自宅に帰ったからといって、日常に戻ったわけではなかった。未だ問題が片付いていないからだ。
その証拠にアンリエッタは今、学術院にあるパトリシアの部屋に来ていた。マーカスと共に。そのマーカス経由で、ポーラから呼び出されたのだから当然だった。
とても重要な話だから、と通信魔導具越しではなく、ポーラ自ら学術院までやってきたのだ。魔法陣を使用しているため、あっという間の移動といえば、そこまでなのだが。
ポーラが来ている、ということは、当然ユルーゲルも同行することになる。護衛魔術師なのだから、パトリシアの部屋でポーラの傍にいなくてはいけない。けれど、前回と同様に、魔力で作った青い狐を通しての参加となった。
先日の誘拐未遂事件では、お世話になったと聞いても、アンリエッタにはまだ抵抗があったからだ。
大分薄れてきたとは思うのだが、パトリシアの部屋に入り、ポーラの膝の上にいた青い狐を見た途端、一歩後ろに下がりそうになった。
まだ引き摺っているなんて、段々ユルーゲルさんに失礼なことをしている気分になる。
そう思いつつも、気持ちがついていけず、罪悪感を抱いたまま椅子に座った。嫌いになるのは容易いが、嫌いなものを標準にまで上げるのは、難しかった。
「報告は受けていたのだけれど、あれから自宅に戻っても大丈夫だった?アンリエッタ」
すぐに気にかけてくれるところは、王女や魔塔の主、といった肩書があっても変わらない。アンリエッタと出会う前から持っている肩書なのだから、当たり前のことだった。
しかし、アンリエッタはそれがむずむずするくらい嬉しくて、心配かけまいと明るく振る舞った。
「はい。問題ありません」
「大ありだろう」
間髪入れずに、マーカスが口を出してきた。訝しげな表情をしたポーラは、マーカスを見ることなくアンリエッタに問いかけた。
「何かあったの?」
「えっと……」
目を逸らすと、壁に背を預けているマーカスと目が合った。
何で余計なことを言うの、と目で文句を言った。けれど、マーカスは惚けたり、素知らぬ顔をしたりせず、本当のことだろう、と太々しい態度で返した。
「学術院でパンを焼いていたせいか、お店の方が忙しくなっちゃったんです」
「ふふふっ。アンリエッタのパンのファンが、また増えたのね。でも、マーカスが苦情を言うってことは、可笑しな客も、同時に増えたのかしら」
「まぁ、一応。でも、今まで通りエヴァンさんに頼んでいますし、マーカスもいるので、本当に問題ないんです」
ギラーテの治安は、女性が一人でお店を切り盛りできるほど、悪くはない。けれど、どんなに治安が良くても、難癖をつけてくる者はいる。特に食品を扱うお店ほど、そういうお客は現れるものなのだ。
そういう時に出くわしたアンリエッタは、とりあえずその場は、上手くあしらった後、エヴァンに相談して、そのお客が寄り付かないようにしてもらっていたのだ。
「前からジェイクには、アンリエッタに付きまとってくる輩がいたら、始末しなさいって頼んでおいたけど。相変わらず、狙われ易い子ね」
「え?」
「銀髪に戻してから、より増えたがな」
「えぇぇ⁉」
一体何のこと?と聞くほど、察しが悪い方ではなかった。今まで難癖をつけてきた連中は、ジルエットが気に食わないとか、女だから言い易いとか、とにかく嫌いだから、そう言ってくるのだと思っていた。それが、実は違った……てこと?
