テラーノベル
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伊波ライが新しい仕事を始めてから、三ヶ月が経っていた。
前の会社とは違い、定時で帰れる日も多い。
もちろん疲れることはある。
ミスをして落ち込む日もある。
でも、誰かに怒鳴られ続けることはなくなった。
家へ帰る足取りも、少しずつ軽くなっていた。
夕焼けの空を見上げながら、ライは小さく息を吐く。
そして、コンビニ袋を持ち直した。
今日はマナが好きだったプリンを買っている。
昔はよく、
『半分こする?』
なんて笑い合って食べていた。
そんなことを思い出しながら、ライはアパートの階段を上がった。
ガチャ。
玄関を開ける。
「……ただいま」
少し緊張しながら言う。
するとキッチンから、ぱたぱたと足音が聞こえた。
「おかえり、ライ!」
緋八マナが顔を出す。
その声に、ライは一瞬目を見開いた。
怯えていない。
無理に作った笑顔でもない。
自然な声だった。
胸の奥がじわりと熱くなる。
「……ん、ただいま」
ライが靴を脱ぐと、マナが近づいてくる。
前は、この距離だけで身体を強張らせていたのに。
今は違う。
マナはライのスーツを見て、ふっと笑った。
「今日もお疲れさま」
「……うん」
ライは少し視線を逸らす。
まだ慣れない。
優しくされるたび、過去の自分を思い出して苦しくなる。
そんなライの様子に気づいたのか、マナはそっと袖を引っ張った。
「ご飯できてるよ」
その仕草が昔みたいで、ライは少しだけ笑った。
「今日なに?」
「ハンバーグ!」
「……また重いやつ」
冗談っぽく言うと、マナが「あ!」と焦った顔をする。
その反応が可愛くて、ライは吹き出した。
「うそ、食べる」
「びっくりしたぁ……」
マナが胸を撫で下ろす。
その顔を見ながら、ライは静かに思う。
ちゃんと笑えるようになったんだ、と。
───
食事中。
マナは楽しそうに今日あったことを話していた。
スーパーで安売りしていた話とか、
近所の猫の話とか、
本当に些細なこと。
でもライは、それを聞ける時間が幸せだった。
前は余裕がなくて、全部鬱陶しく感じてしまっていた。
今思えば、あの頃の自分は壊れかけていたんだと思う。
ライはふと、箸を置いた。
「……マナ」
「ん?」
マナが顔を上げる。
ライは少し迷ってから口を開いた。
「……あの時、ごめん」
マナの表情が少しだけ止まる。
ライは視線を落とした。
「何回謝っても足りないけど」
低い声。
「俺、お前のこと傷つけた」
部屋が静かになる。
ライは続けた。
「怖かったよな」
「……」
「ほんと、ごめん」
マナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……今のライ、ちゃんと後悔してるの分かるよ」
「……っ」
「だから俺、もう前みたいにひとりで抱え込まないでほしい」
マナは優しい声で続ける。
「つらい時は、ちゃんとつらいって言って」
ライの喉が詰まる。
昔の自分なら、絶対に言えなかった。
弱音なんて吐いたら駄目だと思っていた。
でも。
「……うん」
今は少しだけ、頼ってもいいと思えた。
食後。
マナは冷蔵庫からプリンを見つけて目を輝かせた。
「え、買ってきてくれたの!?」
「なんか食いたいかなって」
「やった!」
嬉しそうに笑うマナを見て、ライも自然と笑っていた。
あの日、失いかけたもの。
もう戻れない部分もある。
傷跡だって簡単には消えない。
それでも。
ふたりはちゃんと前を向いていた。
「……ライ」
「ん?」
「おかえり」
改めてそう言われる。
昔は怖かったその言葉が、今は胸を温かくした。
ライは少し照れたように笑う。
「…..ただいま」
コメント
1件
第8話、読み終えました。「おかえり」という言葉がかつて怖かったライが、今は自然に受け入れられるようになった——その変化が静かに、でも確かに描かれていて胸に染みましたね。特に「ちゃんと笑えるようになったんだ」という気づきの一文が印象的です。過去を謝罪するシーンも、決して大げさではなく「傷跡だって簡単には消えない」と現実を認めた上で前に進もうとする二人の距離感が、この作品の優しい空気を支えていると思います。プリンのエピソードも日常の温かさが詰まっていて素敵でした。