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機械の喚きは朝から夕まで止まない。鉄の耳鳴りが頭蓋をこじ開けるように続き、手のひらは油と粉のにおいを染み込ませたまま昼と夜の境目を迎える。今日も僕はベルトコンベアの側で同じ部品を握り、同じ角度でねじを締め、同じ順序で検査印を押した。指先の皮膜が徐々に厚くなっていく痛みは、誰にも見えない。

上司の声はいつもより低く、短く、怒りの気配はせり上がる蒸気のように腹に重くのしかかった。昨日の失敗も、二日前の寝不足も、全部僕の胸に重石のように沈められて、言葉は帰ってこない。

「もっとしっかりしろ!」

「なんでまたミスを!」

そうやって短く切られるたびに、僕の内部の何かが細く、しかし確実に削られていくのが分かる。夜の任務では、仲間たちの間で僕の動きはいつも最後の選択肢で、誰かが頼れば代わりに動いてくれる。

僕が声を上げる前に手が伸び、俺の手の届かないところで笑いが漏れる。うまくやれたことが、褒められることは滅多になく、失敗はいつも大きな声の的になる。ただ役に立ちたいだけだったはずなのに、気づけば自分の存在が周囲の雑音にしかならない。

そんな身の置き場のなさを抱えたまま、一日が終わる時間になって、僕は工具を棚に戻す手を止め、掌の油を拭うことすらせずに工場の裏口へと向かった。裏口の向こうはいつもと同じ、古びた路地だ。街灯の光は蛍光色で、端っこの石畳に濡れたような影を落とす。通りを行き交うイカタコの声は向こう側の話題で盛り上がり、笑いが飛ぶ。俺はその音を他人事のように聴いた。胸の奥には、誰かに見えないように溜め続けてきた小さな石ころが詰まっていて、歩くたびにそれが転がって音を立てるような感覚がする。目的地があるわけではない。どこかへ行くというよりは、ただ歩くこと、振動で思考を分散させることが目的だった。

小雨の匂いが鼻先にふわりと寄り、コンクリートの湿り気が靴底に伝わる。遠くの店のネオンが滲み、色が滲んだように混ざり合っている。生き物の輪が途切れ、建物と建物の隙間に細い風が抜ける場所に入ると、音は一段と遠のき、世界が厚い布で覆われたように静かになった。そういう場所を、僕は選んで歩いた。自分の居場所がどこにもないという感触は、ただの空腹のように鋭く、しかし具体的な形は持たない。思考は過去の断片をつまみ食いする。

子どものころに誰かが笑ってくれた瞬間、初めて任務で褒められたかもしれない瞬間、しかしどれもすでに誰かの手の中で粉々になっているのが見える。歩きながら、僕は目の前の看板の文字に視線を合わせ、そこに書かれた字体の揺らぎを数えることで、自分の胸のざわめきをやり過ごそうとする。足元の排水溝を流れる水の音が、機械のリズムと不思議にシンクロして、胸の鼓動はいつの間にか仕事場のそれと同じテンポに戻る。

仲間たちの笑い、上司の短い罵声、工場の油の匂い。すべてが遠いモノローグになって、代わりに現れるのは静かな決意ではなく、ただの無色の虚無だ。夜風が首筋を冷やし、襟元の布地が擦れる音がする。そこに立ち止まり、路地の角越しに見える街灯の輪郭を見つめると、何かが胸の中で鈍く光った。それは怒りでも悲しみでもなく、長年にわたって浸透した諦念のようなものだ。どうすればいいかの答えは無く、ただ歩き続けるしかない。

歩くうちに、道の先に薄く人影が立っているのを見た。濡れたアスファルトの反射で輪郭が歪み、通行人のようにも見えるが、足を止めた瞬間にそれがただの人影ではないことが胸の裡でわかった。見間違いかもしれないという不確かさが、逆に体の奥を冷やす。夜は深まり、街は無関心にそのまま続いていく。俺はただ一歩、また一歩と進み、その影に近づく。次第に長身のイカの形に凝縮されていく。全身が黒いカジキマスクで覆われ、目の部分すら光らず、まるで顔が存在しないように見える。

