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【ローマン・ホリディ(偽) 】
今日と明日は梅雨入り前、最後の晴れ間になるとテレビから聞こえた情報通り、外は清々しい初夏の陽気に包まれている。久々李が所属する組織が本格的に目的に向けて動き出すまであと数ヶ月らしい。至高の一振り、真打の封印解除が大詰めだと統領側近から昨日構成員に伝達があった。その知らせに、久々李は踊ったが、それまでは、只管に静かに蠢く地中の虫だ。確実な成功のためにできることを重ねていく。
そんな日々の1日の今日、一通り作業を終えた暇つぶしだろうか、昼彦が久々李に問いかけてきた。
「そういえば、久々李って好きなタイプとかいるの?」
全く、下らなくてしょうもない、役に立たない質問だと久々李は眉間に皺を深く寄せた。質問者である昼彦自身は、先程始末したターゲットと、彼の囲っていた愛人×3名の血でできた血溜まりを飛び越えたりしながら、遊んでいる。倒れた女達は、美しくはあるが、一様に金が掛かったけばけばしい装いに、それぞれが自信があっただろう身体のパーツを下品に剥き出しにしていた。それらの姿を一度久々李は見遣ると、すぐに視線を逸らし携帯電話に意識を集中させた。無視されたと感じた昼彦は口を尖らせながら話し続ける。
「ねーねー、話聞いてる?久々李くーん?」
騒がしい猫みたいに、ねーねーねーねー繰り返す昼彦が非常に鬱陶しく感じたので、仕方なしに簡潔ではあるが真面目に久々李は答えた。
「……黒髪の乙女。汚れがなくて純粋で品がある、長い黒髪の乙女がいい」
その答えに対して、一瞬だけ驚いたように目を丸くした昼彦であったが即座に爆笑スイッチが入ったのだろう、ひとしきり笑った後で、こう言葉を漏らした。
「――久々李って、案外きもい?」
聞いておいて、貶す昼彦に対して久々李は腹の底から怒りが溢れ出す。さらには、拠点に帰ってからも年若い女性である斗斗に対して、昼彦が久々李の回答に対してどう思う?かと面白半分に問いかけた。久々李の目の前で。問われた張本人は、表情に音をつけるなら「うげぇ」といった顔を見せて返事をした。
「正直、ボクもきもいと思う……そんな女の子、妄想だよ」
それを聞いた瞬間、早めに就寝してこの身に受けた言葉の傷を癒そうと、久々李は固く決意した。
そんな出来事があった次の日である今日は、特に何も予定が無い1日。昨日受けた自分の趣味嗜好を否定する言葉達から受けた痛みは、半分くらいは治っていると久々李は思う。
今朝のニュースでは、今日までが晴天で明日からは天気が崩れて、暫く傘は手放せないと言っていた。その予報通りに、清々しい青空が広がっている。簡単に日用品だけを仕入れて、拠点に戻るだけの1日になるとそのときの久々李は考えていた。
比較的治安の良い、瀟洒な繁華街を歩いていると昔は銀行だったレトロな建物が久々李の目に入る。確か、今はレストランでうちの組織のトップも何度か利用してたな――そんなことを思い出していると、建物から1人の少女が出てきた。その姿に久々李は驚愕の表情を浮かべる。
さらさらと揺れる黒絹の髪は曲線で彩られた金属製の髪留めでハーフアップに纏められている。上質な七分丈の白いブラウスに、首元は華やかなスカーフ。ふわりと広がる、濃紺のミモレ丈フレアスカートは華奢な腰を強調するようなデザイン――それら上品でクラシックな装いに不調和がない、そんな乙女が目の前にいるのだ。
『黒髪の乙女。汚れがなくて純粋で品がある、長い黒髪の……』
散々妄想だと言われていた偶像が、肉体を持って現れたことに、久々李の心臓が早鐘を鳴らす。浅ましいことこの上ないが、もう少しその姿を瞳に焼き付けたいと思わず少女を彼は凝視する。ひと時の夢を味わうように姿を焼き付けるのだ。――この一瞬の出会いになっていれば、今日の小さな幸福で片付いたはずだった。しかし、様子がおかしいことに優秀な武人はすぐ気がつく。
少女の背後を追うように、堅気でない人間達が湧いて出てくるのだ。帯刀している者や恐らく武器を隠し持っている者が目視できる範囲で5、6名。もしかしたら、それ以上いる可能性がある。あのような乙女に無作法な男達が接近する理由なんて、碌なことはない。身代金か人身売買か。散々そのような現場と出会い続けてきた人間ではあったが、『彼女のような存在には、そのような目は似合わない』なんて利己的な感情が彼に働く。もし、黒髪の乙女に危機が迫るのであれば、露払いをせねばならないと衝動的に考え、久々李は彼らの後を追うのだった。
人気の多い通りを曲がり、裏路地へ彼女は進んで行く。案の定、ここがチャンスとばかりに男達の移動速度が上がる。久々李も急いでそちらに向かい、裏路地に入る。すると今まさに、男の1人が乙女の細い手首を捕まえている現場だった。
「おい、なんだお前は?見せ物じゃねぇぞ!!」
