【肆と診療所】
四ノ巻 〚薬箱〛
*
「薬箱が、ない」
伊崎は愕然と呟いた。
管太郎は隣で硬直しており、一言も何も発さない。
薬や鍼道具などは貴重品のため、借りている自室ではなく、門番のついた蔵の中に入れていた。
そのため盗まれる心配などはなかったはずだが、薬箱が、ない。
葉色は三つ薬箱を持ってきていた。
一つは外傷のための軟膏などが入った箱。
一つは内服薬が入った箱。
一つは薬草をたくさん詰めた箱。
いちいち調合するのは手間がかかるため、もう既に出来上がったものも持ってきていた。
しかし、それだけでは臨機応変に薬を処方できないため、その病に合った薬を処方するように、薬草も持ってきていた。
なくなった箱は二つ。
内服薬が入った箱と、薬草が入った箱だ。
伊崎は蔵の門を開けた。
「門番!!琴葉さんを呼んできてくれ!!緊急事態なんだ!!薬箱がなくなった!!」
「はっ」とすぐに城へ駆け込む門番二人。
既に、四天王は有権力者になっているようだ。
しかし管太郎は、はて、と首を傾げた。
「伊崎、琴葉さんって、誰のこと?」
その声に、ハッと体を強張らせる伊崎。
しかしすぐにいつも通りになって言った。
「あの綺麗な女性だ。……名を名乗っていたが、聞いていなかったか」
「いつ言ってた?俺、聞いてないや」
「人の話は聞くもんだぞ」
そのあたりを探りながら伊崎は管太郎に言葉を投げかけた。
管太郎はうん、と短く答えると、伊崎に駆け寄った。
「何探してるの?」
「なくなったものだ。箱がなくなったのはわかってるが、他にもなにかなくなったかもしれない」
「俺は医療具は何も持ってきてないよ」
「精神科医は笑顔が薬だもんな。……葉色はあの三つの箱を持ってきていた。唯は二種類の軟膏を持ってきているが、小さな巾着に入る大きさで、懐にしまっている。私は鍼灸道具を持ってきたが、この通り、何もなくなっていない」
鍼灸道具がなくなっていないのは安心だが、安心できない。
ここ以外に貴重品を置くことなどない。
葉色はしっかりしているため、変なところに置いたまま……なんてことはないだろう。
と、考えると、自然と浮かび上がってくるのは……。
「盗難、ですかね」
門のそばに琴葉とやらの女が立っている。
伊崎と管太郎はそっと振り向き、頭を下げた。
(まずい、声を変えるのを忘れていた)
内心反省会な伊崎だが、そんなことを全く気にしない琴葉と管太郎。
「そうですね、それが一番考えられるかもしれません」
「管太郎さん。その薬箱は、やはり値が良いのですか」
「ええ。売り捌いて金に替えようとする輩もいるかもしれませんね」
二人が話していると、伊崎がふるふる、と首を横に振った。
「多分、金目当てじゃないでしょう」
低い声だった。
(また始まった)
と、伊崎の隠し事芸を苦笑いで見つめる管太郎。
しかし、今考えるべきはそれではない。
「……伊崎さん、それは、どういう意味でしょうか」
琴葉に聞かれ、伊崎は鍼灸道具を手に持って見せた。
「こちらは、神経に刺して神経痛などを和らげる効果のある鍼と、体にこの葉などを焼いて置き、情緒を安定させたり、内臓機能をよくする効果のある灸です。普通、医者の使う道具は、大して高い道具じゃありません。ですが」
伊崎は箱を開け、その中の包を外した。
中に入っていたのは、銅製や鉄製、中には銀製の細い鍼だった。
「このように、見ればすぐに分かるような、私は高値のものを使用しています。また、量も多いため、金狙いなら普通、こちらを狙うでしょう」
鍼灸道具をしまい、伊崎はスッと琴葉を見据えた。
「また、こちらのほうが大きさも小さく、持ち運びがしやすい。それならば、持ち去る際もバレる心配が遥かに少ない。ですが、それでもこの大きく重たい薬箱二つを取った理由。それは、何だと思いますか」
琴葉はしばらく考えて、それから伊崎を見て言った。
「薬が目当てなのね」
それを聞いて、伊崎はてっかの下でニヤリと笑う。
管太郎は納得したようにうなずき、伊崎を見つめた。
「じゃあ、内服薬や薬草を持っていったということは、何か病の薬を探しているんだね」
