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聖杯
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聖杯
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第六話 返事の庭に、桃色の約束を
遠坂邸へ戻った時、夜はまだ明けていなかった。
冬木大橋での戦いから帰還した一行を迎えたのは、静まり返った屋敷と、結界に守られた冷たい空気だった。
遠坂邸の門をくぐった瞬間、衛二はようやく体の芯に溜まっていた疲労を自覚した。
足が重い。
肩が痛い。
魔術回路が熱を持ちすぎて、逆に冷たく感じる。
無窮剣界。
アンリミテッド・ブレイド・レルム。
それを本格的に展開した代償は、想像以上に大きかった。
固有結界は魔術ではない。
世界の上書きだ。
内側にある世界を外へ押し出し、現実を一時的に塗り替える大魔術。
衛二はそれを、神杯の欠片が放つ願望干渉の只中で展開した。
無茶だった。
その自覚はある。
あるからこそ、母に怒られることも分かっていた。
だが今の衛二にとって、それ以上に問題なのは――。
「エイジ、歩ける? ねえ、ほんとに歩ける? やっぱりボクが抱えようか?」
隣にいる桃色の騎士が、過保護を限界突破していることだった。
アストルフォは帰り道からずっと衛二の手を離していない。
遠坂邸の玄関に入ってからも、靴を脱ぐ時でさえ、ぎりぎりまで手を握ったままだった。
そして今、廊下を歩く衛二の横で、落ち着きなく視線を動かしている。
「歩けるって」
「さっきからちょっとふらふらしてる」
「魔力を使いすぎただけだ」
「それは歩ける理由じゃなくて、歩かせちゃだめな理由だよ!」
「アストルフォ」
「なあに?」
「顔が近い」
「心配してるから!」
アストルフォは真剣だった。
いつもの明るさはある。
けれど、その奥にまだ恐怖が残っている。
地下霊脈で縛られた時。
神杯の欠片が衛二に「器になれ」と囁いた時。
無窮剣界が展開され、世界が反転した時。
アストルフォも怖かったのだ。
衛二が器になるかもしれないこと。
自分の声が届かなくなるかもしれないこと。
その恐怖を、明るさで包んで隠している。
衛二は小さく息を吐いた。
「……分かった。少しだけ支えてくれ」
アストルフォの顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
「嬉しそうにするところか?」
「だって、エイジがちゃんと頼ってくれたから!」
アストルフォは衛二の腕をそっと取った。
強く引っ張るのではなく、支えるように。
いつもの勢い任せではない、驚くほど丁寧な触れ方だった。
衛二は少しだけ驚いた。
「アストルフォ、そういう支え方もできるんだな」
「どういう意味!?」
「いや、いつも勢いよく抱きついてくるから」
「それはエイジがぎゅーしたくなる顔してるからだよ」
「どんな顔だよ」
「甘やかされたいのに我慢してる顔」
「……」
「当たり?」
「ノーコメント」
「当たりだ」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、衛二の胸が少し軽くなる。
リビングに入ると、士郎がすでに温かい茶を用意していた。
凛はテーブルの上に宝石と医療用礼装を並べ、魔術回路検査の準備をしている。
ユイは封印布に包まれた神杯の欠片を、厳重な結界箱へ収めていた。
ミライは部屋の隅に静かに立ち、まだ所在なさげにしている。
月蝕教団の観測役だった少女。
けれど今の彼女は、敵というより、帰る場所を失った迷子のように見えた。
凛が衛二を見る。
「座りなさい」
「はい」
逆らう余地のない声だった。
衛二はソファへ座る。
するとアストルフォが当然のように隣へ座った。
近い。
肩が触れている。
凛の眉が少し動いた。
「アストルフォ」
「はい!」
「衛二の魔術回路を見るから、少し離れなさい」
アストルフォは一瞬、しょんぼりした顔になった。
だが、すぐに衛二の手を握ったまま言う。
「手だけは握っててもいい?」
「検査の邪魔にならないなら」
「邪魔しません!」
「本当に?」
「がんばります!」
「そこは断言しなさい」
凛はため息をついたが、それ以上は止めなかった。
衛二は横目でアストルフォを見る。
「無理に握ってなくても大丈夫だぞ」
「ボクが握りたいの」
「……そうか」
「あと、エイジが遠くに行かないように」
その声が、少しだけ小さくなった。
衛二は言葉を失った。
凛が検査礼装を起動する。
蒼い魔術光が衛二の腕から胸元へ広がり、魔術回路の状態を読み取っていく。
