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「………篠崎さん……」
無言のままの篠崎を呼びかける。
「篠崎さん、俺……」
「いい、しゃべんなくて」
言いながら篠崎はハンドルを回した。
「何も言うな」
その感情がこもらない口調と声に、由樹はバックミラーに映る篠崎を見つめた。
整髪剤が不自然に張り付いている。
いつもより煙草の匂いもきつい。
彼は昨夜、シャワーを浴びていない。
やはり篠崎は、牧村が言ったような、由樹が一瞬でも疑ったようなことは、何もしていない。
その事実が、由樹を絶望の淵に立たせる。
浮気をしたのは―――。
裏切ったのは―――。
自分一人だ。
マンションに着くと、篠崎は由樹を後部座席から下ろし、また手を引き歩き始めた。
エレベーターのボタンを押すと、もう片方の手で、携帯電話を耳に当てた。
「ああ、ナベか。俺だ」
いつもの声。
いつもの口調。
しかし斜め後ろから見えるその顔には、表情がない。
「俺と新谷、ちょっと午前中休むから」
『………?………!…………』
聞き取れないが、渡辺のいつもの柔らかい声が少しだけ漏れてくる。
「ああ、大丈夫だよそれで。秋山さんには伝えとくから。後で届書だけ、俺のデスクに置いといて」
篠崎は通話を切ると、無言でそれを胸のポケットに戻した。
エレベーターが開く。力は緩まない。部屋までまっすぐ進むと、篠崎はドアを開けた。
玄関に入るとやっと篠崎が手を放してくれた。
「……篠崎さん、俺……」
言うと篠崎はコートを脱ぎ、クロークに掛けた。
無言で新谷のコートのボタンにも手を掛ける。
目が合わない。
視線が交わらない。
あっという間にそれを脱がすと、同じくクロークに掛ける。
「しの……」
再び手を掴まれる。
慌てて長靴を脱ぎながら、また引きずられていく。
寝室に入ると、篠崎はぐいと由樹をベッドに転がした。
「…………!」
そこまできてやっと、自分がこれから何をされるのかがわかり、由樹はベッドの上で硬直する身体を縮こませた。
篠崎が無表情のままネクタイを緩め、上着を脱ぐ。
「……や……やだ……」
痛む身体に鞭を打ち、ベッドの上を這うように逃げる。
カーペットに爪先を下ろしたところで、篠崎の手に捕まりまたベッドに転がされる。
今度は逃げられないように、篠崎が由樹の太腿を跨ぎながら体重を掛けてくる。
無言でネクタイが解かれ、ボタンが外されていく。
「………」
ワイシャツを左右に開いた篠崎の手が静止する。
「――?」
由樹もその視線に促されて見下ろすと、そこには無数のキスマークがついていた。
「っ」
思わず大きく息を吸い込んだところで押し倒された。
牧村にやられたように腕を抑えられることはない。
ただ、無言で服を脱がされていく。
「篠崎さん……」
ベルトを外される。
「篠崎さん……!」
スラックスを脱がされ、パンツをはぎとられる。
「……篠崎さ……ぐっ」
腫れあがったそこに、指を挿し入れられた。
痛みに顔をひきつらせた由樹を、篠崎が黙って見下ろしながら自らのベルトを緩める。
「……しの……」
篠崎の顔を見上げて、由樹は言葉を止めた。
動きも止め、身体の力も抜いた。
「……………」
膝を立て枕に頭を埋めた。
「………弁明なら聞くぞ」
篠崎が低い声で言いながらスラックスのチャックを下ろす。
「ただし。無理矢理された、レイプされた、は通じない。そんな相手と仲良く歩いてくるわけはないし、雪下ろしを褒めるわけねえし、何より牧村は……」
篠崎が由樹の瞳を見つめる。
「そんな卑怯なことをする男じゃない」
「…………」
由樹は篠崎を見上げた。
篠崎の切れ長な目から、一筋の涙が零れ落ちた。
(……俺は。最低だ……)
由樹は手で顔を覆った。
「弁明は……ありません」
その指の隙間から、涙が流れ落ちる。
「俺は……どうしても、篠崎さんのことを、信じられなくて……勝手に疑って、落ち込んで」
息ができない。
でも言わなければ。
言い切らなければ。
「……辛くて……苦しくて……自分から牧村さんを、誘いました」
「………」
篠崎が目を伏せると、もう一つの目からも涙が零れ落ちる。
それでも篠崎は由樹の足を掴み左右に広げた。
中は昨夜の情事で腫れあがっている。