イレギュラーな存在に気がついた男の1人が、端役のような台詞を吐きながら凄む。少女を囲っていた男達も一斉に異分子を睨みつけるが、しょうもないチンピラ共だ。しかし実のところ、現在、久々李は仕事外では、手の甲にある組織の証を隠すように上から指示されている状況である。まだ本格的に計画が動き出す前――仕事以外での殺しは控えたいと考える剣士は、慣れていないが峰打ちで手を打とうと自身の刀に手を伸ばした。
「……あの、ありがとうございました」
「――たまたま通りがかりに、あんたが襲われているのを見かけただけだ……気にするな」
黒髪の少女の声は、甲高くなく静かで清らかなもので、そこまで理想通りだったことに、久々李はいっそ恐怖すら覚えた。峰打ちで伸びている男達はただの背景になり、武を奮っていた青年は目の前に立つ乙女の顔に釘付けになってしまった。
最初その姿を確認したときには死角で見えなかったが、彼女の左頬には、何かを隠すように大きな絆創膏が貼ってある。ただそんな瑕疵はあるものの、彼女の顔は綺麗に通った鼻筋に、薄くて桜色のような口脣、何より目を惹くのは透明度の高い深紅の双眸などで構成されるとても美しいものだった。
久々李は自身が感じている感情の激流を、できる限り彼女に悟られないように心がけた。一方後ろの方で、伸びていた男達が若干動き始めている。この場所で立ち往生をしていても仕方ないが、本来の自分ができる高速移動を市中で行えば、要らぬ混乱を与えかねない。どうするかと久々李は思案していたときに、路地裏の少し奥に旧型べスパが置かれていることに気がついた。
「――勝手ながら、あんたの逃亡を手伝わせてもらう」
「……え?」
戸惑いを見せる彼女の手を引き、ベスパの前まで久々李は連れて行く。ロックは簡単な妖術で解除でき、エンジン音が辺りに響き渡った。それに跨った青年は黒髪の少女に告げる。
「乗れ……それほどスピードは出ないだろうが、走るよりはマシだ」
ぶっきらぼうで、一般的な女性なら威圧感も感じてしまうような雰囲気を出してしまったことを、久々李は後悔するが、意外なことに彼女は空けた後ろのスペースに迷わず横座りし、口を開いた。
「――申し訳ないが、よろしくお願いします」
背中に感じる温かさに、純情な青年の脳は沸騰しそうになる。さらに、彼女がその細腕で腰に抱きつくのだから、もやは久々李の思考回路は通常通りに働くことはなかった。仄かに柔らかく蕩けそうな感触がするかもしれない――とにかく、僅かに働く思考でこの場所からの逃避行を叶えるしか、今の彼にはできないのであった。
予想外に短く2人のベスパによる逃亡は終わりを告げる。賑やかな街並みをクラシックな車体で駆け抜けたが、次第にその動きが失われていく。ガス欠のようであった。仕方なく、手伝ってくれた鋼の足を路上の片隅に乗り捨てる。たどり着いたのはこの地区の端にある噴水を中心とした広場であった。噴水を囲むように階段状に広がるこの場所では、老若男女が思い思いに楽しい休日を過ごしている。追手は存在していないことを久々李は確認し、とりあえず少女を休ませることにした。
「……その、平気か……怪我などは」
「……大丈夫です、巻き込んでしまってごめんなさい」
申し訳なさそうに話す階段に腰掛ける彼女は、自然に上目遣いで彼を見つめた。明るい場所で見える彼女の瞳の色彩は薔薇も紅玉も勝てないと、思わず大柄な青年は唸ってしまう。
少し落ち着いたところで、久々李は僅かに火照り感じた。初夏といえども陽射しが日中で1番強い時間なのだ、それは当然の生理反応と言えるだろう。そして、恐らく彼女も同じ感覚を味わっていると想像できる。それを少しでも解消しようと久々李は周囲を見渡し、目ぼしいものを見つけた。
「すぐ戻るから、ここにいてくれ」
そう伝える青年に対して、少女は小さく頷く。敵の気配は探りつつも、彼女を残して久々李は目的の場所へ駆けて行った。
ほんの10分にも満たない時間であるが、すり寄ってきた黒猫と戯れる黒髪の乙女の鼻腔を爽やかな香りが掠めた。彼女の足元にいた生き物は突然の大きな影に驚き、いつの間にかどこかへ行ってしまった。
「――おかえりなさい、これは?」
「そこで売っていたジェラート……今日はよく売れていたみたいで、ライムしか残っていなかったが……少しでも、暑さを解消できるかと……」
鮮やかな碧色の皮が混ざった白い冷菓を、久々李は少女に差し出した。若干戸惑いを彼女は見せたが、ヒヤリとした甘味を手渡しながら、少しだけ申し訳なさそうに口を開く。
「苺やチョコレートの方が良かったかもしれないが……これで我慢してくれないか?」
手渡されたジェラートを微かに物珍しそうに少女は眺めててから、挿さっている木の小匙で掬い取り、小さく口を開いてそれを喰んだ。唇の薄紅と新雪のような色彩のコントラストがとても美しく久々李に映る。すると次の瞬間、彼女の目が少しだけ丸く見開き煌めいた。
「美味しい……そんなに甘くないから食べやすい」
少女の小さな感嘆に、青年はほっと胸を撫で下ろす。久々李自身の身近にいる妙齢の女といえば、大体苺やチョコレート、生クリームにチーズケーキのような甘ったるい物を好むものだから、当然彼女も同じ嗜好をしているのではと不安だったのだ。様子を見る分に、お世辞ではなさそうである。一口、二口と少しずつ口に含んでいく様は、とても行儀が良い。そんな少女の横顔を盗み見ていると、急に彼女が隣に腰掛ける男と目を合わせてきた。その赤に見つめられて、久々李の心拍数は自然と上がっていく。