士郎は湯呑みを衛二の前に置いた。
「熱いから気をつけろ」
「ありがとう」
「アストルフォの分もある」
「わーい! シロウのお茶!」
アストルフォは嬉しそうに湯呑みを受け取った。
その姿を見ていると、さっきまで神杯の欠片に縛られていたのが嘘のようだった。
でも嘘ではない。
衛二は見ていた。
アストルフォの霊基が揺らぎ、桃色の光が弱まるところを。
守りたい。
そう願った。
あの時の願いは、今も胸の奥に残っている。
神杯に渡さなかっただけで、消えたわけではない。
凛が検査結果を見て、眉を寄せた。
「魔術回路に大きな損傷はないわ。ただし、過負荷。今日はもう魔術禁止」
「分かった」
「明日も禁止」
「……明日も?」
「当然」
「でも、沈黙冠の残響が」
「それを調べるのは私たちの仕事。あんたは休む」
凛の声は鋭い。
だが、そこには怒りより心配が滲んでいた。
「衛二。今回は本当に危なかった。無窮剣界が安定したからよかったものの、一歩間違えれば、あんた自身が願望干渉に飲まれていた」
「分かってる」
「分かってない」
凛の言葉が強くなる。
リビングの空気が少し張り詰めた。
士郎は何も言わない。
ユイも、ミライも黙っている。
アストルフォだけが、衛二の手を握る力を少し強めた。
凛は深く息を吸った。
「母親として言うわ。あんたが無事で、本当によかった」
衛二は目を見開いた。
凛は視線を逸らさなかった。
「魔術師としてなら、あの判断は正しかったかもしれない。遠坂家次期当主としても、神杯の欠片を止めるためなら必要だったのかもしれない。でも、母親としては心臓が止まりそうだった」
「母さん……」
「次に無茶をする時は、せめて帰ってきてからちゃんと怒られる覚悟をして行きなさい」
「そこは無茶するな、じゃないのか?」
「言って止まるなら、苦労しないわよ」
凛は小さくため息をついた。
士郎が苦笑する。
「凛らしいな」
「士郎も人のこと言えないでしょう」
「まあな」
士郎は衛二を見た。
「衛二。俺からも一つだけ」
「何?」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
その言葉は、説教よりも効いた。
胸の奥がじんと熱くなる。
衛二は視線を落とした。
「……ただいま」
士郎が穏やかに笑う。
「ああ。おかえり」
リビングに、少しだけ温かい沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、アストルフォだった。
「エイジ」
「何?」
「ボクからも言っていい?」
「ああ」
アストルフォは衛二の手を両手で包んだ。
その表情は、いつになく真剣だった。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
衛二は息を止めた。
「ボクの声を聞いてくれて、ありがとう。器にならないでいてくれて、ありがとう。ボクを助けてくれて、ありがとう」
アストルフォの瞳が少し潤んでいる。
「エイジが帰ってきてくれたから、ボク、今こうして手を握れてる」
「アストルフォ……」
「だから今日は、いっぱい甘やかされてください」
「急に敬語?」
「本気のお願いだから!」
アストルフォは胸を張った。
「エイジは今日、甘やかされる義務があります!」
「義務なのか」
「義務です!」
凛が腕を組む。
「まあ、今日はそれでいいわ」
「母さんまで」
「休ませるためよ。アストルフォ、衛二が魔術を使おうとしたら止めなさい」
「了解!」
「寝るまで見張りなさい」
「任せて!」
「ただし、夜更かしさせない」
「うっ」
「返事」
「はい!」
衛二は目を細めた。
「俺の扱い、病人より厳しくないか?」
「ほぼ病人よ」
凛が即答する。
ユイが結界箱を閉じながら言った。
「実際、精神面の負荷も大きいはず。今夜は夢に影響が出るかもしれない」
「夢?」
衛二が聞き返す。
ユイは頷いた。
「神杯の欠片に接触し、無窮剣界を通じて願いを解放した。あなたの内的世界は、神杯の残響に一度深く触れている。眠っている間に、残響が夢として浮かび上がる可能性がある」
「危険ですか?」
「すぐに命に関わるものではないと思う。でも、沈黙冠の反応があった以上、警戒は必要ね」
沈黙冠。
その名が出た瞬間、部屋の空気が冷えた。
神杯戦争で終わったはずのもの。
願いの畑が返事の庭へ変わる、その前にあった沈黙の冠。
資料では断片的にしか語られない、神杯戦争の最深部に関わる残響。
衛二は第五話の最後、無窮剣界の奥で何かに見られたような感覚を思い出した。
黒い冠。
声ではない沈黙。
問いを投げるもの。
「沈黙冠は、まだ生きてるんですか?」
ユイはすぐには答えなかった。
代わりに、ミライが口を開いた。
