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番外編① 星の座の余白
― セイバー達が英霊の座へ帰還した後 ―
星の門を越えた先には、音がなかった。
いや、正確には音がないのではない。
音というものが、まだ誰かの耳に届く前の状態で眠っている。
そんな場所だった。
時間も、距離も、上下も曖昧で、足元はあるようでなく、空はあるようでない。
無数の光が流れている。
それは星にも見えた。
記録にも見えた。
誰かが呼び、誰かが応じ、誰かが戦い、誰かが帰った痕跡にも見えた。
英霊の座。
英雄たちの記録が眠る場所。
そこへ、彼女は帰ってきた。
アルトリア・ペンドラゴン。
かつて剣を抜き、王となり、国を背負い、そして幾度も召喚された騎士王。
彼女は目を開けた。
手には何もない。
けれど、掌にまだ温度が残っている気がした。
温かい食卓。
卵焼き。
味噌汁。
土蔵の匂い。
士郎の声。
いってらっしゃい。
その言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
帰還とは、消えることではない。
彼女は今回、それを知った。
英霊の座へ戻った瞬間、多くの記憶は本来、記録として整えられる。
個人としての感情は、召喚時の霊基に紐づく出来事として、静かに整理される。
だが、今回だけは違った。
胸の奥に、小さな紙片がある。
それは願録聖堂の送別頁に似ていた。
白く、柔らかく、余白がある。
そこには、一文だけが書かれていた。
行ってきます。
アルトリアはその文字を見つめた。
自分が士郎へ返した言葉。
星の門をくぐる前、彼に告げた言葉。
それが、座の記録の中で消えずに残っている。
王としての記録ではない。
聖剣の担い手としての記録でもない。
戦場の勝敗でもない。
ただ、一人の少女が、食卓のある家から送り出されて帰ってきた記録。
アルトリアは静かに目を閉じた。
「……ただいま、ではないのですね」
ここは帰る場所であり、同時に始まりの場所でもある。
英霊の座に「ただいま」と言うのは、少し違う気がした。
あの家に帰ったわけではない。
衛宮邸の縁側へ戻ったわけではない。
士郎の作る朝食の前へ座ったわけでもない。
だから、彼女は小さく言った。
「行ってきました」
返事はない。
けれど、紙片の余白が淡く光った。
◆
少し離れた場所で、赤い外套の男が腕を組んでいた。
エミヤ。
弓兵の英霊。
彼もまた、座へ戻ってきていた。
座へ帰還すること自体は、彼にとって珍しいことではない。
召喚され、戦い、役目を終え、記録へ戻る。
それは機械的で、冷たく、慣れた循環だった。
だが今回は、戻った瞬間に違和感があった。
胸の奥に、妙な重さが残っている。
後悔ではない。
いや、後悔は当然ある。
それは彼の一部であり、消えるものではない。
だが、その後悔の隣に別のものがある。
怒鳴り声。
皮肉。
台所の湯気。
凛の強がった顔。
士郎の相変わらず危なっかしい背中。
そして、最後の言葉。
良いマスターだった。
自分で言っておきながら、座へ戻ってからも妙に残る。
エミヤは眉をひそめた。
「まったく、厄介なものを持ち帰ったな」
彼の前にも、一枚の紙片が浮かんでいた。
そこには凛の筆跡に似た文字がある。
腹立つ。寂しい。ありがとう。次に会ったら、もっと早く言わせる。
エミヤはしばらくそれを見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「相変わらず遠坂らしい」
感謝だけで終わらない。
寂しさだけで終わらない。
怒りと照れと未練と前進が、全部同じ紙面にある。
それが、彼女らしかった。
彼はその余白に手を伸ばす。
本来、座に戻った英霊が何かを書き足すなどあり得ない。
記録は記録だ。
終わった召喚は終わった召喚だ。
