだろうとも呟くと、今も美人だと自慢気に胸を張られて目を瞠る。
どれ程見た目が変化しようともその心証を変化させていない同僚の心の強さが羨ましいと秘かに感じ、幸せなんだなぁと頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。
その時、天井から降り注ぐ蛍光灯の光よりも眩しい光が脳裏を掠め、今の光は何だと自問し、髪の色という自答を得る。
己の恋人が20年以上も前とはいえ、この街で凄惨な事件に巻き込まれた事にどうして誰も気付かなかったのかと先程ヒンケルに告げたが、己の言葉通りもしも外見上に大きな相違があればどうだろうか。
己のデスクに投げ出してあった雑誌をぱらぱらと捲り、黒のマジックで金髪碧眼の女性の髪を塗りつぶしていき、その後己がマジックで塗りつぶした長い豊かなブロンドをまじまじと見つめ、やはり髪の色が左右する印象の違いは大きいと納得してしまう。
もし、恋人のあの白とも銀ともつかない髪の色が生まれ持ったものでなかったとしたらどうだろうか。
長年刑事としてこの街で働いていたが、直接事件とは関わらなかったヒンケルが気付かないとしても頷けるのではないのか。それに、あの事件の担当をした刑事が事件後の聴取すら出来なかったとも言っていた事を脳内で捏ねくり回したリオンは、己の予想はおそらく間違っていないだろうが、今ひとつ確信を持てないと苦笑し、マジックで塗りつぶした女性を見ることなく雑誌を閉じてゴミ箱に投げ入れる。
「ちゃんと分別しなさい」
「面倒くせぇ」
ダニエラの言葉に一言で返したリオンは、己が不在の間に溜まっていた事務仕事をこなす為にデスクに向き直り、いつにも増して熱心に書類仕事に取り組むのだった。
リオンがいつもの表情でいつものように飄々と陽気に仕事をこなしている頃、漸く目を覚ましたウーヴェがベッドから起き上がろうとして見事に失敗し、あろう事かそのまま床に落下してしまっていた。
己のその無様さにただ驚愕した彼だが、その原因が真夏に誇らしげに咲く向日葵のような笑みを持つ恋人だと思い出した瞬間、床から這い上がって再度ベッドに横臥し、横になった視界に飛び込んでくるものをぼんやりと見つめているが、それが何であるかに思い至ると同時に全身の疼痛など吹き飛ばしたような顔で起き上がり、勢いよくシーツを引っ剥がす。
昨夜-と言うよりはこの家に戻ってきてから以降、ウーヴェがベッドから降り立ったのは数える程で、しかもその総ては今思い出すだけでも羞恥のあまり憤死しそうな、所謂お姫様抱っこをされてのものだった。
久しぶりに感じる床の感触を楽しむどころではない顔で引っ剥がしたシーツを丸めてバスルームのリネンボックスに投げ入れて顔を上げた時、鏡に映し出された己の姿を目の当たりにして目眩を覚えてワイヤーチェアに力無く腰掛ける。
一体どれだけの痕を残せば気が済むのだろうか。それとも気が済まないためにこれだけの、一目で由来が分かる痕を残したのだろうか。
足の間に頭を垂れて深々と溜息を吐いたウーヴェは、仕事に行く恋人を見送ることも食事の用意すら出来なかった事も思い出してそれだけについては申し訳ないと反省をするが、その二点以外について総て悪いのはリオンだと歯を噛み締める。
この腰の痛みも全身で疼くような痺れも、何もかも総てはあの馬鹿が付くほど元気なリオンが悪いのだ。
腰を押さえながら何とか立ち上がって顔だけでも洗おうとするが、見下ろした己の腹に残るものに気付き、最早溜息を吐く気力すら失った顔でシャワーを浴びようとブースのドアを開ける。
少し熱めの湯を頭から浴びて汗やら何やらをきれいさっぱり洗い流したウーヴェは、洗面台の端に置いてある時計を見て朝昼兼用の食事どころか三食兼用の食事になりそうな時間まで眠ってしまっていたと知り、バスローブを羽織って濡れた髪を拭きながらベッドルームへと戻るが、サイドテーブルに置いた携帯が着信を告げた為、タオルを頭に乗せたまま携帯を手に取る。
「Ja・・・ああ、ベルトランか?おはよう」
『おはようってお前、今何時か分かってるのか?』
「・・・夕方の5時だな」
『その声は寝起きだな?どうした、昨日は寝かせてもらえなかったのか?』