「生きている、という表現は違う」
全員の視線がミライへ向く。
ミライは淡々と続けた。
「沈黙冠は個体ではない。神杯戦争で生まれた問いの残骸。願いが返事を求め、返事が沈黙した時に残る空白」
「空白……」
「それは人ではない。神でもない。ただ、答えられなかった問いが形を持ったもの」
ユイが目を伏せる。
「ミライ」
「私は月蝕教団で、その残響を観測していた。巫主は神杯の欠片を使い、新しい器を作ろうとしていた。でも本当の目的は、沈黙冠に届くことだった」
凛の表情が鋭くなる。
「どういう意味?」
「神杯の欠片は入口にすぎない。欠片を満たし、器を作り、その器を通じて沈黙冠の残響へ接続する。月蝕教団の奥にいる者たちは、そう考えていた」
「奥にいる者たち?」
士郎が問う。
ミライは頷く。
「巫主は教団の中心ではない。あれは、冠の声を聞いた者の一人。月蝕教団には、まだ上位の観測者がいる」
リビングに沈黙が落ちた。
つまり、昨夜の戦いは終わりではない。
第一の扉を閉じただけ。
その奥に、まだ沈黙冠という巨大な謎が眠っている。
凛は額に手を当てた。
「次から次へと……本当に冬木は厄介ごとに好かれすぎね」
士郎が苦笑する。
「昔からだな」
「笑いごとじゃないわよ」
「分かってる」
衛二は結界箱を見た。
神杯の欠片は封じられている。
だが、その奥に眠る沈黙冠はまだ動いている。
そして自分の無窮剣界は、それに見られた。
おそらく、繋がった。
逃げられない。
そう思った瞬間、アストルフォが衛二の手を軽く叩いた。
「エイジ」
「ん?」
「今、また一人で難しい顔した」
「……してたか?」
「してた」
「じゃあ?」
「今日は考えるの禁止!」
「横暴だな」
「横暴です!」
アストルフォはきっぱり言った。
「今夜のエイジのお仕事は、寝ること。お茶飲むこと。ボクに甘やかされること」
「三つ目、仕事なのか」
「大事なお仕事」
アストルフォは真面目な顔で頷く。
「沈黙冠とか、月蝕教団とか、難しいことは明日。今日は帰ってきたエイジを、ちゃんとここに繋ぎ止める日」
その言葉に、凛も士郎も何も言わなかった。
ユイは小さく頷く。
「アストルフォの言う通りね。衛二くん、今夜は休んで」
ミライも静かに言った。
「あなたが倒れたら、沈黙冠は喜ぶ」
「……分かりました」
衛二は降参した。
アストルフォがぱっと笑う。
「じゃあ、お部屋行こ!」
「今から?」
「今から!」
「まだお茶を飲んでる途中」
「お茶は持っていく!」
士郎がすっと盆を用意した。
「これを持っていくといい。消耗回復用に、蜂蜜も少し入れてある」
「父さん、手際が良すぎる」
「こういう時は温かいものが一番だからな」
凛が立ち上がる。
「衛二。寝る前にもう一度、回路チェックするわ。アストルフォ、何か異変があったらすぐ呼びなさい」
「うん!」
「夜中に甘やかしすぎて寝かせないのは禁止」
「はい!」
「本当に分かってる?」
「たぶん!」
「そこは断言しなさいってば」
いつものやり取り。
それだけで、衛二は少し笑えた。
◇
自室に戻ると、衛二は一気に疲れを感じた。
アストルフォがベッドの端に座らせ、士郎のお茶を手渡す。
「はい、ゆっくり飲んで」
「ありがとう」
「熱いから気をつけてね」
「父さんと同じこと言ってる」
「大事なことだから!」
湯呑みを両手で包むと、温かさが指先に染みた。
蜂蜜のほのかな甘さが、喉を通る。
魔力回路の熱が少しだけ和らいだ気がした。
アストルフォは隣でじっと衛二を見ている。
あまりにも真剣に見ているので、衛二は少し居心地が悪くなった。
「……何?」
「ちゃんと飲んでるなあって」
「子どもじゃないんだから」
「でも、エイジってほっとくと無茶するし、休むの下手だし、ご飯も考えごとしながら食べるし」
「観察されてる」
「護衛だからね!」
「護衛って、食事の仕方まで見るのか?」
「ボクは見るよ」
アストルフォは胸を張った。
「エイジ専属だから!」
その言い方が少し照れくさくて、衛二は湯呑みに視線を落とした。
「……そうか」
「照れた?」
「照れてない」
「声が小さい」
「疲れてるだけだ」
「じゃあ、疲れてるエイジを甘やかします」
アストルフォは衛二の隣にさらに近づいた。
肩が触れる。
桃色の髪が頬にかすかに当たる。
「ぎゅーしていい?」
「さっきから何回もしてるだろ」
「これは今日の本番」
「本番って言い方」
「戦闘後甘やかし本番!」
アストルフォは真剣そのものだった。
衛二は笑ってしまう。
この騎士は本当に、衛二の緊張をほどくのが上手い。
「……いいよ」
「うん!」
アストルフォは嬉しそうに衛二を抱きしめた。
ただし、いつものように勢いよく飛びつくのではない。
今夜はゆっくり、壊れ物を包むように。
