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こぢんまりとした店だった。看板に書かれている文字が、韓国語だということは結にもわかったが、何と書かれているかはさっぱり読めなかった。
「オモニソンスルチプ。母さんの居酒屋って読むのよ」
翠が看板の文字をすらすら読んで、ちょっと得意げな顏をする。
店の扉を開けた瞬間、耳に飛び込んできた甲高い嬉々とした声に結は目を丸くした。
「あっらー、翠ちゃんじゃない!」
くるくるパーマをかけた髪をヘアバンドであげて、腰には白いエプロンをした恰幅のいい女性が翠に抱きつく。
「オモニ。久しぶりねえ。またちょっと太ったんじゃない?」
「んもう、翠ちゃんってば冗談ばっかり」
流暢な日本語を話す人で、オモニは翠の後ろに立っていた結に気がつくとまた甲高い声をあげた。
「あっらー彼女? 可愛い子ねえ。さあ座って座って」
オモニは、結と翠に店の中央の席を勧めた。
「何にする?」
「いつものをお願い。あとピーチエールとチャミスルもね」
オモニは任せて言うように、拳で胸を大きく打った。
「この前は悪かったわね。酔ってあんな姿を見せて。引き留めたりして」
下ろした箸の先を見ながら翠が言う。
「あんたでよかった」
俯いたまま続けて言った翠を結は見ていた。
そんなふうに言われても、素直に嬉しいと思えなかった。
恭平の危篤の報せに翠が受けたショックを想像すると、二十八になる女が頬を赤らめ、甘い感覚に浸るなどできなかった。
「受賞式の日のこともごめん。あたしのせいで暖人の晴れ舞台を台無しにしてしまった。あんたにも迷惑をかけたわね」
結は小さく首を振った。
クリスマスツリーのイルミネーションを翠にも見てほしかった。点灯した瞬間翠のことを想っていた。
「男が嫌だとか、女になりたいとかそんなこと自分でもよくわからない。ただ今の姿でいることが、このしゃべり方をしている方が楽なのよ」
小さなグラスに入ったチャミスルを指先で触れながら翠は続ける。
「あたしね、十八で施設を出て、運よく生命保険の会社に就職できたの。そこで出会った人が恭平さんだった。恭平さんはあたしの教育係で目標だった。でもあるとき、
「この仕事は僕には合わない。コーヒー好きを活かして喫茶店のマスターでもしようかと思う」
冗談かそれとも老後の話でもしているのかと思ったら、恭平さんすぐに会社を辞めてしまったの」
翠がそこで小さく笑った。
「あたしは恭平さんという目標をなくして、心に穴が空いてしまった。それを埋めるようにひたすら仕事して仕事して。いつの間にか営業成績もトップになって、毎晩のように高い酒を飲んで、毎晩違う女と遊んで名前なんか知らない女と寝た。いくらそんなことをしても、心はちっとも満たされなかった。そんなとき恭平さんから連絡があったの。
恭平さんは本当に喫茶店のマスターになっていて、恭平さんが淹れてくれたコーヒーを飲んだら、ずっと我慢していた涙が溢れて止まらなかった。そんなあたしに恭平さんが言ってくれたの。
「せめてここでは、ありのままの君でいればいいんですよ」
それから髪を伸ばして綺麗に化粧をして。その姿を鏡で見たとき最初は周りの反応が怖かった。でも、恭平さんも奥さんも店に来てくれる人も誰も笑ったりせずに、綺麗だと褒めてくれた。空っぽだった心が徐々に満たされていく思いがした」
それでも勝人という名前にどうしても耐えられなかった。そんな思いを口にすると、奥さんが言ってくれた。
「改名ってできないのかしら」
何を言われているかわからなかったくらい、そのときの翠には衝撃的な言葉だった。
当時、店に時々弁護士の先生が客として来ていた。その弁護士の先生に話をすると、先生は親身になって話を聞いてくれた。
だが、しばらくして先生は体調を崩してしまい改名の話は立ち消えてしまった。
「それならこの店で使うペンネームみたいなものを考えてはどうかと恭平さんが提案してくれて、悩んでいたあたしに恭平さんと奥さんから「翠」はどうかと言われたの。「みどり」とか「すい」とも読むけれど「あきら」とも読む。本当は恭平たちに子供ができたら付けたかった名前だったらしいけど、それは叶わなかったから君に使ってほしいって言われて、とても嬉しかった。例え本名にはできなくても、その日からあたしは瀬尾翠として生きていこうと誓ったの」
「じゃあ、あの人は昔の…」
勝人と呼びかける声に、結は勝手に母親だと思って、二人の間に割って入ったけれど昔の恋人だったかもしれない。
翠は微かに首を振った。
「あれは母親だったと思う…。いくら名前も知らない女と遊んだからって、あんな歳の離れた女とは…」
あの女の声を聞いたのも、手に触れられたのも何年振りだろう。
いや考えたくもなかった。
でも考えてしまう。
あの女あんな声をしていただろうか。目尻にあんな皺あっただろうか。
それにどこで翠の居場所を知ったのだろう。
しばらく黙って、チャミスルを飲んでいた翠が顔をあげると言った。
「昔ね、廃品回収車から聞こえてくるうたい文句っていうの? あれが好きだった」
首を傾げる結は廃品回収車というものを見たことがなかった。それを言うと翠が目を丸くして、そして大きな声で笑った。
「確かにね。あんたの暮らしじゃ見ることも、うたい文句を聞く機会もないわね」
翠が説明してくれた。
「それで言うのよ。『どんなものでも回収致します。壊れていても構いません』ってね。壊れていてもいいと、自分に言われているみたいだった」
「そんなことない。あなたは…」
翠はゆっくり首を振った。
「壊れているのよ、きっと最初から。でもそれって誰にでも言えることじゃない。あんただって多くのものを抱えている。暖人だって、あたしたちでは想像できないような苦しい思いを味わってきただろうし、完璧な人間なんていない、百点満点なんかありえないのよ。それでも生きていくしかないの。男か女か自分でもわからないあたしが都合良い言い訳をしているように聞こえるかもしれないけど。あたしはあの言葉に救われたの」
トラックから聞こえてくるという、廃品回収車のうたい文句を結も聞いてみたかった。
コメント
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翠が自分の過去をぽつぽつと話すシーン、すごく心に響きました。「壊れていても構いません」って廃品回収車の言葉に救われたっていうの、切なくて、でもその言葉を大事に持って生きてきたんだなって思うと胸がぎゅっとなるね……。翠の「このしゃべり方の方が楽」っていうのも、飾らない自分でいられる場所があるって尊いよなあって。結ちゃんも黙って聞いてて、でもちゃんと受け止めてる感じが伝わったよ。素敵なエピソードありがとう🌙