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第2部 デューデリジェンス
第11章 初めて
非常階段を降りたあとも、勇斗の頭は、あの廊下のガラスの中にあった。
舜太の指が、柔太朗の頬に触れていた。親指が、目尻の下をなぞっていた。あれは、同僚の触れ方ではなかった。友人の触れ方でもなかった。
二人は、そういう関係だ。それは、もう疑いようがなかった。
疑いようがないからこそ、見なかったことにしなければならない。約束は舜太にした。使わない、と。
勇斗は、自分のデスクで付箋を並べた。投資銀行のフロアは、夕方の終わりのざわついた空気だった。
一つ。二人の関係は、秘密だ。徹底して、非公開にされている。
二つ。その非公開を、誰かが、丁寧に守ってきた。仁人だ。
ここまでは、納得がいく。納得がいくのに、何かが噛み合わなかった。
仁人が身を固くしたのは、いつだったか。
数える。取材の話が出たとき。違う。撮影の場所の話が出たとき。違う。二人の関係に触れそうな話題のとき。あの人は、平然としていた。
固くなったのは、契約書の欠番を聞いたとき。「締結に至らなかったものを含む」と書いた、追加資料の依頼を渡したとき。書類を手渡した瞬間、指が、冷たかった。
恋人たちの秘密を守る人間の反応では、なかった。あれは、もっと別のものを守っている人間の、身の固め方だった。
「勇斗」
背後から、部長の声がした。
「交渉期間は、あと二週間だ。追加調査は、そろそろ切り上げて最終条件に進め」
「……はい」
「ヴェルディエは、待たない。分かってるな」
「分かっています」
勇斗は、椅子を回して、部長のほうを向いた。
「あと一件だけ、確認させてください」
「何だ」
「過去の接触の確認です。念のため」
部長は少し考えて、頷いた。
「一日だ」
「ありがとうございます」
翌朝、勇斗は、ヴェルディエの法務部に依頼を送った。
『貴グループ全体で、Lueurとの過去の契約および接触の記録を、洗い出していただけますか』
過去の接触の確認。買収の前に、買い手が、相手の会社と過去にどんな接点があったかを調べる作業だ。あとから「実は以前、交渉していた」と分かると、価格交渉の前提が崩れる。立場の食い違い、つまり利益相反が起きていないかを確かめる意味もある。手順としては、ごく普通の地味な作業だった。
普通の作業だから、断られるはずがない。勇斗は、ただ待った。
昼過ぎに、返信が届いた。
添付のPDFは、一枚だけだった。
『ヴェルディエ・ベンチャーズ(当グループの投資部門)と、Lueur社との間に、秘密保持契約が一件、記録されています』
勇斗の手が、止まった。
その下に、契約の概要が表になっていた。
締結日は、創業から十か月目。
目的は、資金調達に関する協議。
Lueur側の署名者は、一名。COO、仁人。
以降の契約は、なし。
締結日を、二度読んだ。
契約書のC-016。欠番の日付と、同じ月だった。
取りやめた契約です、と仁人は言った。締結前に、話が流れた、と。
締結前ではなかった。秘密保持契約は、結ばれていた。話し合うために、互いの秘密を守る約束を、二年近く前に、この人はすでに結んでいた。
ヴェルディエと。
資金調達に関する協議。投資部門との間でというのは、多くの場合、出資の話だ。会社の株の一部を渡す代わりに、資金を受ける。
今月出たばかりの特集記事を、勇斗は思い出した。舜太の言葉が載っていた。外部の投資家を入れる話もありました。でも、誰かに渡したくなかったんです、この会社は。
その話を、持ち込んだのは、誰なのか。
初回面談の光景が、戻ってくる。ヴェルディエの役員が、穏やかに言った。弊社とは今回が初めてのご縁ですが、と。
はい。初めてです。こちらこそ。
あの日、仁人は、そう答えた。短く、迷いなく。
名刺を長く見ていた、あの二秒。あれは、役員の肩書きを、確かめていたのだ。この男が、二年前の相手ではないか、と。そして、別の部署の人間だと確認して、安堵した。