背中に腕が回る。
頭が肩に寄せられる。
温もりが伝わってくる。
衛二は湯呑みを机に置き、ゆっくりとアストルフォの背に手を回した。
「……ただいま」
自然に言葉が落ちた。
アストルフォの腕が少し震える。
「おかえり」
その声は、いつもの明るさより少し柔らかかった。
「エイジ、おかえり」
「ああ」
「ちゃんと帰ってきたね」
「アストルフォが呼んだから」
「ボクの声、届いた?」
「届いた」
「ほんと?」
「ほんと」
衛二は目を閉じる。
無窮剣界の中で、アストルフォの声が聞こえた。
神杯の願いの声よりも強く。
沈黙冠の気配よりも近く。
ボクはここにいる。
その一言が、衛二を人間のまま繋ぎ止めた。
「アストルフォの声がなかったら、危なかったと思う」
「……」
「だから、ありがとう」
アストルフォは何も言わなかった。
代わりに、衛二を抱きしめる力が少し強くなる。
「ボクね」
「うん」
「エイジが器になりかけた時、本当に怖かった」
「うん」
「エイジがエイジじゃなくなったらどうしようって。ボクのことを見てるのに、ボクを見てない目になったらどうしようって」
「……」
「でも、戻ってきてくれた」
アストルフォは顔を上げた。
潤んだ瞳で、まっすぐ衛二を見る。
「だから今日は、何回でも確認したい」
「確認?」
「エイジがここにいるって」
アストルフォの指が、衛二の手に触れる。
「手、ある」
次に、袖を掴む。
「服、ある」
それから、頬にそっと触れる。
「顔、ある」
「何の確認だよ」
「エイジ確認」
「雑だな」
「大事!」
アストルフォは少しだけ笑った。
その笑顔に、衛二もつられて笑う。
「じゃあ、俺も確認する」
「え?」
衛二はアストルフォの手を取った。
「手、ある」
アストルフォが目を丸くする。
衛二はそのまま、彼の桃色の髪に触れた。
「髪、ある」
「エ、エイジ?」
「声、聞こえる」
アストルフォの頬が赤くなっていく。
「それから」
衛二は少し迷ったあと、アストルフォの手を両手で包んだ。
「アストルフォが、ここにいる」
アストルフォは完全に黙った。
そして、次の瞬間。
「エイジ、ずるい……」
彼は衛二の胸に額を押しつけた。
「ずるいって言われるの、何回目だろうな」
「だって、そういうこと急に言うから」
「アストルフォが先にやった」
「ボクはいいの!」
「理不尽」
「理不尽でもいいの!」
アストルフォは顔を上げないまま、衛二の服をきゅっと掴んだ。
「好きが増えちゃう」
「また増えたのか」
「増えた」
「どれくらい?」
「いっぱい」
「具体的じゃないな」
「数えられないくらい」
衛二は苦笑した。
でも、その言葉が胸に甘く響いた。
戦いの後。
神杯の声の後。
無窮剣界の後。
こうして、誰かに「好き」と言われる。
それは願いではなく、呪いでもなく、ただの好意だった。
自分を器にしない言葉。
遠坂衛二という人間へ向けられた言葉。
衛二は小さく息を吐いた。
「俺も、増えた」
アストルフォが固まる。
「……何が?」
「好きが」
沈黙。
次の瞬間、アストルフォはゆっくり顔を上げた。
頬は真っ赤だった。
「エイジ」
「何?」
「今の、もう一回」
「言わない」
「お願い」
「……好きが増えた」
アストルフォは両手で顔を覆った。
「だめ、うれしい」
「だめなのか」
「うれしすぎて、ぎゅーが強くなる」
「ほどほどに」
「努力する!」
アストルフォは衛二をぎゅっと抱きしめた。
痛いほどではない。
でも、離したくないという気持ちが伝わるくらいには強い。
衛二は抵抗しなかった。
むしろ、その強さが心地よかった。
自分がここにいると分かる。
器ではない。
願いの塊でもない。
遠坂衛二という一人の人間として、アストルフォの腕の中にいる。
「アストルフォ」
「なあに?」
「眠るまで、隣にいてくれるか?」
「もちろん」
アストルフォは即答した。
「でも、寝る前に凛のチェックがあるよ」
「そうだった」
「あと、おでこキスもある」
「それは予定に入ってるのか」
「入ってます」
「誰が決めた?」
「ボク」
「却下できる?」
「できません」
衛二は笑った。
「じゃあ、あとで」
「うん。あとで」
アストルフォは満足そうに頷いた。
◇
凛の最終チェックが終わったのは、それからしばらく後だった。
魔術回路の過熱は収まりつつあり、生命活動にも問題はない。
ただし、凛は厳しく言った。
「今夜、夢に異常があったらすぐ起きなさい。起きられない場合は、アストルフォが呼びなさい」
「分かった」
「アストルフォ、衛二がうなされたり、魔力が乱れたりしたら、すぐ私か士郎を呼ぶこと」
「うん!」
「自分だけで何とかしようとしない」
「うっ」
「返事」
「はい!」
凛はじっとアストルフォを見た。
