テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
鷹槻れん

2,072
#契約結婚
鷹槻れん

14,043
鷹槻れん

108
#好きだった
鷹槻れん

68
第1節 千崎雄二『崩れた秤―正義の終わる場所―』
千崎雄二が昇進の知らせを受けたのは、彼がちょうど二十八歳になった春先だった。
新卒採用で大手都市銀行のひとつ『あすな銀行』に入行してから五年。法人営業課で地元企業を担当し、同期の中でもいち早く主任に抜擢された。上司や同僚らからも一目置かれ、地元の社長たちから「若いのに筋がいい」と言われるのが密かな誇りだった。
――まさに順風満帆。雄二の銀行員としての未来は、明るく拓けているはずだった。
辞令が出た夜、雄二は幼馴染みで恋人の桐生百合香と小さなフレンチレストランで食事をした。雄二より六つ年下の百合香は、この春三年間通った服飾専門学校を卒業したばかり。四月からは念願のランジェリーメーカーに就職することが決まっている。
「雄ちゃん、主任昇進おめでとう!」
「百合香も卒業と就職、おめでとう。よく頑張ったな」
「うん! 優秀な恋人の背中を見てたんだもん。頑張るしかないじゃない?」
嬉しそうに「たった五年で主任さんとか……ホントすごい!」と目を輝かせる百合香に、雄二はどこか照れくさそうに微笑んだ。
「まだ肩書きだけだよ。これからはもっと頑張るつもりだ」
今はまだだが、雄二は百合香の二十三の誕生日に、婚約指輪を贈るつもりでいる。
「私ね、ファッションの中でもランジェリーに関わる仕事がしたかったの。やっと夢が叶うのよ」
弾むように言う彼女の声に、眼鏡の奥で雄二の瞳が柔らかく細められ、自然と頬が緩んだ。
「ああ。百合香なら絶対うまくいく」
雄二は即答した。主任に昇進した自分と、夢を叶えた百合香。二人の未来は、揃うべくして揃ったと思えた。
「……雄ちゃん、これからもずっとずっと一緒にいようね」
「もちろんだ」
グラスが軽やかに触れ合う音が、二人の未来を祝福する合図のように響き合った。
***
百合香との祝いの夜から数日後。
法人営業課で扱ったある融資案件の稟議書が回ってきた。融資を決裁に回すための書類であり、銀行員にとっては信用と責任の象徴とも言えるものだ。
そこに記された数字を目にして、雄二は凍りついた。
「……これは」
申請金額も返済計画も、彼が起案した内容とはまるで違っていた。帳簿の数字まで整えられ、全くの別物に仕立て上げられていたのだ。
「荻野課長……これは、一体どういうことですか?」
雄二は稟議書を抱え、上司の机に向かった。席に近付いてくる雄二を見るなり、荻野は小さく吐息を落とし、「小会議室で話を聞こう」と言い放つ。
その言動で、雄二はこの話が皆の前でされてはまずいと荻野が認識しているのだと理解した。
小会議室に入り、扉を閉ざすなり雄二は稟議書を荻野の目の前に置いた。
「私は、こんな稟議書を書いた覚えはありません」
そんな雄二の真っ直ぐな眼差しを受け、荻野課長は冷ややかに笑った。
「若いな、千崎。現実を知らん」
その言葉に雄二が口を開くより早く、荻野が言い募る。
「お前は書いた覚えがないと言うがな、千崎。現にその稟議書の起案者の欄にサインをしているのはお前だろう?」
「それはそうですが……! これは私が作成した内容とは明らかに違います!」
「だからお前は現実を知らん若造だと言うんだよ。こうなってしまってはもうお前にどうこうできる段階じゃないと何故分からない? 細かいことは気にするな。数字を〝整える〟なんていうのはうちでは常識だからな。大企業の系列相手の融資額に多少の手心を加えることなど、どこの支店でもやっていることだ」
「ご冗談でしょう! これは明らかに不正です!」
「不正? いや、〝正しい数字〟に直しただけだよ。……それに、稟議書を起案した責任はお前にあるんだ、千崎。決裁が通ったら、表向きは〝主任の千崎が整えた〟案件ということになる」
悪びれた様子もなくするするとそんなことを言ってのける荻野に、雄二は唇を噛みしめた。
――気が付けば、自分は不正の片棒を担がされた人間にされている。
このままでは納得できない。
雄二は決裁が回る前に、顧問弁護士へ直接相談を持ちかけた。
応接室で向かい合った初老の弁護士は、稟議書を一瞥するなり鼻を鳴らした。
「署名は千崎さん、あなたですよね? ならば責任はあなたにある」
「ち、違います! 荻野課長が数字を勝手に――」
「証拠は? あなたが書いたものと違う、と主張するだけでは通りませんよ? 現に残っているのは〝あなたの署名入りの稟議書〟と〝それに見合う資料〟だけです」
「そ、それは……」
「実際、あなたのデータも拝見しましたが――残っていたのは、あなた言うところの〝改竄後〟のものばかりでしたね」
老獪な眼差しが雄二を射抜いた。
目の前の男が言うように、あのあと雄二が稟議書を作るに当たって使用したはずの資料は全て、〝整えられた数字〟の方へ合わせられたものに差し替えられていて、証拠と呼べる書類が綺麗さっぱり姿を消していたのだ。
雄二のパソコンの中のデータですらいじられたようで、証拠がないと言い張られてしまえば、反論のしようがない状態にされていた。
「もしこれが公になれば、不正をしたのはあなたということになる」
言葉を失った雄二に、弁護士は声を低めて囁いた。
「このまま大人しくしていれば主任として順調に出世できますよ。――逆にここで波風を立てれば、あなたの銀行員としての未来は終わりです」
