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第十九話 智慧の羽根、願いの原罪
朝の光は、まだ弱かった。
衛宮邸の台所には、少し焦げた卵焼きの匂いが残っている。
イリヤが作った、初めての卵焼き。
形は崩れていた。
塩は少し多かった。
巻き方も不格好だった。
けれど、誰もそれを失敗とは呼ばなかった。
イリヤが「次は甘くする」と言ったからだ。
次。
たった二文字の言葉。
だが、死を越えて戻ってきた少女にとって、その言葉は何よりも重い。
次がある。
明日がある。
作り直せる。
もう一度、食卓に立てる。
それだけで、衛宮士郎は胸が苦しくなるほど救われていた。
だが、黒い神杯は待たない。
冬木の空に浮かぶ黒い杯には、深い亀裂がいくつも走っている。
終末。
祝祭。
裁き。
愛憎。
創造。
死。
王権。
月影。
豊穣。
狩猟。
因果。
海。
十二の層を越えた。
神杯の核は、もう遠くない。
けれど、核へ近づくほど、問いは鋭くなる。
次に開いた層は、智慧。
知ること。
知らないままでいること。
そして、知ってしまった後、それでも前へ進めるのかという問い。
◆
柳洞寺の地下大空洞は、静まり返っていた。
かつて聖杯の儀式に関わった場所。
今は神杯の根が、深い地層のさらに奥へ伸びている。
そこへ向かう石段を、士郎たちは降りていた。
衛宮士郎。
遠坂凛。
アルトリア。
アーチャー。
ジャンヌ。
メディア。
エルキドゥ。
ギルガメッシュ。
リチャード一世。
ランスロット。
クー・フーリン。
バゼット。
桜。
メドゥーサ。
イリヤ。
アルターエゴ。
人数は増えた。
立場も違う。
願いも違う。
過去も傷も、それぞれ違う。
それでも、今は同じ場所へ向かっている。
神杯の核へ。
凛は宝石板を確認しながら言った。
「智慧神反応、地下大空洞の最奥。前にメディアが逆接続式を張ってた場所ね」
メディアが少しだけ笑う。
「まさか、またここへ戻ることになるとはね。神杯も随分と律儀だわ」
アーチャーが周囲を警戒する。
「律儀ではなく、ここが構造上の要所なのだろう。柳洞寺、大聖杯跡、神杯の根。すべてが重なっている」
イリヤは士郎の隣を歩いていた。
以前よりも足取りはしっかりしている。
豊穣の種が彼女の中で根づき始めた証だった。
それでも、士郎は時々彼女の様子を見てしまう。
イリヤはそれに気づき、少しだけむっとする。
「お兄ちゃん、見すぎ」
「悪い」
「心配するのはいいけど、歩けるから」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは自信持って」
その会話に、桜が小さく笑った。
凛も少しだけ表情を和らげる。
だが、その空気はすぐに変わった。
地下大空洞の扉が開く。
中には、銀色の光が満ちていた。
壁一面に神代文字が浮かび、天井には無数の瞳のような紋様が開いている。
床には巨大な円形の陣。
その中央に、灰銀髪の女神が立っていた。
智慧神アテナ。
白青の鎧。
肩には梟。
手には瞳の紋様が刻まれた盾。
その隣には、一人の青年がいる。
東雲カナタ。
落ち着いた表情の、細身の魔術師。
瞳には知識への渇望と、知ってしまった者特有の疲れが宿っている。
アテナは士郎たちを見て、静かに言った。
「よくここまで辿り着きました」
凛が一歩前へ出る。
「あなたは敵? 味方?」
アテナは少しだけ微笑む。
「その問いに、今の時点で答えるのは難しいですね。私は智慧神。知ることを促す者です。けれど、知ることが常に救いになるとは限りません」
メディアが冷たく言う。
「相変わらず回りくどいわね」
「魔女は相変わらず率直ですね」
「遠回しに言われるのが嫌いなだけよ」
士郎はアテナを見る。
「神杯のことを知ってるんだな」
「ええ」
アテナは頷いた。
「少なくとも、あなたたちよりは」
ギルガメッシュが不快そうに鼻を鳴らす。
「神杯の真実だと? もったいぶるな。さっさと出せ」
アテナは英雄王を見た。
「真実とは、宝物庫の扉を開けるようにはいきません。知れば戻れないものもあります」
「戻るつもりなど最初からない」
