夕暮れの赤が壁面を長く引き伸ばし、通りの影が一枚ずつ重なっていく。アマリリスはフランの店の扉を静かに閉めた後にひとりで路地を進む。足裏に伝わるアスファルトの微かな凹凸を確かめるように歩幅を整え、袖口が擦れるたびに肌に残る冷たさを感じ取る。空気は油と金属と古紙の複雑な匂いを含み、遠くで車の警笛が一度だけ不規則に鳴った。街の音が少しずつ遠のいて、彼の周囲にだけ濃度の違う静けさが現れる。
視界の端で、埃が風に乗ってゆっくりと舞う様子が見えた。踵が小さな石を弾くたび、その石は音もなく転がり、影の溝を滑って消えていく。彼の瞳は常に先を探るように細く開き、周辺のあらゆる揺らぎを読み取るように眼球をわずかに動かしている。倉庫群が立ち並ぶ区域に入ると、壁の色がさらに深くなり、夕陽の光が角で途切れて冷たい影を作る。
そこはイカタコの足があまり入らない場所で、古い看板の端がひび割れ、ボルトのさびが粒となって落ちている。床に散らばる破片に歩を合わせるように、彼の体が自動的に小刻みに反応する。足の裏から伝播する振動が、微かな周期を持っていることに気づく。最初は虫の羽音か何かだろうと彼は思ったが、次の瞬間、壁の鉄製シャッターがわずかに震え、金属が擦れる高音が耳に届いた。アマリリスは立ち止まり、呼吸を一回だけ浅く整え、右手で銃のグリップに触れる。金属の冷たさが掌の皮膚を刺激し、指先に微かな汗を感じる。目の前、シャッターの陰、泥の溜まった段差の先に、影が立っている。
最初はタコのシルエットのように見えたが、近づくとその縁が常に揺れていることが分かる。影の輪郭が空気と摩擦して少しずつ溶けるように揺らめき、そこだけ時間がずれて見える。足元のアスファルトに放射状の細かな亀裂が広がり、亀裂の先端で砂と微粒子が小刻みに跳ねている。体表の一部が微細な振動で波打ち、息を吐くように低いうなりが路地を満たす。アマリリスの耳膜にひっかかるのは音というより圧の変化だった。胸の内側に、小さな圧縮と解放が交互に入ってくる。
彼は無言で銃を構え、目を細めて照準を合わせる。距離は十二、三メートル。標的はじっとこちらを見つめ、動こうとはしない。その瞳が光を反射し、瞬間的に金属光沢が差した。その反射の奥に、規則的な痙攣のような振動が見えた。引き金に掛かる指先が冷たく震え、彼の内側で神経が研ぎ澄まされていく。呼吸を一点に集中し、周囲の僅かな変化を待つ。彼が狙いを定めると、弾丸が銃口を離れた。
音はいつものような鋭さを持たず、むしろ空気を斬るように静かに立ち上がる。弾丸の軌跡は美しい弧を描き、しかし目標の手前で微妙に撓んだ。アマリリスの目の奥で何かが跳ね、彼の筋肉が瞬間的に硬直する。弾は目標の目前、風がぶつかるポイントでわずかに軌道を乱され、泥壁の側面に鈍く突き刺さった。弾の先端が砕け、粉が舞い上がる。撃った瞬間、彼は体の内側に広がる不自然な圧の急激な変化を感じ取った。
床が、薄く唸るように振動し、彼の足底がそれを追随している。耳鳴りが、かすかなノイズのように立ち上がり、視界の端が細かく波打つ。標的は微動だにせず、しかしその胸のあたりから放たれる振動が高まる。周囲の小石が、波に合わせて跳ね、埃が渦巻く。アマリリスは即座に引き金から指を離し、銃を構え直すつもりであったが、状況を見る目が瞬間的に変わる。遠くで金属が擦れる音が一度高まり、その後壁の向こうで低い断続音が生まれる。
衝撃が、今まで聞いたことのない重さで地面を走った。彼は咄嗟に身をかがめ、左手で近くのコンテナの角を掴んで体を支えた。振動が胸骨を叩くように伝わり、内臓が微かに浮くような錯覚に襲われる。鼓膜の後ろで、低周波が複雑に干渉し始めるのが分かる。目の前のチーターは、口を動かしているようには見えないが、体幹の筋が一瞬で収縮し、そこから新たな波が生まれた。アマリリスは耳の奥で何かが割れるような感触を覚え、視界が瞬時に狭まる。彼は左手でナイフの柄を確かめつつ、同時に周囲の足場を計る。