ねっとりとしいた嫌な物言いだった。
反論の余地など残していないくせに、どうやってこれ以上の波風を立てられると言うのだろう。
……だが、荻野のみならず、顧問弁護士にまで話を持ちかけたことが気に入らなかったんだろう。
数日もしないうちに、彼の周囲は冷ややかな視線に満ち、課長や支店長からも「厄介者」として扱われるようになった。
真っ直ぐに正義を信じたはずのその行動は、何の成果も生まなかった。
――法も、正義も、結局は強い者の味方にしかならない。
胸に澱のようにその思いが沈殿した。
***
千崎雄二が不正を握りつぶされてから数日後、実家の町工場から、慌ただしい電話が入った。
父が、工場の奥で首を吊ったという連絡だった。
駆けつけた雄二を待っていたのは、泣き崩れる母・八重子の姿と、無残に冷たくなった父・幸太郎の亡骸。
呆然と立ち尽くす雄二の横で母がポツンとつぶやいた。
「銀行が融資さえしてくれていたら……」
父は会社のメインバンクである息子の勤め先『あすな銀行』を訪ねていたらしい。
手には工場の決算書と財務諸表。数字だけを見れば、経営は細々ながらも黒字を保っているのを雄二も知っていた。破綻の兆しなどどこにもなく、本来なら融資に値する内容だったはずだ。
「うちが……融資を断ったのか?」
思わず漏らしてしまったといった様子の母のつぶやきに雄二が問えば、八重子がハッとした顔をする。
「雄二には心配かけたくないってお父さんが……」
涙に泣き濡れた顔で嗚咽を漏らす母が奥の机から名刺を手に戻ってくる。
「この方が応対してくださったんだけど……」
名刺には雄二の上司、荻野課長の名があった。担当は雄二の部下の若手営業マンに任せていたはずだ。なのに何故?
雄二の胸の奥に不正融資を指摘した際の荻野課長の面倒くさげな顔が蘇る。荻野課長――いや、支店長までもが、雄二の存在を煙たがっていたのだ。要らないことを言いかねない雄二のことを警戒して、あすな銀行から追い出したそうだった。
実際雄二はこのままの状態が続くようならばあすなには見切りをつけ、転職するつもりで【退職願】を用意していた。あすなでの出世はもう見込めないと思ったし、雄二の昇進を自分のことみたいに喜んでくれた恋人――百合香のこと、そうして雄二の銀行員としての躍進ぶりを誇ってくれていた両親のことを思うと胸の奥にチクリとした痛みが走ったけれど、組織ぐるみでそういうことをする銀行なのだとしたら、いる価値はないと思ったのだ。
「この方がね、書類を一瞥するなり無言でパソコンの画面を見て……」
父は母にはついてくるなと言ったらしいのだが、どうにも様子がおかしかったので説得して付いて行ったの、と八重子が吐息を落とした。
口出しはするなと言われていたから夫の傍で静かに座っていた母だったのだが、目の前の銀行員はパソコンの画面に視線を流しながら言ったという。
『……個人のほうで、保証債務があるようですね』
淡々とした声でそう告げるなり端末の画面を閉じ、書類を机に戻したそうだ。
「保証債務? 父さんは誰かの連帯保証人になっていたのか?」
雄二の言葉に、母・八重子がビクッと肩を跳ねさせる。
「私は……よく分からないんだけど……お友達がお父さんを尋ねてきたことがあったから……もしかしたら……」
「その相手とは連絡が取れるのか?」
「分からないけど……多分取れなくなったんだと思う。……それからしばらくして家に変な電話が掛かってくるようになったの」
母の言葉を聞いて、雄二は(最悪だ)と思った。
恐らくはその〝お友達〟とやらが逃げて、連帯保証人の父の元へ取りたてが回ってきたのだ。
父・幸太郎は人のいい性格の、昔ながらの職人気質な人間で、頼まれると嫌といえないところがあった。
雄二が実家住まいをしていた頃は父の悪癖が出ないよう目を光らせていたのだが、別の場所へ住み、別々の仕事をするようになってからはそういうわけにもいかなくなっていた。その空隙を突いての出来事だったんだろう。
母・八重子は家長である父の言う事には口ごたえしない昭和の妻を絵に描いたような人だから、幸太郎が『応』といえばそうなってしまったのにも何となく頷けた。
その母が、父の様子がおかしいと、嫌がる旦那を説得して銀行まで付いていったというのだから、その時にはすでに父の様子は相当尋常でなかったということだろう。
「なんで……言ってくれなかったんだ」
今さら母を責めても仕方がないと分かっていてもつい口をついてしまった。
「ごめんなさい、雄二。お父さんが……どうしてもあなたにだけは心配かけたくないからって」
顔を覆って嗚咽を漏らす母が、「でも……こんなことになるって分かっていたら私……」と声を詰まらせ、謝罪の言葉を何度も何度も紡ぐ姿を見せられては、それ以上のことを言えるはずがなかった。
結局の所、荻野課長は父の保証債務を理由に、リスクが高すぎること、零細町工場への追加融資は難しいことを父に淡々と告げたらしい。
それでも父は食い下がり、カウンター台に額をこすりつけて何度も何度も頭を下げたという。だが、荻野はそれ以上一言も発さず、背もたれに深く身を沈めただけで、取り付く島はなかったという。
荻野はすげなく追い返したのが部下の千崎雄二の父親であることは承知していたはずだ。だが、彼は雄二に何も言ってはこなかった。
担当営業の若手部下くらいには一言あったのかも知れないが、とにかく雄二の耳には父親が窓口へ融資の相談に来たことすら微塵もはいってこなかったのだ。
(俺が……不正のことを気付かぬふりをしていたら……あるいは違っていたのか?)