だが、神杯戦争で生まれた願録聖堂の余白は、どうやら座の記録にまで細い糸を伸ばしているらしい。
エミヤは少し迷ってから、短く追記した。
精進しろ。だが、無理はするな。
書いてから、彼は自分で眉をひそめる。
「……説教臭いな」
だが、消さなかった。
彼にしては珍しく、そのまま残した。
◆
星の座に、豪快な笑い声が響いた。
「はっはっはっは! 何だ、ここへ戻っても酒の一つも出んのか!」
イスカンダルである。
征服王は、座へ帰ってなお、座を宴会場にする勢いで笑っていた。
彼の隣には、王の軍勢の気配が遠く揺らいでいる。
かつて共に駆けた兵たち。
彼を王と認めた者たち。
幾度も呼ばれ、幾度も共に戦った記録。
その中に、今回の召喚の記録も混ざっていく。
終末に抗った宴。
麦茶の乾杯。
衛宮邸の食卓。
ロード・エルメロイⅡ世の顔。
イスカンダルは満足そうに目を細めた。
「良い顔になったな、ウェイバー」
その言葉は、星の座の中でもよく響いた。
彼の前には、送別頁が浮かんでいる。
そこには、かつての少年が大人になった姿で書いたような追記があった。
あなたの背を追うだけではなく、あなたの荷物を少し背負えるようになりたい。
イスカンダルはそれを読んで、さらに笑った。
「馬鹿者。王の荷は重いぞ」
だが、その笑みは嬉しそうだった。
彼は余白へ指を走らせる。
重いなら鍛えよ。転ぶなら立て。迷うなら進め。宴は終わったが、次の宴を忘れるな。
書き終えると、彼は空を見上げた。
「さて、次に呼ばれる時は、もう少し堂々としておれよ」
返事はない。
それでも、イスカンダルは愉快そうに笑った。
◆
祈りの光の中で、ジャンヌ・ダルクは静かに目を開けた。
帰還の瞬間、彼女が最初に感じたのは、寂しさだった。
それは苦しいだけの感情ではない。
誰かと共にいたからこそ生まれる、温かい痛み。
神杯戦争の中で、彼女は裁定者であることを問われた。
裁くのか。
祈るのか。
正しさで切り分けるのか。
迷う者の隣に立つのか。
彼女は選んだ。
祈りは、人を裁くためだけにあるのではない。
支えるためにもあるのだと。
座へ戻った彼女の前にも、紙片が浮かんでいた。
ユイの拙い文字。
温かいものを知りたいと思うことも、祈りの始まりって言ってくれた。ありがとう。
ジャンヌは微笑んだ。
あの白い少女。
願いを燃やしていた器。
名を得て、ユイになった子。
彼女が温かいものを知りたいと言ったことを、ジャンヌは忘れない。
ジャンヌは余白に追記する。
温かいものを知りたいと願う時、あなたはもう祈りの中にいます。どうか、急がず、明日を一つずつ知ってください。
書き終えると、彼女は胸の前で手を組んだ。
それは誰かを裁く祈りではない。
今日も食卓へ向かう者たちへの、静かな祈りだった。
◆
少し離れた場所で、ランスロットは膝をついていた。
座へ戻ってなお、その姿勢は変わらない。
彼の前には、王の記録がある。
アルトリア・ペンドラゴンという王。
自分が裏切り、愛し、傷つけ、そして赦されることを恐れた王。
神杯戦争で、彼は再び王の前に立った。
復讐者として。
罪人として。
騎士として。
そして帰る時、王は言った。
貴方は私の騎士でした。
そして今も。
その言葉が、彼を座へ帰した。
ランスロットの前に浮かぶ紙片には、こう記されている。
罪を抱えたまま帰るが、罪だけを名にはしない。
それは彼自身が書いた返答だった。
だが、余白がある。
ランスロットは震える指でそこへ触れる。
「王よ」
声は届かない。
だが、それでも彼は言葉を置いた。
私はなお、罪を抱きます。ですが、王の言葉を鎖にはしません。私は騎士として、次に剣を取る時も、罪だけでなく忠義を名乗ります。
書き終えた後、彼は深く頭を垂れた。
その姿を、少し離れた場所からアルトリアが見ていた。
彼女は何も言わない。
だが、その沈黙は拒絶ではなかった。