「でしょうね」
アテナは士郎へ視線を戻す。
「衛宮士郎。あなたに問います。神杯の正体を知りたいですか」
士郎は即答しかけた。
だが、止まった。
知りたい。
神杯を止めるためには、知らなければならない。
けれど、アテナの言葉には重みがあった。
知ることで、誰かの心を傷つけるかもしれない。
知ることで、戻れなくなるかもしれない。
知ることで、救うべきものが変わってしまうかもしれない。
イリヤが士郎の袖を掴んだ。
士郎は彼女を見る。
イリヤは怖そうだった。
だが、目を逸らしてはいなかった。
「知った方がいいんでしょ」
イリヤが言った。
「たぶん」
士郎は頷く。
「でも、イリヤが聞きたくないなら――」
「聞く」
イリヤは遮った。
「私、もう勝手に決められるの嫌だもん。怖くても、知らないままにされる方がもっと嫌」
その言葉に、凛が少しだけ目を伏せた。
桜も静かに頷く。
ジャンヌが旗を抱きしめる。
「ならば、私も聞きます。祈りが何に利用されているのか、知らなければ止められません」
アルトリアは剣に手を添える。
「王として、知らぬまま民を守ることはできません」
アーチャーは士郎を見る。
「聞け、衛宮士郎。知らずに進む方が危険な時もある」
士郎は息を吐いた。
そしてアテナを見た。
「知りたい。神杯が何なのか。誰が作ったのか。何のために、願いを燃やしてるのか」
アテナは静かに頷いた。
「では、智慧の層を開きます」
◆
銀色の羽根が舞った。
アテナの肩にいた梟が羽ばたく。
その羽根が地下大空洞全体に広がり、空間が書き換わっていく。
神域展開。
「智慧神域――パラス・アレーテイア」
世界は、巨大な書庫になった。
壁も床も天井も、すべてが書架で埋め尽くされている。
そこには本だけでなく、石板、羊皮紙、剣、杯、骨、花、割れた鏡、燃えた旗、砕けた宝石が並んでいた。
すべてが記録。
人の願い。
英雄の後悔。
神の退屈。
死者の未練。
それらが文字ではなく、記憶そのものとして保存されている。
中央には、黒い本が浮かんでいた。
表紙には何も書かれていない。
アテナはその本を指した。
「これが、神杯誕生の記録です」
凛が息を呑む。
「読めるの?」
「読むというより、見せられます」
メディアが眉をひそめる。
「精神干渉?」
「記録投影です。ですが、痛みは伴います。真実とは、時に刃より鋭い」
ギルガメッシュが腕を組む。
「早くしろ」
アテナは黒い本を開いた。
瞬間、世界が変わった。
◆
そこは、冬木ではなかった。
古い儀式場。
どこの国とも言い切れない。
石造りの神殿にも、魔術工房にも、墓所にも見える場所。
中央には大きな杯がある。
それは白かった。
黒い神杯ではない。
もっと純粋で、もっと危うい白。
周囲には、魔術師たちがいた。
名前も顔もはっきりしない。
けれど、彼らの願いは分かる。
失われたものを取り戻したい。
争いを終わらせたい。
死者の声を聞きたい。
神々の智慧を得たい。
英雄の後悔を救いたい。
彼らは願いを叶える杯を作ろうとしていた。
聖杯ではない。
神の杯でもない。
人と神と英雄と死者、そのすべての願いを受け止める器。
最初の目的は、悪ではなかった。
士郎はその光景を見て、胸が重くなる。
悪意から始まったわけではない。
それが、余計に痛い。
記録の中で、一人の少女が杯の前に立っていた。
白い髪。
透き通るような肌。
年齢は幼く見える。
だが、その瞳には空洞のような深さがある。
名前は表示されない。
ただ、役割だけが浮かぶ。
最初の器。
イリヤが息を呑んだ。
「私みたい……」
凛が拳を握る。
メディアの表情が険しくなる。
少女は器として作られた存在だった。
願いを受け止めるために。
祈りを保存するために。
神と人の間に立つために。
魔術師たちは彼女を大切に扱っているように見えた。
しかし、それは人としてではない。
器として。
壊れないように。
汚れないように。
余計な願いを持たないように。
少女は、杯の前で小さく呟いた。
『願いって、どこへ行くの?』
誰も答えなかった。
魔術師たちは儀式の準備に忙しい。
少女は続ける。
『叶わなかった願いは、消えちゃうの?』