瓦礫の角、割れたパレット、錆びた鉄骨。すべてが振動を媒介して反応する。遠距離での銃撃が効きにくい以上、直接行動に出る必要がある。だが相手は振動を武器として操る。接近は被害の拡大を招く可能性がある。アマリリスは冷静に「観る」ことを選び、相手のリズムを測る。胸の動き、肩甲骨の浮き、周囲の小石が跳ねる周期。彼は指先で地面に触れ、微細な振動を自分の手に伝えさせる。手のひらに伝わるのは、速い低周波の連続と、その合間に来る不規則な高調波。これを叩き切る間を追う。
アマリリスは一歩だけ前に出る。足の裏が滑るようにして地面を剥がす。振動は彼の体を通り抜け、筋肉が一瞬痙攣する。だが彼は動きを止めない。銃を握る手が締まり、肩で重心を前に移し、次の一歩へと連なる筋肉を準備する。チーター側の周期が一拍遅れる瞬間を彼は待っている。息を吸い込み、胸の奥に力を溜める。光が一瞬薄くなるように見え、路地の向こうで小さな火花がはじけた。彼の瞳が鋭くなる。銃口を前に突き出すその間に滑り込むことで、相手の呼吸の谷間を突く算段だ。彼の体内で過去の動作がフラッシュし、目の前の世界が極端に「遅く」見える。
地面が一度に盛り上がった。拳がアスファルトを叩きつけた瞬間、路地全体が反転するような衝撃を吐き出し、足元の砂粒が竜巻のように舞い上がる。アマリリスは反射的に銃を引き絞ろうとしたが、その動作と同時に手の中で異常な振動が走るのを感じた。トリガーの指先が震え、銃身が低く唸る。次の瞬間、銃内部から金属が裂けるような鋭い音がして、銃全体が握りこぶしの中で弾け散るように崩れた。破片が指先に食い込み、熱が掌を走る。火花が指の間を切り、鼻腔に金属と燻った匂いが押し込まれる。機関部が内側から破壊され、銃口は歪み、スライドが外れて地面に転がった。握っていた感覚が一瞬で無くなり、冷たい鉄片が指からはじけ落ちる。
チーターの顔に笑みが生まれる。思考が一瞬遅れたように止まり、同時に周囲の重力が消えた。足元の地盤が吹き上がり、アマリリスは無理やり身体ごと空中へ放り出された。重心が頭上へと転がり、空気が彼の体を絞るように抵抗する。宙に浮かんだ時間は、寿命のように濃縮されていた。視界の縁が微かに波打ち、唇の裏が乾く。下方からはまだ振動が届き、路地の輪郭が断続的に引き伸ばされる。目の前のチーターが、私の上へ向かって跳躍を始める。
筋肉の盛り上がり、背筋の張り、空気を蹴る足の瞬き。その動きは無駄がなく、まるで狙い澄ました終端のようだ。拳が私の腹部をめがけて、真っ直ぐに突き出される。アマリリスは宙で反応し、体を捻る。本能が筋肉に命令を送り、腰を使ってわずかに軸をずらす。チーターの拳は空を切っていくが、その運動量の一部は彼の体に伝わり、腹の内側に鈍い圧を感じる。痛みが先か衝撃が先か分からぬ微妙な順序で、体が回転しながら刃が動く。私はナイフの柄をしっかり握り、腕を捻じ込みながらチーターの首元へ刃を滑り込ませた。刃先は皮膜をなぞるように沈み、同時に私は体を翻して軸を取る。空中での軌道を最小限に修正し、刃を首のラインに沿わせると、相手の振動が一瞬乱れた。刃の冷たさが皮膚を押し、反動で腕が僅かに跳ね返る。重力が戻ると同時に二人は地面へと叩きつけられる。
