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#ワンナイトラブ
ひとときの現実逃避からの帰還
寄り道したカフェからの帰宅
ガチャ!
(……夫が帰って来てる)
玄関に無造作に脱ぎ棄てられた夫の靴
ほぼ毎日遅い帰宅
ともすれば午前を回る
今日に限って早い帰宅
食材も買い出していない
間が悪い
「おかえり、遅かったね」
そんな日に限って多弁
いつもはおかえりもただいまも言わない
「うん、ごめんね。仕事片付かなくて」
「晩ご飯まだだよね?」
「うん、腹減っちゃったし何でも良いよ。直ぐ出来るもので」
ソファにもたれ掛かかり
スマホから目を離さず
こちらに目線もくれず
気だるそうに話しかけてくる
「……」
私の顔さえ見ない夫
そうしてゴロゴロしているのなら
たまには夕飯の準備くらい出来ただろう
でも何もしなかった
何もせず私の帰宅を待ったんだ
夕飯を用意する女の帰宅を待ったんだ
「食材買ってないから今近くで買ってくるね」
「え、マジ?買ってないの?」
「ガチか……腹減って我慢出来ないから外で食ってくるわ」
バタンッ!
そう言い残すと
私と視線も合わせず
私の脇を通り過ぎ
夫は出て行ってしまった
「……」
悲しかった
こんな生活にも慣れていたはず……それでも
悲しかった
悲しいものは悲しい
慣れるものではなかった
夫に聞こうと思っていた
浮気相手の事
接点のある同僚女子の事
それとなく情報を引き出そうと思っていた
何気ない会話から
そんな
何気ない会話すら叶わぬ
夫婦生活の惨状
これが今の私の現状
(戻ってきたら謝ろう……)
募る罪悪感
私が悪いのかな?
善悪の判断すら出来ない
彼にとって私は何なのだろう
私は一体何者なのだろう
結局
気付けばいつもの空虚な日常
夫といるとそうだ
いつもここに戻ってくる
何だか無性に虚しくなって
シャワーも浴びず床に就いた
***
会社の買収後
新CEOの就任から二日目
未だ仕事に変化は見られない
もやもやとした晴れない心を抱えたまま
私はいつもの一日を迎えた
昨日疎かにした業務に追われ
気付けば正午
午前は光のように速く過ぎ去る
頭を切り替え食堂へ
昨晩は夫との会話がままならず
浮気相手にまつわる情報を聞き出せなかった
だが
私にはもう一つ思い浮かべた別案があった
「毎日ランチ時に匂いを辿り、あの香水の使用者を特定する」
座席には既に昨日と同じ三人がいた
混雑の少ないメニューを選び
遅れて一角に着席する
「お疲れ様~」
「おつかれ~」
「あ~マジ平日しんど」
会社が新体制になって二日
傍観者達の日常にさほど変わりはない
と、そこへ……
「隣、大丈夫ですか?」
何の前触れもなく
新CEOがトレーを持って立っていた
「え?あ、どうぞどうぞ!全然平気です!」
気だるさに満ちた表情から一変
途端に声のトーンが上がる同僚女子達
背筋が伸び
笑顔が戻り
一瞬で女子力が急上昇する
「休憩中に申し訳ない!私も早く会社を理解しなくてはいけなくてね」
「一分一秒も無駄に出来ない。親睦も深めたいし、出来れば現場の生の声を聞かせて下さい」
ランチミーティング
外資系の社長が執りそうな手法だ
おかげで香水の追跡は頓挫
計画は台無し
間が悪い
そして隣に座る社長の圧が凄い
キャピキャピと猫撫で声で話す神崎さん
相槌を打ち
作り笑顔をするだけの私
匂いの元の追跡が破綻となった今
この場を取り繕うだけ
そう思っていた
……
——ふと
覚えのある匂いがした
香水とは違う
どこか懐かしい
体温の熱をまとった
至極自然的な匂い
私はチラっと隣を見た
そして確信する
(社長の匂いだ……)
香水のような人工的な香りではない
野性的で
男性的な
ありのままの体臭
だが
私は不思議と
全く嫌味を覚えなかった
むしろ
その既嗅感から
仄かな安心感さえ覚えた
「水川さんはどうですか?何か困り事や不満はありませんか?」
「へ?……あ、いや、そうですね、特には、はい」
チラ見していた所に
突然視線を合わせられ
私は赤面してキョドってしまった
気恥ずかしさと
極度の緊張で
胸の高鳴りが治まらない
社長の顔を直視出来ない
「水川さんシャイなんでお気になさらないで下さい。それでですね社長——」
一人私を蚊帳の外へ残したまま
同僚たちはランチミーティングを満喫していた
引きつった笑顔で
一人私だけこの場を切り抜けようと必死だった
幸い会話は社長の取り合いの様相を呈している
(このままやり過ごそう……)
「——で、水川さん」
「は、はい!」
再度ピンチ到来
ガチガチの私を見つめる社長
必死に最大限の普通を装う私
「水川さんは初めて会った気がしません」
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