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アルダニ地方とサンヴィア地方を南北に分かつ様を呼びならわして、エドン、あるいは黒い崖という名を与えられた大山脈があった。標高はさほどでもなく、霧をもたらす雲にも届かないが、切り立つような峻険な山脈は、放浪の詩人や彼らの携えた金色の弦の楽の音、南から悠然と吹く風の運ぶ温かな幻想の前に立ちはだかる。
それでも気の向くままに吹き寄せる無邪気な風はケルグ山脈のわずかな切れ間に殺到し、サンヴィア南部でも有数の交易都市通り道市へと吹きこむ。南風はサンヴィア特有の冷たい空気に飛び込んで驚き、身を震わせ、太陽の温もりを求めて空高く上昇する。それ故にこの季節のマグラガはいつにも増して強い風が吹き、冬に追い立てられた渡り鳥がこれ幸いと気流に乗って舞い上がり、雲とケルグの間を通り、香り豊かな晩秋と共に南へ飛び去って行く。そうしてサンヴィアに冬が来た。
風強きケルグの切れ間を、暴れる衣を手なずけながらユカリとベルニージュは追い立てられるように北へと進んでいた。
「あれじゃない? ベル。もう魔導書を片づけないと」
ユカリの視線の先、ケルグ山脈の切れ間の出口に白い壁が見えてきた。
ベルニージュはというと、アルダニ地方で手に入れた第三の魔導書『七人のゆうしゃと七つの大ぼうけん』もとい『七つの災厄と英雄の書』に夢中になっている。文字は読めないが、内容は全て覚えてしまった。中身を翻訳するのにユカリが苦労したことは言うまでもない。
中身をすっかり覚えてしまったベルニージュの興味は、その紙質や製本技術に移っているようだ。
ユカリの見る限り、他の魔導書と変わらないはずだが、ベルニージュは隅々まで観察している。
「もう少し待って」
「まだ先だけど、気を付けてよ」
どうやら魔導書がなぜわざわざ羊皮紙に変身しているのかが気になって仕方ないらしい。
太陽が西へと傾いて特に甘い林檎のように赤く燃え、辺りを縄張りにする眼光鋭い猛禽が塒へと戻って来る頃、山脈の切れ間を通り抜けた先、マグラガ市の開かれた門に、ユカリとベルニージュはたどり着いた。
白大理石の荘重な門には、サンヴィアの美しい都にアルダニの隊商が赴く様が彫り刻まれている。その姿に己を重ね合わせて、旅人も風も吸い込まれるようにサンヴィアへと入っていく。
一方でユカリはその門の向こうから、下界へと響く山の頂の鐘の音のような、不思議でかつ力強い気配を感じ取っていた。不躾な強風と舞い散る砂粒に堪えながらケルグ山脈の切れ間を歩んでいる時から、この先に魔導書があるという確かな予感がユカリにはあった。
門の前で吹き寄せる風に気を散らされながら、ユカリは今も魔導書の確かな気配を感じている。それも今までとは違って、おおよその方向や距離までをも感じた。今までの魔導書とは違うのか、ユカリが変わってしまったのかはだれにも分からない。
そのことを旅の連れ、紅の髪に紅の瞳の魔法使い、ベルニージュに伝えると、百の質問が返ってきた。気配とは具体的にどんな感覚なのか、今までの魔導書の気配とはどう違うのか、魔導書ごとに違いはないのか。それに対して、ユカリは二、三の答えしか用意できなかった。とはいえ、ベルニージュはそれでも満足な様子だったが。
「マグラガは確かに大きな街だよ。アルダニとサンヴィアの貿易の要衝だし、ここからサンヴィア地方のあちこちへ道が続いてる」ベルニージュは唸りをあげる風に負けない声を張り上げる。「だけど魔導書の噂は聞いたことがないね。そもそもサンヴィア自体がそういう噂に乏しいから。もちろん魔法使いにとっては古くから最も興味深い土地なんだけど……」
言葉の続きを待ってベルニージュの方を見ると、何かを期待するような眼差しが返って来ていた。
ユカリは戸惑いながらも繰り返す。「えっと、興味深いの?」
期待外れの返答だったことはベルニージュの表情から明らかだった。
「ユカリは興味深くないの?」
「サンヴィアというと、白熊狩りの野薔薇卿の伝説とか、トバール傭兵の逸話とか、あとは――」
「ユカリはそうだよね」
「いま馬鹿にした!」
「風が強くてちょっと聞こえなあい」
笑いながら逃げるベルニージュをユカリは追いかける。
そうして巨大なマグラガ市門を潜り抜けると、百歩もあるだろう幅広い道、大軍勢大通りが北へまっすぐに延びている。古の時代にはアルダニより凱旋した誇り高きマグラガの軍団を出迎えた由緒ある通りだ。すり切れた石畳の様子を見るだけでも、その積み重ねてきた長い歴史が窺い知れる。そしてその通りに沿って、回転する塔のような垂直軸風車が無数に建ち並んでいた。風の音と風車のぎしぎしという軋みがユカリの耳を塞ぐ。まるで神話に語られる巨人の軍勢さながらに鬨の声を上げている。
ユカリは顔をしかめて曲げた唇で呟く。「住んでみれば慣れるんだろうけど……」
「うるさい? でも風の音や風車は魔除けの力もあるんだよ。ほら、見て。羽根車の模様が移ろってる」
ベルニージュの言う通り、確かに羽根車にはそれぞれに違う模様が黒と濃紺の塗料で描かれており、それが回転することで次々に移り変わり、模様が動いているように見えた。