「やっぱり気づいていなかったのね。エヴァンとジェイクに、アンリエッタのことを頼んでおいて、正解だったわ」
「すみません」
悪意には勘が教えてくれるが、好意にはさすがに機能してはくれないのだ。
「それよりも、早く本題に入ってくれ」
「あら、ごめんなさい。アンリエッタの様子が心配だったから」
棘のある言い方でマーカスに返答したポーラは、真面目な顔つきでアンリエッタに向き直った。
「まず、犯人たちの処遇だけど、前回と同様、魔塔で処分を下したわ」
『前回』とポーラが口にした時、膝の上にいる青い狐の頭を叩いたように見えたような気がした。
「ギラーテで起こったことだから、レニン伯爵が下すのが一番良いのだけれど、そうなると、ソマイアとゾドの問題へと最悪発展し兼ねないから、今回も魔塔で行う方が妥当だと判断したの。だけど、アンリエッタの誘拐未遂、というのを前面に出したくはないから、表向きには、領地内で問題を起こされたことに対して、レニン伯爵がカラリッド侯爵を訴える、という方式を取らせてもらったのよ」
レニン伯爵は、前回の拉致事件があったため、ポーラの要求をすんなり受けてくれた。今回は、完全に非がなく、さらにカラリッド侯爵から多額の賠償金を取れることもあったからだ。
ポーラにとっては、教会と公に争うことを避けることと、アンリエッタの存在を大きく取り上げたくはなかったことによるものだった。が、レニン伯爵は思いの外、いい仕事をしたようだ。
「だから、犯人たちの身柄は、ゾドに送り返すことになったの」
「えっ」
「大丈夫。カラリッド家の魔術師を覚えているかしら。アンリエッタに手を出させないように、その者が上手くやるわ」
やるわが、やらせるわ、に聞こえたのは気のせいだろうか。犯人の処遇がどうであれ、ポーラが大丈夫というのだから、アンリエッタはただ、それを信じることにした。
「その魔術師からの情報で、銀竜を召喚したと思しき人物を特定したわ」
アンリエッタの安堵した表情を、返答と受け取ったポーラは、次の話題を口に出した。
「では、銀竜が元々マーシェルにいた、という仮説はなくなった、ということなのですか?」
事件のことには口を挟まなかったパトリシアが、前のめりになってポーラに尋ねた。
「えぇ。そうなるでしょうね。マーカスの言った通り、ゾドの聖女が、その人物ではないかという線が濃厚に出てしまったから」
「ゾドの聖女……確か年齢的に、唆されるような人物ではない、と記憶していたが」
「以前、ユルーゲルが言っていた聖女に、娘がいたことが確認できたのよ。その娘が聖女となり、銀竜が現れた時の年齢は、ちょうど二十歳だったの」
「……二十歳」
隣の椅子に座っていたパトリシアが呟いた。そうだ。『銀竜の乙女』でのパトリシアの年齢は、二十歳だった。マーカスの年齢から、今年がちょうど『銀竜の乙女』の舞台となった年だったから、パトリシアは今、ゾドの聖女と同じ年齢である。
「そのくらいなら、分別できる年齢だ。誰かさんに唆される、とは思えない」
「同意見だけど、自ら家を出て、彷徨っていた末に行きついた場所が、誰かさんだったのなら、可能性はあるのではないかしら」
「伏せられるより、却って名前を出していただいた方がいいです」
二人から“誰かさん”と言われることに、居た堪れなくなったユルーゲルが口を挟んだ。
「五百年前と今とで、ややこしくなるから、これでいいだろう」
「そうね。大魔術師様、と呼ばれるのも、貴方嫌がるじゃない」
「それは皮肉めいて……どちらも変わりないことでしたね」
青い狐であるため、抗議している姿は、吠えているように見えた。今は拗ねたのか、丸くなった。
「カラリッド侯爵家の記録では、聖女が二十歳になった時、出奔したらしいのよ。律儀に書き置きまでしていた辺りが、聖女らしいわね」
「まさか、それが残っているんですか?」
「彼女が消えてから、カラリッド侯爵家では聖女が生まれていないの。だから、そこに何かあるんじゃないかと、縋って残しているそうよ」
まるで呪いみたいだ、と思った。聖女であり、貴族の令嬢が家出をする、というのは、平民や前世での家出とはわけが違う。悪意に満ちた世界に、子羊が放り込まれるようなものだ。
そうまでしなくちゃならないような事態にならない限り、選ばない道だ。でも、彼女にはそれがあったんだろう。だから、書き置きの内容までは、聞く必要はないと思った。
「だが、それだけの理由で、召喚した人物だと断言していいのか」
「確かに疑うのは分かるわ。でも、聖女の顔と名前を聞いても、同じことが言えるかしら」
「……どういうことだ」
マーカスの声に勢いがないことで、どうやら私と同じ考えに至ったのだと察した。
そして無情にも、ポーラは一枚の写真をテーブルの上に置いた。前にアンリエッタも見た写真だった。自分が写っていると思った、あの写真である。
「彼女が聖女であり、名前はアンリエッタ・ヴァリエ・カラリッド」
「アンリエッタさんと同じ名前……ジャネット様、これは」
「えぇ。私も驚いているの。確か、銀竜の名前もヴァリエだったわよね」
そう言いながらマーカスを見たポーラの表情が、不審なものへと変わった。マーカスが驚いた表情をしていなかったからだ。アンリエッタには、それがよく理解できた。
私の仮説が合っていたんだ……。
「ポーラさん、実は――……」
「待て、アンリエッタ。俺との約束を忘れたのか」
「あっ」
約束というより、条件だ。ポーラには聞かせてもいいが、ユルーゲルの耳には入れない、というもの。でも、ここにはユルーゲルがいる。どうやって聞かせないようにすればいいの。