さすがに付き合いが長いとその辺の事も明け透けに問いかけてくる為、ソファに足を投げ出して腰掛け、うるさいぽよっ腹と嘯いて相手を絶句させる。
『だからいつも言ってるだろうが。俺に八つ当たりをするなよ』
「お前なら八つ当たりしてもその腹で跳ね返せるから問題はないだろ」
『んな・・・っ!!』
「それに、八つ当たりをしても大丈夫なのはお前だけなんだ、我慢しろ」
『何なんだその理屈は!』
今の会話の総てをお前のキングにばらすぞと捲し立てられたウーヴェは、携帯を耳から離してああうるさいとぼそりと呟く。
『ったく、戻ってきたと思えばこれだからな』
「うるさい」
『で、ハシムに元気だって顔を見せてきたのか?』
ぶつぶつと文句を一頻り垂れた後、ベルトランが電話を掛けてきた理由をぽつりと問いかけてきた為、タオルで表情を隠すように俯いて小さくああとだけ返す。
『そうか・・・なぁ、ウーヴェ、やっぱりまだ止めないのか?』
三週間前にも告げたが、いつまでも縛られる必要はない、もう解き放たれても良いだろうとウーヴェを思う気持ちだけが伝わる言葉が流れ込み、一度目を閉じて深呼吸を繰り返す。
ウーヴェが誘拐され解放されるまでの間の今でも夢に見る辛い日々、そして解放された後人並みに生活が出来るようになるまでの日々を知る友の言葉が胸に染みてくるが、それ以上にやはり過去の声は強く響いてウーヴェの心を縛り付ける。
『20年だぜ?もう良いだろう?』
あの山間の村に行った際にも優しい夫婦に同じ言葉を言われたのを思いだして背もたれに寄り掛かり、心の奥底では常に感じていた思いを口にしようとするが、背筋を駆け上る不気味な感触に気付いて口を閉ざす。
『ウーヴェ?』
「・・・バート・・・ダンケ。ただ・・・」
『どうした?』
「リオンも一緒に来てくれるそうだ」
今まで誰かと一緒にあの場所に行ったことはないが、来年からは二人揃ってハシムに元気な姿を見せることになると、墓の前での言葉を思い出しながら告げると安堵の気配が携帯から伝わってくる。
その気配に目を細め、膝を抱えるように足を引き寄せたとき、左足に鈍く光るリザードの姿を見つけて軽く目を瞠った後、そこから生まれたような温もりが思い出されて全身へと広がって溢れていく。
昨夜の言葉の重みと温もりを宿したようなリザードをつるりと撫でていると、電話口のベルトランが諦めたような安心したような吐息を零す。
『キングが一緒なら良いか』
「・・・うん」
リザードを撫でながら素直にうんと返したウーヴェだが、それについての返事が一切無いためにどうしたと問い返した瞬間、ベルトランが意味不明の怒鳴り声を上げる。
「ベルトラン?」
『お前がそんなにも素直になるなんて、明日は槍でも降るんじゃねぇのか!?』
「うるさい、中年太り。槍が降る前にダイエットでもしろ」
『誰が中年だ!俺が中年ならお前もそうだ!!』
「俺は太っていない」
『んがー!!俺もまだ許容範囲だ!!』
いつまでもバスローブ姿のままでは風邪を引くから電話を切るぞと言い放ち、慌てたベルトランが昨日のランチをご馳走様と店のみんなの伝言を伝え、カボチャの美味いスープを食わせてやるからまた来いと笑われてそれに対しては素直に礼を述べる。
『じゃあな、お前の絶倫キングによろしくな』
「・・・・・・」
ベルトランの捨て台詞のようなそれに悔しいが何も返せなかったウーヴェは、店に訪れた際に絶品のリンゴのタルトを丸々一台用意させようと決意をし、後日それを伝えてベルトランを絶句させる事で溜飲を下げるのだった。
ベルトランとの電話を終えた後、ウーヴェはクローゼットを開けて手早く着替えを済ませると、昨日戻ってきてそのままにしておいた荷物の整理を始めようとリビングに向かい、置きっぱなしだったそれを手に戻ってくる。
リュックの中から取りだした本やワインボトル、カップなどを所定の位置に戻す為に動き回り、リュックもクローゼットに戻そうとした時、取り出すのを忘れていたのかそれともそのままにしておきたかったのか、一枚の写真がひらりと落ちて床を滑る。
手に取ったそれは、幼いウーヴェが年の離れた兄、ギュンター・ノルベルトに背負われて笑い、それを少し離れた場所で家族が見守っている、そんな写真だった。