「多分、な。それをわかって、軟膏と見極めて持っていったのなら、その辺の医者よりは薬の知識がある。だが、適当に持っていった可能性もあるよな」
「……いや、それはないね。適当に持ち帰り、それが目当ての薬じゃなかった場合、翔んだ大仕事が泡になって消えたと言える。それから売ろうと考えることもないことはないかもしれないけれど、江戸城に侵入して盗むくらいなら……そこまで適当にはやらないよね」
「……たしかに、そうかもな」
伊崎は「じゃあ」と琴葉を見つめた。
「薬の知識があり、内服薬を求める立場であり、そして何より、門番二人を難なく騙して蔵内に入れるような人を探してはくれませんか。私と管太郎も探します。情報提供や人手が頂きたい」
「そうですね。わかりました。数人、家臣と侍女を捜索に回しますね」
「感謝致します」
伊崎と管太郎は頭を下げ、琴葉がその場を去ると、門番二人に詰め寄った。
「誰も、ここを通らなかったか」
「あなた達はずっとここに立っていましたか」
「本当にあなた達は江戸城の門番なのか」
「不審な人物をみかけませんでしたか」
一見無礼非礼に聞こえる質問もあったが、人の良い門番二人は正直に答えてくれた。
蔵の前は大通ではないから、そんなに人は多く通らないが、江戸城である以上、全く人が通らないというわけでもない。その通った人たちを怪しげに見ていたが、一人、蔵野間えをうろちょろする怪しい人がいて、門番二人でその一人に話を聞いていたらしい。
結局その怪しい人物は道に迷っていたらしく、なんの害もなかったそうだ。
「ちょ、ちょっと待ってください」
管太郎は話を遮った。
門番は顔をしかめているが、伊崎は「言え」と顔を上げる。
「あの、もしかして、怪しい人一人に門番さん二人を費やしたのですか」
「あっ」
門番は顔を見合わせた。
つまり、その門番がいない隙に、蔵に入ることができるというのだ。
伊崎はため息をつきながら聞いた。
「どれくらいの時間怪しい人に就きましたか」
「……四半時間くらい……だろうか」
四半時間。
三十分のことである。
それくらい時間があれば、薬箱二つを盗むことには充分すぎる。
「その間、他にこの辺りを通った人の顔は覚えていますか」
厳しい声になりながら伊崎は問う。
その声に罵倒されるように、門番は目を逸らした。
(見ていなかったのか)
伊崎はまたもため息をついた。
「では、探してきますので。あなた方はここから、一切、離れないでくださいね」
念を押すように言うと、門番は頭を下げた。
管太郎と伊崎はさっさとその場を去り、城内へ入った。
琴葉のもとへ向かい、早急に今までのことを話した。
「成る程。……となると、その怪しい一人の人も、共犯者の可能性がありますね」
流石は徳川幕府の家臣を扱うだけある、賢い頭である。
伊崎はため息交じりに頷いた。
「そうなのですが。あの、それ以前に、もう少し門番の質を上げたほうが良いかと。こんなの……と言ったら失礼でしょうが、本当に、こんなのでは、暗殺なんかも起き兼ねないですよ」
管太郎は単刀直入すぎる彼女にやや驚きつつも、たしかに、と頷く。
あの門番たちは、立っているだけが仕事なのだと勘違いしているかもしれない。
手に持ってあるあの槍は、なんのためのものなのか。
「そうね。あの門番たちへは、それ相当の刑を与えます」
琴葉は綺麗に答えたが、管太郎はそれに驚いて声を上げた。
「刑っ…?!そんな……大変なことなんですか」
「はい。江戸城内に許可なく侵入した罪、江戸幕府の目付け四天王の私物を盗んだ罪。それは、江戸幕府に反感すると同じことです」
侵入して盗ったのかは定かではないが、たしかに、盗んだ事自体はそうなり得るだろう。
江戸幕府が頼みをした四天王だ。
今更ながら、四人は相当気品高くいなければならない、権力者だ。
しみじみとそんな重みを感じながら、二人は目を合わせた。
「と、とりあえず……。条件の合う人物を、手分けして探しましょう。見つかり次第、城へ戻ってきます」