「あなたが衛二を大事に思ってるのは分かってる。でも、大事だからこそ、一人で抱えないこと。いいわね?」
アストルフォは少しだけ目を丸くした。
それから、真剣に頷く。
「うん。分かった」
「よろしい」
凛は最後に衛二の額へ手を当てた。
「今日は寝なさい。説教は明日」
「まだあるんだ」
「当然よ」
「……お手柔らかに」
「内容次第ね」
凛はそう言って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、衛二とアストルフォだけが残った。
静かな夜。
窓の外には月が見える。
満月の光は、戦いの時よりも柔らかい。
アストルフォはベッドの横に椅子を置いた。
「ボク、ここにいるね」
「椅子で寝るのか?」
「サーヴァントだから平気!」
「平気でも、疲れるだろ」
「エイジを見てたいから平気」
「それは平気の理由になってない」
衛二は少し考えた。
凛に怒られない範囲。
変なことはしない。
夜更かしもしない。
でも、アストルフォが不安なら。
「……ベッドの端なら」
アストルフォがぴたりと止まった。
「え?」
「椅子じゃなくて、ベッドの端。座ってるだけならいいだろ」
「いいの?」
「嫌なら椅子で」
「嫌じゃない!」
アストルフォは慌てて言った。
それから、少し照れたようにベッドの端へ腰かける。
衛二は布団に入り、横になる。
アストルフォはその隣で、衛二の手をそっと握った。
「エイジ、眠れそう?」
「たぶん」
「怖い?」
「少し」
「うん」
アストルフォは衛二の手を両手で包む。
「怖い夢を見たら、ボクが起こす」
「頼む」
「起きられなかったら、凛たち呼ぶ」
「うん」
「でも、その前にいっぱい声かける」
「それで起きると思う」
「ほんと?」
「ああ。アストルフォの声なら、届く」
アストルフォの頬がまた赤くなった。
「エイジ、寝る前にそういうこと言うの、ずるい」
「眠いから許してくれ」
「許す」
アストルフォは少し身をかがめ、衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
小さな声。
「ボクはここにいるよ。エイジがどこかへ行きそうになったら、何回でも呼ぶ。エイジが怖い夢を見たら、何回でも手を握る」
衛二は目を閉じた。
「俺も」
「うん?」
「夢の中でも、アストルフォの声を探す」
アストルフォは息を呑んだ。
「うん」
その返事は、とても柔らかかった。
「おやすみ、エイジ」
「おやすみ、アストルフォ」
衛二は眠りに落ちていった。
手の中に、桃色の騎士の温もりを感じながら。
◇
夢の中で、衛二は無窮剣界に立っていた。
硝子の大地。
星鉄の炉。
剣の設計図が星座のように流れる夜空。
けれど、どこか違う。
炉の火が弱い。
空が暗すぎる。
剣の星座が、ひとつずつ沈黙している。
音がない。
風もない。
アストルフォの声も聞こえない。
「……アストルフォ?」
呼んでも返事はない。
衛二は歩き出した。
硝子の大地の下には、いつもなら剣の設計図が流れている。
だが今は、その隙間に黒い影が混じっていた。
影は文字のようにも、冠の輪郭のようにも見える。
衛二は足を止めた。
遠くに、何かがある。
黒い冠。
王冠ではない。
神具でもない。
それは、沈黙そのものが形を持ったようなものだった。
冠は宙に浮かんでいる。
何も言わない。
ただ、そこにある。
けれどその沈黙が、言葉よりも重い。
衛二の胸に、声ではない問いが流れ込んできた。
――救えなかった願いに、返事は届くのか。
衛二は息を呑む。
声ではない。
文字でもない。
問いそのものが、意識に置かれる。
――届いたとして、それは救いなのか。
硝子の大地にひびが入る。
その下から、無数の光が浮かび上がる。
神杯の欠片から解放した願い。
月蝕教団に利用されかけた願い。
まだ返事を待っている願い。
それらが衛二を囲む。
助けて。
叶えて。
返して。
忘れないで。
でも、返事だけじゃ足りない。
聞こえたと言われても、失ったものは戻らない。
それでも、あなたは返事で済ませるのか。
「……違う」
衛二は言った。
「済ませるんじゃない」
沈黙冠は何も言わない。
ただ問いを置く。
――ならば、何をする。
「分からない」
衛二は正直に答えた。
「全部は分からない。全部は救えない。叶えられない願いもある」
大地のひびが広がる。
黒い冠が少しだけ近づいた気がした。
――ならば、なぜ立つ。
衛二は手を握った。
剣を作ろうとする。
だが、何も出ない。
ここは無窮剣界なのに。
衛二の内的世界なのに。
剣が応えない。
沈黙が重い。
問いが重い。
返事が見つからない。
「俺は……」
言葉が詰まる。
父ならどう答える。
母ならどうする。
ユイなら何と言う。