僕は反射的に数歩後ずさった。路地の奥で足音が消える。自らを「クロウ」と名乗った影の男は無言で僕を見つめていた。目が無いのに“見られている”と分かる気配が突き刺さる。クロウは一歩踏み出し、靴底が地面を擦った。そのわずかな音だけが世界の中心になるほど、周囲の空気は静まり返っていた。

「お前。」

声は低く、濁りが少ないのに重い。名前を呼ばれただけで喉が固まり、心臓が跳ねる。

「今…どこに向かおうとしてた…?」

問いではなく確認のような口調だった。僕は答えられず、唇だけが震える。クロウは続けて言う。

「自分で分かってない奴の顔だ。……下を向きすぎた奴の顔だ。」

心の奥の薄暗い部分を、真正面から覗かれたようだった。僕は首を振って否定しようとするが、その動きすら弱々しく、空気を押し返す力が無い。

「やめとけ。その先に行っても何もない。」

クロウの語気は淡々としているのに絶対ではなく理解の上で押しとどめている温度があった。僕は思わず声をしぼり出す。

「……放っておいてくれ。」

しかしクロウは揺らがない。

「お前、もう戻る場所も、自分で歩ける道も無ないんだろ。」

僕の靴の先が震える。胸の奥に刺さっていた言葉が、外から突きつけられた瞬間だった。クロウは背をわずかに向け路地のさらに奥、地面の闇が沈んでいる方へ顎を動かす。

「来い。」

たった二文字の指示。それだけで十分な力があった。誘いというより、「お前の行く場所はもうそっちしかない」と世界に線を引くような響きだった。僕は言葉を失い、しかし足は止まらなかった。否定したいのに否定する理由がない。ここより酷い場所なんてないと思っていたのに、その奥にまだ続きがあると示される怖さが、なぜか足を前へ押した。

クロウのマスクの奥の表情は見えない。だがその無表情な闇が、ハイドにとって初めて「自分が消えても誰も気付かない」という実感を変えていく何かを持っていた。

「……僕が行ったら、何がある?」

かろうじて出た声は震えていた。クロウは短く答える。

「お前が今よりマシになる場所だ。」

優しさは無い。ただ真実のように冷たくまっすぐだった。それは変な希望ではなく、歪んだ現実でもなく、「このまま消えるよりは意味がある」という最低限の未来だった。ハイドは息を吸い、少しだけ顔を上げる。その表情はまだ弱いが、絶望以外の影が混ざり始めていた。クロウは振り返らず、一言だけ追加する。

「選べ。ここで終わるか、ついて来て違う形で続けるか。」

迷って迷って、それでも僕は歩き出した。クロウの後ろへ。歩き始めてすぐ、クロウは足を止めずに短く問いかけた。

「名前は?」

急に投げられた言葉に、一瞬だけ肩を震わせる。

胸の奥がざわつき、返事をすることすらためらわれる。でも、隠す理由ももうない。わずかに唾をのみ、かすれた声で答えた。

「……ハイド。」

クロウは振り返らないまま小さくうなずく。

その仕草だけで「聞いた」「覚えた」「それでいい」という三つの意味がまとめて流れ込んでくるようだった。

「……ハイドな。」

ただそれだけで、呼び捨てなのに拒絶でも侮蔑でもなく、これから先の位置づけが確定したように感じる重さがあった。

「まあこれからは、別の名前で呼ばれることになるだろうがな……。」

自分の名が他人の口から零れた瞬間、胸の奥が微かにざわりと揺れるのを感じながら、クロウの背を追い続けた。



足元の路地が不自然に静まり返ったのは、ちょうどあの影のような存在が路地の角に立ち、僕を無言で振り返った瞬間だった。誰かが立っているというより、そこだけ光が吸い込まれて形を成しているような、そんな異質さだった。影は一歩、また一歩と奥へ下がり、まるで「ついてこい」と告げるように動く。