「あなたが買ってきてくれたのだから、味わって欲しい――とても美味しいから」
そう言って彼女は、小匙に掬ったジェラートを久々李に差し出した。知識として知っているエンタメ作品の定番シーンの再現が、最高の相手で現実になっている。ただ、このシチュエーションで食べてしまうのはとても軟派では?と久々李は迷ったが、目の前の少女が困ったように僅かに笑みながら告げる。
「とけてしまう……早く食べて?」
そんな静かであるが心地よい声に誘われて、その匙にのった冷菓を久々李は喰んだ。柑橘特有の酸味とそれを邪魔しない控えめな甘さがヒヤリと口の中に広がっていく。
「――確かにうまい」
久々李の反応を見つめていた少女は、安心するような表情を見せた。そしてもう一度、木の小匙でジェラートを掬い取り彼に差し出す。彼女の誘いをまた迷ってしまうのは野暮なことであると考えるこの青年は、次は迷うことなく口を開こうとした。そのときである。久々李は近くに迫る敵の気配を感じとった。穏やかなひと時を過ごしていたが、逃亡の最中であることを2人に再認させる。
「……行くぞ」
「――はい」
2人は勢い良く立ち上がり、この場から至急離れることを意識する。その弾みで、彼女の手から食べかけのジェラートが離れていってしまったが、それに構う余裕など今許されることではなかった。2人の逃亡者がいるなんてことは、広場で楽しむ人達には関係のないことで――ただその場には、地に落ちる白い塊が残るだけである。
黒髪の乙女の柔らかな手を引き、近づいてくる気配から逃れようと久々李は思案しながら走るが、意外にも追手達はしつこく付き纏う。流血を控えたい私情もあるが、何より血生臭いものを清らかな少女に見せることは避けたい。そんな気持ちを抱えながらも、青年は腹を決め人気のないところに誘い込み、彼らにある程度痛い目にあってもらう算段を立て始めた。それがこの状況を打破するための最短ルートであると、経験が久々李に告げるからである。
表通りから裏路地に入り、愚かなチンピラ達を誘い込む。すると予想通り彼らはぞろぞろと湧いて出てきた。当初予想していたよりは頭数は多いが、全く芸のないことだと久々李は感じる。
「その女を引き渡せ!!」
「てめぇ、怪我したくないならさっさとしやがれ!」
「かっこつけてんじゃねぇぞ!?」
三文芝居の役者のような台詞が、こうもぽんぽん飛び出すことに久々李は関心した。一方、呼びかけを聞いても、体勢を崩さない大柄な青年に痺れを切らした端役たちは一斉に各々の武器で襲いかかっていく。久々李はそんな彼らを切り伏せるために、少女を自分の背後に隠して、抜刀の姿勢から駿足の一歩を踏み出した。
湧いてくる彼らを倒していくものの、意外にもしぶとく応戦してくる。仄かに久々李の内なる斬欲が刺激されたが、それよりも今は少女の安全が最重要。彼は確実に死なない程度に痛めつけ、1人ずつ地べたひ這いつくばらせていった。
少し彼女との距離を開けすぎたか、若干背後の様子に意識が回らない隙を狙ってからか、少女の背後から現れる数人の男に久々李は気がつけなかった。視界の端で、背後から駆けてくる彼らが彼女を傷つけるのではと、焦る気持ちから思わず言葉にならない叫び声を彼は上げる。対峙する敵を押し除けて、彼女を守るために方向転換をするが次の瞬間予想外の光景が久々李の目の前に現れる。
「ぎゃああああっ、なんだこいつ!?」
「もしかして、偽物か!?なんなんだよ!!おいっ!」
溢れる鮮血が飛沫となって広がっている。黒髪の乙女の手の中には、どこに潜ませていたかわからない小刀が握られていた。その小さな刃には、帯刀していた男の手首を裂いた血が滴っている。転がっている男が握っていた刀を手にした彼女は、倒れた男は無視して、他の男達にも切り掛かり始めた。スカートの長い裾や、長い絹糸のような髪がひらひらと舞う。その様は闘魚のようにも神楽を舞う人にも見えて、久々李や他の追手たちを驚愕させる。守られるのが似合いの乙女だと思っていたが、もしかしたら本来の姿は――
思わず意識が逸れてしまったが、本来の敵を思い出した久々李は見つめていたい気持ちは山々に、眼前の敵達を倒していく。それでも、チラチラと目につく少女の姿は彼の脳に焼きつきすぎて離れなさそうであった。
あっという間に追手達の黒山が積み上がる。恐らく死んではなさそうであるが、この後さらに追いかけ回す体力は全員なさそうだ。
「……おい、お前は一体?」
久々李は少女に問いかけ始めようとしたが、どこからともなく携帯のバイブ音が鳴り響いた。携帯の主である彼女は、スカートのポケットから端末を取り出したのち、目の前の青年をじっと見据えた。
「今日は本当に助かった、でも今日のことは忘れて欲しい……さよなら」