ミライなら何を見てきた。
そして、アストルフォなら。
その瞬間、遠くで桃色の光が瞬いた。
衛二は顔を上げる。
聞こえる。
小さく、かすかに。
「エイジ」
声。
アストルフォの声。
「エイジ、聞こえる?」
衛二は目を見開いた。
「アストルフォ!」
桃色の光が、黒い沈黙を裂くように近づいてくる。
アストルフォそのものではない。
契約を通じて届いている声。
現実で、彼が衛二の手を握りながら呼んでいるのだ。
「エイジ、戻ってきて。ボクはここにいるよ」
その声が届いた瞬間、衛二の足元に一本の剣が生まれた。
透明な小さな刃。
それは敵を倒すための剣ではない。
暗闇の中で、自分の立つ場所を示すための剣だった。
衛二はそれを拾う。
沈黙冠はなお問いを置く。
――救いとは何か。
衛二は剣を握った。
「まだ分からない」
黒い冠が揺れる。
「でも、分からないからって、誰かを器にはしない。分からないままでも、聞こえたって返す。隣にいるって言う」
アストルフォの声が近づく。
「エイジ!」
衛二は顔を上げた。
「俺は、答えを持ってない」
剣が光る。
「でも、返事をすることは諦めない」
その瞬間、無窮剣界の炉に火が戻った。
星鉄の炎が燃え上がり、剣の星座が再び空に浮かぶ。
沈黙冠は動かない。
だが、その輪郭が少しだけぼやけた。
問いは消えない。
でも、今はまだ飲まれない。
衛二は、夢の中でアストルフォの声へ手を伸ばした。
「アストルフォ」
「エイジ!」
「聞こえてる」
「よかった……!」
桃色の光が衛二を包む。
世界が白くほどけていく。
最後に、沈黙冠がひとつだけ問いを残した。
――では、返事を拒む願いには、どう答える。
衛二は答えられなかった。
答えられないまま、目を覚ました。
◇
目を開けると、アストルフォの顔がすぐ近くにあった。
「エイジ!」
彼は泣きそうな顔で衛二の手を握っていた。
部屋の灯りはついている。
扉の前には凛と士郎。
ユイもいる。
ミライも、少し離れた場所で立っていた。
どうやら、凛を呼んだ後らしい。
アストルフォは衛二の顔を覗き込む。
「大丈夫? 聞こえる? ボク分かる?」
「……分かる」
衛二はかすれた声で答えた。
「アストルフォ」
その名を呼んだ瞬間、アストルフォの顔がくしゃっと歪んだ。
次の瞬間、彼は衛二をぎゅっと抱きしめた。
「よかった……!」
声が震えている。
「エイジ、全然起きなくて、魔力も変で、呼んでも最初届かなくて……!」
「ごめん」
「謝らなくていいけど、怖かった……!」
「うん」
衛二はアストルフォの背に手を回した。
「怖がらせた」
「うん」
「でも、声は届いた」
「ほんと?」
「ほんと。アストルフォの声がなかったら、戻れなかった」
アストルフォはさらに強く抱きしめた。
「じゃあ、もっと呼ぶ。何回でも呼ぶ」
「ああ」
「エイジがどこにいても呼ぶ」
「うん」
凛がそっと近づき、衛二の額に手を当てる。
「意識は安定してる。魔術回路も暴走してない」
士郎が少しだけ安心したように息を吐いた。
「夢を見たのか?」
「……無窮剣界にいました」
衛二はゆっくり体を起こそうとした。
アストルフォがすぐに背を支える。
「無理しないで」
「ありがとう」
衛二は布団に背を預けたまま続けた。
「沈黙冠がいた。何も言わないのに、問いだけが流れてきた」
ユイの表情が険しくなる。
「どんな問い?」
「救えなかった願いに返事は届くのか。届いたとして、それは救いなのか。返事を拒む願いには、どう答えるのか」
部屋が静かになった。
返事を拒む願い。
その言葉は、あまりにも重かった。
ミライが小さく呟く。
「それが、沈黙冠」
全員が彼女を見る。
ミライは淡々と言った。
「願いは返事を求める。でも中には、返事そのものを拒む願いがある。叶わなければ意味がない。慰めはいらない。聞こえたと言われても救われない。そういう願いの沈黙が、冠になる」
「月蝕教団は、それに答えようとしたの?」
衛二が尋ねる。
ミライは頷く。
「彼らは、返事を拒む願いに対して、世界の改変で答えようとした。叶えることだけが唯一の返事だと考えた」
「だから神杯の再構築を」
「そう」
ユイが目を伏せる。
「返事の庭が、最後まで向き合えなかった問い……」
凛は腕を組んだ。
「つまり沈黙冠は、衛二の無窮剣界を通じて接触してきた。厄介ね」
「厄介どころじゃない」
士郎の声は静かだった。
「衛二の内的世界に触れられるということは、次はもっと深く入り込んでくるかもしれない」
アストルフォの腕が衛二を抱く力を強めた。
「させない」
その声は低かった。
普段の明るいアストルフォとは違う、騎士の声。
「沈黙冠でも何でも、エイジを連れて行かせない」
「アストルフォ」
