テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
38
ねこむすび
67
ミラーの中の赤いエボIXは、アイドリングの振動でボンネットのダクトの縁だけを細かく揺らしていた。窓を閉めていても、背中の方から4G63の低い唸りが、エボXの排気音の下へ潜り込むように聞こえてくる。
大輝はミラーから目を戻し、ステアリング右脇のASCスイッチを長押しした。メーター内に、ASC OFFの表示が点く。
スタートラインの脇で、オフィシャルがシグナルの方へ顔を向けたまま、片手をこちらへ上げていた。大輝も片手を上げて返す。
左足でブレーキペダルを奥まで踏み込み、右足でアクセルを床まで踏み抜いた。4B11が吠え、回転計の針が5500回転に張り付く。押さえつけられた車体の震えが、シートから腰へ上がってきた。後ろの唸りが、一段高くなった気がした。
シグナルが赤から緑へ変わる。
左足を離した。
ブースト計の針が正圧へ跳ね、4輪が西麓のアプローチを掻いた。回転が上がるにつれて右手のパドルを引き、2速、3速とつないでいく。ミラーの奥では、赤いエボIXがまだスタートラインの手前に止まっていた。樹林の縁へ入る手前でもう一度目を上げると、赤い車体が動き出していた。
樹林の中の最初の右で、大輝は自分の目印の手前でブレーキを踏んだ。ミラーの中の赤は、思っていたより大きかった。スタートの間隔の分だけ離れていたはずの距離が、もうかなり詰まっている。
四段つづらの最初の右が、法面の向こうから回り込んでくる。
大輝は直線のうちにブレーキを踏み終え、パドルで2速まで落とした。その瞬間、ミラーの赤が膨らんだ。C-WESTのバンパーの両角に付いたカナードの形まで、はっきり見える距離だった。赤城のブレーキはまだ始まっていないのか、始まったばかりなのか、ミラーの中の車体は前へ沈み込みながら、エボXの後ろへ吸い寄せられてくる。
大輝は舵を入れ、前輪が向きを変えるのを待った。V107が横の力を受け止め、ノーズが出口を向く。ステアリングを戻しながらアクセルを開けると、ブースト計が1.6バールへ跳ね、すぐ1.5バールで落ち着いた。エボXが坂を蹴る。
次にミラーを見た時、赤はさっきの半分くらいの大きさに戻っていた。
2つ目のヘアピンも同じだった。ブレーキを踏んだところで赤が大きくなり、出口で小さくなる。違ったのは、赤いエボIXがヘアピンの中で、エボXよりもずっと内側へ鼻先を入れてきたことだった。前輪に荷重を残したまま向きを変えていく、動画で見た通りの曲がり方だった。出口で離れた距離は、1つ目の時より短かった。
3つ目の右は、午前と同じように山側の半分が黒く湿っていた。大輝はラインを谷側へ寄せ、乾いた帯の上で旋回を終わらせる。ミラーの中で、赤いエボIXも谷側へ寄っていた。湿った帯の縁を、エボXより少しだけ深く踏んでいる。
4つ目の左で、赤城は一番近くまで来た。大輝がガードレールの継ぎ目の手前でブレーキを踏んだ時、ミラーいっぱいに赤いバンパーとフロントガラスが広がり、その奥に赤いヘルメットが見えた。大輝は前輪が出口を向くまで待ち、アクセルを開けた。2速のまま回転が上がり、7000回転の手前でパドルを引く。エンジンの音が一度低くなり、すぐに3速の加速へつながった。
背中の方で、4G63の音が一度沈んだ。その音が次のギヤで持ち上がってくるまでの間に、ミラーの中の赤がもう一回り小さくなった。
西斜面のリズム区間に入ると、赤いエボIXは同じくらいの距離を保ったまま付いてきた。右中速へ100キロ前後で入り、切り返して左へ。荷重が左右へ移る間も、大輝は前を見ていた。ミラーへ目を上げるのは、短い直線で車体がまっすぐになった時だけだった。目を上げるたびに、赤はそこにいた。近づきもしないし、離れもしない。