そう久々李に伝えると、背後から男達が現れた抜け道に向かい彼女は走り出した。様々な急展開ですでに呆気に取られて暫く呆然と立ち尽くす久々李であったが、一方的な別れなんて許したくないと考えがまとまり、急いで彼女を追いかけ始めた。そう言えば名前すら聞かなかったし、自分も告げていない。だからこそ、もう少しだけでも側にいて欲しいと思いながら久々李は脚に力を込めるのであった。
「――柴さん」
『依頼主は無事出国したで、お疲れ様チヒロちゃん』
「陽動と思わせないためですが、淵天なしは大変でした……」
『これも経験やし、それでも成し遂げたから君はやっぱり神童やで』
「……依頼主と同じ服装、着慣れないので疲れました。至急ピックアップお願いします」
『わかったけど、チヒロちゃんどうした?走っているんか?』
「……また後で話します、とにかく早く!」
千鉱は背後から迫り来る気配を、何としても振り切りたかった。自身の仕事に図らずとも手助けになった、名も知らない青年は恐らくかなりの手練である。これ以上の関わりは正直マイナスでしかない。振り切るために走るが、少しだけ心残りはある。
周りに年の離れた男性しかいなかったため、年が近い異性と普通に関わったことは千鉱にとっては初めてのこと。刀も握らず、復讐の道も歩かない人生であったなら、あの広場での昼下りもあったのかもしれない。
どこか甘酸っぱさを感じる、少しだけぶっきらぼうでも優しい誰かと過ごす映画みたいな休日。
僅かに叶うことがない想像をしているうちに、よく知る大人の手の感触を千鉱は感じた。姿は見えないが背後から自分を呼ぶ声がしたが、それに応えることはなく、引かれた手の方に導かれて、黒髪の乙女はこの場から姿を消すのだった。
「お疲れ様、チヒロちゃん――ああ、ハイブラな服やったのに、返り血結構ついてるやん……クリーニングで落ちるかな?」
「今回の依頼のために着ただけなので、このまま捨てても問題はないかと――依頼主から、作戦のために渡されただけですし……」
拠点内に無事戻ってから早々に、そう話す千鉱は、ふわりとしたスカートを軽く摘んだ。いつものようにクールかつ無表情に語る様子の彼女に柴は苦笑をもらしながら、口を開く。
「そりゃ、今回の依頼は『国外へ駆け落ちするが、常に監視の目があるから、空港に辿り着けないかもしれない。だから、自分がよく身に纏っている服を着た誰かに、追手達の目を引いてもらってその隙に脱出』ってことや――俺は依頼主のそばでサポート、依頼主と背丈が似たチヒロちゃんが陽動。役割分担がバッチリ決まって今回の依頼大成功!」
結果として成功であったので、素敵な結末のはずだ。前金も破格であったし成功報酬もがっぽり。千鉱が着用している衣服もそれなりに価値のあるものだから、捨ててしまうには正直もったいない。
しかし、千鉱はどこか不満気に眉間に皺を寄せながら、頬に貼った絆創膏をゆっくりと剥がし出す。みるみるうちに、刻まれた大きな古傷が千鉱に戻ってきた。いつも通りの復讐者の顔。そんな彼女の少しだけ赤くなった傷跡を見つめた柴は、慈しみを持って軽くそこに指先で触れた。
「なんや、あんまり嬉しそうやないな……どしたん?」
軽さはありつつも、優しげに柴は尋ねる。それに対して千鉱は少しだけ溜息をついた次の瞬間から静かに話し始める。
「父さんが生きていた頃も、特にお洒落をしたいとか、所謂、女性らしいことで楽しみたいなんて考えたことありません――でも、いつもなら着ないキレイな服を着てメイクもした私がショーウィンドウに映って……浮かれている存在しない人間がいて……少しだけ、何しているんだろう?って思う自分に腹が立ちました」
ただそれだけと告げる千鉱の深紅は、僅かに揺れている。復讐に生きる少女が持つ、人間らしい当たり前な感情。可愛らしい高揚感すらも、生真面目な彼女にとっては律したい部分らしい。興味がないとは言ってみても――柴にとって、そこが大変好ましいとも思うが、反対にその縛りを解いてやりたくもなるとも思う。
「チヒロちゃん……ちょっと座ろうか?」
そう言って、柴は拠点内にあるソファに千鉱を誘導して彼女の肩を軽く押した。ストンと腰掛けた彼女は少しだけ疑問符を頭に浮かべながら、上目遣いで柴を見つめる。見つめられた目前の男は千鉱の前に跪き、そして、彼女の両手を自身の両手で優しく握りながら語り始めた。
「君がこの先、復讐を果たす。これは俺が言うから絶対叶うとして……その先のこと、ちょっとだけでええから考えても少しくらいバチは当たらんよ?」
柔らかく握られた手の温もりは、子供のような熱を孕んでいると千鉱は思う。父の友人ではあるが、友人としての枠を越えるくらいの彼の献身。それが、千鉱を暗い復讐の日々の中にある、嵐の夜に光る灯台の灯。
「でもな君はきっと賢いし優しいから、終わったら地獄にすぐ行こうとするやろ?そんなんちょっとだけもったい無いと思わん?俺はもったい無いって思う……」
柴の方言混じりの言葉が、緩やかに千鉱の身体に染み込んでいく。
「ちょっと位、寄り道してもええやろ?寄り道に楽しいこと転がっている方が、地獄の道も案外楽しいかもしれへん――この可愛らしい服だってきっと『楽しい』の1個かもしれんやん?」