表通りが遠ざかり、路地裏の壁が互いに寄りかかるように狭くなる。その奥に鉄板のような扉があり、表面には錆が走り、古い傷跡が幾重にも刻まれている。影はその扉の前で立ち止まり、無言で取っ手を押した。ものすごく重いはずの鉄が、誰かが油を差し続けたかのように静かに開き、そこから冷たい空気が吹き付けてきた。生物ではない何か、湿り気と鉄分と埃が混ざり合った気配が、鼻の奥に重く沈む。

階段は真下へ落ちるように伸びていて、灯りは無い。代わりに、壁の隙間から淡い灰色の光が染み出している。まるで地下そのものが光っているかのようで、人の作った照明とは違い、脈を持たない死んだ光だった。足を踏み出すたび、階段の鉄板はわずかにたわみ、内部に響く低い共鳴音が靴底を震わせる。その音が降りるごとに深くなり、地面と空気が徐々に別の性質に変わっていくような錯覚があった。

階段を降りきった先は広い通路で、壁は滑らかに磨かれた黒い金属で覆われている。触れれば冷たいというより、硬すぎて熱を持てない素材の感触が返ってきそうで、均一すぎる光沢が人工物というより洞窟の壁に金属が流し込まれ固まったように見える。

通路の天井は低く、配管が何本も縦横に走っている。そこを流れる液体は、時折ごく小さな振動を響かせ、内部で何かがゆっくり脈打っているようだった。数歩ごとに壁の奥からゴウン、と重い響きが伝わり、アジトそのものが巨大な機械の胸郭のように呼吸している。

通路を進むと、すぐに三叉路が見える。右はチーター強化用の区画。左は他のメンバーたちが暮らし、訓練し、時には戦い合う広い居住兼演習区画だ。最初に視界に入るのは正面の開けた空間で、そこだけ天井が高く造られている。天井中央には緩やかに回転する巨大な換気機構があり、影のような埃を巻き上げながら低く鳴る。部屋の中央には高い台座のような席があり、そこには、名も知らぬこの組織の「ボス」が静かに座している。ただ座っているだけなのに、周囲の空気の流れそのものがそいつに引き寄せられているようで、周囲の影が濃く、光が薄い。天井の光源は一定のリズムで明滅しているが、ボスの周囲では明滅の周期がわずかに狂い、他の場所とは異なる呼吸をしているように見えた。

右の区画、強化装置の間は厚い強化ガラスで隔てられていて、その奥には巨大なカプセル状の装置が列を成して並んでいる。内部には座席のようなもの、管、固定具、そして脊椎に似た形状の金属フレームが取り付けられ、左右には大きな結晶が鎮座している。まるで生物を機械に変換するための巣に見えた。装置の下からはゆっくりと蒸気が漏れ、床の排気口に吸い込まれていく。その蒸気に触れると空気が微かに震え、皮膚の上でざらついた感触が這う。

左の区画では、他のチーター達が動いていた。全員がコードネームで呼ばれ、顔を覆う者、身体の一部に異形の装甲を纏う者、仄暗い影をまとった者など、見た瞬間に普通ではないとわかる姿ばかりだ。彼らは武器を研いだり、無言で互いに打ち合ったり、壁の端で何かを記録している者もいる。