ランスロットはそれを理解していた。
だからこそ、立ち上がることができた。
◆
青い槍兵は、星の座に戻っても退屈そうだった。
クー・フーリンは肩を回し、辺りを見渡す。
「ったく、帰ってきたと思ったら静かすぎんだよな、ここは」
彼は戦場を好む。
だが、戦いそのものだけを望んでいるわけではない。
戦いには終わりがある。
終わりがあるから面白い。
勝っても負けても、次があるから槍を振るう。
神杯戦争で、彼はそれを改めて思い出した。
バゼット。
彼女の顔が浮かぶ。
決着を求め、戦いを求め、それでいて戦い以外の続きをまだ知らなかった女。
彼女へ言った言葉が、紙片になって浮かんでいた。
お前はお前の戦いをしろ。決着は一回勝った負けたで終わるもんじゃない。
クーはそれを見て、にやりと笑う。
「我ながら良いこと言ったじゃねえか」
そして、余白へ雑に書き足した。
次に呼ばれる時まで、腕を鈍らせんな。あと、飯はちゃんと食え。
書いた後で、彼は少し考えた。
「……あいつ、食うの忘れそうだからな」
その声音には、からかいと心配が半分ずつ混じっていた。
◆
黄金の光が流れる場所で、ギルガメッシュは退屈そうに座っていた。
隣にはエルキドゥがいる。
二人は座へ戻った。
戻ってしまえば、召喚中の時間は一つの記録となる。
だが、今回の記録は妙に鮮やかだった。
卵焼き。
甘い方がよい。
そんな些細な感想まで、妙に残っている。
ギルガメッシュは不機嫌そうに眉を寄せた。
「まったく、くだらんものまで記録に残ったな」
エルキドゥは微笑む。
「でも、君は気に入っていたよね」
「黙れ」
「甘めの卵焼き」
「黙れと言っている」
エルキドゥは楽しそうに笑った。
彼らの前には、二人の時間について書かれた紙片が浮かんでいる。
もう少し話したい。でも今話せることを話す。それで十分ではないが、それでも十分だと思いたい。
エルキドゥの返答。
その横に、ギルガメッシュの文字。
我と友の時間を頁に収めるな。記録するなら王が許した範囲でのみ記せ。
エルキドゥはそれを見て言う。
「許した範囲、広かったね」
「王の慈悲だ」
「うん。そういうことにしておく」
ギルガメッシュは鼻を鳴らした。
だが、その視線は紙片から離れない。
エルキドゥは余白に手を伸ばす。
未定という言葉は、あの子たちによく似合っていた。僕たちも、話せる時に話そう。十分ではなくても。
ギルガメッシュはしばらく黙っていた。
そして、ほんの少しだけ口角を上げた。
「ならば、語れ。友よ」
「うん、ギル」
星の座の中で、二人はまた話し始めた。
◆
リチャード一世は、座へ戻っても物語を探していた。
彼は自分の送別頁を見て、楽しそうに笑う。
物語は終わっても語られる。別れもまた一章。
自分で言った言葉だ。
だが、神杯戦争の記録を見渡すと、確かにその通りだと思えた。
神杯は砕かれた。
願いは畑へ還った。
沈黙冠は聞こえた芽へ変わった。
だが物語はそこで終わりではない。
衛宮邸の朝食がある。
返事の庭の水やりがある。
願録聖堂の追記がある。
空席を見つめながら、それでも明日の予定を立てる者たちがいる。
リチャードは余白へ書き足した。
良い物語とは、終わった後に誰かが続きを語りたくなるものだ。あの家には、まだ語るべき朝が残っている。
彼は満足そうに頷いた。
「さて、次に語られる時を待つとしよう」
◆
座へ戻った者たちは、それぞれの場所で記録へ還っていく。
だが、完全に消えるわけではない。
紙片が残る。
余白が残る。
士郎たちが書いた送別頁。
自分たちが返した言葉。
返事の庭から届いた小さな鈴の音。
それらは、座という巨大な記録の中では、とても小さい。
だが、小さいからといって意味がないわけではない。
アルトリアは、再び星の光の中で立っていた。
彼女のそばへ、エミヤが歩いてくる。
「妙な戦いだったな」
アルトリアは静かに頷く。
