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リオンの様子がおかしいとダニエラから連絡を受けてクリニックを飛び出したウーヴェは、己の仕事を放り出して警察署に駆けつけたために今日中にしておかなければならない事が多少あり、その処理をするためにクリニックに立ち寄った。
車内にリオンを一人で残していくのは気が引けたが今は誰にも会わせない方が良いと判断し、車内に残していくことを伝えてクリニックに戻り、驚きと不安の表情で見つめてくるリアに手短に事情を説明すると、今日はもう戻ってこられないから後を任せることを伝え、診察室に駆け込んで手早く仕事を終わらせる。
明日の診察についての資料を用意しておいて欲しいことや要注意の患者でないことを確かめると、もう一度後を頼むとリアに告げてクリニックを出て行こうとする。
そんなウーヴェを呼び止めたリアは、リオンをお願いと一気に悪くした顔色のまま伝え、ウーヴェもしっかりと頷いてクリニックを出て駐車場に向かう。
待たせて悪かったことを伝えながら車に乗り込んだウーヴェだが、助手席のリオンの横顔から表情が消えかけていることに気付き、リオンの精神状態を危惧しつつも児童福祉施設に向けて車を走らせるが、少し走った頃、リオンが携帯を取りだして誰かに電話をし始める。
繋がったと思しき瞬間、リオンが前髪を片手で掴んで歯軋りをし、その合間にゾフィーが死んだこと、彼女の最期の言葉を聞くことは出来なかったがそれでも会いに行ってきたこと、まだゾフィーがホームに帰るには時間が掛かることを伝えると口を閉ざすものの、相手の言葉に反応をして声を荒げる。
「あぁ!? ンなウソついてどうすんだよ! 信じられねぇのなら病院に行って来い!」
病院の、無駄に白くて冷たくて清潔感はあっても生活感など皆無の部屋に寝かされているゾフィーの顔を見てこいと叫んだ後、感情のまま通話を終えて携帯をダッシュボードに投げつけたリオンは、肩で息をしながらそんな下らねぇウソなど誰が吐くかと叫んで呼吸を速めてしまう。
ついさっき過呼吸の発作が治まったばかりのリオンの身体は容易く発作を引き起こしかねない状態になっているためにウィンカーを出して車を停めたウーヴェは、徐々に早くなる呼気に内心焦りつつも努めて冷静な顔でハンカチを取りだし、リオンの名を呼んで顔を振り向けさせるとそのハンカチで口元を覆わせる。
「……オーヴェ……っ……!」
「ああ。分かっている。だから今は落ち着いて息を吸うんだ、リーオ」
幼い頃から意識しなくても出来ている事なのだから出来ると自然と落ち着きを取り戻せるような声で囁き、リオンの上下する肩を撫でて額に浮く汗も掌で拭ってやると、震えるリオンの手が持ち上がってウーヴェの手の上からハンカチを押さえる。
「そうだ。ゆっくりと吸え、リオン。そうだ」
己の言葉を信じて苦しいながらもしっかりと呼吸を取り戻そうとするリオンに目を細め、もうすぐ楽になる、だから安心しろと目を見ながら告げると、リオンの全身から力が抜けたようになってシートに寄り掛かる。
「オーヴェ……っ……」
「相手はカインか?」
「……そう」
電話の相手がカインできっとリオンの言葉を信じたくなくて嘘を吐くなと吐き捨てたのだろうと考えたウーヴェは、己の思いが間違っていないことをリオンの頷きから確かめ、汗をハンカチで拭いて額に掌を宛ってくすんだ金髪にキスをする。
「お前と同じで彼も信じたくはないのだろう。だからつい嘘を吐くなと言ったんじゃないのか?」
それはある意味当然の問い掛けなのだ、そのたった一つの言葉でお前のすべてを否定している訳じゃないから深く考えるなと胸にリオンの頭を抱き寄せながら囁き、返事のかわりに背中をぎゅっと抱かれて安堵の溜息を零す。