「琴葉さん、どうか、ご協力よろしくお願いします」
二人が頭を下げると、琴葉も頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ。門番の管理不届きで、こんな目に合わせてしまい、申し訳ありません」
確かにその通りだ面倒臭い、なんて伊崎は思ったが、最悪首と胴体がおさらばするとともに、この現世からもおさらばしかねないため、口を抑えて頭を下げた。
*
江戸の街を歩き回り、管太郎と伊崎は犯人を探していた。
情報は以下の通りだ。
①薬箱二つを抱えている
②二人組の可能性が高い
③薬の知識がある
④病用の薬を必要としている
これは飽く迄“可能性”であり、予想にすぎない。
だが、あまり外れてもいないようだった。
「薬箱二つを持った二人組?……ああ、いたよ。どちらも上背の良い男でね、一人一箱抱えていたんだ。黒い頬被りを被っていてね、どちらとも灰色の袴を履いていたよ」
町人の男はそう言った。
明確に思い出そうと顎に手を当てる彼を信用したのか、管太郎はさらに問うた。
「帯刀はしていましたか」
「していたねえ。どちらも、二本差しだったよ、よく覚えている。奇妙な赤の色をした鞘だったんだ」
管太郎は首をかしげた。
「赤の鞘の刀なら、幾らでもあるように思うのですが」
ふと町を見やれば、あそこの甘味処で団子を食らう彼も、酒屋の娘と店の前で話し込んでいるあの彼も、腰の刀の鞘は赤だ。
しかし男は首を振った。
「見たらわかると思うんだが、あんな赤じゃあなかったよ。存在感というものがまるで違う。どす黒いが、金の模様が入っていてなあ。如何にも“お偉いさん”って感じだったんだ」
伊崎はふむ、と考え込んだ。
その隙に管太郎は「お話ありがとうございます」と頭を下げた。
男が手を振ってその場を去ると、管太郎が伊崎の顔を覗き込んだ。
「なにかわかった?」
「なんとなく」
「赤い鞘かあ。何かあると思う?」
こくり、と頷く伊崎。
「刀の鞘は、武士の階級を現す事がある。その中で、赤に金の装飾であったら、上の方の階級だ。それに、赤い鞘には意味があるんだ」
「あ、それ知ってる。赤は血の色だから、戦いを象徴するもので、『勇気』とか『勇敢』とかっていう意味があるんだよね」
「流石。そうなんだ。つまり、犯人は武士で、階級が高め、ってことだな」
「鞘の色で階級なんで決まってたんだ。初めて知ったなあ」
「そうじゃないこともあるぞ。御家によって変わるんだ。刀の鞘で階級を区分する家もあれば、全員同じ色にすることもあるな」
「えっそうなの?」
「ああ。流派とかで色を揃えたりすることもあるそうだし、個人で装飾を楽しむ人もいるらしいが……。あまり詳しくは知らない」
「家ごとに色を変えたり、流派ごとに変えてるんだったら……共犯者と犯人は、家柄や流派が一緒に可能性があるよね」
「うん」
段々掴めてきた、犯人の特徴。
しかしこのとき彼らは、大切なことを忘れていた。
*
太陽が真上に差し掛かった頃。
二人は踵を返し、一度城へ帰ることとした。
結局あれ以来なんの収穫もなかったが、もしかしたら琴葉側が何か掴んでいるかもしれない。
昼餉より半刻ほど早い時間に帰ってきたところ、何かバタバタと忙しそうな女中が城内を駆け巡っていた。
どうしたのか、と聞こうとしても、軽く会釈をされ、走っていかれる。
不審に思っていると、あちらの方から琴葉が速歩きで駆けてきた。
「おかえりなさいませ」
「あ、只今帰りました」
頭を下げると、琴葉は困ったような笑顔を浮かべた。
管太郎は気が利くので聞く。
「あの、なにかあったのですか?ものすごく慌ただしい空気感なのですが……」
「ああ、それが……」
それを聞くと、二人は目を丸くした。
昨日まで治まっていた嘔吐下痢が、またも多発したそうだ。
犯人と薬箱の方に意識を向けすぎて、こちらの病気を全く気にしていなかった。
最悪唯がどうにかしてくれているだろうが、琴葉に聞くところ、唯一人ではどうしようもないそうだ。
それもそうかもしれない。
唯は外傷医で、こういった嘔吐下痢とはほぼ無関係。