そう言った柴は、千鉱に笑ってみせた。精悍で端正な顔立ちが、子供を安心させるような破顔になる。それを見ていた千鉱もつられて、表情を僅かに緩めた。
「……そんなに、甘くてもいいのでしょうか?」
それに対して柴は、首を傾けながら、柔らかく言い聞かせるような声色で答える。
「――こんなん甘いのうちにも入らんよ?」
優しく千鉱の掌に触れていた、柴の両手がゆっくりと離れていく。立ち上がった柴は、少し煙草を吸ってくると言い側を離れる。部屋の扉の前に立った彼は、ついでに夕飯何か買ってくると告げて退室した。
千鉱も着替えのため立ち上がろうとしたが、踵あたりに少しだけ痛みを感じソファへ逆戻りする。履いていたグラディエーターサンダルの紐を解いていくと、踵には赤い靴擦れ。履き慣れないもので大立ち回りをしたのだから、当たり前なのだろう。もう片方にも同じ擦傷が刻まれている。その跡を見つめた千鉱は1日に起きたことを反芻した。
少し前に、流し見した映画に没入したような感覚
不器用に手渡された、甘すぎないライムのジェラート
名前すら知ることがなかった彼の温度
「……もう少しだけ、味わってみたかったな」
片膝を抱えながら千鉱は、誰に届くわけでもない独り言を呟き、立てた膝に顔を埋めた。
窓の向こうは、真っ赤な夕焼け空。明日からは例年通りの梅雨の日々が始まる。
【カレーとポテサラ、そしてデセール】
熱いシャワーの雫が身体を伝っていくと、背中を引っ掻かれた細い傷が沁みて、昼彦は眉間に皺を寄せた。その痛みは先ほどまで外で会っていた、彼女擬きだった女との性交渉の名残り。多分幽に連れられて着いて行ったパーティーで出会った、どこかのご令嬢だったと思うが今となっては終わった話なのでどうでもいい。ただ、縋り付く表情が若干鬱陶しかった。多分寝たら忘れるだろうが。お湯を全身に浴びていると、ほんの少しだけ空腹を昼彦は覚えた。
気に入りのアップルミントが香る洗髪剤で髪を洗い、温かいお湯で泡を流して、シャワーの栓を昼彦はきつく締める。浴室から出ると、当たり前にそこよりは温度が低い。身体が急速に冷えていくので、昼彦は至急柔らかなバスタオルで身体を拭いていく。すると、腹の虫が小さく鳴いた。早めにその欲望を満たさなければならない。そう実感した昼彦は着心地の良い部屋着を身に身に纏い、何か食べるものがあっただろうかと考えを巡らせた。
買い替えたばかりのドライヤーは以前より性能が良く、薄桃の長い髪を素早く整えていく。趣味で長くした髪ではあるが、少しだけ鬱陶しく感じることも昼彦にはあった。ヘアゴムで無造作に留めるのも味気ないし、華やかさに欠けるなと考えていた折に、とっておきのものに出会う。洗面台に置かれた、銀細工に鮮やかな紅の珊瑚があしらわれた簪である。髪をまとめて、無造作に簪を挿す。透かし彫りで胴が珊瑚の蝶々が、淡い甘い髪色にとまっている様を鏡越しに昼彦は見つめた。
このマンションの一室は元々、養父の幽が経営する会社の商品保管場所の1つであった。元々住んでいた本宅の方は、瀟洒な郊外の高級住宅地の最奥にあるが、昼彦の通う高校からは距離があり、遊びに出歩くにも若干便が悪い。一方この場所は、市街地の一等地にあり交通アクセスも良好だったので、幽にお願いしてこちらで住まわせてもらっている。
貿易を営む一方、美術品の販売などを行うゆえに、保管場所には様々なきらびやかな品々が並んでいた。この保管場所では、比較的小さな装飾品関係を中心に集められている。今、昼彦の髪にあるそれも幽と側近によって運び込まれた際に、惹かれてねだったものだった。昼彦の何十回目かわからないおねだりに対しても、幽はいつもの笑みを浮かべながら了承してくれた。側近の表情は覚えていない。
スマホを弄りながら、リビングの大きなコーナーカウチソファに昼彦は腰掛けた。冷蔵庫の中には特に目ぼしいものはない。普段なら、週に2、3度家事代行サービスに依頼して不在中に清掃や食事を作り置いてもらうが、直近で来る予定だった昨日は、都合によりキャンセルしていた。
だから、食材の状態のものは冷蔵庫にあるが、食べられるは何もない。その矛盾に気がついたとき、昼彦は盛大な溜息を吐き出した。仕方ないので何かデリバリーで頼もうとアプリのアイコンに触れようとした瞬間、来客を知らせる電子音が部屋に響く。
「あれ……千鉱じゃん?何で来てるの?」
「……お前の養父に依頼されていたものを持って来た」
「会社の方じゃなく?」
「都合がいいから、ここに運んでくれとの指定があった……1階のエントランスロビーで渡すから、入れてくれないか」
インターフォンモニターには、長い筒状の物を背負った少女が映っている。今日は今冬の中でもかなり寒い。いつもだったら他人にそれ程気遣いをみせるタイプではない昼彦であったが、自分自身がかなり興味を持っている人間の来客に胸が踊る。エントランスでの逢瀬で終わらせるなんてもったいないと考えた昼彦は、どんな言い訳でこの部屋に呼び込もうかと、最高速度で悪知恵を働かせた。
「じゃあ、これが今回依頼があった刀だ――用が済んだから帰る」