「彼はホームに帰ってくるのか?」
「…………あいつさ、金儲けが何よりも大好きで大切で、俺やマザーが死んでも葬式に顔を出さないって笑ってた」
だからきっと帰って来ないと暗く嗤い、ゾフィーの葬式にも出ないんじゃないかと肩を揺らすリオンに無言で頭を左右に振ったウーヴェは、お前の幼馴染みは自分にとって親しい人が亡くなっても平然としていられるような人じゃないだろうと希望を覗かせることを問い掛けると、リオンが腕の中で肩を揺らす。
「何で分かるんだよ、オーヴェ」
「そうだな……誰かさんに似ているからかな」
きっと彼は己の感情を抑えられなくなった無様な姿を人目にさらすことが何よりも恥ずかしいと思っているだろう、だから葬式にも顔を出さないと言ったんじゃないかとウーヴェが微苦笑混じりに告げるとリオンが無言で頭を上下に振る。
「ほら、やはり誰かさんに良く似ている」
「そうか……?」
「なんだ、気付いてなかったのか?」
その誰かさんが誰であるのかを察したリオンが情けない声で問うとウーヴェがこの世のすべての真実を見抜ける賢人のような顔ですごいだろうと茶目っ気を込めて笑うとリオンが小さく笑ったためにウーヴェが胸を撫で下ろし、だがと声音を替えてリオンの顔を上げさせる。
「どれだけ感情を爆発させたいと思っても出来ない時はある。我慢しなければならないときは何があっても堪えなければならない。だがな、リオン、これだけは言っておく」
俺の前で、特に二人きりになったときにまで我慢する必要はないんだと、強さと優しさが混ざった男の声にリオンが何かを堪えるように顎を引き、身体を一つ震わせた後に小さく頷いて再度ウーヴェのシャツに顔を押しつける。
「…………ダン」
「ああ」
過呼吸の発作も落ち着いたことだしマザー・カタリーナにお前の口から説明をするためにホームに帰ろうとリオンを促し、同意を得てシフトレバーに手を載せるとリオンが膝を抱え込んで顔を押しつける。
「……マザーに電話したいから、ちょっとだけ待ってくれねぇか?」
「気にする必要はない」
今から帰ることだけでも伝えておけと告げてシートに凭れたウーヴェは、助手席から聞こえてくる声を聞きながらこの後自分たちに訪れる時間に思いを馳せて眉を寄せるが、今もっとも辛いのは膝を抱えているリオンだと内心呟き、この後どんな顔を見せられたとしても彼女に誓ったように何があっても護ろうと新たに誓いを立てる。
「……ダンケ、オーヴェ」
「ああ」
ダッシュボードに投げつけた携帯はどうやら壊れていなかったようで、言葉少なに今から帰ることを伝えたリオンが今度は携帯を投げつけずに膝を抱えて顔を埋め、溜息を一つ吐いたウーヴェが静かに車を走らせる。
マザー・カタリーナが待つ児童福祉施設までは三十分もかからずに到着できるが、ここ数日のマスメディアでの取り上げられ方が熱を帯びている為、もしかすると児童福祉施設の周辺にマスコミの姿があるかも知れない危惧からウーヴェがもう一度車を停めて携帯を取り出すと、己の友人でもあり業務上の訴訟などが起こされた場合に依頼している顧問弁護士に連絡を取る。
マザー・カタリーナにも懇意にしている弁護士は当然いるだろうが、もしもの場合を考えて手を打つことにしたウーヴェに電話の向こうの弁護士が詳しい事情を今話す必要はないが、一つだけ教えてくれと問われて静かに言葉を待つ。
『……お前の友人の刑事は人身売買には無関係なんだな?』
「ああ。誰に何を言われてもそれだけは断言出来る――俺の言葉では不満か?」
『いや、お前のことだから間違いはないと思っているが確認をしたかっただけだ』