今は薬箱もないため、処方もできない。
だから侍女たちを使い、処理を任せているそうだ。
だが、管太郎と伊崎はそれを聞いてひやりとした。
胃腸炎は、吐瀉物などを通して感染する。
つまり、沢山の侍女を使っているということは、それなりに感染する人の数も多いのでは……ということだ。
「とりあえず、俺達処理を手伝おう!」
「いや、ちょっと待て。薬がないと事が進まない。治る人には薬を飲んでもらって早く治ってもらわないと」
「……薬ないけど」
「私が取りに行く」
「診療所に?遠いけど。伊崎行くなら俺も着いて行くよ」
「なんでだよ。……それに、診療所には行かない。遠いし、十日間帰ってくるなって言われたし、薬草畑が近くにあるし」
「えっ、薬草畑?!」
伊崎は、掴みどころのない人間だ。
周りの情報を、一瞬にして自分のものにするあの賢さ。
葉色が、江戸の様々な場所に薬を植えていたのが、わかっていたのだ。
普段は、診療所にある小さな畑と、買ってくる薬草、道端で取る薬草を使っていた。
しかし実際は、薬草の種を沢山の畑に植え、そこからも取っていたのだった。
誰にも言っていない葉色だが、伊崎はきちんと把握していた。
その場所までも。
江戸城からすぐ近くにある、野原。
あこは、葉色の植えた薬草畑だ。
「私はそっちに行く」
「……でも、薬なら俺のほうが知識あるんじゃないかな」
管太郎も何かと賢い。
というか、自分のことをよくわかっている。
江戸時代、精神科医という仕事はないに等しかった。
その存在すらも知らない人が、大勢いたのだ。
また、少し情緒が安定していない人は、ただの変人として扱われた。
それが病気だなど、誰も疑わない。
そのため、精神科医は仕事が少ない。
自分から精神の病の人を見つけ、メンテナンスするのが仕事なのだ。
しかしそれだけでは、他の三人とは大きく差がついてしまう。
一番いそがしいのは、内科医の伊崎だ。
次いで外傷医の唯。
葉色は伊崎と唯、または他の診療所の仲間に言われた薬を作る。
薬はなくてはならない存在だし、内科医も外傷医も、勿論必要だ。
しかし管太郎はとなると話は別であった。
そのため、それをわかっていた管太郎は、薬の勉強をしていた。
そのため、伊崎や唯よりは薬の知識が多少ある。二人も必要最低限の知識などはあるが、それを上回る知識がある管太郎。
それなりの努力はしているのだ。
しかし伊崎は首を振った。
「確かに、薬の知識なら私より管太郎のほうが勝る。だが、胃腸炎に効く薬なんかは私のほうがわかる、そもそも、薬草畑のある場所は管太郎は知らないだらう」
「それは……そうだね」
「ということで、私は薬草を取ってくる。お前は唯と処理していろ。くれぐれも、病に罹らないように」
伊崎は踵を返して管太郎から離れていく。
最初はなにか良いたそうにしていた管太郎だったが、渋々という様子で頷いた。
*
爽やかな風だった。
江戸城が目立つこの江戸の、商店外。
小さな甘味処や、立ち寄り厠(トイレ)があるだけのこの場所には、沢山の葉が生えている。
青々とした葉は風に靡き、さらさら揺れる。
その薬草が植えられた原に座り込む、一人の男を伊崎は眺めていた。
伊崎に背を向けていて顔は見えないが、一生懸命に草をむしっている。
傍らには薬箱が一つ置いてあり、顔には黒い頬被りを被り、着物は灰色の袴だ。
(あいつが)
と、冷静に思った。
腰の刀は、赤々とした色の鞘をしていた。
そこに入れられた、金色の模様。
そっと伊崎は彼の隣に座りこんだ。
彼は驚きもせずに顔を上げ、伊崎を見た。
手は泥だらけで、たくさんの葉を握っている。
「なんの病気を治したいんだ?」
伊崎は真顔で聞いた。
その瞳に吸い付かれるように、彼は答える。
「夜の花園で流行っている病さ」
爽やかな声。
薄く微笑む口。
伊崎は目を細めた。
「梅毒かなにかか」
「……てっきり、君にはまだ早い話かと思ったよ」
「遊郭なんぞ行った事ぁねえが、……というか行きたくもないが、一応もう十なんだ。知りたくなくても知ってる」