「ちょっと待ってよ、上がったらいいじゃん」
何だかんだ理由をつけて、千鉱に部屋まで上がってきてもらったのに、彼女ときたら物を渡せば即終了といった様子だった。そんな具合にドアに手をかけるのだから、上から昼彦は掌を被せて静止させる。その行動に対して、千鉱は訝しげな目つきを昼彦に向けた。
「……この手は何?」
「うわっ、冷た。少しくらい温まっていったら?」
「問題ない。家に帰ってやることもあるから、これで失礼する――」
千鉱は部屋を出ようとするが、彼女の身体に抱きつく一歩手前まで近づいた昼彦が、子供が母親に甘えるような声で言葉を遮った。
「千鉱……腹が減って倒れそう。助けてぇ」
このような言葉が玄関にて、意外にもお人好しな千鉱が折れるまで、数十種類繰り返された。
『もしもし父さん?依頼された仕事が向こうの都合で少し伸びそうだから、もし晩御飯に間に合わなかったら、冷蔵庫の物食べてて?オレンジの蓋に入ってる煮物は、温めるとき少しだけ蓋を開けた状態でレンジで1分40秒――今日、柴さんと薊さん来るんだよね?常備菜とかをおつまみ代わりにしていいから……うん、じゃあまた後で。飲み過ぎはダメだから』
携帯電話越しに話す千鉱の話し声は、昼彦が聞く中性的で丁寧めだがクールなものとは違い少し驚いたし、少しだけ嫉妬した。娘と父親の会話に聞こえなくもないが、柔らかくて細やかな気遣いのできる良妻の言葉達にも昼彦には伝わる。今日もコートの中はセーラー服を纏っているのに、本当に彼女は子供っぽくない。そう昼彦は改めて思った。
昼彦の駄々により渋々、部屋に入った千鉱はコートと鞄を手に持ったまま、暫く広いリビングと繋がったダイニングとキッチンをじっくり眺める。そして、昼彦に促される形でソファに荷物を置いてキッチンに足を進めた。
「――とてもいいキッチンだな。冷蔵庫の中を見るが?」
「見て大丈夫。そういうところ律儀だよね――俺料理しないからわかんない。あとは、よろしく好きにして!」
そう言いながら昼彦は、キッチンにいる千鉱を観察できるカウンターの反対側に腰掛ける。カウンターキッチンに、人がいるのが新鮮で、面白いと大きな子供は高揚していた。その間にも、冷蔵庫のから現れたいくつかの食材が天板に並べられていく。挽肉に玉ねぎ、人参、じゃがいも、――千鉱は最初、カウンターの前で僅かに思案してみせたが、手持ちの黒いヘアゴムで髪を1つにまとめたそれ以降は、迷いなく動いていた。
「(まさか、千鉱の手料理にありつけるなんて……幽が聞いたらどんな顔するだろ?)」
頭の中で、この状況を知ったときの幽の様子を色々予想しているだけで、中々に面白くて昼彦は思わず笑む。昼彦の保護者代わりである幽は、仕事を通して知り合った六平千鉱のことを好いている。将来の伴侶として。年齢はずっと離れているが、特に気にせずに、身体が融けてしまうほどに甘い言葉を彼女に囁き、理由をつけては様々なものをプレゼントしていた。そしてその度に、感情がのっていない視線を千鉱に返されるか、贈り物を代金着払いで返品されるなどの攻防が、ここ2年ほど続いている。まるで、かぐや姫と貴き身分の男達の攻防戦のようで、面白おかしく昼彦はそれを観察していた。
そんな彼女が今、不思議なことに目の前で調理を始めているのだ。正直とても貴重である。鍋に湯を沸かし、野菜達を想定の形に素早く切り分ける。水が沸騰したら、小分けにしたじゃがいもを入れて茹で、みじん切りにした野菜はフライパンで炒め始めた。普段から調理をしているのであろう、千鉱の動きはとにかく無駄がなかった。炒めた野菜を少しだけ皿に分け、フライパンに残った野菜と後から加えた挽肉を炒める。空腹時には刺激的な香りが昼彦の鼻腔をくすぐり始めた。
「腹減った……千鉱、あとどれくらい?」
千鉱は反応を返さない。調理に集中しているのか、構うと面倒臭いことになるからか――恐らく両者からの理由だろう。相手にされないことにむっとした昼彦は、立ち上がって調理中の千鉱の背後に回り込んだ。彼女の腰に手をまわして、肩に顎を乗せる。その昼彦の行動に呆れた千鉱が口を開いた。
「……火を使っているから危ないし、調理の邪魔だから離れろ」
「IHだから、火出てないじゃん。それに構ってくれない千鉱が悪い」
「――こども」
はぁ、と溜息をついた千鉱は早々に不満を漏らすことをやめ、昼彦をそのままにしておくことにした。了承ではなく、効率のための諦め。一々反応を返して、作業ペースが落ちることの方が千鉱は嫌ったのだろう。背後の温源は無視して、調理を続ける。流石に、茹で上がったじゃがいもの鍋にある湯をシンクに流す際は、離れろと意思表示を示すが、その反応も昼彦には無視された。
その後もスムーズに調理が進んでいく。茹でて柔らかくなったじゃがいもを手早くマッシャーで潰して、取り分けた野菜を加える様子。フライパンの中に水とカレールーを入れて炒めていく様子。千鉱の動き全てに無駄がなかった。背後に異物がひっついているにも関わらず。その異物である青年は、彼女の束ねられた髪と頸のあたりを見つめながら話し始めた。
