「……吉沢さん。」
声が震えていた。
吉沢さんは私の前に立ち、片腕で私を庇いながら、元彼を真っ直ぐ見据えた。
「彼女から離れろ。」
その声音は低く、しかし抑えきれない怒りが滲んでいた。
元彼は小さく笑い、肩をすくめた。
「離れろって……君は何様なんだ? ただの“今の彼氏”だろ? 俺は昔から彼女を知ってるんだ。全部。」
「知っていることと、彼女を傷つけることは違う。」
吉沢さんの言葉は鋭く、まるで刃のようだった。
しかし元彼は一歩も退かない。
「君は彼女の何を知ってる? 怖がる時の目、涙の意味、本当の弱さ……それを理解してるのは俺だけだ。」
背後で私は息を詰めた。
その言葉は、私の過去をまるで所有物のように語っていた。
胸の奥に、怒りと恐怖が入り混じった感情が湧き上がる。
「お前がしているのは理解じゃない。支配だ。」
吉沢さんはそう言い切った。
「二度と彼女に近づくな。」
空気が張り詰めた。
通りの喧騒が遠くに感じられるほど、周囲は静まり返っている。
元彼はしばらく無言で吉沢さんを見つめ――そしてゆっくり笑った。
「……そう言うなら、試してみろよ。本当に守れるのか。」
そのまま彼は踵を返し、人混みの中に消えていった。
去り際、私のほうをちらりと見て、口の動きだけでこう告げた。
――「また会おう。」
全身の血が凍りつく。
それがただの脅しでないことを、直感で理解した。
***
その夜。
私の部屋の窓から、外の暗がりを何度も覗いた。
何も見えないはずなのに、視線を感じる気がして落ち着かない。
吉沢さんは私の肩に手を置き、真剣な声で言った。
「これからは、帰り道も送るし、しばらく一人にはさせない。……でも、本当は警察にも相談したほうがいい。」
私は頷きながらも、胸の奥に別の感情が芽生えていた。
怖い。けれど、このまま守られているだけではいけない――。
あの目を、二度と私に向けさせないためには、私自身も立ち向かわなければ。
けれどその決意を固める前に、再びスマホが震えた。
非通知番号。
画面を見ただけで、誰からかがわかった。
震える指で通話を切ろうとした瞬間、留守電が残った。
スピーカーから流れた声は、ぞっとするほど甘く低かった。
『会いたい。……君は逃げられないよ。』
その言葉が、夜の静けさを切り裂いた。
それから数日、私は常に背後を気にしながら過ごしていた。
昼間でも、何度も振り返ってしまう。
コンビニのガラス越しに、黒い影のような人影が見えた気がして、心臓が跳ねた。
気のせいかもしれない――そう自分に言い聞かせても、足の震えは止まらなかった。
吉沢さんは、仕事の合間を縫ってできる限り私のそばにいてくれた。
「何かあったらすぐに電話して。」
その言葉を信じたいのに、元彼の留守電の声が耳から離れなかった。
そして、ある夜。
私は帰宅途中、駅から家までの道を歩いていた。
商店街の明かりはすでに半分が消え、遠くの踏切の音だけが響く。
足音が、一定の間隔で後ろからついてくる。
――来てる。
振り返る勇気はなかった。
ただ早歩きで自宅マンションに向かい、エントランスのドアに手をかけた瞬間。
「そんなに逃げなくてもいいだろ。」
背後から、低い声。
振り向くと、街灯の下に元彼が立っていた。
その目は、狂気を帯びた光でぎらついている。
「やっぱり……君は俺を無視できないんだな。」
「……やめて。警察を呼ぶ。」
震える声で言うと、彼はゆっくり笑った。
「いいよ、呼べば? でも、その前に――」
一歩近づき、私の腕を強く掴んだ。
痛みが走り、息が詰まる。
「君の目を見たら、すぐわかる。まだ俺を忘れてないだろ?」
吐息がかかるほどの距離。
私は必死に腕を振り払おうとしたが、彼の力は強かった。
その瞬間――
「離れろッ!」
鋭い声と同時に、背後から強い力が加わり、元彼の手が私の腕から離れた。
振り返ると、吉沢さんが立っていた。
顔は怒りに染まり、普段の穏やかさは消えていた。
「もう一度言う。二度と彼女に近づくな。」
元彼は唇を歪め、挑発的に笑った。
「お前が彼女を守れると思ってるのか? 俺のほうが彼女をよく知ってる。
そして……お前がいない時に、俺はまた現れる。」
その言葉に、私の全身が凍った。
でも同時に、胸の奥から強い感情が湧き上がった。
――もう、この人に支配されるのは嫌だ。
「もうやめて!」
私は震える声で叫んだ。
「私の人生から、完全に消えて! 二度と近づかないで!」
元彼は一瞬、驚いたように目を見開き、次の瞬間、その目に怒りと執着が混ざった光が宿った。
「……後悔するなよ。」
そう吐き捨てると、暗がりへと消えていった。
***
部屋に戻った瞬間、膝が崩れそうになった。
吉沢さんが支えてくれ、私をソファに座らせた。
「怖かっただろ。でも、よく言ったね。」
私は涙をこらえながら頷いた。
「もう、逃げない。守られるだけじゃなくて、自分で立ち向かう。……彼に、二度と私の人生を壊させない。」
吉沢さんは静かに微笑み、私の手を強く握った。
「じゃあ、二人で終わらせよう。この悪夢を。」
その夜、私たちは警察への相談を決意した。
恐怖はまだ完全に消えない。
でも、私はもう一人じゃない。
そして――次に彼が現れた時は、私はもう、あの頃の私じゃない。
第4話
ー完ー
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