テラーノベル
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ねこむすび
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トレッドから手を離すと、手の甲に細かな粒がいくつか残っていた。顔を上げる。ライトニングブルーのボンネットにも、針の先で突いたような点が散っていて、熱の残るエンジンの上の方から、薄い膜になって消えていく。
天幕を叩く音は、さっきより間遠になっていた。ぽつ、と鳴って、しばらく何も鳴らない。テントの縁から手のひらを出してみても、落ちてくるのは数えられるくらいの粒だった。足元のアスファルトは、色が変わるところまで濡れていない。空は低いまま、管理棟の屋根の向こうで、白とも灰色ともつかない雲が坂の上まで蓋をしていた。
大輝は運転席のドアを開け、いつもの位置からロガーを外した。助手席に置いたヘルメットの内側から、汗の湿った匂いが立ち上ってくる。ドアを閉め、ロガーを握ったままテントの下へ戻った。
陽斗はパイプ椅子の背にもたれて、膝の上のスマートフォンで配信を見ていた。画面の中では、パドックのテントの列を、どこかのカメラがゆっくりなぞっている。
大輝はスーツの胸元のファスナーを下ろし、袖から腕を抜いた。汗を吸ったTシャツが背中に張り付いていて、湿った外の空気に触れたところから、少しずつ冷えていく。脱いだ上半分を腰の後ろへ回し、両袖を前で縛った。ロープの向こうで、ツナギの上を同じように腰に巻いたショップの男が、紙コップを片手に誰かと笑っている。
「返してくる」
「おう」
ロープのこちら側を、管理棟の方へ歩いた。窓口のガラスの向こうには、朝と同じ係の人が座っていた。
「庄司です。ロガー、返しに来ました」
「はい、お疲れさまです」
係の人はケースを受け取り、名簿の横に小さく印を付けた。それから窓の外の空へ一度目をやった。
「お昼の間に、オフィシャルがもう1回コース見てきます。午後の状態は、13時前には参加者の方へ流しますんで」
「了解っす。お願いします」
窓口を離れ、そのまま管理棟の裏へ回った。灰皿のスタンドの周りには、誰もいなかった。ポケットから煙草を出して火を点ける。最初の煙を吐いたところで、管理棟の壁の向こうからスピーカーの声が聞こえてきた。
『確認走行の枠は終了しました。このあとコース点検のため、オフィシャル車両が走行します。お客様は引き続き、ロープの外からご覧ください』
管理棟の脇から、屋根に黄色い回転灯を載せた白いバンが出ていった。西麓のスタートの方へ向かい、坂の手前で回転灯を点けると、エンジンの音を低く残したまま斜面の木の陰へ入っていく。
煙を吐きながら、大輝は斜面の上の方を見ていた。四段つづらのあたりは、木の切れ目から路面がところどころ覗いている。この空の下で、日が差さない北斜面の林が午前より乾いているとは思えなかった。
灰皿のふちで煙草を叩いた時、指の背に粒が落ちてこなくなっているのに気づいた。手のひらを上へ向けてみる。何も落ちてこない。雲は動いていないのに、空気の湿り気だけが、さっきと同じ重さで腕にまとわりついていた。
煙草を灰皿へ押し付けて消し、テントの方へ戻った。
12時を回ると、スピーカーが昼休みを告げた。ロープの向こうの人の流れが、駐車場の方とパドックの奥の方へ割れていく。コースから排気音が途絶えたせいで、テントを叩く風の音や、どこかの発電機の唸りが急に耳へ入ってきた。
自動車部のテントでは、部員の1人が段ボールを抱えて戻ってきたところだった。中から、輪ゴムで留めた弁当のパックが次々にテーブルへ出てくる。琴葉がクリップボードの名簿と数を突き合わせ、部員へ1つずつ配っていった。最後に2つ残ったのを重ねて持ち、大輝と陽斗の方へ歩いてくる。
「お昼まだでしょ。部の弁当、余ってるけど食べる?」
「マジか。ありがたい」
大輝が1つを手に取ったところで、琴葉が空いた方の手のひらを上へ向けた。
「はい。500円ね」
「え、マジ?」
大輝は弁当を持ったまま、琴葉の顔を見た。
「当たり前じゃん。部費で買ったんだから」
琴葉は手のひらを引っ込めずに、首だけ傾げている。
パイプ椅子の陽斗が、尻のポケットから財布を引き抜いた。
「なんか可哀想だから、特別に奢ってやんよ」
陽斗は千円札を1枚抜いて琴葉へ渡し、もう1つの弁当を受け取った。
「ありがと。お茶はそこの箱にあるから、勝手に取って」
琴葉はそう言って千円札を名簿の間に挟み、テーブルの端へ戻っていった。昼休みに入っても、ロープの際で足を止める人はいなくならない。琴葉は弁当の蓋を開ける前に、また来場者へチラシを1枚手渡していた。