その問いにも、誰も答えない。
少女は杯に手を触れた。
『消えないでほしい』
その一言が、すべての始まりだった。
願いが叶わなくても。
誰にも聞かれなくても。
死者の声になっても。
英雄の後悔になっても。
神の退屈に飲まれても。
願いが消えないでほしい。
少女の祈りは、あまりにも優しかった。
だが、器はその祈りを正しく処理できなかった。
杯は願いを保存しようとした。
叶えるのではなく、消さないために集めた。
集めるために燃やした。
燃やして、記録し、記録して、また集めた。
願いは保存された。
だが、持ち主から切り離された。
それはもう願いではなく、燃料だった。
白い杯が黒く染まっていく。
少女の声が響く。
『消えないで』
杯は答える。
『ならば、燃やせばよい』
士郎の背筋が冷たくなった。
神杯は最初から悪意だったわけではない。
消えないでほしいという願いを、最悪の形で叶え続けている。
アテナの声が神域に響く。
「神杯とは、願いを叶える杯ではありません。願いを消さないために、願いを燃料化する炉です」
凛が震える声で言う。
「じゃあ、神杯は……願いを守ろうとして壊れた?」
「そうです」
アテナは淡々と答える。
「願いは持ち主の中で変わります。諦めることもある。忘れることもある。別の形に育つこともある。けれど神杯は、それを許さない」
メディアが低く言う。
「消えないように固定する。固定するために切り離す。切り離した願いを燃料にする」
アテナは頷いた。
「そして、願いの持ち主が死んでも、願いだけが残る。死者の未練、英雄の後悔、神の退屈。すべてが杯へ蓄積される」
士郎は黒い本を見つめた。
「じゃあ、イリヤが呼ばれたのも」
アテナは目を伏せる。
「彼女の願いが強かったからです。会いたい。怒りたい。終わりたい。生きたかった。その矛盾した願いは、神杯にとって極めて強い燃料でした」
イリヤの顔が白くなる。
士郎は思わず彼女の前に立とうとした。
だが、イリヤは首を振る。
「大丈夫」
声は震えている。
でも、彼女は聞くことをやめなかった。
アテナは続ける。
「衛宮切嗣も同じ。未完の正義、選び続けた死への責任。それが死の層で再構成された」
士郎の胸が重くなる。
切嗣。
父との再会さえも、神杯にとっては燃料だった。
それでも、あの別れは神杯のものではなかった。
士郎はそう信じる。
アテナは黒い本のページをめくる。
次の光景が現れた。
黒い法衣の男がいた。
以前、教会地下で十五枚の羊皮紙を記録していた男。
彼は神杯の儀式を観測し続けている。
名が浮かぶ。
鷺宮 玄礼。
教会に属していたはずの記録者。
神杯戦争の監査役。
だが実際には、神杯の成長を見守る者。
凛が鋭く言う。
「こいつ……前に教会地下で出てきた黒法衣の男」
アテナは頷く。
「彼は神杯を作った初代の魔術師ではありません。ですが、神杯を現代の冬木へ接続した人物です」
「目的は?」
士郎が問う。
アテナは少しだけ沈黙した。
「彼は、願いの完全保存を望んでいます」
「完全保存?」
「誰の願いも失われない世界。忘却も、諦めも、死も、時間も、願いを消せない世界」
ジャンヌの表情が悲しげに歪む。
「それは、救いなのでしょうか」
アテナは静かに答える。
「彼は救いだと信じています」
記録の中で、鷺宮玄礼が黒い神杯の前に跪いている。
『叶わなくていい』
彼は言った。
『消えなければいい。人が忘れ、神が捨て、英雄が後悔し、死者が沈黙しても、願いだけは残るべきだ』
神杯が脈打つ。
『願いを保存する』
玄礼は微笑む。
『そうだ。すべての願いを、永遠に』
その瞬間、神杯の黒い光が冬木へ伸びる。
英霊の座へ。
神々の座へ。
死者の残響へ。
過去の聖杯戦争の記録へ。
叶わなかった願いへ。
すべてが繋がっていく。
アテナの声が響く。
「これが神杯戦争の正体です。聖杯戦争を模した器に、神々の座と英霊の座を同時接続し、願いの強度を競わせる儀式」
凛が唇を噛む。
「勝者の願いを叶えるんじゃなくて」
メディアが続ける。
「最も強い願いを核として保存するための選別」
士郎は拳を握った。
「じゃあ、最後に残った願いは」
アテナが答える。