「そうなのか。すまないな、まだもう少し子供なのかと思っていた」
彼は眉を下げて笑う笑い方をまたする。
「……あんたは、その遊郭の遊女とやらを助けるために薬を取ってるのか」
伊崎が暗い声で問うと、彼は急に目を伏せた。
「……別に、遊女になんか興味はないさ。だって私もまだ十二の齢であるし、それに、意中の相手としか“そういうこと”はしたくないんだ」
「意中の相手がいるのか」
「いないよ。……いたとしても、結局その人とはどうせ結婚できないんだよ」
ハッとして彼は口を噤んだ。
ふと伊﨑を見れば、彼女は大きく目を見開いている。
その目には、光る何かが。
しかしすぐに正気に戻り、彼を見据えた。
「お前、その鞘の家紋、弓削家だろ」
「え、わかるんだ」
「ああ。……お前は、その跡取りか」
「多分ね。……あまり言っちゃいけないけど、長兄が病で床についていて、跡取りになりそうにないんだ。だから私が。……でも、武家を継ぐのは嬉しくないかな」
眉を下げて彼は笑った。
弓削家は、徳川幕府が作られる昔、戦国の時代から徳川家に仕える武家だ。
血筋の男児は、必ず刀の鞘を濃い赤にする、というしきたりが昔々から続いている。
その次男ということは、彼は相当のお偉方だ。
伊崎はそれを知り、目を逸らした。
「……そんな跡取りの若様が、なんで薬草集めなんかしてるんだ。盗んでまで」
「えっ、なんで盗んだって知って……」
伊崎は半目で彼を睨んだ。
「盗まれた側なんだよこちとら。薬箱なくなったから薬草を取りに来たわけ」
「嘘だ!どうしよう私!」
バッと立ち上がる彼。
伊崎は草を眺めてぷちぷち千切っている。
「別に、お前になんか刑しようとか思ってねぇよ。返してもらえりゃそれで」
といって彼を見ると、彼は、んぐ、と顔をしかめた。
「なにか事情があるのか」
「……まぁね」
「話してみろよ。時には見逃す」
伊崎は草をむしりながら平坦に言った。
それを信用したのか、彼は伊崎の隣に座った。
彼の話によると、若様として与えられた初仕事が、この江戸城から薬箱を盗む仕事だったそうだ。
若として、薬や毒の勉強を昔からしてきた。
そのため、見分けるのは簡単だった。
なぜ薬箱を盗むことを仕事にされたのかというと、それは、遊郭の流行り病を治すため。
流行り病を治せば、幕府の財政が良くなり、幕府に良い目を付けられる。
そうなると幕府の姫を弓削家へ嫁入りさせるこたができるなど、様々な良い点がある。
また、今のところ若様、つまり、彼の結婚相手が決まっていない。
身分や立場的に、いい姫がいないのだ。
そのため、もし遊郭で若様が人気になり、花魁なんかと結婚することができれば、遊郭を管理するものと結託を組むこともできる。
つまり、家のこらからを考えた結果、こうなったのだ。
「しかし、わざわざ盗む必要もなかっただろう。このような薬草畑があるというのに。どうしてそんな賭けをした」
「君たち、四天王の実力を知っていたからさ。四天王の薬箱であれば、大層効く薬があるんだろう、と上様がおっしゃってね。とても効くのなら、遊女たちを治せるだろう、って」
呆れ笑い、だろうか。
楽しんでやっているようには見えない。
伊崎はまた目を逸らした。
(嫌な記憶が蘇る)
眉を寄せて、地面を見た。
「この薬箱、もう返すよ」
男は言った。
伊崎はなんの表情も浮かべずに彼を眺める。
「君を、困らせてしまってすまない。中は見させてもらったよ。本当に、大した薬だった。珍しくてそうそう手に入らない代物まであった」
伊崎は箱を受け取ろうとしない。
「これを返したら、お前の……“若様”の初仕事がうまくいかないんじゃないか」
「だから、今決めたんだ」
彼は伊崎の腕を引いて手に何かを握らせた。
(なんだ?)
「私、弓削千六良は、君たち四天王に依頼する」
「……はっ?」
伊崎は、手に握った深い赤色のつげの櫛を見て目を丸めた。
*肆と診療所 四ノ巻〚薬箱〛完
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