着地の衝撃が骨格を震わせるが、私の脚は瞬時に衝撃を吸収し、姿勢を立て直す。チーターはよろめき、振動の周波数が乱れて甘い呻きのような音を漏らす。アマリリスは鋭く前に出て、ナイフをさらに押し込む。腹部の抵抗があり、相手は体勢を崩しつつも短く唸る。刃の柄を両手で引き寄せ、腹部に深く差し込むと、相手の足が定まらなくなり膝が折れる。振動は断続的になり、路地に残った空気の圧が一気に抜けるように静まっていく。
アマリリスは息を荒げながらナイフを引き抜き、冷えた金属を掌に感じる。周囲は破片と埃で霞み、夕暮れの赤が鈍く沈む。チーターはそのまま崩れ落ち、動かなくなった。私は膝をつき、しばらくの間その場で呼吸を整える。掌の中の痛み、銃の破片がまだ指の切れ目に刺さる感触、胸の奥に残る鼓動の余韻を確かめながら、私はゆっくりと立ち上がった。倒した相手の体に触れることはしなかった。代わりに、足元に落ちていた自分の壊れた銃の残骸を拾い上げ、内部の曲がったピンを指先で確かめる。指先に伝わる歪んだ金属の感触が、ただ一つの事実を突きつける。この振動は装置を内側から破壊するほど精密で、拡散力が高い。
アマリリスはそれをポケットに押し込み、路地の先に上る煙を一度だけ見やった。遠くで愉快な声が遠ざかり、街は夜に沈み始めている。彼は壊れた銃の重みを感じながら、歩き出す。背後には静けさだけが残り、影がゆっくりと長く伸びていった。
倉庫の大きな扉を押し開けたとき、夜の冷気が一瞬だけ体を撫で、鉄と油と埃の匂いが鼻腔を満たした。中は昼間の雑然とした熱気が嘘のように静まり、各自のランプがひかえめに点っている。工具台の上に散らばるスパナやボルトの影が長く伸び、天井の梁に掛かった古いシートがかすかに揺れているのを、アマリリスは目で追った。
足を踏み入れると、ミアとキヨミがさっと顔を上げ、エルクスがソファーから立ち上がる。彼らの顔には戦いの疲れが滲んでいるが、同時に安堵も混じっているのが分かった。アマリリスは片手で壊れた銃をぶら下げ、薄い布で真っ黒になった機関部を払いつつ、床の上に軽く置いた。金属の破片が床に転がり、小さな音が静寂を切り裂く。
エルクスの顔が一瞬強ばり、近づいて来る。彼の指先が壊れた部分をそっと撫でるように触れ、眉間にしわを寄せる。その動作の間にも、アマリリスは無言で疲れた息を吐き、肩の力を抜いた。埃が舞い上がり、ランプの光が微かに揺れる。
キヨミが膝をついて銃の機構に目を凝らす。彼女の指先が金属の曲がったスプリングに触れると、小さな火花の匂いが鼻に届いた。ミアは丸い目を見開いて、ぽつりと訊ねる。
「それ、直せるの?」
アマリリスは短く首を振った。
「衝撃で内側から機械が崩れた。」
その言葉に一瞬の静寂が生まれる。エルクスが深く息をつき、テーブルの上に腰を掛けて両手を組んだ。
「振動か、干渉か……機構のピンが内側で溶けたみたいだ。普通の修理じゃ戻らない。」
彼の声は抑えられているが、そこには冷静な危機感が含まれていた。アマリリスは壊れた銃を抱え上げ、内側を覗き込む。細かな歪みと焼けた粉が見える。たった一晩で、ここまで精密な機械の内部を破壊できるもの――その想像が頭の中を駆け抜けると、胸の奥がざわついた。ミアが小さく舌打ちする。
「やだ、やだ。銃がなきゃ不便だよー!」
だがその声はどこか震えている。キヨミは手を伸ばし、アマリリスの肩を軽く叩いた。彼女の指先の感触は短く温かく、それだけでアマリリスの背筋にわずかな安心が流れ込むのが分かった。だが彼の視線は自然と奥の壁際に設えられた武器庫へ向かっていた。
普段は施錠されている扉が今日は緩く閉じており、鍵は工具台の引き出しの中に収められている。エルクスが立ち上がりながらさっと引き出しを開け、金属製の鍵を指で弾いて見せる。彼の動きには迷いがなく、すべてが日常のルーチンに組み込まれているようだった。