「エイジは器じゃない。答えを入れる箱でもない。問いに潰されるための人でもない」
アストルフォは衛二の手を握った。
「エイジはエイジだよ」
その言葉が、部屋の空気を少しだけ温かくした。
衛二はアストルフォを見つめる。
「ありがとう」
「うん」
「でも、俺は沈黙冠から逃げるだけじゃだめだと思う」
アストルフォの顔が少し不安そうになる。
「エイジ」
「分かってる。一人で抱えない。無茶もしない」
「ほんと?」
「努力する」
「またそれ!」
アストルフォが頬を膨らませる。
凛が即座に言った。
「努力じゃなくて約束しなさい」
「……約束する」
「よろしい」
衛二は苦笑した。
「でも、問いから目を逸らしたら、また誰かが神杯に縋ると思う。返事だけでは足りない願いがあるなら、それにも向き合わないといけない」
ユイは衛二を見つめた。
「あなたは、本当に士郎さんと凛さんの子ね」
「褒めてます?」
「ええ。少し危ういくらいに」
士郎が苦笑する。
「そこまで似なくてもよかったんだけどな」
凛が小さく息を吐く。
「まったくよ」
でも、二人の表情はどこか誇らしげだった。
ミライが静かに言う。
「沈黙冠へ近づくなら、返事の庭へ行く必要がある」
「返事の庭?」
衛二が聞き返す。
ユイの表情が変わった。
懐かしさと、痛みと、決意が混じった顔。
「神杯戦争の後に残された場所。願いの畑が変わったもの。今は封印されているわ」
「そこに沈黙冠が?」
「本体ではない。でも、最も濃い残響がある」
凛が眉を寄せる。
「場所は?」
ユイは少し躊躇した。
そして答える。
「柳洞寺の地下霊脈、そのさらに奥。かつての大空洞に近い場所」
柳洞寺。
衛二は柳洞悠馬の顔を思い出した。
鐘の音を聞いた友人。
旧校舎の異変に気づいた一般人。
冬木の因縁は、また柳洞寺へ繋がるのか。
凛が深く息を吐いた。
「またあそこね」
士郎も苦笑する。
「本当に、冬木は昔の場所へ戻ってくるな」
衛二は自分の手を見る。
アストルフォの手が重なっている。
その温度があるから、考えられる。
「行くのは、すぐじゃないですよね」
ユイは頷いた。
「当然。あなたは休む必要がある。神杯の欠片の封印も確認しなければならない。ミライから教団の情報も聞く必要がある」
「じゃあ、今日は」
「寝なさい」
凛、士郎、ユイ、アストルフォの声が重なった。
衛二は少し驚いたあと、笑った。
「分かりました」
アストルフォが満足そうに頷く。
「よし。じゃあ、もう一回寝る準備」
「また夢を見たら?」
「その時は、また呼ぶ」
「起きられなかったら?」
「凛たちを呼ぶ」
「それでも怖かったら?」
アストルフォは少しだけ照れながら言った。
「ぎゅーする」
衛二は目を細めた。
「それが一番効くかもしれない」
アストルフォの顔が赤くなる。
「エイジ、ほんとにずるい……」
凛が額を押さえた。
「寝る前に甘い空気を出さない」
「ごめん」
「謝る気ないでしょ」
「少しは」
「まったく」
それでも凛は、部屋を出る前に衛二の頭を軽く撫でた。
ほんの一瞬。
母らしい、不器用な仕草だった。
「おやすみ、衛二」
「おやすみ、母さん」
士郎も微笑む。
「何かあったらすぐ呼べ」
「うん」
ユイとミライも部屋を出ていく。
最後に扉が閉まり、再び部屋には衛二とアストルフォだけが残った。
◇
「エイジ」
「何?」
「まだ怖い?」
「少し」
「じゃあ、手握ってる」
「ありがとう」
衛二は横になった。
アストルフォはベッドの端に座り、衛二の手を握る。
その手つきは、さっきよりずっと優しい。
「アストルフォも怖かっただろ」
「うん」
「ごめん」
「だから、謝らなくていいの」
「でも」
「じゃあ、謝る代わりにお願い聞いて」
「お願い?」
「明日、起きたら最初にボクの名前呼んで」
衛二は少しだけ驚いた。
「それだけでいいのか?」
「それだけがいい」
アストルフォは微笑んだ。
「エイジが起きて、最初にボクを見て、ボクの名前を呼んでくれたら、ちゃんと帰ってきたって分かるから」
衛二の胸が柔らかく痛んだ。
「分かった」
「約束?」
「ああ。約束する」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
それから、衛二の額にもう一度そっと唇を触れさせる。
「おやすみ、エイジ」
「おやすみ、アストルフォ」
「ボクはここにいるよ」
「うん」
衛二は目を閉じた。
今度の眠りは、先ほどより穏やかだった。
夢の奥で、まだ沈黙冠の問いは残っている。
返事を拒む願いには、どう答えるのか。
答えはない。
まだ見つからない。
けれど、衛二は一人ではない。
手の中には、アストルフォの温もりがある。
部屋の外には、父と母がいる。
返事の庭を知るユイがいる。
迷いながらも戻ろうとしているミライがいる。