お前の言う通り先方の弁護士が役に立たないと思えばすぐに連絡をしてこい、こちらからも警察に働きかけてやると請け負われて安堵の溜息を零したウーヴェは、持つべきものは友人だと笑って通話を終え、俯く金髪にそっと手を載せる。
「待たせたな。帰ろうか」
お前とお前の姉や家族が暮らすお前達の家に帰ろうと告げて再度車を走らせると、小さな聞き逃してしまいそうな声でリオンがゾフィーを呼ぶ。
「……彼女が帰ることが出来るのはもう少し先になるが、必ず連れて帰るからあと少し待ってくれ」
マスコミが騒ぎ立てようが内部調査委員会とやらがいい顔をしなかろうが、彼女を絶対にお前達家族の元に連れて帰ってやるとひっそりと告げてくすんだ金髪を撫でて手を離したウーヴェは、その後運転に集中し、リオンも膝を抱えたまま顔を上げることはなかった為、車内にはスパイダーのエンジン音だけが響いているのだった。
教会の裏口にスパイダーを横付けしたウーヴェは、誰が来たのかを確かめるように窓から顔を覗かせる近隣の住人の視線に気付いて顔を振り向けるが、嫌悪と戸惑いと信じる気持ちを持っていることに目を細め、助手席のドアを開けて再度その場に膝をつく。
「リオン、着いたぞ」
「……ああ」
短い言葉からリオンが何某かの決意をしたことを察して膝の埃を払って立ち上がったウーヴェだったが、助手席からのろのろと降り立ったリオンが腕を掴んで身体を引き寄せた為に少し薄くなった胸板に背中をぶつけてしまう。
「リオン?」
「……力を、くれ、オーヴェ」
決意をしたがやはり一歩を踏み出す勇気が持てないと自嘲するリオンに向き直り、俯き加減の頬を両手で挟んだウーヴェは、いつもと変わらない、聞く人の心にするりと入り込む不思議な声で何よりも大切な男の名を呼ぶ。
「顔を上げろ、前を見ろ」
顔を上げ続けることは時には苦痛にもなるが、今まで数多の悲しみや苦しみを飄々と乗り越えてきたお前ならば出来る大丈夫だと囁き、額と額を重ね合わせた後に握りしめられているリオンの手を取ってこの世の至宝だと伝えるようなキスをする。
「お前なら大丈夫だ。――お前はもう独りじゃない」
これからお前がもっとも信頼し大切にしたいと思っている人々が悲しむ様を見届けなければならないが、もうお前は独りじゃないことを見開かれる蒼い瞳に告げて額にキスをする。
「お前ならばやれる。大丈夫だ。俺もいる」
だから行って来いと、優しく力強くリオンの全身に力を行き渡らせたウーヴェは、そっと頷くリオンに目を細めると、大股に教会の敷地に入っていく背中に半歩遅れて着いていく。
リオンがいつもに比べれば遙かに大人しい声でマザー・カタリーナを呼ぶと、足音とリオンを呼ぶ女性の声が響いてきて、ウーヴェがそっと身を引いて壁に背中を預ける。
「リオン、リオン……!」
「……マザー、カインは帰ってきたか?」
「ええ、今アーベルとお話をしていますが……」
マザー・カタリーナの顔色は蒼白を通り越し、ウーヴェが思わず心配をしてしまいそうなほど悪くここ数日の心労を教えてくれていて、リオンが俯きながら包帯がすっかりと血に汚れている手をジーンズの尻ポケットに突っ込み、ぶっきらぼうな口調で大切な家族を喪った事実を伝える。
「……本当だったのですね……」
「……さっきオーヴェと病院に行って来た」
詳しい死因を調べる必要と事件に関係している可能性から詳細に調べる為、まだゾフィーがここに帰ってくることは出来ないと伝えると、マザー・カタリーナが両手で口を覆って肩を震わせる。
「ゾフィー……ゾフィー……!」
「……オーヴェがさ、絶対にあいつをここに連れて帰るって約束してくれた」
だからたとえ周りが騒がしくなってもゾフィーを必ず連れて帰ってくることを伝えると、マザー・カタリーナの膝が崩れて床に座り込みそうになる。