経年の為に色褪せているがそれでも当時の様子を伝えてくれるそれを暫く見つめていたウーヴェだが、今までの様に不気味な気配が背筋を這い上ってくる事も無ければ呼吸困難を引き起こすような感情の爆発も起こらず、この写真を見て今のように平静でいられる不思議に首を傾げるが、自宅でのみ履いているサボサンダルの中で意識した瞬間に存在が分かるリザードの青い眼が脳裏に浮かび、不思議なこともあると苦笑する。
昨日リオンが嵌めてくれたリザードだが、そこにあるだけでこんなにも心が穏やかになるのだろうか。
今まで経験した事のない不思議に遭遇したウーヴェの脳味噌は日頃の冷静さを既に取り戻していて、気のせいだの何だのと理屈を並べ立ててくるが、その理屈も内包するような不思議を楽しもうという気持ちが沸き上がり、写真片手にクローゼットを出るとソファに投げ出してあった携帯から軽快な映画音楽が流れていることに気付いて慌てることなくボタンを押す。
「Ja」
『ハロ、オーヴェ!起きたか?』
「ああ」
陽気な声に苦笑混じりに返し、今は仕事中だろうと問えばもちろんと返ってくるが、身体は大丈夫かと意味ありげな笑い声とともに問われた瞬間、ウーヴェのターコイズが真っ平らになった瞼に隠れてしまう。
「お前がそれを聞くのか?」
『・・・昨日頑張りすぎた?』
「セックスはしばらく禁止だ」
『げー!ウソだろ!?信じられねぇ!昨日はお前も泣いて気持ちイイって言ってたくせに!!』
ウーヴェの頬がひくひくと痙攣するような事を叫んだリオンだが、当然ながら己の前言を翻すつもりのないウーヴェはこれで暫くの間はゆっくりぐっすりと眠れると嘯き、電話の向こうの空気をどんよりとしたものへと変化させる。
『オーヴェのイジワル・・・トイフェル・・・』
「誰が悪魔だ。トイフェルは警部じゃないのか?」
『ああ、あれはクランプスだから』
そんな事を言う為に電話をしてきたのかと、少しばかり眩暈を感じながら問い掛けたウーヴェは、ソファに腰掛けてサボサンダルの中のリザードの様子を窺うように足の指を曲げる。
『いや、今日も早く帰れそうだからさ、ヴィーズンに行かないかって思ったんだ』
問われた言葉が耳を通って脳味噌に辿り着いて暫くすると、嫌な思い出に変換されて心の中に落ちていく。
「・・・リオン、悪い・・・ヴィーズンは・・・」
まだ顔を出す事が出来ないと、楽しみにしているのに本当に悪いと謝罪をし、ぎゅっと足の指を丸めてリングの感覚を痛いほど感じていると、此方を安堵させるような声が大丈夫だと返してくれる。
『じゃあ、今日の晩飯、昨日食うつもりだったレバーケーゼのスープが良いな』
「他に食べたいものはないか?」
『んー、お任せ。でも今日はワインが良いな』
「分かった。何か適当に用意しておく」
今朝起こすことも朝食の用意をすることも出来なかった事から、ついつい甘い顔を見せてしまうウーヴェにリオンがいやっほぅと歓喜の声を挙げ、その声につられるようにくすくすと笑みを浮かべ、早く戻ってこいと小さな声で本音を伝えると、あと少しだけ待っていてくれとこれまた本音が滲んだ声に囁かれる。
『オーヴェ。あとちょっとだけ』
「ああ。分かっている・・・・・・リオン」
『ん?どうした?』
ふと目について写真を手にとって一度目を閉じ、オーヴェと疑問の声を投げ掛けてくる恋人の笑顔を脳裏に描いて力を分け与えて貰う。
この一枚の写真からリオンが導き出す答えはどんなものか。今回初めて知ったウーヴェの過去に纏わる事件の顛末にだけ気が向くのか、それともウーヴェが恐れるようにベルトランにすら伝えていない事実に辿り着くのかは分からなかったが、己にとっては大きな賭でもある事を伝える為、帰ってきたら少し話があるとだけ告げると、分かったといつもと全く変化のない陽気な声が不思議と安堵するような力をもって耳に流れ込む。
『じゃあそっち着いたらまた電話するから開けてくれよ、オーヴェ』
「・・・ああ」
小さなキスの音を残して通話が終わった事示す音が流れ出し、携帯を羽織っていたカーディガンのポケットに落としたウーヴェは、キッチンとリビングの間のパントリーにワインのストックがあるかどうかを探す為に部屋を出る。
二人が納得しそうなワインのストックがいくつかあった為に安堵し、次いで望まれているレバーケーゼのスープを作る為にキッチンに入り、随分と久しぶりに自宅キッチンで食事の用意を始めるのだった。