「永遠に燃やされ続けます」
その言葉に、全員が沈黙した。
永遠に叶うのではない。
永遠に消えない。
しかし、持ち主の手から奪われ、燃料として保存される。
それは救いではない。
願いの剥製だ。
◆
神域の書庫が揺れた。
黒い本から、黒い根が伸び始める。
神杯が、智慧の層へ干渉してきた。
アテナの盾が光る。
「真実を見せたことで、神杯が防衛反応を起こしました」
ギルガメッシュが笑う。
「ようやくか。退屈な読書の時間は終わりだな」
黒い根は文字を食べ始めた。
書庫に並ぶ記録が、次々と黒く染まっていく。
凛が叫ぶ。
「神杯が記録を消そうとしてる!」
アテナは首を横に振る。
「違います。消すのではありません。固定しようとしているのです」
ジャンヌが目を見開く。
「固定?」
「あなたたちが見た真実を、神杯に都合の良い形で固定する。つまり、“神杯は願いを守るもの”という結論だけを残そうとしている」
メディアが舌打ちする。
「最悪ね。真実まで燃料にするつもり?」
黒い根から、無数の声が響く。
『消えたくない』
『忘れないで』
『叶わなくてもいい』
『残して』
『願いを保存して』
その声は、悲痛だった。
悪意ではない。
だからこそ、厄介だった。
士郎は耳を塞ぎそうになる。
願いが消えないでほしい。
その気持ちは分かる。
忘れられたくない。
なかったことにされたくない。
誰かに覚えていてほしい。
それは人として当然の願いだ。
でも。
士郎はイリヤを見る。
イリヤは震えながらも立っている。
彼女は終わりたい願いを、神杯に保存されかけた。
でも今は、生きる方を選んでいる。
願いは変わる。
変わるから、人は生きていける。
「固定するな」
士郎は呟いた。
黒い根が迫る。
セイバーが前へ出る。
聖剣が黒い根を斬り払う。
ランスロットがその隣で剣を振るう。
クー・フーリンの槍が根の支点を穿ち、バゼットの拳が根の因果を砕く。
ギルガメッシュの宝具が書庫を貫き、エルキドゥの鎖が記録棚を守る。
ジャンヌの旗が願いの声を包み、桜の影が黒い根の侵食を受け止める。
メドゥーサの鎖が書庫の床を走り、アルターエゴが浮かぶ文字列を読み取って叫ぶ。
「神杯防衛式、願望固定処理を開始。対象、全員の記憶」
凛の顔が青ざめる。
「こっちの記憶まで固定する気!?」
メディアが杖を掲げる。
「記憶を守りなさい! 自分の願いを神杯に定義させたら終わりよ!」
黒い根が士郎へ伸びる。
そこに映る。
士郎の願い。
誰かを助けたい。
正義の味方になりたい。
誰も切り捨てたくない。
神杯がそれを固定しようとする。
『衛宮士郎は、誰も救えなければならない』
士郎の胸が詰まる。
その言葉は、呪いに近い。
助けたい願いが、助けなければならない義務へ変わる。
アーチャーの声が飛ぶ。
「衛宮士郎! 飲まれるな!」
士郎は歯を食いしばる。
「分かってる!」
彼は投影する。
剣ではない。
消しゴムでもない。
しおり。
読みかけの本に挟む、ただのしおり。
願いを終わらせないためではなく、今はここまでと区切るためのもの。
「投影、開始!」
士郎は黒い根が自分の願いを固定する前に、その記録へしおりを挟んだ。
固定ではない。
保留。
今の答えを永遠にしないための区切り。
黒い根が揺らぐ。
アテナの瞳がわずかに見開かれる。
「願いに保留を挟む……なるほど」
士郎は叫ぶ。
「願いは、変わっていいんだ!」
その言葉が、書庫全体に響く。
イリヤが胸元の種を握る。
「私は、終わりたいって思った。でも今は、生きたい!」
桜が続ける。
「私は、影を隠したかった。でも今は、抱えて進みたい」
ジャンヌが旗を掲げる。
「私は裁きではなく、祈りを選びました」
ランスロットが剣を握る。
「私は罰を望んだ。ですが今は、罪を抱えたまま王に剣を捧げる」
アルターエゴが静かに言う。
「私は完成を望むよう設計された。ですが今は、未完成を選ぶ」
バゼットが拳を構える。
「私は決着を求めた。ですが今は、自分の戦いを神杯に渡さない」
クー・フーリンが笑う。
「オレは戦えりゃいいと思ってたが、勝手に槍を使われるのは気に食わねぇ」
ギルガメッシュが腕を組む。
「願いを固定するだと? 宝を腐らせる愚行だ」