大輝はパイプ椅子に座り直し、膝の上で蓋を開けた。唐揚げと白飯と、端に寄せた漬物。冷めた唐揚げの衣が湿気を吸って、箸で持ち上げると少し柔らかい。朝はコンビニのパンだけだったせいか、白飯が思っていたより早く減っていく。
隣で陽斗が、ペットボトルのお茶のキャップを歯で押さえて捻った。
「明日の水族館って、あそこだろ」
「そう」
「入口前のステア、スイッチハードリバートで仕留めたよね」
白い柱の並ぶ庇の下から、タイル張りの広場へ向かって、段の低い階段が横に長く伸びている。大輝の頭に、その階段が浮かんだ。テラスの奥から助走をつけ、いつもと逆のスタンスでテールを弾き、前へ掻き出す。デッキは体の前で横へ半回転しながら裏返り、ノーズとテールが入れ替わってデッキテープが上を向いたところで、両足が拾った。最後の段の先のタイルに降りた瞬間、背中側へ肩を振って、ウィールを滑らせたまま板を後ろ向きに回す。目地をウィールが擦る音がして、板は広場の真ん中で止まった。同じ日、陽斗は同じ階段をスイッチトレで降りていた。
「あー。やったね。レコード更新されてんのかな」
「最近bridgeの若い子が、メインのステアでノーリートレした動画アップしてたよ」
「さすがbridgeのライダー。陽斗はノーリービッグスピンヒールか、レーザーフリップでキメるしかなくね?」
陽斗は鼻で笑いながら、白飯の上の梅干しを箸の先で端へ避けた。
「レーザーはもう撮ったよ。近々編集してYouTubeに上がる予定」
GRBの横では、菅原が弁当のパックを片手に持ったまま、運転席のドアを開けていた。小学生くらいの女の子がシートに座らされ、両手でステアリングを握っている。父親がその正面からスマートフォンを構え、菅原は一歩下がったところで、写り込まないよう腕を組んだまま立っていた。女の子がホーンのパッドに手を伸ばしかけると、菅原は組んだ腕を解かないまま、首だけ小さく横に振った。女の子が手を引っ込める。父親が笑って頭を下げ、菅原は顎を引いて応えた。
弁当の空き容器を輪ゴムでまとめた頃、坂の上から回転灯のバンが下りてきた。低速でパドックの脇を抜け、管理棟の裏へ回っていく。
12時50分を少し過ぎて、テントのロープの際に伊藤が来た。反射ベストの上から無線機を下げ、片手にタブレットを抱えている。
「庄司くん、ちょっといい?」
「うす」
大輝は空き容器をテーブルの端へ置いて立ち上がった。
「午後のコース、さっき回ってきた。雨はもう上がってるね。水が流れてるとか、溜まってるとかはなし。ただ、朝湿ってたとこは、まだ乾き切ってない。悪くはなってないけど、良くもなってない感じ」
「四段つづらの上もっすか」
「上の山側ね。あと北斜面の林と、黒森複合の木の下。朝と同じとこ」
伊藤はタブレットの画面を親指で一度送った。
「14時は予定通り。途中で様子が変わったら、こっちで止めるから。走る前に自分でも見といて」
「了解っす」
「赤城さんの方には、もう言ってきた」
伊藤はそれだけ言うと、次のテントの方へ歩いていった。無線機から短く誰かの声がして、伊藤が肩口のマイクへ何か返している。
大輝は腰に縛った袖の結び目を、指先で締め直した。
北斜面の影の中は、午前と同じ手応えのままか、それより少しましなくらいだろう。黒森複合の木の下も、たぶん黒いままだ。走る前にもう一度、見えるところだけ見ておく。
『お待たせしました! 13時からは、DRIFT Society、赤城夏帆さんのファンミーティングです! 管理棟前のステージへお越しください!』
司会の声が上がると、パドックの奥へ散っていた人の流れが、管理棟の前へ寄り始めた。ロープの向こうで、黒いTシャツの背中がいくつも同じ方向へ動いていく。テントの下からは、人の頭の隙間を通して、朝と同じマイクスタンドと、その脇に立つ赤いレーシングスーツの肩が見えるだけだった。高い位置で結んだ髪が、話すたびに揺れている。
『峠MAXXの時ですか? もう毎回ギリギリで。久世さんに怒られなかった回、たぶんないです』
笑い声が起きた。
『このエボ、お父さんから受け継いだやつなんで。今日もちゃんと一緒に来れて、よかったなって』
拍手が湧き、スマートフォンがいくつも頭の上へ持ち上がった。陽斗がパイプ椅子から少し腰を浮かせ、人垣の向こうを覗いている。
司会が客席からの質問を募ると、前の方で手が挙がった。
『午後の追走の意気込み、お願いします!』
『えー、意気込み? 黒森、走ってみたらほんとに楽しくて! 午後も、いっぱい見てってください!』
その時、人垣の後ろの方から、男の声が飛んだ。
「エボXなんかに負けんなよー!」
