エレベーターを降りると草月流の気品を感じさせる花が生けられていた。ホールから見遣ると部屋の扉が左右両側へと続いていた。510号室は右側、ひとつふたつと扉を数えると脚が震え喉が渇くのを感じた。
(角部屋、お家賃も高そうね。ううん、分譲だわきっと)
インターフォンを押すと女性の声がした。
「結城と申します、嵐山さまはご在宅でしょうか」
「はぁいちょっと待ってね」
嵐山龍馬の部屋にはやはり女性が居た、由宇は膝から崩れ落ちそうになるのを堪えた。解錠される音、ドアノブが下がり逆光の中に立っていたのは繁華街で見かけた栗色巻き髪の女性だった。歳の頃は40代後半、由宇と同年齢だと思われた。その面立ちは艶めき、妖しい微笑みを|湛《たた》えていた。
「あら、どちら様?」
「私、嵐山さまにお世話になっております結城と申します」
「ふぅん、結城さん」
それよりなにより驚いた事はその女性が半裸、黒いロングキャミソールにインナーという姿だった。そして背後からは嵐山龍馬の声がした。
「おまえ、そんな格好で出るなよ」
「だってぇ、龍馬シャワーしてたじゃなぁい」
奥から顔を覗かせたのはTシャツにハーフパンツ、湿り気のある前髪を垂らした《《素の嵐山龍馬》》だった。由宇は声を失い腕時計を手渡すと「お邪魔しました!」とだけ残してエレベーターホールへと走った。
「なに、宅配便?」
「うん、結構美人な宅配便屋さん」
「荷物は?」
「はい、これ」
女性が腕時計を嵐山龍馬に手渡すとその顔色が変わった。
「名前は!」
「んーーと、ゆう、結城さん?」
「馬鹿!なんで勝手に出るんだよ!」
「あらぁ、この部屋の半分はまだ私の家なんだから自由じゃない」
嵐山龍馬は慌ててジーンズに着替えると部屋を飛び出した。エレベーターホールのボタンは既に1階に降りていた。
「くそっ!」
部屋に戻り携帯電話を握ったが由宇がその呼び出し音に応える事は無くそれは虚しく響くだけだった。
「くそっ!」
「なぁに、今の人が新しい恋人なの?」
「そうだ!」
「ごめんなさいねぇ」
「くそっ!」
ーーー2週間前の金曜日
2番目の妻は高級クラブのオーナーだった。嵐山龍馬はクラブの黒服に金を渡し、|オーナー《妻》がロンドンから帰国して店に顔を出したら知らせて欲しいと手を回していた。そこで2人は再会した。
「私たちまだ夫婦なのね」
「そうだ」
「じゃあ暫く付き合ってよ、付き合ってくれたら離婚届にサインするわ」
妻は唇を尖らせて頬を膨らませた。
「新しい相手はどうしたんだ」
「それがさぁ、若い男って|我儘《わがまま》で駄目だわ」
「別れたのか」
「やっぱり龍馬が良いわ」
「そ、そうか」
元来、憎しみあって離婚話に至った訳ではない男と女が酒を飲めばその勢いでベッドに倒れ込んでも仕様がない。嵐山龍馬もひとりの男、据え膳食わぬは男の恥とばかりに由宇に指南され身に付けた技術を駆使して2番目の妻を虜にした。
「恋人がいるんでしょ」
「なぜ」
「そんな気がする」
「そ、そうか」
「セックスが上手くなったもの手放すのが惜しいわぁ」
「なにを言っているんだ」
そして2番目の妻は駄々をこね始めた。
「ねぇ離婚前に他に女を作るのってどうかと思わなぁい?」
「そ、それは!」
「い・け・な・い事よねぇ」
「そ、それは!」
結果、嵐山龍馬は慰謝料300万円から50万円を返金する羽目になった。そして印鑑を捺すからと彼女はブラウスのボタンを外した。
「じゃぁもう1回しましょ♡」
「あと1回だけだぞ」
そこにタイミング悪く由宇が訪ねて来た。これはもう言い逃れが効かない状況だった。嵐山龍馬は動揺し頭を掻きむしった。
後悔先に立たずとはこの事。
(ど、どうしたら!)
心の声A(まずはこいつをどうにかしろ!)
「あ、ちょっ!」
「おまえとはこれで他人だ!」
「あ、そう。お元気で!」
「おまえもな!」
嵐山龍馬は《《元妻》》からマンションのシリンダーキーを取り上げて廊下に締め出した。
「お客さんどこまで」
「しっ、市役所まで、市役所までお願いします!」
離婚届を手にタクシーに乗り込んだが赤信号で立ち往生「此処で良いです!」と後部座席のドアを開け放ち一目散に市役所まで走った。
(な、なんでこんな事に!)
心の声B(自分のせいですよ!)
自動扉に鼻先を|打《ぶ》つけながらロビーに飛び込んだが金曜日の市役所は兎に角混んでいた。
「順番の列に並んで下さい」
「は、はいっ!」
戸籍住民課の待合で自分の番号が呼ばれるのを待ったが電光掲示板は異なる数字を灯しては消えた。
心の声A(やっちまったな)
心の声B(そんな気はしていたんですよ)
心の声C(俺ってこんな人間だったのか)
心の声D(仕方ねぇじゃん、男なんてこんなもんだろ)
心の声A(いや、駄目だろ!)
心の声B(懺悔、懺悔あるのみ!)
心の声C(起死回生!起死回生!)
心の声D(黙ってりゃわかんねぇよ)
由宇になんと弁明すれば良いのか、いや、弁明というよりは謝罪だ。元夫の不倫が原因で離婚した恋人を裏切ってしまった。
(なんと申し開きをすれば、いや弁明も申し開きも一緒だろう!)
脳内で謝罪の言葉を|反芻《はんすう》しているとようやくその番号が電光掲示板に表示された。
(38番)
何処かで見覚えがある数字だが今はそれどころでは無かった。
「身分を証明出来るものはございますか?」
「ーーーはい!」
由宇との関係は座礁に乗り上げてしまったが離婚届が受理された今、嵐山龍馬は晴れてひとり身となった。
(つっ、次は、由宇さん!)
人混みを掻き分けいつもの花屋に立ち寄った。
「桔梗の花、1本で宜しいでしょうか」
「はい、お願いします!」
毎週金曜日は桔梗の花を手に由宇に会いに行った。この2週間は離婚届の印鑑欲しさとはいえ欲情に溺れ由宇に対して不義理な事をしてしまった。これで許して貰えるとは思えないがこの花を理由に会いに行こうと思った。
(|源文《もとふみ》くんには殴られるな)
肩で息をし額の汗を拭った嵐山龍馬は居酒屋ゆうの暖簾の前に立った。