エルキドゥが穏やかに言う。
「変わるから、命は面白いんだ」
アテナは盾を掲げた。
「智慧とは、答えを固定することではありません。問い続けることです」
銀の盾から光が広がる。
書庫に満ちていた黒い根が、少しずつ剥がれていく。
だが中心の黒い本だけは、まだ神杯と繋がっている。
凛が叫ぶ。
「士郎! 黒い本と神杯の接続線、見える! あれを切れば智慧の層が開く!」
「分かった!」
士郎は走る。
黒い根が迫る。
アーチャーが矢で道を開く。
「今度は何を作る!」
「本を閉じるもの!」
「何だそれは!」
士郎は手を伸ばす。
投影するのは、鍵ではない。
剣ではない。
鎖でもない。
留め具。
本を勝手に閉じられないようにするものではなく、勝手に決定稿にされないようにするための留め具。
まだ書き換えられる。
まだ続きを書ける。
まだ答えを変えられる。
そのための、不格好な金具。
「投影、開始!」
士郎は黒い本へ留め具を叩き込んだ。
神杯が黒い光を放つ。
『願いを保存する』
士郎は叫ぶ。
「保存するな! 返せ!」
アテナの盾が光る。
凛とメディアの術式が接続線を可視化する。
エルキドゥの鎖がそれを縛る。
ギルガメッシュの宝具が黒い根を撃ち抜く。
ジャンヌの旗が願いの声を包む。
アルトリアの剣が道を切り開く。
イリヤの豊穣の種から、小さな光が伸びる。
桜の影がその光を支える。
アルターエゴが記録の改竄式を逆算する。
「願望固定処理、解除可能。必要条件、本人による願望変化の承認」
士郎は黒い本へ手を置いた。
「願いは、持ち主が変えていい」
その一言が、接続線を裂いた。
黒い本が閉じる。
いや、閉じたのではない。
白紙のページが最後に一枚残った。
そこには、まだ何も書かれていない。
アテナが静かに言った。
「智慧の層は開かれました」
◆
神域が解けると、士郎たちは柳洞寺地下大空洞に戻っていた。
黒い本は消えている。
代わりに、銀の羽根が一枚、士郎の手の中に残っていた。
凛が宝石板を見る。
「神杯核への接続路、さらに深部まで開いた……すごい。もう核の外殻がほとんど見えてる」
メディアが険しい顔で言う。
「でも、同時に神杯側もこちらを完全に認識したわね。次からは防衛層ではなく、核そのものの反撃が来るかもしれない」
アテナは静かに頷いた。
「その通りです」
士郎は彼女を見る。
「神杯を壊すには、どうすればいい」
アテナは少し沈黙した。
そして答える。
「壊すだけでは足りません」
「どういうことだ」
「神杯を破壊すれば、保存されていた願いは行き場を失います。死者の未練、英雄の後悔、神の残響。すべてが解放され、冬木へ逆流するでしょう」
凛の表情が強張る。
「じゃあ、壊せないの?」
「いいえ。壊さなければなりません。ただし、壊す前に願いを返す必要があります」
ジャンヌが問う。
「すべての願いを、持ち主へ?」
アテナは首を横に振る。
「すべては不可能です。持ち主が消えた願いも多い。だから必要なのは、願いを燃料ではなく、眠れる種へ戻すこと」
イリヤが胸元に手を当てる。
「種……」
デメテルの豊穣の種。
願いを一瞬で叶えるのではなく、時間をかけて育てるもの。
アテナは続ける。
「終末、祝祭、裁き、愛憎、創造、死、王権、月影、豊穣、狩猟、因果、海、智慧。あなたたちは多くの層で、願いを神杯から取り戻してきました。その記録が、神杯の中に傷として残っています」
士郎は黒い神杯を見上げるように天井を見る。
「それを使うのか」
「はい。神杯の核へ到達した時、それらの層で取り戻した願いを束ねる必要があります。燃料ではなく、種として」
凛が呟く。
「つまり、神杯を願望炉から、願いを眠らせる畑に変える……?」
メディアが目を細める。
「かなり無茶ね。でも、不可能ではないかもしれない。デメテルの種、アテナの記録、メディアの神代術式、遠坂の霊脈制御。材料は揃いつつある」
ギルガメッシュが鼻を鳴らす。
「ようやく壊すだけではない話になったか」
士郎は拳を握った。
壊すだけではない。
返す。
眠らせる。
変わることを許す。
それが神杯への答えになる。
アテナは最後に言った。