その中で、ひとりだけ明らかに層が違う気配を放つ影がいた。背中を向けているのに、そこだけ空気が濁って見える。まるで視界の端が壊れているみたいに輪郭が揺れて、直視しようとすると焦点が逃げる。そいつはただ立っているだけなのに、周囲の空気が引きずられるように沈み込み、近くにいたチーター達でさえ距離を置くように少しだけ間隔を空けていた。僕が思わず立ち止まると、そいつがゆっくりこちらを振り返った。眼が見えたわけじゃない。顔立ちも判然としない。けれど、真っ黒な何か濃い霧を固めたような“穴”みたいな視線が、まっすぐ僕を貫いた。心臓が一音だけ跳ね、喉の奥が勝手に縮まる。身体が冷たくなるってこういうことか、と頭が勝手に理解する。敵意でも殺気でもない。ただ存在しているだけで危険という質の圧。僕は脚が少しだけ震えたのを誤魔化すために歩幅を狭くして進み直した。そいつは僕を一瞥したあと、興味を失ったように視線を戻す。その仕草ひとつで、自分がここではまだ数える価値すらない存在なんだと理解させられた。

だが何より異常だったのは、そこに漂う空気。全員がボスの命令を中心に同じ方向へ向かっているという圧倒的な統一感だった。個性があるのに、意志が単一。まるでここ全体がボスに属する巨大な器官で、チーターたちはその中を流れる血液のようだった。床はほぼ無音で、素材は黒い金属なのにわずかな弾性があり、踏むと沈むようで沈まない不思議な感触を返す。どこか遠くから金属音と叫び声が微かに響き、しかしその音さえもこの空間に溶けていく。誰かが見張っているわけでもないのに、常に見られているような感覚が背中につきまとい、冷たい視線の薄膜が皮膚に貼り付く。

通路に戻ると、クロウは無言で先を歩く。僕はそれについて行きながら、気づく。ここは地下ではなく、もっと別の層に近い。地面の下にあるのではなく、世界の隙間に無理やり作られたような異質な空洞。上でも下でもなく、ただここがこの組織の中心であり、世界の影の一部なのだと。音、匂い、空気、すべてが日常の延長ではなく、日常の別解のようだった。

クロウが僕を連れて歩き、通路の明かりが微かに揺れる中で案内が終わると、彼はわずかに体を止めてこちらを向き、短く「新入りはこいつでどうだ?」とだけ言った。その声は低く、抑えられていて、まるで物事を事務的に処理するような口調だった。周囲の影たちが瞬間的にこちらに向き直る気配を感じ、誰かが床を小さく擦るように足を移動させる。

そこにいる全員の目線が、重苦しい輪のように俺の周りに落ちてくるのを背中で受け止めながら、俺はクロウの顔の見えないマスクの隙間にちらりと目をやる。次の瞬間、部屋の奥、高置きされた台座の影の中からゆっくりと声が落ちた。

「いいだろう。」

それだけで、ここにいる者たちの呼吸が一度収束する。誰もがその男を、短い呼び名で呼んでいるのだと、その瞬間に理解が胸の奥で結ばれた。彼はもう「そいつ」や「男」ではない。皆の口を通って出てくるたった一語が、その存在の重みを定めている。「ボス」皆がそう呼ぶ。僕は自分の鼓動が一拍速くなったのを感じたが、声は出ない。ボスはゆっくりと腰から立ち上がり、台座の縁に手をかけるような動作を見せた。その仕草だけで空気がさらに冷え、まるで温度が一度下がったかのようだった。彼がこちらに視線を落とすと、周囲のざわめきは消え、代わりに金属と機械の低い共鳴だけが耳に残る。ボスの目は見えないのに、確かにこちらを探る何かを放ってくる。クロウが一歩詰めて、短く合図する。ボスは俺の方へとゆっくり歩み寄り、距離を縮めるたびに周囲の影たちの輪が少しずつ後退していくのが分かった。

ボスの気配が間近に来ると、俺の内部で何かが反応した。機械の振動が胸骨に伝わり、皮膚の表面に細かな寒気が走る。彼は言葉を発する前に、ほんの一瞬だけ顔を傾け、俺の周波数を探るように呼吸を聴いたのだろう、そしてそれだけで口を開いた。