アンリエッタは、マーカスを見た。すると、マーカスはアンリエッタに近づき、傍に立つと、ポーラを見据えた。正確には、膝の上にいる青い狐に向けて。
「パトリシア、頼みがある。アレを連れて、しばらく部屋の外にいてくれないか」
「アレって?」
「これのことかしら」
ポーラが青い狐を持ち上げて聞くと、マーカスは頷いた。
「でも、どうして?」
「すみません。こないだ話そうとしたことなんですが、ポーラさんにならいいってマーカスが」
「それなら仕方がありませんね。パトリシア嬢、参りましょう」
床に降ろされた青い狐が、先導するように、ドアに向かって歩いて行った。
「分かりました。では、私たちは散歩に行ってまいります」
パトリシアは椅子から立ち上がり、ポーラに挨拶をしてから、青い狐の後を追った。傍で立っていたルカも一緒に、部屋を出て行った。
「マーカスを説得してから、とは言ったけど、まさか条件付きだったとはね」
先ほどまでパトリシアが座っていた椅子に、マーカスが座るのを見ながら、ポーラが切り出した。
「ユルーゲルさんの耳には入れたくない、って言うんです。彼も関わっていることなのに」
「分かったわ。私も言わない方がいいわけね」
「あぁ」
「でも、薄々は感じているわよ。アンリエッタもまた、自分と同じ過去から来たのではないか、と言っていたから」
アンリエッタとマーカスは、同時に驚いた。
しかし、考えてみれば分かることだった。先ほどの聖女の名前と写真。アンリエッタの本当の親が見つからないこと。何より、自らの意思でこの時代に来たわけではないことや、召喚した真意も分からなかったこと。そして、銀竜がアンリエッタを呼んでいることを総合すれば、行き当たることだった。
「だから、安心して良いわ。それでどうこうしようなんて、ユルーゲルは思っていないようだから」
「……よく、監視しておいてくれ」
「勿論よ。でも、まさかアンリエッタも、同じように考えていたなんてね。思いもよらなかったわ」
手間が省けて良かったわ、とでも言うようなニュアンスだった。
ポーラもどう言っていいか、悩んでいたのだろう。突然、貴方は過去から来たのよ、なんて言って信じるだろうか。何も知らなかったら、恐らくポーラの言葉でも、信じたかどうかは怪しいところだった。
「でも、分からないんです。先ほどのポーラさんからの情報を、さらに付け加えても、余計に混乱しちゃって」
「銀竜が貴方を呼ぶ理由ね」
「はい。仮に私が銀竜を召喚した聖女だったとしても、ユルーゲルさん同様、それは私であって、私ではありません」
お腹の前で、両手を握りしめた。すると、マーカスが肩に手を乗せた。
「銀竜が聖女の名前を使っているのかも、気になるわ」
「そこは、あまり考えたくない仮説が思い浮かびます」
銀竜が聖女を食らった、という仮説である。しかし、それで何故、聖女の名前を名乗るのか、までは分からず、アンリエッタは口に出さなかった。
「銀竜が生贄とは違って、聖女を再び食らいたくて呼んでいるのだとしたら。それでも行くのか」
「マーカス!」
ポーラがマーカスを大声で叱咤した。椅子から立ち上がるほどに。
「いいんです、ポーラさん」
一度、ポーラを宥めた後、アンリエッタはマーカスの方を向いた。
「銀竜が私を食らいたいのなら、私の勘が反応する。だけど、何もないんだから、それは違うんだと思うの。前に話したじゃない。神聖力を補いたいんじゃないかって」
ここでまた、マーカスに反対されるわけにはいかなかった。
そもそも、この時代の人間ではない、ということは、『銀竜の乙女』の登場人物でも、エキストラでもないのだ。そんな私が銀竜の所に行こうが行くまいが、物語に影響はない。
けれど、ここまで登場人物たちに関わったのに、留守番という選択は、あまりにも惨かった。最後まで見届けさせて欲しい。それが本音だった。
「だが……」
「いざとなれば、アンリエッタを守ればいいでしょう。自信がないのかしら」
「そうは言っていない」
「言っているわ。別に、マーカスとアンリエッタだけで行くわけではないのよ。私も行くし、嫌かもしれないけどユルーゲルも行く。アンリエッタだって、神聖力の修練をしているのだから、一応戦力には入るわ」
一応、ですか。自信満々に言えないため、反論できなかった。
「パトリシア嬢には、ルカっていう護衛が付いている。問題ないのではなくて?」
「マーカス」
今度はアンリエッタが、マーカスの肩に手を置いた。
「……分かった」
「決まりね。日取りは、一週間後にしましょう。アンリエッタも、しばらくはお店を休むことになるのだから、挨拶回りとかあるでしょう。大まかな旅の準備は、こっちでしておくから、安心してちょうだい」
「ありがとうございます」
さすがはポーラ。マーカスが承諾すると、間髪入れずに日程を決めてしまった。説得も含めて、頭が上がらなかった。
パトリシアたちにも知らせる必要があったため、ポーラは魔法でユルーゲルに戻るよう伝えた。
「アンリエッタ」
マーカスが腕を伸ばし、アンリエッタを抱き寄せた。普段なら、ポーラという一目を気にして、押しのけるのだが、アンリエッタは大人しく身を寄せた。
無理やり自分を納得させたことが、手に取るように分かったからだ。だから、アンリエッタもマーカスの背中に腕を回した。よく頑張ったね、と褒めるように、背中を撫でた。
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