ブラインドの右は、樹冠の濃いところだけ路面の色が暗い。大輝は舵を入れる前に速度を少し落とした。午前より、ほんの少しだけ早かった。立ち上がりで右の後輪が暗いところの縁を踏み、ステアリングがわずかに軽くなる。指先だけで受け、手首は動かさずに待つと、手応えはすぐ戻った。その間に、ミラーの赤が少し大きくなっていた。
尾根へ上がると、空が開けた。
ブラインドクレストが近づき、山頂管制所のフェンスが視界の右端を流れていく。路面が落ち、車体が軽くなって、6点式ハーネスに身体が吊られた。大輝はステアリングもアクセルも動かさず、4輪が路面を踏み直すのを待った。後ろを見る余裕はなかったし、見る必要もなかった。
タイヤが戻ってきたところでミラーへ目を上げると、赤いエボIXもちょうど路面へ降りたところだった。大きなGTウイングが一度沈み、すぐに水平へ戻る。車体の揺れは、それで収まっていた。
左の切り通しを抜けると、北斜面の林へ入る。
右高速下降へ、4速のまま舵を入れた。木の影が路面を斑に覆い、影の中へ入るたびにステアリングの手応えが薄くなる。午前と同じだった。外側のガードレールが視界の下を流れ、左高速下降の入口が樹間から見えてくる。
ミラーの中で、赤いエボIXが左高速下降の出口寄りに、少しだけ右へ車体を振ったのが見えた。
この先は約330メートルの下りストレートで、その終わりに奥で曲がる右の低速コーナーがある。動画の中の赤城は、長い直線の終わりではいつも、前の車の内側へ鼻先を入れていた。前の車が安全側へ避けた瞬間に、空いたところへ差し込む。峠MAXXで、何度も同じ形を見た。この先の右では、右が内側になる。
カートに乗っていた頃から、後ろの車が直線の手前で次の曲がりの内側へ寄せてくる時は、だいたいそのまま次のブレーキで飛び込んできた。来る場所が分かっているなら、来る前にこちらで使っておけばいい。
左高速下降の出口で、大輝はエボXをコースの右寄りへ置いた。外へ膨らむ途中でラインを作り直すのではなく、出口からそのまま右寄りへ。それ以上は動かさない。
ストレートへ出て、アクセルを床まで踏み込んだ。
ブースト計の針が1.6バールへ触れ、1.5バールまで戻る。回転が上がるにつれてブーストは少しずつ下がっていくが、加速は途切れない。速度計の針が160の目盛りへ届くところで、回転計は7000回転の手前まで来ていた。右手のパドルを引くと、エンジンの音が一度落ち、5速の加速がすぐに続き、速度は170の目盛りへ向かっていく。
林の中の直線を、風が路線の方向へ抜けていた。落ち葉が何枚か、ボンネットの先で舞い上がって後ろへ消える。舗装の継ぎ目を越えるたびに、エボXが短く上下した。ステアリングから返ってくる力が一瞬だけ抜けて、すぐに戻る。大輝は手を動かさなかった。継ぎ目を2つ越え、3つ越えても、車はラインの上から外れない。その間に、針は180の目盛りを越えていた。
ミラーの赤は、直線の入口で一度大きくなっていた。エボXの真後ろに入り、風の陰を使って寄ってくる。その赤が、直線の半分を過ぎてから、それ以上大きくならなかった。
制動の目印が近づいてくる。
大輝は直線のうちにブレーキを踏んだ。ハーネスが胸へ食い込み、車体の重さが前輪へ乗っていく。左手のパドルを引くたびに回転が跳ね上がった。
ミラーいっぱいに赤が広がり、その赤が、右へ少しずれた。
やっぱり、そっちか。
右のドアミラーの縁に、赤いバンパーの角が一瞬だけ映った。右側は、もうエボXが使っている。その先には路肩の縁石と、法面しかない。赤いエボIXは鼻先を覗かせたところで、それ以上は出てこなかった。ドアミラーから赤が消え、ルームミラーの真ん中へ戻っていく。
大輝は右寄りのまま、奥のエイペックスへ向けて舵を入れた。普段より内側から入った分、向きを変えるのに少し時間がかかる。前輪が出口を向くまで待ち、それからアクセルを開けた。