勇斗は、椅子の背にもたれた。
嘘だった。
いや、正確には、言わなかったことだ。聞かれたことには、事実だけを答える。聞かれなかったことは、全部、沈黙の下に埋める。あの人の、完璧な受け答えの正体だった。
夜のフロアは、人が減っていた。
勇斗は、PDFをもう一度開いた。何度開いても、内容は変わらなかった。
この事実は、使える。
それが、最初に浮かんだ。交渉では、相手が知らないことを自分が知っているだけで、優位に立てる。情報の非対称、という。売り手のCOOが、過去に買い手のグループと内密に接触していた。社長は、それを知っているのか。おそらく、知らない。
舜太の顔が浮かぶ。あの男が、この事実を部外者から聞いたとき、どんな顔をするか。二人の信頼に、どんな亀裂が走るか。
価格交渉では、あらゆる場面で優位に立てる。ヴェルディエは喜び、部長は満足し、昇進が手に届く。
使える、と思った。使える、と思ったうえで、使う気になれなかった。
代わりに、別のことが頭に居座った。
なぜ。
なぜ仁人は、一人で、これをやったのか。資金調達の協議。創業十か月目。会社の水位が、底をついていた月だ。あの月、あの人は、一人で、何をしていたのか。
誰にも言わずに。舜太にも、柔太朗にも。あの夜、氷の入っていないコーヒーを、ぬるいと言って、少し笑った人が。
ここは、顔が見える、と仁人は言った。顔の見える相手のために、顔の見えない相手と、こっそり話をしていた。その矛盾が、勇斗の中でうまく畳めなかった。
俺は、この人に嘘をつかれた、と思った。嘘をつかれたことが、腹立たしいのではなかった。ただ、痛かった。それが、何より勇斗自身を驚かせた。
全部、知りたい。
言葉にすると、その四文字は、あまりに率直だった。
仕事だ、と勇斗は思った。
これは、仕事だ。買い手の代理人として、売り手の隠している事実を確かめる。リスクの確認。デューデリジェンスの核心だ。
それだけの、はずだった。
翌朝、勇斗は、いつもより早く、Lueurのフロアに入った。
まだ、社員はほとんど来ていなかった。会議室の前に、仁人が立っていた。
「おはようございます」
勇斗は、いつもの笑顔を作った。作れた、と思った。それを、少しだけ自分で褒めた。
「おはようございます」
仁人は、勇斗の顔を少しだけ見て、眉を寄せた。
「……寝てないでしょう」
「え」
「目の下、隈が出てます」
言い当てられた。勇斗は笑った。
「バレましたか。案件が、山場なので」
「山場でも、寝てください」
仁人は、平らな声で言った。それから、手に持っていた紙コップを、一つ、差し出した。
「どうぞ。熱いほうです」
勇斗は、瞬きをした。
「……ありがとうございます」
受け取る。一口飲む。
熱くて、ちょうどよかった。
仁人の耳の端が、わずかに赤かった。差し出すのに、少し、勇気が要ったのだろう。この人が、自分から、誰かに、何かを渡すのに。
昨夜、PDFの中で、この人の名前を見つけたばかりだった。その同じ人間が、この、ちょうどいい温度を用意した。
「今日も、よろしくお願いします」
仁人は、そう言って会議室の扉を開けた。
扉の向こうでは、今日の調査資料が、きっちりと整えられて並んでいた。整いすぎている、と勇斗は、最初の日と同じことを思った。今度は、その理由が少しだけ分かった。
その背中を、勇斗は見た。まっすぐな背中だった。まっすぐすぎる、と、また思った。
仕事だ、と勇斗は、もう一度思った。
窓の外で、冬の光が白くフロアを満たしていく。
コメント
1件
うわっ……第12話、めっちゃ重くて静かに刺さってきたわ……。 勇斗が「使える」って思った瞬間に「使う気になれなかった」って切り替わるの、もう完全に仕事越えてるよな。でも本人はまだ「仕事だ」って自分に言い聞かせてるのが切ない。あと、仁人がコーヒー差し出すとこ、あのちょっとした勇気と「ちょうどいい温度」で、全部ひっくり返された気分になった。この温度差、ズルいわ……続きが気になる🔥