何人かが笑い、何人かが声の方を振り返った。赤城は声のした方へ顔を向け、マイクを握り直した。
『負けるとかある訳ないじゃないですか、あははは』
人垣の前の方から歓声が上がり、拍手が重なった。声を飛ばした男も、後ろの方で拳を突き上げている。
「すげえ自信」
腰を下ろしかけていた陽斗の口から、声が漏れた。
「言ってみたいもんだね」
大輝はそう言って、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。
質問がいくつか続き、最後は撮影の列になった。ステージの脇にDRIFT Societyのスタッフがロープを張り、並んだ人を1組ずつ前へ通していく。赤城は肩車から下ろされた男の子の前でしゃがみ、目の高さを合わせてピースを作っていた。男の子が恥ずかしがって父親の脚の後ろへ隠れると、赤城は笑って、もう一度手を振ってみせた。
列が短くなっていく間、大輝はパイプ椅子に座ったまま、スーツの腰の結び目に指を掛けていた。テントの外の空は相変わらず低く、それでも粒が落ちてくる気配はなかった。
『13時40分になりました。ファンミーティングは以上となります。赤城さん、ありがとうございました!』
拍手の中で、赤城が両手を大きく振った。DRIFT Societyのスタッフに挟まれるようにしてステージを下り、管理棟の向こう側へ歩いていく。
『ここからは、14時からのスペシャル追走に向けて、コースを閉鎖いたします。ご協力をお願いいたします』
管理棟の前に、反射ベストの人たちが集まり始めた。何人かは無線機を耳に当て、何人かは腕章を付け直している。白いバンが2台、続けて坂の方へ出ていき、その後ろを、救護と書かれたワンボックスがついていった。管理棟の開いた窓から、誰かが無線で呼びかける声が漏れてくる。各ポスト、配置に着いたら順番に。
大輝は立ち上がり、腰に縛っていた袖を解いた。両腕を通し、肩まで引き上げる。胸元のファスナーを半分まで上げてから、ポケットのピアスケースを取り出した。右の鼻翼、左耳と外して並べ、蓋を閉める。
陽斗の方へ差し出すと、陽斗は画面から目を上げないまま、空いた手のひらを上へ向けた。
「はいはい。そういう日ね」
「そういう日」
ケースが陽斗のパーカーのポケットへ消えた。大輝はファスナーを喉元まで上げ、シューズの紐を締め直した。グローブとバラクラバをヘルメットの中へ押し込み、FHRを肩に掛けて、ヘルメットバッグを片腕に抱える。
エボXの運転席へ座り、バラクラバとヘルメットを被った。FHRのテザーを留め、6点式のベルトを1本ずつ差し込んで、肩のベルトを最後に引き絞る。イグニッションを回すと、4B11が午前と同じ調子で目を覚ました。SSTクーラーのスイッチをONへ倒し、制御モードをS-Sportまで送り、マニュアルゲートで「1」を出す。午前と同じ順番だった。
ディスプレイの時計は、13時51分を示していた。
『スペシャル追走、庄司大輝さん、赤城夏帆さん。スタート側へお願いします』
誘導棒を持った係員が、テントの前で手招きした。パーキングブレーキを解き、人が歩くのと変わらない速度で、ロープのこちら側の通路へ出る。ロープの向こうでは、午前よりずっと多くのスマートフォンがこちらを向いていた。黒いTシャツの2人連れが、画面を構えたまま肩を寄せ合っている。
テントの下で、陽斗がピアスケースを持った手を軽く上げた。
西麓のスタートラインの手前で、オフィシャルが片手を上げて車を止めさせた。運転席の窓の外に、伊藤が立っていた。肩口の無線機が、短く何かを告げてまた黙る。
「1本目、庄司くんが前ね。間隔はこっちで出すから、シグナル見て出て」
「了解っす」
伊藤が窓から離れた。大輝は窓を閉め、ルームミラーへ目を上げた。
管理棟の方から、赤いエボIXがゆっくり近づいてくるところだった。オフィシャルの誘導棒に従って、エボXの後ろ、数台分の間を空けたところで止まる。運転席の赤いヘルメットは、まっすぐ前を向いていた。大きなGTウイングが、ミラーの上の縁で切れていた。
コメント
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美月ゆめかだよ〜🌸 第24話読了! 雨上がりの湿気残るコース、昼休みの部活メシの空気感がすごいリアルで目に浮かんだ…!大輝と陽斗のやりとりの自然さ、特にピアスケース預けるところとか「そういう日ね」の返しがもうエモすぎてやばい😭👍 赤城さんのファンミの「負けるとかある訳ないじゃないですか」の自信もカッコよすぎるし、午後の追走への緊張感がじわじわ高まって最高! 次どうなるの?心臓ドキドキやわ…💕