「――千鉱って、いいお嫁さんになりそう。しっかりしてるし、なんかあれ、リョーサイケンボってやつ?」
「……家事ができるからそうなんて、時代錯誤だ。普通に家事は生きるために必要だろ」
「本当にあっさり、ばっさりしてるよね。……興味ない?」
興味ない。昼彦の問いかけに千鉱は端的に答える。ただ黙々と味付けの微調整を行っている彼女は、特に感情に波が立っていないようだ。リアクションを返してもらえない現実に、不満気な昼彦はふと過去に見た記憶のある彼女の姿を思い出す。100%千鉱の地雷だと考える内容になるが、変化する表情や反応が見たくてあえて話題に出してみようと昼彦は思い話し始めた。
「そっか、千鉱はお父さんのお嫁さんになりたいタイプだから、他の男に興味ないの?」
千鉱の持つ空気がほんの少し揺らぐのを、昼彦は敏感に感じ取る。さらに揺さぶって見るために言葉を続けた。
「どこかのホテルでさ、六平国重が授賞式に呼ばれていたときに、千鉱いたでしょ?そのときの千鉱、父親の曲がったネクタイを直してあげてて……それが整った瞬間に人に呼ばれたよね、オトーサン」
昼彦は思い返している。あれは去年の秋位のことだったはず。幽に連れられて、仕事関係の会合が行われたのが、とある格式高いホテルで行われた。大人達の小難しい話に飽きてしまい、手洗いに行くと嘘をついて部屋から出る。ホテル内をふらふら散策していると、赤い紅葉が美しい中庭に見知った親子の姿を見かけた。
普段は阿呆みたいなTシャツを着用している、体躯ががっしりとした刀匠が珍しくシックな黒いスリーピーススーツを身に纏っている。その目の前で、今日と同じセーラー服を身に纏った少女が甲斐甲斐しく刀匠の服装をチェックし、彼のネクタイに優しく触れていた。フォーマルな装いを窮屈だと溢す父親と、それを諌める娘。淡い色をしたネクタイから彼女の指が離れた瞬間、時間だと呼ばれた刀匠が娘の頭を軽く撫でて、その場から離れた。離れていく広い背中を見つめる、1人になった彼女は先ほどまでネクタイに触れていた指先を、自分の唇に軽く押し当てた。1人きりで成立する口づけ。切なくて仄かに甘さを帯びた横顔が、片恋をしているようで今でも昼彦の記憶に焼きついている。
している、ではなくて叶わない思いを抱えている。触れられないように、丁寧に隠して。
「前から結構ファザーコンプレックス拗らせてるなぁとは思ってたけどさ――指先にキスしているの見ちゃった……大丈夫、あのとき、中庭見える範囲には人いなかったよ、俺以外は」
昼彦は千鉱の髪を結んだヘアゴムに、指をかける。するすると滑らかに下に向かって引いて、髪を解いていった。真っ直ぐで艶のある黒髪が、彼女の背中に広がった。背後から千鉱の表情は窺い知れない。動揺で瞳を揺らしているのか、暴かれたことに怒りを覚えているのか。確かに、空気は少し揺らいでいる。その揺らいだ顔に触れたいと昼彦は思う。
「叶わない恋に恋して、楽しんでるの?意外にマゾなのかもね千鉱って――じゃあさ」
昼彦が言葉を続けながら、千鉱の身体をもう少し強く抱こうとしたとき、千鉱が後ろ手で押して抵抗を示した。そして、調理中初めて振り返り昼彦の前に、レンジで温めるタイプの白米を差し出した。
「もうできるから、ご飯くらいは自分で準備しろ」
振り向いた彼女の表情は、いつもと変わらない怜悧さのある無表情で、先ほどまで確かに揺らいでいた気配もあっという間になりを潜める。真実は箱に閉じ込めて晒さないという、千鉱の意思表示。
「(これ、幽が言うところの『頼もしい理性』ってやつか)」
昼彦はそれを残念に感じているが、とりあえず今は空腹を満たすために、千鉱の側から離れ、レンジで米を温めることにした。
「……普通にめちゃくちゃ美味しい」
「それはどうも」
千鉱が作ってくれたシンプルなキーマカレーとポテトサラダ。空腹だったということを差し引いても、温かみがある家庭的な美味しさを含んだ料理に、昼彦は満たされている。一方の千鉱は、手早く調理器具を洗い、布巾で水分を拭き取っている段階だった。カウンター越しに作業に取り組む千鉱の顔を眺めながら、こっそりスマホで隠し撮りしようかとも昼彦は考えたが、今日はその気分ではないからやめることにした。
「ポテトサラダの残りは冷蔵庫に入れている。カレーの残りは、この容器の中に入れているから、冷めたら冷蔵庫に入れろ」
千鉱が実際に、容器を昼彦に見せながら説明をしてみせる。その容器は天板に置かれた。食事に夢中になっているうちに、キッチンはあっという間に片付いていることに気がついた昼彦は、その手際の良さに感嘆した。
「……満足しただろ。じゃあこれで」
「えっ、ちょっと――」
やることはやったと言わんばかりに、千鉱はさっさとキッチンから離れ、荷物を置いたソファへと移動していく。ソファに畳んで置いていたコートをさっと羽織り、荷物を手に取って部屋を出ようとした千鉱の前に、昼彦が立ち塞がる。千鉱が何か伝えようと口を開くよりも先に、昼彦は彼女の肩を押して無理矢理ソファに座らせた。少し驚いている彼女の身体に昼彦は触れ、そのまま柔らかな肉感を持つソファに押し倒した。