「チーターではないのか。お前は。」と短く評すると、次に低く問うた。

「お前は、チーターになる覚悟があるか?」

問いは冷たくも、直接的で、回りくどさはなかった。俺の胸に重くのしかかる沈黙を割るのは自分の息だけで、答えを探すために喉が乾くのを感じた。言葉で答えるべきなのか、それとも身体で合図するのか分からずに戸惑ううち、俺は無意識に肩を上げて小さくうなずいた。うなずく動作は震えを含んでいて、それでも確かに意思を示すには十分だったらしい。

ボスはそのうなずきを一瞬だけ見つめ、そしてゆっくりとうなずき返した。「分かった。」とだけ言って、声には評価も祝福も含まれず、ただ事の次第を承認する淡い確証だけがあった。クロウが小さく笑うように息を漏らし、側にいた者の何匹かが軽く頷いた。周囲に漂っていた緊張が少しだけ形を変え、俺の周囲に新しい秩序が落ちてくるのを感じる。俺はその秩序に抗う力を持っていないとわかっていた。ボスは一歩前へ出て、声を低く、だが明確に続けた。

「では始める。お前はこの場所で、既に無かったものを得るだろう。覚悟しろ。」

その言葉は冷たくもあり、同時に終わりと始まりを宣告する鐘のように響いた。俺は目を閉じ、胸の奥で何かが折れるような音を聞いたが、同時に微かな固さが湧き上がるのを感じた。「覚悟」。その実体は何かと問われれば答えは曖昧だが、今この瞬間、俺はうなずいた自分に嘘をつくことは出来なかった。ボスの命令が、装置の稼働の合図となって周囲に伝播し、機械の低い唸りが再び増幅する。クロウが静かに肩に触れて合図を送り、影の輪がゆっくりと俺を包むように近づいてきた。



装置の区画に押し込まれたとき、金属の匂いと湿った蒸気のにおいが鼻を突いた。中は想像していたより狭く、カプセルの内壁が近く、息を吸うたびに胸のあたりが機械に押されるような感覚がする。クロウは黙って僕の肩に触れ、軽く押してカプセルの中へと押し込んだ。その掌の冷たさだけが生々しく、言葉はなかった。

周囲の音は強化ガラスを通して遠くなり、代わりに低い機械音が腹に響く。誰かが何かの鍵を回すカチリという音と、空気が吸い出されるようなゴウンという深い息づかいが混じる。天井のライトが一瞬だけ鋭く光り、次の瞬間には鈍く滲んで、まるで時間そのものが引き伸ばされるように見えた。

鎖のような留め金が僕の手首と足首に巻かれ、しっかりと固定される。締め付け自体は痛くないが、動けないという事実が瞬時に肺の奥を圧迫した。足の裏と背中に冷たいパネルが触れ、体温が吸い取られていくような感覚が襲う。誰かが耳元で「目を閉じろ」とだけ囁いた。振り向こうとして首を振る力が逃げる。目を閉じると、外で鳴っていた機械音だけがまるで鼓膜を直接叩いているかのように響いた。

「説明は要るか?」

低く澄んだ声が、ガラス越しに届く。振り向くと、ボスが座した台座の影が見える。あの高みにいるのだと認識した瞬間、全身が小さく縮むような感覚があった。ボスはゆっくりと話し始めた。言葉は冷たく、しかし理路整然としていて、逆に怖かった。

「チーターの強化というのはな、本来ならお前の体に既にある能力の抑制を解くだけでいい。神秘を抜いていけば、能力は理性を保てるギリギリのところで強化される。だがハイド、お前は元々チーターじゃない。お前の体内にはチーターの能力を司る物質が無い。だから強化だけじゃ済まない。お前には二つのことをやる必要がある。一つは能力を作る材料を入れること、もう一つはその材料を暴走させないための神秘を厳密に調整して与えることだ。」