咄嗟に手を出して細くて小さな身体を支えたリオンは、ゾフィーの名前を呼び続けるマザー・カタリーナを抱きしめて己が目の当たりにした事実を感情の籠もらない声で伝えるが、そんなリオンの肩にウーヴェが手を置いて首を振るとリオンの顔が感情に歪む。
「……マザー、部屋で少し横になりましょう」
「ウーヴェ……あの子は……ゾフィーは……」
「まだ連れて帰ってくることは出来ませんが、先程リオンが言ったように必ず連れて帰ってきます」
「会いに行くことは……出来ないのですか?」
どうかわたくしの娘に会わせて下さいと涙混じりの声に懇願されて僅かに目を細めたウーヴェだったが、彼女の顔の痣のことや無残にも切られてしまっていた髪のことを思うとすぐに会いに行ってやれとは言えなかった。
己を育ててくれた母であり人生の恩師でもあるマザー・カタリーナにこんな姿を見せたくはない、そう憤慨するゾフィーが容易く想像出来たリオンが唇を噛むマザー・カタリーナにあいつも準備が必要だからもう少し待ってやってくれと優しく告げてその手を取ると、キッチンではなくゾフィーが使っていた部屋に案内する。
「カインとアーベルとこれからのことを話してくる。マザー、少し横になってろよ」
「でも、リオン……」
「良いから寝てろって――オーヴェ、マザーを頼むな」
ゾフィーが使っていたベッドにマザーを座らせて額にキスをしたリオンは、躊躇いながらも自分も話を聞くと言い出す彼女の肩を軽く押してベッドに伏せさせると、ウーヴェに後を頼むと告げて頷かれると同時にその手を取って額に押し当てる。
「頼む」
「ああ」
信頼の証を短い言葉に乗せて伝え合った二人だったが、リオンが部屋を出て行くと同時にマザー・カタリーナが両手で顔を覆って肩を震わせる。
掌の隙間から聞こえる嗚咽が辛く悲しく、ベッドに腰を下ろして震える肩を何度も撫でたウーヴェだったが、程なくして聞こえてきた怒鳴り声と何かが壊れるような音と制止の声に唇を噛み、リオンとカインが怒鳴り合う声も悲しくて目を伏せると、マザー・カタリーナがゆっくりと起き上がる。
「マザー、どうか横になっていて下さい」
「……リオンとカインを止めなければ……」
「あの二人は怒鳴ることで事実を受け入れようとしているのだと思います」
なのでそれを止めるのではなく自然と収まるまで見守る方が良いと告げて彼女の身体をそっとベッドに横臥させると、粗末なシーツで彼女の身体を覆う。
「ウーヴェ……あなたもゾフィーに……?」
「リオンと会いに行って来ました」
マザー・カタリーナの質問にまさか彼女の解剖を見届けたとは言えずに慎重に答えを返すと、彼女が天井を見上げながらぼんやりと呟く。
「ゾフィーは……どのような顔をしていましたか?」
顔という言葉が意味するものを正確に察する為に少し口を閉ざしたウーヴェは、どのような表情でしたかと問われて小さく吐息を零す。
「そうですね……。何か心が穏やかになった、そんな顔に見えました」
「そう、ですか」
「ええ。それと……」
マザー・カタリーナの肩を撫でて気持ちを落ち着かせるように普段と変わらない落ち着いた優しい声でゾフィーの印象を語ったウーヴェは、長い間留守にしていた家に帰ってきたときの安堵感にも似ている笑みを浮かべていたと伝えると、マザー・カタリーナの目が見開かれる。
「帰って来た……?」
「彼女の最期は残念ながら誰も看取ることは出来ませんでした。だから最期の言葉が何であるのかは分かりませんが、彼女を近くで見た時に感じた印象です」
己に置き換えるならば、旅行から帰ってきた時、親しい友人や家族がいつもと変わらない笑顔や暖かい言葉で出迎えてくれた時に感じる安心感、それが出ているようだったとも伝えれば、マザー・カタリーナの横臥した双眸から涙がこぼれ落ちる。