「面白いね。あの模様の移り変わりに魔術的な意味があるの?」
「そうだろうね。詳しくは分からないけど、複数の魔術が互いを照応して、より強力な魔術を編み上げているんだと思う。マグラガの、東西の街を守る力もあるんじゃないかな」
マグラガの街は、閲兵式の兵隊たちのようにミグニトス大通りの左右に建ち並ぶ風車の向こうに、東西に分かれて繁栄している。
「それで、魔導書はどっちの街にあるの?」とベルニージュが東西の街を交互に眺めながらうきうきした調子でユカリに尋ねる。
ユカリは意識を集中するまでもなく、魔導書のある方向が分かった。
「東の街かな」二人はそちらへ足を向ける。ユカリは真面目な調子で話す。「それはそれとして、その前にもっと大事なことがあります」
ベルニージュは首を傾げるが、心当たりはないようだ。
「何? 何かあったっけ?」
ユカリはリトルバルムでもらった革の合切袋をぽんと叩いて答える。「もう財布がすっからかんなんだよ。まだ数日は生活できるけど、何とかして稼がないと旅を続けられない」
ベルニージュは不平を言う。「そんなの後でいいよ。いつでもできることじゃん」
「それを言えばこの魔導書だってそうだよ。距離も方向も分かるんだから、急ぐことはない。大体飢餓を退ける魔導書の奇跡がなくなった途端、沢山食べ始めたのはベルだからね。だから少しは食べた方が良いって言ったのに。何より、最近のベルは食事を楽しみにしているよね? いいの? お肉、食べたくないの?」
「それは、そうだけど、でも」ベルニージュは矛先をそらす。「そもそもユカリは何して稼ぐの? 街で狩りはできないと思うけど」
思わぬ問いかけにユカリは少したじろぐ。
「何って、何かあるでしょ」と言って指折り数える。「洗濯とか水汲みとか。手芸もちょっとできるし」
「ちょっとした小遣い稼ぎだね」ベルニージュは得意顔で返す。「ワタシは占いとかまじないとかできるよ。あとこういう街なら通訳の需要もあるかも。そうだ。通訳ならユカリもできるんじゃない?」
ユカリは首を振って強く否定する。
「できるかもしれないけど、やらないよ。あの魔法は人に使いたくないから」
「何で?」
「人の何が喋り出すか分からないからだよ」
少しの沈黙の後にベルニージュは頷き、何かに聞かれるのを恐れるように呟く。「それは確かに、ぞっとしないね」
二人は天に掴みかかる巨人のような唸り声をあげる風車塔の間を通り抜けて、マグラガの東街とその活気ある街路、その悪気ない喧噪へと分け入る。行き交う人々は風車の存在に気づかないかのように言葉を交わし、しかし確かに他の土地の人々に比べて大きな声を出している。
街を形作っているのはほとんどが日干し煉瓦の建物で、神殿や公共施設のような重要な建築物は宗教的な意味合いの濃紺や黒の塗料で覆われている。何も知らぬ旅人が見れば、そこには神聖性よりも禍々しさを感じてしまうだろう。しかしそれは間違いなく、人々に喜びを齎し、恐れを遣わし、驚きを賜う神々を奉り、寿いでいる。
二人は安宿を探した。安い宿には安い理由がある。街道沿いの宿泊施設では珍しくもないが、寝具も食事も薪も自己負担になるような宿だ。ただ軒を貸すだけである。大部屋に旅人たちは詰め込まれ、臭いと地虫に悩まされることになる。ここまでの旅でもユカリたちは何度か利用してはいるが、避けられるならそれに越したことはない。
見つけた宿はまさにそのような宿であることが外観からも分かった。日干し煉瓦にひびが入り、扉も窓もなくて、ただ布が張っているだけだ。出入りする客の人相もそれ相応というものだった。
宿に入る前にベルニージュが立ち止まり、ユカリの袖をつかんで引き留める。
「やっぱり稼いで、もうちょっとましなところに泊まろう。ここ最近ずっと野宿だったし、ユカリ、疲れてるでしょ?」
ユカリはベルニージュの意図を汲んで同意する。「そうだね。疲れてるかも。それじゃあ、先に仕事を探そうか」
ベルニージュは首を横に振って答える。「いや、ユカリは魔導書の方を当たってよ。とりあえずは様子見でね。場所だけでも把握しておこう。危険がなさそうなら、そのまま持ち帰って。難しそうなら後で報告してね」
意外な提案だとユカリは思った。ベルニージュは魔導書のこととなると必ず自分自身が関わろうとするものだ。
「いいけど、いいの?」とユカリは念のために尋ねる。
「それぞれの得意分野を活かすだけだよ。合理的でしょ?」とベルニージュは得意そうに言った。
「そうだね。いや、ちょっと待って」ユカリははたと気づく。「私だってベルと出会うまでは一人旅……に近い旅をしていたし、お金だって……」
かなり運が良かったと言える。ユカリは難しい顔をしたまま、次の言葉が出てこない。
「まあまあ、お姉さんは分かってるからね。ユカリはできる子だよね」ユカリが何か言い返す前にベルニージュは言葉を繋ぐ。「冗談はさておき、そっちはユカリしか出来ないんだからさ。よろしくね」
元々自分が提案したことのはずなのに、どうにも丸め込まれたような感じがしてユカリはすっきりしなかった。