鍵穴に差し込み、軽く回すと武器庫の扉が軋みを上げて開いた。内部には整然と並んだ銃床とクリーニングキット、弾薬箱が規則正しく配列されており、暗がりの中でも軍用のにおいがふっと鼻をつく。エルクスは素早く棚から標準的なハンドリングのライフルを取り出し、その重さを確かめるように両手に収めた。外装は研磨され、古びた痕跡はあるが手入れが行き届いている。安全装置を確認し、マガジンを抜き差しして作動の確かさを示すように軽く操作して見せると、彼は「こいつを使え」と低く言った。
アマリリスは一瞬戸惑い、続けて自分の膝の上に置かれた壊れた銃を見下ろした。あの古い銃は、外装の塗装が擦り切れ、スライドの噛み合わせに手入れの跡がくっきりと残る一方で、作動させるたびに必ずリロード操作が必要な癖があった。装填→スライド→チャージという一連の儀式を一つ一つ噛み締めるように行わねばならず、咄嗟の連射には向かない。アマリリスは壊れた旧式の銃の重みを掌に感じながら、その冷たい金属の感触に一瞬だけ親しみを覚えつつも、右手の指が知らず知らず強くなるのを自覚した。指先に小さな力が入り、関節が白く浮く。古い機構を扱い慣れているせいか、あるいは頼れる唯一の相棒だったからか、その握りは無意識に力が入る癖があるのだ。
エルクスはそれを見て、無言で隣に立つアマリリスの手から旧銃を受け取り、代わりに棚から取り出した新しいライフルを差し出した。新しい銃は握った瞬間にバランスが良く、重心が掌の中に自然に落ちる。アマリリスはそれを受け取り、軽く構えてみると、指の張りが一瞬ほどけた。新鋭の感触に、彼の筋肉が少しだけ弛むのが自分でも分かる。
しかし旧式の癖は簡単には抜けない。彼は古い銃を棚に戻す代わりに、軽く布で包んで保管箱に仕舞うようエルクスに渡した。エルクスは旧銃の破片を手に取り、目を細めて観察しながら膝の上に置き、いつか解析できると呟いた。アマリリスは新しい銃のトリガーに指をかけ、だが引き金を引くときの指の力は依然としてわずかに固かった。
古い癖が筋肉に残り、リロードの一連の動作を体が先に求める。彼は深く息を吸い、肩の緊張をほぐすように軽く腕を回してから、新しい銃の安全を再確認した。キヨミがそっと隣に座り、彼の握る手首を握ってから小声で「握りしめないで。」と囁いた。その指の温かさにアマリリスは一瞬だけ顔を緩ませ、ぎこちなく笑うと「分かった。」と短く答えた。
やがて皆の視線は自然と床に落ち、壊れた旧銃の話題も一旦区切られた。アマリリスは新しい銃を横に置き、布団の端に腰を下ろして背中の筋を伸ばす。ランプの光が柔らかく揺れ、遠くで棚が軽く鳴る音が聞こえた。
(夜までスキップ)
皆がそれぞれの寝床に収まり、布の匂いと鉄の匂いが交差する。外では遠くの通りの自販機が冷たく光り、時折風が吹いて倉庫の屋根が軋む音が聞こえる。アマリリスは壊れた銃を手のひらで転がし、指先の切り傷に触れて冷たさを確認すると、膝を抱えて眼を閉じた。思考は断続的な白昼夢のように過去と未来を行き来する。
数分、十数分。時間の感覚が薄れていく中で、彼は深い息を一つ吐き、体を休める姿勢をとった。ミアの寝息が小さく聞こえ、キヨミの呼吸が整う。エルクスは少し離れた場所で寝息を立て始める。ミアは丸く体を縮め、時折寝息が漏れる。キヨミは携帯の小さなライトを枕元に置き、目を閉じたままでも姿勢を正している。アマリリスは端の二段ベッドの下段に身を横たえ、枕に顎を乗せて天井の鉄骨の影をぼんやり眺めていた。今日一日の疲労が肩から背中にかけて鈍く重く、まぶたが自然に落ち、欠伸が一つ、喉の奥で広がる。欠伸の合間に軽く顎をこすり、腕を伸ばして布団の端を整える。倉庫の外では車の音が遠くを通り過ぎ、誰かが遠征から戻ったらしい足音が一度だけ近づいては消えた。