「ゾフィー……!」
もしかすると最期に彼女が誰よりも愛する人達と再会出来たのかも知れないともウーヴェが囁いて、マザー・カタリーナの見開かれている目の上にそっと掌を重ねて目を閉じさせる。
部屋の薄い壁を通して聞こえる怒鳴り声も一時のことを思えば冷静さを取り戻していて、もう間もなく二人が現実を受け入れる儀式を終えることに気付き、声を押し殺して肩を震わせるマザー・カタリーナの手を取り、彼女が戻ってくるまでもう少し待って欲しい事、その際必要になるものの用意をしておいて欲しいことを伝え、頷いたのを見届けると静かに立ち上がる。
マザー・カタリーナにしてみればゾフィーは娘同然の存在で、その娘を喪った心の傷は容易く癒えるものでもないが、今ここで涙を流すことで癒しへの一歩を踏み出しているのだと気付いているウーヴェは、もう一人、彼女を喪った心を癒す必要があるのにその場に踏みとどまっている男の横顔を思い出して溜息を吐く。
彼は隣室で幼馴染みとゾフィーを喪った悲しみを共有したようだが、その共有だけでは心の傷は深くなるばかりで、気が付いた時には手の施しようが無くなっている可能性が高く、今は少しでも早く封じられている感情を解き放つべきだと危惧をするが、戻って来たリオンがドアを開けて出した顔を見たウーヴェは、児童福祉施設に戻ってくる前に比べてまた表情が失われていることを察してもう一度溜息を吐く。
日頃から表情豊かで感情過多とも言える程明るく騒々しいリオンが表情を失っていく様は見ているだけで心胆を寒くさせてしまうものだった。
だから平静さを装った声で呼びかけられて背筋を震わせながら何だと顔を上げたウーヴェは、マザー・カタリーナの様子はどうだと視線で問われて顔を伏せる。
「少しここで休んで貰った方が良い。ブラザー・アーベルか誰かにお願いできないか?」
「あー、うん、それは大丈夫」
部屋の中に入ってこないリオンに首を傾げてどうしたんだと歩み寄ったウーヴェは、リオンの口の端が切れて赤くなっていることと包帯を巻いていた手から包帯が外されて痣が浮いていることから隣室での出来事をほぼ把握し、カインの傷の手当てをする必要はないのかと問いかけて目を瞠るリオンの手を取ってそっと両手で包む。
「いくらお前が喧嘩に慣れていると言っても掌の傷もまだ塞がっていないんだぞ、リオン」
「………………」
「カインを呼んでこい。手当をしよう」
「………………」
「必要無いという言葉こそ必要無いぞ、リーオ」
だから大人しくカインを連れてこいとリオンの目を睨むと、蒼い瞳が左右に泳いだ直後、思わず耳を塞ぎたくなる大声でリオンが怒鳴る。
「カイン、こっちに来いよ!」
「うるせえ」
リオンに負けず劣らずの怒鳴り声を発した後に廊下を足音高くやってきたのは、赤い髪に白い包帯を映えさせた長身の男だったが、その頬や口の端にはリオンとそっくりな痣と切り傷があり、透き通りそうなほど白い手の甲にも似たような痣が浮かんでいた。
「手当てするってよ」
「必要ねぇ」
「こんな傷など舐めていれば治る、そう言いたいのは分かるがこれ以上彼女に心配を掛けさせるな」
リオンとカインの、時を経ても全く変わらない悪ガキの顔でそっぽを向き合う前で溜息を吐いて背後のドアへと顔を向け、お前達がどんな方法で現実を受け入れるかは勝手だが、これ以上マザー・カタリーナに心配を掛けさせるなともう一度強い口調で念を押したウーヴェに二人が視線だけを重ねると、リオンが僅かに項垂れてぼそぼそと何かを呟き、カインは忌々しそうに舌打ちをした後、煙草を取りだして火をつけるが傷にニコチンがしみたのかシャイセと吐き捨てて唾を吐く。
「早くしろよ」