ボスの声は淡々としていたが、その一言一言がまるで手術台の上でメスを入れられるように、現実を切り開いていく。僕は小さな声を出したかもしれない。覚えていない。記憶は断片的に刳り取られていった。

装置が唸りを上げ、カプセルの外側で何本ものアームが滑り出すのを感じた。金属の先端が皮膜を押し、冷たい針のような感触が腕に触れる。刺された感覚はあるが血は出ない。代わりに皮膚の内側で何かが液状になって広がるような、粘膜の向こうで波が打つような違和感が襲う。

温度が上がりはじめ、体の中の水分が揺れるように感じる。思考がぼやけ、視界の端の色が揺れる。時間が引き伸ばされる。何度か浅く息をするたびに、胸の中に新しいリズムが入ってくるようだった。

アームが更に動き、背中のあたりに冷たいプレートが押し当てられる。目を閉じていても、ほんの一瞬、内部で金属音と何か柔らかい物質が擦れるような音がした。何かが体内に入ってくる。最初は液体のようで、それが左右に広がり、胸の奥で振幅する。音は耳鳴りと混ざり、低くうねる。次に、粉のような粒子が呼吸の流れに乗って喉の奥に流れ込み、胃に落ちるような感じがする。粒子は熱を持たず、匂いもないが、皮膚の下で小さな触手が這うように存在を知らせる。体内の奥が、決して触れてはいけない場所を触られるようにビリビリと目を覚ます。

最初の段階は持続的な不快、次第に鋭い痛みが波のように襲った。頭の中で鐘が鳴り、吐き気がこみ上げる。僕は唸り、体が反射的に小刻みに震えた。だが拘束は強く、動けない。血の匂いはない。切り裂かれるような感覚ではない。ただ、筋肉の奥が引き伸ばされ、神経が引っ張られるような嫌な感触。時間の感覚が狂い、苦しみの波が何度も来ては過ぎていく。

アームが時折、微妙に調整を入れるたびに痛みが和らぎ、次にまた別の場所から異なる種類の違和感が始まる。調整の合間に、誰かの手が僕の額を軽く撫でた。優しさではない。温度の確認だと分かる。僕は震える声で何かを言おうとしたが、言葉は水の中の空気泡のように弾けて消える。

時間の感覚が薄れていく。最初の一時間は導入だった。機械は静かに、丁寧に、しかし容赦なく仕事を続けた。二時間目に入るころには、体の中に入った物質が相互に反応を始め、金属の音が一段と深くなる。全身に新しい電流が流れ、掌の皮膚が微かに痺れるような感覚が続いた。意識は飛び、戻り、また飛ぶ。戻った瞬間には、呼吸のテンポが変わっていることに気づいた。以前は機械のリズムに合わせるように浅く速かった呼吸が、今はゆっくりと深く、そして不規則に入れ替わる。胸の奥に、見知らぬ鼓動が加わったようで、自分の鼓動がそれに同化していくのが判った。

その合間にボスの言葉が断片的に届く。

「神秘の量はこれで……いや、もう一度微調整する。落ち着け、落ち着け。意識が揺れているのは正常な反応だ。」

彼の声は淡々としながらも、どこか威厳があって、僕はそれに服従するしかないような気分になった。周囲の影が静かに動き、誰かが棘のような道具を取り替える音がする。機械は最後の段階に入ったのか、装置が深く息を吸った。内側の圧力計が振れ、カプセルの壁が薄く光る。突如として、体の中で何かが弾けた。痛みは白い閃光のように一瞬だけ鋭く、続くのは静寂に近い、すべてが引き伸ばされたような時間だ。