だから今は、眠れる。
答えが出ないままでも。
明日へ行くために。
◇
翌朝。
衛二が目を覚ますと、窓から柔らかい朝日が差し込んでいた。
冬の光。
夜の月とは違う、少し温かい色。
手を見る。
アストルフォがまだ握っていた。
彼はベッドの端に座ったまま、こくりこくりと船を漕いでいる。
サーヴァントだから眠らなくても平気と言っていたくせに、安心したのか、少しだけ寝落ちしているらしい。
桃色の髪が頬にかかり、寝息は静かだった。
可愛い。
衛二はそう思った。
昨日の戦いで見せた騎士の顔も、神杯の鎖に縛られながら衛二を呼んだ顔も、今こうして眠そうにしている顔も。
全部、アストルフォだ。
衛二は約束を思い出す。
起きたら最初に名前を呼んで。
衛二は小さく息を吸った。
「アストルフォ」
桃色の騎士が、ぴくっと反応した。
ゆっくり目を開ける。
「……エイジ?」
「ああ」
「起きた?」
「起きた」
「最初に、呼んでくれた?」
「約束したからな」
アストルフォの顔が、朝日より明るくなった。
「おかえり!」
「ただいま」
アストルフォは勢いよく抱きつこうとして、寸前で止まった。
「体、大丈夫?」
「昨日よりは」
「じゃあ、やさしくぎゅー」
「結局するんだな」
「する!」
アストルフォはそっと衛二を抱きしめた。
朝の光の中での抱擁は、夜とは違う温かさだった。
怖さを確かめるためではなく、帰ってきたことを喜ぶためのぎゅー。
衛二も腕を回した。
「おはよう、アストルフォ」
「おはよう、エイジ」
アストルフォは嬉しそうに笑う。
「今日も、ボクが隣にいるからね」
「ああ」
「沈黙冠のことも、返事の庭のことも、ちゃんと一緒に考える」
「ああ」
「でもまずは朝ごはん」
「現実的だな」
「シロウの朝ごはん、絶対おいしいもん!」
衛二は笑った。
その笑いが、昨日より自然に出た。
部屋の外から、士郎の声が聞こえる。
「衛二、起きてるか? 朝ごはんできてるぞ」
続いて凛の声。
「起きてるなら回路チェックするわよ。あと、今日は魔術禁止だからね」
アストルフォが小声で囁く。
「エイジ、魔術禁止だって」
「聞こえてる」
「ちゃんと守る?」
「守る」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、守れたら褒めてあげる」
「一日魔術を使わないだけで?」
「うん。すごくえらい」
衛二は苦笑した。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しみになっている自分がいる。
朝食。
母の検査。
父の味噌汁。
アストルフォの甘やかし。
ユイとミライから聞く返事の庭の話。
そして、いつか向き合う沈黙冠。
物語はまだ終わっていない。
けれど、朝は来た。
満月の夜を越えて、遠坂衛二はちゃんと朝に辿り着いた。
アストルフォの手を取り、衛二はベッドから立ち上がる。
少しふらついた。
すぐにアストルフォが支える。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「無理してない?」
「少しだけ」
「もう!」
「でも、支えてくれるだろ?」
アストルフォは一瞬だけ言葉に詰まり、それから嬉しそうに笑った。
「もちろん!」
衛二はその笑顔を見て思う。
返事を拒む願いに、どう答えるのか。
まだ分からない。
でも、今は一つだけ分かる。
誰かが「ここにいる」と言ってくれること。
誰かの名前を朝一番に呼べること。
ただいまと、おかえりを交わせること。
それはきっと、どんな大きな奇跡にも劣らない。
冬木の朝が始まる。
返事の庭へ向かう物語は、まだ少し先。
今はただ、朝食の匂いがする廊下を、桃色の騎士と一緒に歩く。
遠坂衛二は、アストルフォの手を握り返した。
そして静かに思った。
この手を離さない。
問いがどれだけ深くても。
沈黙がどれだけ重くても。
自分は器ではなく、人間として答えを探す。
隣にいる、可愛くて、明るくて、誰よりもまっすぐな騎士と一緒に。
コメント
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もう、もうもう……! 最高でした。特にアストルフォが「エイジ確認」をするシーン、あれは泣きました。あの無茶な戦いの後で、ただ「そこにいる」ことを一つ一つ確かめるような丁寧さが、昨日の恐怖と今日の安堵を全部詰め込んでるようで。そして衛二がそれに応えて「アストルフォが、ここにいる」って返したところ、胸がぎゅっとなりました。二人の信頼関係が、戦闘後の静かな時間でこんなに深まるの、本当に素敵です。沈黙冠の重い問いも、この温かさがあれば乗り越えられそう。続きが待ち遠しいです!