カインの吐き捨てられる言葉にただ苦笑するウーヴェにアーベルが救急箱を持って駆け寄ってきた為、事情を説明してマザー・カタリーナの様子を見てくれと頼むと、煙草を咥えてそっぽを向き合う二人の手と顔の傷を手当てしていくのだった。
マザー・カタリーナがブラザー・アーベルに支えられるようにしながらも姿を見せたのは、リオンとカインの手当てが終わり、ぽつりぽつりと二人が交わす言葉をウーヴェが静かに聞いている頃だった。
マザー・カタリーナの姿を見たリオンがさり気なく近づくと、微かに震えながらも胸の前で組まれている手を取り、一気に年を経たように感じてしまう手の甲を撫でながら彼女の顔を見ることなく大切なことを伝える役目を果たそうとする。
「マザー、ゾフィーだけど、帰ってくるのにまだ少し時間が掛かる」
「そう言ってましたね」
「ああ。人身売買を追ってるBKAが詳しく調べるだろうし、ゾフィー自身も被害者になっちまったから、多分……みんな真剣に調べてくれると思う」
だから今マスコミが毎日毎日面白おかしく書き立てていることの真偽が明らかになる、そうすればホームに群がる有象無象も姿を消すだろうと、この後間違いなく起こるであろう問題を見越して呟くリオンにマザー・カタリーナが無言で頷き、己の手を撫でる大きな手を逆にとって胸に宛がうと、己がもっとも信頼していたゾフィーの為に短く祈りを捧げる。
「さきほどウーヴェにも聞きましたが、会いに行かない方が良いのですか?」
「マザーは止めておいた方が良い。……あいつさ、結構ひどい顔してたから」
「でも、ウーヴェは穏やかな顔をしていたと……」
リオンが伝えたのは心が顕す表情のことではなく物理的なことだったが、ウーヴェがゾフィーの顔から穏やかさを感じ取っていたことに驚き、テーブルに肘をついて足を組んで座っているウーヴェを振り返ると、意味ありげに目を細められてしまう。
「結構手酷く殴られてて腫れもひどいし、髪も切られちまってる」
ここに帰ってくる時にはせめて髪だけでも生前のような長くて綺麗なものにしてやりたいからその準備が終わるまではマザー・カタリーナにだけは見られたくないだろうと彼女の気持ちを代弁すると、マザー・カタリーナの手がぎゅっとリオンの手を握り、何かを諦めたように溜息を吐く。
「分かりました。……戻って来られることが分かればすぐに教えて下さいね」
「ああ」
もちろん真っ先に知らせると頷いたリオンだが、何かを思い出したのか目を軽く瞠って舌打ちをし、不安そうな顔で見上げてくるマザー・カタリーナの目を見つめて心底悪いと言いたげな顔で己の自宅待機が決まったことを伝える。
「自宅待機、ですか……?」
「あー、うん。そうなると思う」
今回の事件に関係して内部調査が入り、その間自宅待機になる予測を伝えるが、唇を噛み締めるマザー・カタリーナの肩に手を置いて大丈夫だと笑みを浮かべる。
「大丈夫だって、マザー。俺はこれぽっちも悪い事や後ろ暗いことはしてねぇ」
後ろ暗かったり悪い事をしているのは行方を眩ませたフランクフルトから派遣されている刑事だと冷笑し、自分は疚しいことなどないのだから堂々と調査を受けるだけだと頷いて母代わりの女性を安心させる為にもう一度大丈夫と伝える。
「大丈夫だからさ、心配するなよ、マザー」
「リオン……」
どれだけ大丈夫だと言われても心配してしまう気持ちを抑えきれずにリオンを見上げたマザー・カタリーナは、いつもと変わらないが決定的に何かが違う笑みを浮かべるリオンに不安を感じ、その顔をカインと次いでウーヴェへと振り向けると、声に出さずにどうかお願いしますと呟き、ブラザー・アーベルに弁護士に連絡を取って欲しい事、他のシスター達にゾフィーが亡くなった事を伝えて欲しいと頼むと、そのまま意識を失ってしまう。