工具棚の影が長く伸び、天井の梁に沿って埃が揺れている。エルクスは足音を立てないようにかかとからゆっくりと歩き、壁沿いに設置されたライトを完全に消すためのスイッチへ向かう。指先がスイッチの冷たい金属に触れると、何気ない日常の所作が胸に落ち着きをもたらした。
寝室へ行く前に、灯りを落としておくのがいつもの流儀だ。エルクスはスイッチに触れ、そっと押し下げた。蛍光灯が一瞬だけちらつき、白い光が細かく剥がれるようにして暗闇に還っていく。倉庫は暗転し、布団の上からかすかな寝息が際立つ。私は手をポケットに入れ、小さく肩をすくめて戻る足取りを始めた。そのとき、廊下の向こう側、金属の陰で何かが小さく「カチリ」と音を立てた。
エルクスは立ち止まり、耳を傾ける。普通なら誰かが棚を移動させたときの音だろうが、時間は深夜ではなく、しかも人の気配は寝室にあるはずの四匹だけだ。エルクスはソファーにあるライフルに手を伸ばし、素早くサイレンサー付きライフルのストックに触れる。だが流石に夜中に仲間達を銃声で起こすのは迷惑にも程がある。
皮膚に触れる冷たい金属の感触が、普段の安心を戻してくる。次いで、腰の小さなポーチから作業用のハンドライトを取り出して片手に収めた。ライトのスイッチを軽く押すと、レンズの中で淡い白光が瞬き、そこだけが世界の輪郭を取り戻す。そのまま丸テーブルの上に無造作に置かれたナイフを取った。
エルクスは音のした方へと一歩踏み出す。その足取りは狭い廊下の端を伝い、床の微かな歪みやボルトの突出を触知するように細かく調節される。再び、かすかな音。しかし今度は確信を伴う不規則な、湿ったような擦れる音が、一拍遅れて続いた。エルクスは一瞬体を固め、呼吸を止め、耳の裏で小さな鼓動を確かめる。物音は金属同士の擦れでも、動物の足音でもない。どこか重く、粘るような、そして遠くで誰かが喉を絞るような、低い呻きに繋がっている。エルクスはライトを掲げ、影の合間を探るようにレンズを左右へ振る。光は鉄の棚、梱包材、古い看板の角を淡くなぞるだけで、向こう側に何も映らない。映らないのに、空気は確かに震えている。
エルクスは息を吐き、口元の筋肉を緩めると同時に足の裏の感覚を細く鋭くする。床から伝わる微かな振動は、不規則にリズムを変え、まるで眠っている生体の呼吸のような蠢きを見せる。エルクスはライトを少しだけ前に出し、暗闇の縁を照らしながら手元のナイフに自然と力を込める。もう一度、遠方で低い「ぐぅっ」という音がした。それは物体が擦れる音ではなく、何かが重く地面に身を押し付けるような響きだった。彼の耳はその振動を即座に「異物」と識別し、体の奥底のどこかが反応する。そこで、初めて彼はなにかが来ているのを、確実に感じ取った。
ライトを構えたまま、エルクスは息を潜めた。音の方向に向けて一歩踏み出すと、床に落ちた光の円の中にそれがあった。黒い液体が這うように広がっている。インクではない。「影」だ。だが、ただの影ではない。壁や床に張り付くそれは、まるで意思を持つように蠢き、彼の足元の光に気付くとゆっくりと後退した。その動きが、生き物の反射にしか見えなかった瞬間、背筋に寒気が走る。
エルクスはナイフを構えた。その時、それが跳ねた。光の外から、音もなく、まるで地面の裏から噴き出すように。闇が形を取った。イカタコの輪郭、だが目はなく、全身は墨のように濃い。黒が黒を呑み込む中で、かすかに歪む輪郭がこちらへ飛びかかる。エルクスは咄嗟に身をひねってかわしたが、空気が肌を切るほど速かった。次の瞬間、肩口に何か柔らかく、しかし重たいものが絡みつく。ぬめりを持った冷たさが服越しに伝わり、筋肉が一瞬硬直する。
