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第三話 祈りの形をしている檻
目が覚めたとき、天井がどこにあるのか分からなかった。
暗いわけじゃない。
ただ、静かすぎて、私がまだ生きているのか確かめるのに時間がかかった。
柔らかい寝台。重たい毛布。
体が沈み込む感覚が、どうにも落ち着かない。
北では、こんなふうに包まれて眠ると凍死する。
雪に埋もれた死体は、だいたい穏やかな顔をしている。
ここは暖かいのに、眠りは浅い。
……息が詰まる。
起き上がる。
隣室に人の気配はない。
扉に手をかけると、開いた。
鍵はかかっていない。
試されているのか、忘れられているのかは分からない。
どちらでも結果は同じだ。
外に出る。
廊下は静かで、朝の光が細く差し込んでいる。
誰もいない。
足が勝手に、人気のない方へ向いた。
逃げるためじゃない。
逃げたところで、この土地の言葉も道も知らない。
山で凍えるか、野犬に食われるか、どこかの農夫に売られるだけだ。
ただ、息ができる場所を探しただけだった。
見つけたのは、石の匂いがする小さな部屋。
礼拝堂。
冷たい空気が肺に入る。
ここだけ、暖炉の匂いがしない。
祭壇の前に立つ。
壁に吊るされた男の像がこちらを見下ろしている。
腕を広げ、釘で打ちつけられた神。
この神は、いつも苦しそうな顔をしている。
膝をつく。
北とは何もかもが違う。
でも、神も、祈りも、ここでは同じだ。
口が勝手に動く。
「どうか。神のご慈悲を──」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
自分か。
それとも、あの部屋の少女か。
「あなた、喋れたのですね」
背中が跳ねる。
振り返ると、あの少女が立っていた。
淡い衣。整った姿勢。
朝の光の中でも、形が崩れない人間。
「……おはよう、ございます」
喉がうまく動かない。
ここでは、こう言うのが正しいのだと、侍女を見て学んだ。
「目を見て話しましょう」
近づいてくる。
逃げる理由が分からないから、動かない。
頬に手が触れる。
柔らかい。温かい。
けれど指先に力はない。
壊れ物に触る手つきだ。
視線を上げさせられる。
灰色の目。
氷の割れ目みたいな色。
「勝手にお部屋を出てはいけませんよ。心配したのですから」
叱られているのに、声は優しい。
北で叱られるときは、先に殴られる。
ここでは、先に微笑まれる。
どちらが厄介かは、もう分かっている。
「礼拝堂に来たかったのですね?」
少し考えてから、頷く。
違うと言っても面倒なだけだ。
「名前を、まだお聞きしていませんが……」
そう言うと、少女は小さく目を見開いた。
「私はアディポセラ。アディポセラ・ド・シャンベリーです」
長い名前だ。
誇らしげな響き。
自分が何者か、疑ったことのない声。
「アディポセラ、様」
口に出してみる。
様。
この国で生きるための音だ。
少女は満足そうに笑った。
「ええ。よくできました」
褒められた。
犬みたいに。
朝食の席。
食べ物が並んでいる。
量が多い。湯気が立っている。
考える前に手が伸びる。
パンを掴む。口に押し込む。
奪われる前に、腹に入れる。
それが染みついた生き方だ。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
声が飛んでくる。
顔を上げると、皿が差し出される。
「お野菜を食べましょう」
緑色のもの。
草にしか見えない。
だが断れば、また説明が始まる。
黙って口に入れる。
味がしない。
視線がずっとこちらを見ている。
監視ではない。
“育てている目”だ。
食後。
少女は鏡の前に立ち、髪を黒い紐で束ねている。
動作がゆっくりで、無駄がない。
自分が美しく見える角度を知っている人間の動き。
「礼拝堂で、何を祈っていたのですか?」
鏡越しに目が合う。
答えないと、また“正しい言葉”を教えられる。
「……別に」
短く返す。
「神様にお願いごとでしょう?ここでは、もう寒さに震えることもありませんし、悪いことも起きません」
……私は。
神の声と、聖書だけは覚えている。
「……忘れました」
嘘だ。
けれど少女はそれ以上聞いてこなかった。
「そのうち話してくれるでしょう」と。
そう思っている顔だ。
この人は、本気で信じている。
暖かい部屋と、食事と、文字と祈りを与えれば、
人間は“正しい形”になると。
窓の外が白く光っている。
ここは寒くない。殴られもしない。
それでも胸の奥に、細い棘が刺さったまま抜けない。
この場所では、鎖は見えない。
代わりに、
正しさという形で首に巻かれる。
気づかないうちに締まっていく類のやつだ。
私は黙って立っている。
まだ、息ができるふりをしながら。
お立ち台に立つ彼女を観ている。