マザー・カタリーナが床に倒れ込みそうになる直前にリオンがしっかりと支えて抱き上げ、さっきまで彼女が休んでいた部屋に再度連れて行こうとするものの、その部屋がゾフィーの部屋であり、ゾフィーが二度と使うことのない物に囲まれていることを思うと自室の方が良いだろうと気付き、ブラザー・アーベルにマザー・カタリーナを部屋に連れて行くことを伝えて出て行くが、すぐさま戻って来て今度はウーヴェの前に静かに向かう。
「なぁ、オーヴェ。ゾフィーのあの顔が穏やかに見えたって?」
その一言にウーヴェが己の言葉が嘘でも気休めでもないと伝えるように頷くと、リオンの唇が嫌な角度に歪む。
「……あれだけ痛めつけられてて穏やかだった?ありえねぇ」
「そう思うか?」
「ああ。あいつはきっと苦痛の中で死んだはずだ」
そのゾフィーがどうやって穏やかな気持ちになれるんだと笑うリオンを冷静な目で見つめたウーヴェは、あの時感じたのは愛する人達に再会出来た安心感だったことを伝えるが、リオンにしてみればたとえそれがウーヴェの言葉であっても信じることは出来なかった。
「あれだけ殴られてんだぜ!? どうやって安心出来るってんだ?」
何処をどうすればそんな感想が出てくるんだと冷たく笑うリオンに冷静さを通り越した冷酷にも聞こえる声でウーヴェが気付かないのかと呟くと、冷たい笑い声がぴたりと止まる。
「何だって?」
「……彼女が、最期に誰に会ったのか気付かないのか?」
確かに彼女の顔は暴力の痕跡で変わり果てていて生前の強気な美しさは失われていたが、それでもゾフィーの横顔から感じ取ったのは穏やかさや安堵感だったことをもう一度伝え、彼女がもっとも落ち着き心安らかになれる人がいて、そんな場所が彼女の目の前に広がっていた筈だと断言すると、死後の世界が見えるのかと笑われて静かに立ち上がる。
「死後の世界などない」
「…………」
「人は死ねば土に還るだけだ。死後の世界を作り出しているのは残された俺たちだ」
天寿を全うしようが不慮の事故で無念の死を遂げようがそこにあるのは厳然たる死という事実だけだが、その人を偲び残された人達が祈り、そうであって欲しいと思い描くのが死後の世界だと、リオンや聞いているだけのカインでさえも呆然としてしまうほど冷たく強く響く声で断言したウーヴェは、死の寸前にゾフィーが見た光景が分からないのかともう一度問いかけるとリオンが苛立たしそうに舌打ちをする。
「――彼女が探していたであろう家、そしてその家で共に暮らす掛け替えのない人達だ」
「…………誰だよ、それ」
リオンの拗ねた子どものような声にウーヴェが目を細め、本当にまだ分からないのかと呟きながら左足の薬指を定宿にしているリザードに心の中で祈り力を分け与えて貰うと、視線を逸らそうとする蒼い瞳を真正面から見据え、しっかりと視線が重なった瞬間を狙って一気に表情を柔らかなものにして青い眼を見開かせる。
「お前達だ、リオン」
「――!」
「彼女はマザー・カタリーナやお前達がいるここに帰ってきたはずだ」
お前達にとっては当たり前すぎて何の感慨も抱かない日常の何気ない光景の中に帰って来た筈だと優しく断言し、俯いて手を握るリオンに一歩近づいたウーヴェは、項垂れたまま頭を上げないリオンの肩を撫でその手に軽く力を入れるがリオンの身体は頑なに動くことを拒否していて、小さく溜息を零してゾフィーの最期を確信を持って伝える。
「彼女は……ゾフィーは最期にお前達に会えたんだろう」
マザー・カタリーナにも伝えたが、長い旅行から帰ってきたとき、疲れた身体を癒してくれるような笑みを浮かべてマザー・カタリーナが出迎えてくれただろうし、その横にはきっとお前がいたはずだと囁き、俯くリオンの髪を撫でながら目を伏せる。