出口がそのまま、黒森複合の最初の左タイトの入口になる。
黒森複合の中では、追い越しはできない。大輝はミラーから目を外し、自分のラインを走った。左タイトを2速で回り、右中速、締まり込む左。側壁と樹林で日が遮られ、路面の色は午前と変わらず一段暗い。
登り返しの頂上を越えると、右ブラインドの先で路面が下った。下りの急な制動で、エボXの重さが前輪へ跳ね返ってくる。ブレーキを踏むたびに、ミラーの赤が大きくなった。四段つづらの4つ目の時と同じくらい近い。赤いエボIXは、谷へ下りていく狭い区間でエボXの後ろにぴたりと付いたまま、左右へは一度も出てこなかった。
谷底の右で、エボXの車体が沈み込んだ。縦の圧縮がシートの座面から背骨へ上がってくる。最後の左は、大きな木が覆いかぶさった内側だけが黒い。大輝はエイペックスを湿った部分の手前に置き、内側の縁石には寄せずに回り込んだ。左の短角を2速で抜け、右の中速で車体を起こす。
東麓へ向けた下降ストレートへ出た。
アクセルを床まで踏み込む。3速から4速へつなぎ、針が150を越えていく。斜面の陰から抜けると、空が少し明るくなった。
ミラーの赤は、北斜面の直線の時より遠かった。黒森複合で詰めた分を、ここでまた失っている。それでも赤いエボIXは、エボXの真後ろへ入ってきていた。
この先の左の最終ヘアピンが、最後に追い越しができる場所だった。
内側は左になる。大輝は直線の半分を過ぎたところで、エボXを左寄りへ置いた。それから先は動かさない。
制動の目印の手前でブレーキを踏む。
右のドアミラーに、赤いバンパーが入ってきた。赤いエボIXが、外側から並びかけてくる。カナードの角が、ドアミラーの縁から縁へゆっくり動いていく。
鼻先は、エボXの後輪まで届かなかった。
大輝は左寄りのまま舵を入れた。ヘアピンの内側を回り始めると、右のドアミラーから赤が消え、ルームミラーの方へ戻ってくる。外側から回るしかなくなった赤いエボIXは、エボXの後ろで向きを変えていた。
前輪が出口を向いたところで、アクセルを開ける。ブースト計が1.6バールへ跳ね、フィニッシュストレートへ押し出された。3速、4速とつなぎ、緩い右ベンドを抜けて、計測ラインを越えた。
大輝はアクセルを戻し、ブレーキを緩く当てながら減速区間へ入った。
ミラーの奥で、赤いエボIXが計測ラインを越えるのが見えた。速度を落としていくエボXの後ろへ、少し間を空けて付いてくる。
オフィシャルの誘導棒に従って、低速連絡路へ入った。競技路の外側を回る細い道を、歩くより少し速いくらいの速度で走る。助手席側の3連メーターへ目をやると、水温と油温は、午前の確認走行の後より少しだけ高いところで止まっていた。ステアリングコラムの表示に出ているSSTのフルード温度も、クーラーを回していた分、上がり切ってはいない。
木々の間を抜ける間、ミラーの中の赤いエボIXは、同じ距離のまま後ろを付いてきた。さっきまでとは違う、低く静かな4G63の音だった。
管理区画へ入ると、オフィシャルが誘導棒で停車の枠を示した。大輝はエボXを枠に入れ、ブレーキを踏んだままパーキングブレーキを引いた。エンジンは切らない。ハーネスのバックルに手を掛けたまま、ミラーへ目を上げる。
赤いエボIXが、エボXの後ろの枠へゆっくり入ってきて止まった。
運転席の赤いヘルメットは、前を向いたまま、しばらく動かなかった。
コメント
1件
ああああさん、第26話も熱すぎました😭🔥🔥 大輝のライン取り、マジで鉄壁すぎる…!特に最終ヘアピンのイン側読んで封♡♡♡るところ、脳内で完全に展開が再生されて鳥肌立ちました。赤城さんの「来る場所が分かってるなら使っておけばいい」っていう判断、冷静すぎてかっこよすぎます💕 峠の駆け引きって、単に速いだけじゃ勝てないんだなって思わされた回でした…!次話も楽しみにしてますね🌟