今行為をしたら、激痛が走るだろう。
それはわかっている。
自分も、おそらくは、篠崎も――。
篠崎が自分のモノを取り出し、赤く腫れているそこに宛がった。
(拒否したくない……)
由樹はこれから訪れるだろう激痛に耐えるために唇をかんだ。
(きっとこれが、篠崎さんとする……最後のセックスだ………)
どんなに痛くても。
どんなに辛くても。
この体に、彼を刻み付けておきたいーーー。
いつまでも訪れない痛みに、由樹は目を開けた。
とっくに衣服を整えた篠崎が由樹を見下ろしていた。
「なんで……?」
「弁明しないなら、確かめる必要はねぇだろ」
「…………」
由樹が身体を起こすと、篠崎は距離を取るように、ベッドから降りた。
「一方的に話すから黙って聞けよ」
篠崎が目を合わさないまま言う。
「昨日の昼間、鈴原さんから電話があった。葵ちゃんがホテルに飽きてしまったから、家に戻ると。近所の人がストーブを貸してくれるから大丈夫だと。俺は確認した。それは石油ストーブではないですよね、と。彼女は違うと言った」
由樹は目を見開いた。昨日の日中、すでに鈴原母子は家に帰っていたのか。
「夕方、また鈴原さんから電話がかかってきた。昼寝をしていた葵ちゃんが青ざめて動かなくなったと。救急車を呼んだが、まだ到着しないと。救急車の到着の方が早いだろうが、俺はある予感があって家に駆けつけた。
やはり救急車はついていて、担架に乗せられた葵ちゃんが乗り込むところだった。家の中に入って確認したところ、そこには電気式石油ストーブがあった」
篠崎はそこで一旦息をついてから話を続けた。
「一酸化炭素中毒だと思うと、救急隊員に言った。そのまま運ばれた病院にも付き添った。幸いにして葵ちゃんの具合はすぐに良くなり、点滴をして治療は終わった。
電気ストーブという言葉を、彼女が履き違えていたことに気づかず、電話だけで済ませきちんと確認しなかったことを後悔した。
鈴原さんを送りがてら、本当の電気ストーブを買い、石油式ストーブがなぜダメなのかをもう一度説明してから、彼女の家を出た」
病院から出て送っていくところを、牧村が見たということか。
「全てが終わりお前に電話を掛けたが、電源が切れていた」
篠崎はスーツの上着に腕を通した。
「電話をかけ続けながら、予約したホテル周辺を探した。そうしたらお前の車を見つけて、その周辺の飲み屋街も見て回った。そのうちに、お前の携帯に電源が入り、コールが鳴るようになったが出なかったため、駐車場の近くに車を停め、お前が現れるのを待った」
スーツを着終わった篠崎はこちらを見下ろした。
「以上だ」
「……篠崎さん」
「一方的に話してすまないが、今は何も考えられない。お前の顔も見たくない」
「………」
由樹は俯いた。
当然だ。
「昨日のこと。今後のこと。何も判断できない。今はとにかく、一人の時間が欲しい」
「……はい」
「しばらく、俺はホテルに泊まる」
「そんな、俺が……」
由樹は篠崎を見上げたが、彼はこちらを見ずに鞄を持ち上げた。
「いい。今はこの部屋にもいたくない」
「…………」
「昼には出社しろ。じゃあな」
篠崎はリビングのガラス戸を開けた。
廊下を進むと、ドアを開け、出て行った。
スタスタと遠ざかっていく足音が聞こえていたが、ドアが閉まると同時に、何も聞こえなくなった。
由樹はがっくりと頭を落とし、深く息をついた。
救急車を呼ぶほどの事態。
篠崎には葵が一酸化炭素中毒になったかもしれないという予感があり、それを確かめたうえで、救急隊員に伝える必要があった。
そもそも床暖房が壊れなければこんなことにならなかったこと、電話だけではなく、きちんとストーブを確認しなかったことについての、責任も感じていた。
だから葵が回復するまで病院で見守り、今度このようなことが無いようにストーブを選んだ上で、2人を送っていった。
それだけだ。
それだけのことだったのに。
「……俺は………最低だ」
由樹はベッドに突っ伏した。
『どこにも行くなよ……』
一昨日の夜、熱に浮かされながら聞いた声が、突如脳裏に蘇った。
『あいつのところになんか、いくな……』
「………っ」
(………なんで今さら、思い出すんだ……!)
由樹はベッドを拳で叩いて、声の限り泣き続けた。