「確かに彼女は殴られてひどい傷を負っていたが、微かに笑っている様に見えた」
それは彼女が何を憂うこともなく己のままでいられる場所に帰ってきた安堵感と、その自分を受け入れてくれる優しい人達に囲まれた安心感からだろうと伝えると、リオンの腕が上がりウーヴェの手を握って胸元に引き寄せる。
「オーヴェ……っ!」
「……彼女が帰ってきたらもう一度顔を見て見ろ」
今はまだ気持ちの整理もつかないし何よりもゾフィーが死んだ現実を受け入れるのに精一杯だから分からないだけだと囁き、いつもとは違って頼りなく見えるリオンに頷いて落ち着いてくれと願ったウーヴェは、肩越しに見つめられていることに気付いて目を細めるとカインが舌打ちをして部屋を出て行く。
「リーオ……後はブラザー・アーベルに任せて家に帰ろう」
ここもお前の大切な家だが二人で一緒に過ごすあの家に帰ろうと囁くウーヴェにリオンが手を握ったまま首を左右に振り、ウーヴェの家には帰らないと途切れ途切れに告げたため、眼鏡の下で目を瞠る。
「どうして?」
「…………自宅待機、だし」
それに前にも話したが、お前のあの広くて立派な家に帰ると己の惨めさが際だってしまうことを自嘲混じりに告げると、ウーヴェの声にこの時初めて怒気らしきものが混ざって低くなる。
「つまらないことを考えるのなら許さない、前にもそう言ったな?」
同じ話題で先日も口論しかけたが、本気で言っているのなら怒るぞと声を顰めるウーヴェにリオンが顔を上げて口を歪めて自嘲する。
「事実だ」
「……その事についてはまた話をしよう」
今はその話は聞かなかったことにしておくと小さく呟くウーヴェにリオンが顔を逸らし、自宅待機をしなければならないしゾフィーが死んだことをマスコミに公表するとここは大騒ぎになるから当分近づくなと呟くと、自分が行きたい場所に行くのに誰かの許可が必要なのかとウーヴェがリオン以上に冷たく笑う。
「……お前の仕事に差し障りがあるといけねぇだろ?」
「ふぅん。そんな話は初めて聞いたな。恋人が自宅待機を命じられると俺の仕事に影響が出るのか?」
内部調査とやらがこちらにも及ぶのだとすればこちらにもそれなりの考えがあること、また身内や恋人が謂われのない嫌疑を掛けられて調査をするかも知れない事実だけでマスコミに面白おかしく書き立てられるのだとすればどちらに対しても人権侵害になることを一気に吐き出すと、驚くリオンの前で腕を組んで目を伏せる。
「リオン」
「何だよ……」
「――お前を護る。その為に俺が出来ることがあれば何でもする」
「………………」
あの家に一緒に帰らないと言うのであれば今日は帰ってくる必要はない、自宅に戻って少しでも身体を休めろと告げて髪を掻き上げたウーヴェは、とにかく一人になってベッドで横になれと告げ、呆然と見つめてくるリオンの額にキスをする。
「帰るのなら送って行く。どうする?」
「………………自分で帰る」
「分かった。ブラザー・アーベルに後を頼んでくる。気を付けて帰れよ」
帰るのならば送って行ってやると告げるが、それだけは譲れないと頑なにリオンが拒んだためにウーヴェが表情を和らげ、後の事を任せる為にブラザー・アーベルを呼んで事情を手短に説明をする。
「もしもこちらの弁護士だけでは手に負えないようであれば声を掛けて下さい」
「……本当に助かります。ありがとうございます、ヘル・バルツァー」
「世話になっていますから」
リオンをちらりと見た後に声を潜め、身辺にマスコミなどが姿を見せて困る時や近所からの目に余る嫌がらせなどがあればすぐに弁護士に相談するよう忠告をして同意を貰うと、俯くリオンの背中を撫でて帰ることを伝えて児童福祉施設を後にするのだった。