「何がしたいんだ」
千鉱が真紅の双眸を細めて、昼彦を睨みつける。睨みつけられた当の本人は、楽し気に彼女の左頬の古傷に触れながら口を開く。
「食事の最後には甘いもの欲しいじゃん」
「わかりやすく言え」
「千鉱とヤラシイことしたくなっちゃった――だから帰したくない」
昼彦は右の掌で相変わらず、千鉱の頬に触れながら親指で傷跡と皮膚の境目をなぞっている。左手は、千鉱の細い両手首を掴んで拘束して逃げないように。昼彦は身体をゆっくりと、千鉱の身体との距離を縮めていく。
「昼彦」
珍しく名前を呼ばれたことに、昼彦は少々驚きを覚える。さらに自分の下に横たわる彼女が真っ直ぐに見つめてくるので、自然と体温が上がっていくのを感じた。
「……手首が痛い」
「放したら、出ていくからやだ」
昼彦は左手に力を込めて、千鉱への否定を示す。それに対して千鉱は、何かを考えるように目を伏せる。長い睫毛は震えてはいないから、まだこの状況で理性を保っているのだろう。このまま、行為に移していこうと昼彦が考えていた瞬間、千鉱が小さく口を開いた。
「ねぇ、このままだったら、昼彦のこと抱きしめられないが……これでいいの?」
意外な彼女からの提案に、昼彦の思考が一瞬パンクしそうになる。色事を知っていなさそうなのに、妙な色香は持ち合わせている千鉱から発せられたこの言葉に、見事に当てられてしまったのだ。耐えられる人間は多分いない。
思わず素直に言葉に従って、彼女の手首の拘束を解く。強めの拘束のせいか、ほんの少しだけ薄赤に皮膚が染まっていた。
「――もう少し、近づいてもらわないと」
そう言いながら千鉱は、昼彦に向けて両腕を伸ばす。これが据え膳食わぬはというものかと実感した昼彦は、本当であれば勢いよく迫りたい欲をなるべく抑えつつ、身体を近づけていく。次第に、彼女の少しだけ温まった体温や、微かに感じる甘い香りが感じられるくらい距離が近づき、千鉱の腕も昼彦の首にまわる。あと少しでお互いの唇が重なろうとしたそのとき、昼彦は眉間に皺を寄せた。
髪をまとめていた簪が抜かれて、その先端が頸に突き立てられている。いつでもそこに力を込めて、突き刺すことができることを示す鋭利な痛みを昼彦は感じた。
「……狙ってたな、千鉱」
「単純にこの姿勢でやり合っても、分が悪い……ただ、それだけだ」
千鉱はさらに少しだけ簪に込めた力を強くする。皮膚はまだ破られていないが、これ以上になれば時間の問題かもしれない。
「――いったぁぁ」
「……退いてもらおうか?そろそろ家に帰りたい」
押し倒されているはずの立場ではあるのに、臆せずに上にいる男に千鉱は命じる。それに対して昼彦は、大きな溜息をついて押し倒された少女を笑いながら睨みつけた。
「わかった、今日は俺の負け……退くから首のソレ止めてくれない?」
その言葉を聞き、千鉱は首にまわした両腕を解いていく。折角掴んだ優位を崩されないように、神経を張り巡らせながら。一方の昼彦は、存外素直に上体を起こしてソファから離れた。頸の痛むあたりに手で触れながら、出血がないかを確認する。幸いそれはないことを悟った昼彦は、いつの間にか千鉱がリビングの扉を開いて、玄関に向かおうとしているのに気がつく。痛みで注意力散漫になっていたとはいえ、素早い彼女の行動に吃驚しつつも急いで背中を追った。
玄関の鍵を開けて、外へ出ようとする千鉱を2時間前と同じように背後から昼彦が止める。千鉱は呆れたように息を吐き、振り返って後ろにいる男を見遣った。
「用は終わっただろう……しつこいのは嫌われるぞ」
「生憎、そこそこ不自由してないし……自由にならないのお前くらいだよ……あと、簪返して」
そう言われて、抵抗に使った簪を握ったままだったことに気がついた千鉱は、決まりが悪い表情を浮かべながら、簪を差し出す。意匠のせいだろうか、銀色の蝶々が彼女の指先にとまっているようにも昼彦には見えた。
「……さっきの狼藉は許さないが、勝手に持ち出したのは悪かった」
「……まあ、食べるもの作らせてのアレは良くなかったよ。ゴメン、あと作ってくれてありがと」
差し出された簪を受け取ろうと伸ばされた昼彦の片手は、その銀の蝶々ではなく、千鉱の手首を柔らかく掴む。それに対して身を引こうとする彼女よりも、素早く掴んだそれを引き寄せて、昼彦は彼女を腕の中に閉じ込めると、千鉱の背中を玄関の扉に押し当てて、逃げられないようにした。
「……そろそろ、本気で怒っ」
千鉱が珍しく怒りの感情を表に出した声色で、この状況に抵抗しようとした言葉は、迷いなく性急に触れられた唇に吸い込まれていった。彼女の柔らかい唇を丁寧に喰みながら、優しく深い接吻を交わす。
ほんの数十秒でその時間は終わったが、慣れていないだろう千鉱の身体は微かに震えて、まだ手の中にあった蝶々が足元に逃げていった。息を整えている、ほんのり頬が染まっている千鉱の耳元に、昼彦は自分でも信じられないくらい柔い声で囁いた。
「叶わないもの持っていてもいいよ。それを含めてのチヒロが好きだって気づいちゃったから――」
もう、はなさない。