意識が底へ落ちるのを感じ、暗闇の中で僕は自分が変わっていくことを確かに分かった。

装置が最後の吐息を吐き出すように低く震え、体内の新しい鼓動が俺の胸の奥で規則正しく鳴り出した瞬間、誰かが「起きろ」と低く命じた。まぶたの裏で虫食い状に光が点滅し、視界が戻るとき、拘束が外される音とともに手首の重みが消え、冷たい床の感触が奇妙に現実へと引き戻す。起き上がろうとする動作に全身が協調して応えない微妙な違和感があって、筋肉は同じでも反応が少しだけ遅れている。

胸の内側で、何か新しい電流が流れているのがわかる。低い声がガラス越しに響き、ボスの命令が周囲に伝わる。

「試してみろ。」

その指示に従って、数歩下がった者がライフルを構え、狙いを定める音だけが静かに通路に落ちた。銃口の先端が俺を指し示す。鉄と黒い金属の匂いが鼻腔を満たし、気づけば呼吸が浅くなっているのに気付く。狙いを合わせた瞬間、引き金の軽い振動が伝わり、次の瞬間に爆音が来るはずのところで、音は無かった。代わりに見たのは、弾丸が空気の中でふっと糸を引くように砕ける光景だった。

弾丸は実体としてこちらに向かってきたはずなのに、その表面が粒子になってほろほろと崩れ、指先で触れた灰のように舞い散る。その灰は地面に触れる前に黒い影の中に吸い込まれていき、熱や煙の匂いはない。発射した者の顔が一瞬で引きつり、周囲がどよめく。次に別の者が間髪入れずに発砲するが、同じ結果が繰り返される。銃弾は実際には発射されているのに、こちらへ届く前に存在を失うのだ。

誰かが呻き混じりに「朱に染まらない、これは…。」

そう呟くのが聞こえ、ボスが静かに笑う。「来たか。」とだけ言った。恐怖が人々の顔に走るのを見て、俺は己の手の感覚に集中する。掌の内側には新しい冷たさがあって、皮膚の下で何かが微かに振動しているのが感じられる。誰かが試すように近づき、ナイフを振り上げた。刃が空気を切る音が秒針のように大きく響き、切っ先が俺の肩を裂く寸前で止まる。刃先の先に触れた瞬間、そこから生まれた何かが刃を受け止め、短く軋むような音を上げて崩れ、手元で黒い粉となって消えた。流血の気配はなく、切り傷の痛みもない。ただ、相手の顔に一瞬で広がった困惑と恐怖だけが、残響のように残る。

僕は立ち上がり、周囲の視線すべてを正面から受け止める。体の中の鼓動は新しく、外の音が鮮明に拾われるようになっていた。そのとき、ボスがゆっくりと近づき、低く名を呼ぶ。

「お前にはこの名をやろう…。」

彼が口元を動かしたとき、周囲の空気が一瞬だけ締まる。集まっていた誰かが黒いインクのような塊を小さな器に差し出し、ボスはそれを掌で軽くこねるようにした。こねた物質は光を吸い込み、薄く落ちる灰色の粉となって、静かに空中を舞う。粉は風に乗るでもなく、俺の胸元へとゆっくりと沈んでいき、触れた瞬間に皮膚の表面で冷たい印を描いた。ボスは低く、しかしはっきりと言った。

「今日からお前の名は、アッシュだ。」

その「アッシュ」という音が、俺の鼓動と共鳴し、胸に刻印のように沈む。名を与えられた瞬間、周囲のざわめきが一斉に引き、代わりに新しい秩序が立ち上がるのを感じた。自分がチーターとして生まれ変わったと、いや、アッシュとして生まれ変わったと。確かに理解した。胸の中にあったもやもやした空虚が、鋭く冷たい決意へと置き換わるのを感じる。

僕は刃を握る手と銃を構える手、そして声を上げていた者たちを見渡し、ゆっくりと息を吐いた。その息はもう震えてはいなかった。覚悟はあるかと問われて、俺は自分に問うていた答えを今、新しい名で宣言する。「ある」と、心の底から、これから始まるものを受け入れる固さで答えた。

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