恐らくはそんなことはなかっただろう。
荻野課長が告げた言葉の端々から、大手企業や、その関連業者は優遇するが、雄二の父の会社のような零細企業は切り捨てる姿勢が垣間見えたからだ。
父親も、「息子に恥をかかせまい」と思い、雄二には何も告げなかったし、母も父の意向を汲んだ。
その後、父は他の銀行にも足を運んだらしいのだが、結果は同じ。
どの銀行も、保証債務の話が出た途端に顔色を変え、冷たい言葉で門前払いをした。
結局、父の手に残ったのは――かつての友人のために背負った、裏金融の借金だけだった。
***
返済期日が迫る中、取り立ての男たちが家へ押しかけてくるようになった。
その頃には八重子にも、夫の幸太郎が銀行へ融資の相談に行かねばならなかったのも、また銀行がその融資を断った理由も……どうやらその借金にあると分かったのだが、全て後の祭り。
『もし返せねぇってんなら……方法はある』
とうとう家まで押し掛けてくるようになったガラの悪い男たちが、玄関先に飾られた家族写真を見てニヤついた。
『息子さん、なかなかいい男じゃねぇか。コレならゲイビでも十分通用するぜ?』
ゲイビがなにを意味するのかよく分からなかった八重子だったが、男の気持ちの悪い笑みを見ていてそれが、ゲイ向けAVであることは何となく理解した。
『それに……よく見りゃ奥さんも美人だしさ。熟女モノに出たら結構稼げるって。なぁ、考えようによっちゃ気持ちいい思いが出来て金も返せる。悪くねぇ話だろ?』
その下卑た言葉を聞き、悲鳴を上げて怯える八重子を、幸太郎は唇を噛みしめて庇うと、吐き捨てるように言った。
『妻と息子には手を出すな! 俺が何とかするから……今日のところは帰ってくれ』
『まぁ期日まであと数日あるし……今日のところは引き下がってやるよ。けど……もし無理だったら……その時は覚悟しとけよ?』
ククッと笑う男達を睨みつける幸太郎の思いつめたような眼差しを、八重子は忘れられない。
誇りを持って生きてきた父は、家族を辱めるような提案を決して受け入れることなどなかった。
――けれど、その代わり。
幸太郎は静かに八重子から離れ、工場の片隅――誰もいない場所で命を絶った。
首を吊った父の亡骸の傍には、せめて保険金で家族を助けたいといった趣旨の手紙が残されていた。
しかし、自殺では保険金が下りないことを、父は知らなかったのだ。
結局、残されたのは借金だけ。
(こんなの、犬死にじゃないか)
――なぜ、俺に相談してくれなかったんだ。
銀行員としても、息子としても、父を救えなかった。
胸を引き裂かれるような自責が、雄二の心を焼いた。
室内には、いつも父が磨いていた古びた旋盤機の、機械油の残り香だけが薄く漂っていた。
あの夜、父は何を思っていたのだろう。
どんな気持ちで、工場に足を運んだのか。
――雄二がそれを知るのは、ずっと後になってからのことだった。
コメント
1件
読み終えました……胸が苦しいです。雄二さんが順風満帆だったところから、上司の不正に気づき、それを正そうとしたことで逆に追い詰められていく流れが、本当にリアルで怖かったです。そしてお父さんの話に繋がるとは……。融資を断られた背景に、あの荻野課長がいるのがもう許せなくて。お父さんが「息子に恥をかかせまい」と何も言わなかったのも、胸に刺さります。正義が通じない世界の冷たさを、すごく丁寧に描かれていて、続きが気になります。