影が、彼の腕を這い上がってくる。息が詰まった。私は反射的に左手で絡みつく黒を切り裂いた。刃が空気を裂く音の直後、「ギャッ…!」という呻きが響き、黒が霧のように離れて床へ散った。床の影が形を保たぬまま逃げる。ライトを向けると、その先にはまた別の黒い塊がうごめいている。数がいる。これは単体じゃない。エルクスは歯を食いしばり、ナイフを構え直そうとしたその時、遠くの寝室の扉が開いた。
「何の音だ…!」
アマリリスの声。エルクスは振り向きざまに小声で、ただし聞こえる声で言った。
「来るな!下がれ!」
だが彼の足音は止まらない。既にナイフを握り、寝巻き姿のまま飛び出してきた。目に宿るのは明確な戦意。アマリリスの銃口が一瞬光を反射した瞬間、影の塊が再び動いた。地を這うような速度で壁を伝い、天井を這ってアマリリスの真上へ。エルクスはライトを上向ける。黒がその光を避けるように形を歪めたが、すぐに落ちてくる。
「右だ!」
エルクスの声にアマリリスが体を捻る。銃声が響く。乾いた炸裂音。だが影は霧のように広がり、銃弾をすり抜けて壁際に逃げた。
「効いてない…?いや、違う、通ってない。」
アマリリスが息を吐きながら構え直す。影は形を変え、床の模様のように薄く伸び、足元へと迫る。私はライトを滑らせてそれを追い、光を当てる。途端にその部分が“消える”。しかし消滅ではない。すぐ横からまた這い寄ってくる。
「光で抑えられるが、止めはできない…!」
「ならどうする…!」
「切れ!物理的に!」
エルクスの言葉にアマリリスは銃を片手に構え、もう片方の手で腰のナイフを引き抜く。影が跳び、アマリリスの足首を掴もうとする。彼は一歩踏み込み、踏み込んだ足を軸にして鋭く斬り上げた。影の体が裂かれ、黒い煙のようなものが散る。呻き声が空気を震わせ、もう一体が横から襲いかかる。アマリリスは咄嗟にしゃがみ込み、肘を支点にして体を回転させる。刃が円を描き、もう一体の首の辺りを正確に切り裂く。
「はぁっ!」
短い息と共に立ち上がる。ライトの光の中、黒い液体のような影が床を覆い尽くしていく。まだいる。私は後ろから援護するように照らし、アマリリスの動線を確保する。二匹、三匹、動きが鈍る。切りつけた場所から煙が立ち、しばらくして完全に動きを止めた。
「……これで全部、か?」
アマリリスが荒い息を吐きながら辺りを見渡す。
「まだ何かいるか?」
「分からん。けど、反応は消えた。」
静寂が戻る。ライトが床を照らす。そこには、切り刻まれた黒い痕だけが残り、液体のようなものは既に乾いていた。アマリリスがナイフの刃を払う。金属音が狭い倉庫に響き、夜の空気に溶けた。
「……なんだったんだ…?今の。」
エルクスが小さく呟くと、アマリリスは短く息を吐いて言った。
「チーター……だが……今までのチーターとは違う…。」
エルクスはライトの光を床から壁に移しながら呟く。
「名付けるなら……[[rb: Shadow Spawn > シャドウスポーン]]……。影の亡霊。そんなところだ。」
アマリリスが目を向ける。
「影のチーター、じゃダメなのか?」
エルクスは首を横に振った。
「数が多かった。それに、一体一体が弱すぎる。……大元が別にいる。だから分裂体の方が正しいと思う。」
なるほどね…。
その言葉が倉庫に沈んでいく。アマリリスはしばらく沈黙し、刃を鞘に戻した。
夜はまだ深く、どこかで金属が軋む音が一度だけ鳴った。影の残り香が床に薄く漂い、二匹は言葉を失ったまま、ただ息を整えていた。
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