「ええ。けれど、悪い戦いではありませんでした」
「神やら願いやら記録やら、面倒なものばかりだったがな」
「それでも、守るべきものは明確でした」
エミヤは少しだけ口元を緩める。
「食卓か?」
アルトリアは真面目に頷いた。
「はい」
エミヤは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……君らしい答えだ」
アルトリアは遠い光を見つめた。
その先に衛宮邸があるわけではない。
けれど、あの家で過ごした朝が、確かに記録として残っている。
イリヤの卵焼き。
ユイの味噌汁。
ミライの少し硬い分析。
凛の呆れ声。
桜の微笑み。
メドゥーサの静かな気配。
メディアの文句。
そして、士郎の台所に立つ背中。
アルトリアは胸の奥の紙片へ触れる。
行ってきます。
その下に、新しい言葉を書き足す。
また、いつか。
それは約束ではない。
必ず叶う未来ではない。
だが、願いだった。
そして願いは、もう燃やされない。
閉じ込められない。
黙らせられない。
余白の中で、静かに眠ることができる。
◆
その時、星の座のどこかで小さな鈴の音が鳴った。
ちりん。
アルトリアが顔を上げる。
エミヤも目を細める。
イスカンダルの笑い声が遠くで止まる。
ジャンヌが祈りの手を開く。
ランスロットが顔を上げる。
クー・フーリンが槍を肩に担ぎ直す。
ギルガメッシュが不快そうに、しかし興味深げに視線を向ける。
エルキドゥが微笑む。
リチャードが楽しそうに目を輝かせる。
鈴の音は、返事の庭から届いたものだった。
誰かが水をやったのかもしれない。
誰かが新しい芽に声をかけたのかもしれない。
イリヤが卵焼きを見せに来たのかもしれない。
ユイが「聞こえてる」と言ったのかもしれない。
ミライが新しい分類を追加したのかもしれない。
士郎が、何かに返事をしたのかもしれない。
詳しいことは分からない。
だが、音は届いた。
アルトリアは静かに微笑んだ。
「聞こえましたね」
エミヤは腕を組んだまま、少しだけ目を伏せる。
「ああ。聞こえた」
星の座に戻った英霊たちは、もう衛宮邸の食卓にはいない。
だが、あの戦いで交わした返事は消えていない。
座に帰った後も、余白は残る。
また呼ばれるかどうかは分からない。
同じ姿で会えるかどうかも分からない。
次がある保証など、どこにもない。
それでも。
いってらっしゃい。
行ってきます。
また、いつか。
その言葉たちは、星の記録の中で静かに光っていた。
◆
英霊の座には、終わった物語が集まる。
けれど、終わった物語がすべて閉じているわけではない。
誰かが覚えている限り。
誰かが返事をした限り。
誰かが余白を残した限り。
物語は、静かに続く。
セイバー達が帰還した後。
星の座には、小さな紙片が残った。
それは宝具ではない。
戦果でもない。
勝利の証でもない。
ただの返事。
けれど、その返事は確かに届いていた。
そして、いつかどこかでまた誰かが呼ぶ時。
彼らはきっと思い出す。
燃やされなかった願いを。
閉じ込められなかった記録を。
黙らせられなかった声を。
そして、温かい食卓を。
星の座の余白に、鈴の音が残る。
ちりん。
その音は、遠い冬木の朝へ向かって、静かに返っていった。
番外編
「星の座の余白」
終わり。
コメント
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え〜〜っ!!!番外編でここまで泣かせに来る??😭💕 各英霊が座に帰った後の“余白”に残る言葉、それぞれのキャラがそのままでめちゃくちゃエモい…! アルトリアの「行ってきました」、エミヤの説教臭いけど愛情ある追記、イスカンダルの豪快な笑い声に隠れたウェイバーへの想い、全部が染みる🥺💖 鈴の音が食卓の朝に返ってくラスト、尊すぎて保存したくなった…!神杯戦争の後日譚として最高に沁みる番外編でした…✨