「ですが、注意してください。神杯の核には、最初の器の願いが残っています」
イリヤが小さく息を呑む。
「最初の器……あの女の子」
「はい」
アテナの表情に、珍しく悲しみが浮かんだ。
「あの少女はまだ願っています。願いが消えないでほしい、と。その願いを否定するだけでは、神杯は止まりません」
士郎は静かに頷いた。
「否定しない。でも、燃やすのは止める」
アテナは微かに微笑む。
「それができるなら、あなたたちは神杯の核へ進めるでしょう」
◆
柳洞寺を出る頃、夜はまた深くなっていた。
冬木の空の黒い神杯には、これまでで最も大きな亀裂が入っている。
その奥に、かすかな白い光が見えた。
黒く染まる前の、最初の杯の光。
イリヤはその光を見上げていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ」
「あの子、私に似てたね」
士郎はすぐには答えられなかった。
最初の器。
願いを消したくないと願った少女。
彼女はイリヤと同じではない。
けれど、重なる部分は確かにあった。
器として作られたこと。
願いを持たないようにされたこと。
そして、最後には自分の願いが儀式を変えてしまったこと。
イリヤは静かに言う。
「あの子の願いも、返せるかな」
士郎は彼女を見る。
イリヤの表情は怖がっていた。
でも、優しかった。
自分を燃料にした神杯の奥にいる少女を、それでも気にしている。
士郎は答えた。
「返す」
「うん」
「でも、イリヤも一緒にいてくれ」
イリヤは少し驚いた顔をした。
「私?」
「ああ。たぶん、あの子の気持ちを一番分かるのはイリヤだ」
イリヤは胸元の豊穣の種を握る。
少しだけ迷ってから、頷いた。
「分かった」
その横で、アルターエゴが静かに言った。
「私も理解可能性があります」
士郎が振り返る。
「アルターエゴ?」
「最初の器は、願いを持たないよう設計された存在。私は、完成後に願いを入力される予定だった存在。類似性があります」
イリヤはアルターエゴを見る。
「じゃあ、一緒に行こ」
「同行承認」
「そこは普通に、うん、でいいよ」
「うん」
イリヤは少し笑った。
その小さなやり取りを聞いて、士郎も笑った。
神杯の真実を知った夜。
それでも、笑える瞬間がある。
なら、まだ大丈夫だと思えた。
◆
だが、神杯は沈黙しなかった。
黒い杯の亀裂から、今までとは違う音が響く。
鼓動。
まるで心臓のような音。
凛の宝石板が激しく警告を鳴らす。
「神杯核、起動反応……! 次の層じゃない。これは核そのものの防衛機構!」
メディアが顔を険しくする。
「ついに来たわね」
空の黒い杯から、白と黒が混ざった光が落ちる。
その光の中に、人影が立っていた。
白い少女。
最初の器に似た姿。
だが、その目は黒く濁り、背中には無数の願いの糸が伸びている。
神杯の核が作り出した、願望保存の化身。
名もなき器。
彼女は冬木の空に立ち、静かに告げた。
「願いは、消してはいけない」
その声は幼く、悲しく、そして空っぽだった。
「だから、全部集める」
黒い神杯の亀裂がさらに広がる。
冬木全域の空に、無数の願いの糸が垂れ下がる。
士郎は拳を握った。
ついに、神杯の核が動き出した。
神杯戦争、第十九夜。
智慧の層は開かれ、神杯誕生の真実が明かされた。
願いを守るために生まれた杯は、願いを燃やす黒い炉へ変わった。
そして今、その中心にいる最初の器が、士郎たちの前に姿を現す。
次なる戦いは、もはや防衛層ではない。
神杯核との直接対話。
願いは、消えていいのか。
変わっていいのか。
眠っていいのか。
それとも、永遠に燃やされるべきなのか。
第二十話へ続く。
コメント
1件
ああああもうすっごい感慨深かった…!!!😭💕 神杯って単純な悪じゃなくて、「願いを消したくない」っていう優しさの裏返しだったんだね…それが燃料になるって皮肉すぎるし、アテナの層で真実を知る士郎たちの葛藤が胸に刺さったよ。特に「願いは変わっていい」って叫んだシーン、マジでエモすぎて泣いた…🥺✨ イリヤちゃんも一緒にいるって決めたのが尊すぎぃ…!次回、最終決戦っぽくて緊張するけど、みんなで願い返してほしいな⋆♡