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戸の隙間からビールの空き瓶が見えた。健太は部屋に入った。
キッチンテーブルから、無事着いたかというツヨシの声がした。「マッチャンがありがとだってさ」健太は玄関の鍵を閉めると、革ジャンを脱いでスーツケースの上に放り投げた。
八畳ほどのリビングは白壁で、正面には四角い鏡が架かっている。そこに健太自身の上半身が映った。耳の隠れた長髪に切れ長の目、無地の白いTシャツの胸元にはペンダントの鎖が二本見える。彼はしばらく眉をひそめて腕を組んでいたが、一週間前に髭をきれいさっぱり剃り落としていたことに思い当たると、納得したのか身体をくるっとひとひねりして鏡の下のソファに沈んだ。座面の電話帳が弾み、黄色いスポンジがはみ出す縫い目から空気の抜ける音がした。正面にはソファの座面とほとんど変わらない高さの、肩幅よりやや広い丸い台が来た。腕時計を外してそこに置くと、こつんと小さな音がした。ダイニングの四角いテーブルの上から辞書をピシャリと畳む音がした。
もう終わったのか、と健太は聞いた。ツヨシが宿題に取り組み始めたのは、健太がミンとマチコを送り出してからだった。
「あとは明日にするよ。早めにカフェテリアに行って、ミンを捕まえてノート写させてもらう」
ツヨシの赤い顔の、瞼が沈みかけている。そんなツヨシを注視していると、彼はふらふら立ち上がって、左側の食器棚前で半歩後ずさりした。そこには、崩れた豆腐やらふにゃけたもやし炒めやらご飯が盛られていた器が水気をふき取られ、室内の虚ろな光を反射させて所定の位置に整然と並んでいる。油まみれだった小さなフライパンが風呂上がりのこざっぱりとした様相で、壁のフックに架かっている。全部マッチャンがやっといてくれたんだよ、と健太は言った。
ツヨシがパジャマのズボンの片側に両足を突っ込んでしまったのを見て、健太は笑った。そのままツヨシの様子を見ていると、斜め前のベッドに倒れ込んで虫のように足をバタつかせて足を片方ずつ入れなおし、「じゃまた明日」と言って布団にもぐり込んでいった。
健太は革ジャンをどけてスーツケースから厚手のセーターを取り出すと、頭に被った。首が貫通したとき、ツヨシの細い腕が枕元の電燈に伸びていた。ちょっと待ってくんないと健太は言うと、電話帳を端によせ、セーターとGパン姿でソファに両脚を乗せた。足元に丸くなっているブランケットを開くと、生地の向こうが薄く透けた。
「まだか」とツヨシは言いながら、シェードの縁から垂れ下がる紐の端をつまんでいる。健太がもうちょっと、と言っているにも拘らず、カチッと音がして電球の中のフィラメントが切れた。辺りは闇に消えた。健太はぶつくさ言ってみたがツヨシからの返事はなく、そのうち足元からスースーという寝息が聞こえ始めた。
健太は電話帳に頭を載せた。ごつごつして痛い。ブランケットの中の脚は膝を頂点にくの字になっていて、いかにも窮屈そうだ。脚を倒し身体を横転させると、今度は耳と首が痛んだ。電話帳の位置を微調整するが、どうもしっくりこない。目の高さには夜光塗料のローマ数字が浮かんでいる。そいつに向かって腕を伸ばしかけたとき、チッという短いアラーム音が鳴った。日付が変わった。ここへ引っ越してきて、丸一週間が経った。
昼間は学校で楽しいふりをしている。夜も彼らと飲んでいるうちは気が紛れる。しかし、この時間になれば別だ。広いふかふかのダブルベッドは肩幅しかないソファになり、やわらかい枕は電話帳になり、厚い羽根布団は厚いセーターが必要なブランケットになり、腕の中には奈々がいない。
目が慣れてくると、カーテンの隙間から群青色の空が見え出した。