三週間ぶりに再会を果たしたオルガと店の前で待ち合わせをし、約束していたランチを三人で食べるためにゲートルートのドアを潜った彼らだったが、ウーヴェの顔を見た途端、握っていたフライパンを放り出して厨房から飛び出してきたベルトランの怒りを鎮める為にウーヴェがただひたすら、傍目から見れば随分と偉そうだがそれでも誠意を持って謝罪を繰り返した。
その結果、漸く怒りを鎮めたベルトランがリオンとはまた違うがどこか共通する陽気さを滲ませた笑みを浮かべ、幼馴染みの辛く苦しい過去と向き合う旅の帰還を大いに喜んだ。
店もちょうどランチタイムの終了時と重なった為、オーナーシェフを筆頭に従業員達も一緒にランチを食べる事になり、ここでもヴィーズンのどんちゃん騒ぎが始まったとリオンが踊り出してしまうような大騒ぎになるほどだった。
その騒ぎの最中、次から次へと出てくる料理にリオンは相好を崩して従業員達と盛り上がり、賑やかなことが大好きな恋人の喜び振りに目を細めていたウーヴェはそんなに食べられないと苦笑しつつ、今年になって初めて飲んだヴィーズン限定のアルコール度数の高いビールをいつもよりも速いペースで空けていた。
ウーヴェほど静けさを好んでいる訳ではないオルガもリオンとチーフ達の陽気さとウーヴェがジョッキを空にするペースに釣られたようにビールを飲んでいたが、さすがに限界が見えたとマスジョッキをどんとテーブルに置くが早いか、壁に寄り掛かって目を閉じてしまう。
限界と呟くオルガの前後にはヴィーズンの時に使われるマスジョッキ-つまりは1リットルの大容量のジョッキ-が5つは林立していて、それだけ飲めば上等だと彼女以外の男性陣が内心一斉に呟くが、その時には既に彼女は穏やかな寝息を立ててしまっていた。
彼女の肩に己のジャケットを羽織らせたウーヴェは、リオンが一口だけくれと言って奪い取っていったジョッキを見つめて無言で肩を竦め、美味いとビールの泡を髭のようにつけたリオンに苦笑する。
そんな、絵に描いたような楽しい宴会の時はあっという間に過ぎ去り、そろそろ夜の仕込みを始めようとベルトランが立ち上がると、今まで飲んで騒いでを繰り広げていた従業員達が美味い料理をごちそうさまでしたと斉唱し、何故かリオンも一緒になって斉唱した為にウーヴェがくすくすと心底楽しそうな笑い声を上げ、この楽しい宴のお開きの合図となってしまう。
完全に寝入ったオルガを起こすのは忍びないとその場にいた男性陣が椅子を並べた即席ベッドに彼女をそっと寝かせ、ウーヴェのジャケットを毛布代わりに被せると、なるべく静かに店の清掃だの食器の後片付けなどを手早く始めていく。
その動きの機敏さに幼馴染みがどれ程店で慕われているのかを見たような気がしたウーヴェは、心優しい幼馴染みのためにもみんな頑張ってくれとの思いを込め、今日のランチ代だとして皆が飲み食いをした代金の総てを支払うと、幼馴染が申し訳なさと感謝を浮かべた顔を縦に振り、後のことは任せろと胸を叩いた為、詳しいことはまた連絡すると言い残し、一足先に店を出ていたリオンが待つ愛車の助手席のドアを開けて車に乗り込み、ポケットに手を突っ込んで見送ってくれる幼馴染みに片手を上げたのだった。
楽しかったランチタイムが終わった後、秋というよりは夏を思わせる晴天の下、スパイダーの幌を全開にして酔い醒ましの風を気持ちよさそうに受けているウーヴェを助手席に乗せたリオンが向かったのは、川沿いの道を北上した住宅街の一角だった。
この場所にウーヴェがやってくるのは初めてだったがリオンはどうやらそうではないらしく、迷うことなく店の前らしき路上にスパイダーを停めると、着いたと笑顔でウーヴェを見る。
車から降り立ち、二人協力して手慣れた様子で幌を掛けて瀟洒なアパートへの短い階段を上れば店の中から此方の姿が見えていたのか、同年代の女性が笑顔でドアを開けてくれる。
「久しぶり、リッシー。ベラはいるか?」
「ええ、奥で作業をしているわ」
店の外観は瀟洒なアパートそのもので、一歩中に足を踏み入れれば自然素材の雑貨やアクセサリーが程良くディスプレイされており、リオンに続いて店内に入ったウーヴェは失礼にならない程度に店内を見回すが、店の奥に繋がるドアが開いて此方もまた同年代の女性が駆け寄ってきたかと思うとそのままリオンの首に腕を回して全開の笑みを浮かべる。
「リオン、来てくれたのね!」
「ベラ」
ベラと呼ばれた女性はまるで肉親か恋人に再会したときのような顔でリオンを見上げ、リオンもまた似たような表情で見下ろすが、さすがに驚きの表情を浮かべるウーヴェに気付くとリオンからあっという間に離れて今度はウーヴェの両手をしっかりと握り、見開かれている目をまるで覗き込むように真正面から見つめる。
「この人なの?」
「・・・ああ」
ウーヴェには理解出来ない会話を交わす二人に僅かに苛立ちを感じるが何とかそれを押し殺して咳払いをすると、ごめんなさいと愛嬌のある笑みを浮かべて店の入口からは見えない場所にある応接セットへと手を引かれてしまう。
「リオン・・・ここは?」
「うん。もうちょっとしたら説明する」
ソファに浅く腰掛けたウーヴェの横にどかっと座り込んだリオンは、背もたれに肘をついた手でウーヴェの白とも銀ともつかない髪を撫でて安心しろと目を細めるが、ウーヴェはと言えば事情を説明されずに連れてこられた店でこのような扱いを受ければさすがに不安になると苦笑し、店内をもう一度ゆっくりと見回す。
壁にバランス良くディスプレイされているアクセサリー類はどうやら一点物らしく、控え目な照明を受けてきらりと光るリングがいくつかあったり、革のベルトのバックルが反射したりしていた。
「ここさ、俺のお気に入りの店」
リオンの嗜好を見た目だけで判断すれば恐らく十人中八人はシルバーアクセサリーなどが好きで、ファッションも厳ついものが多いと思うだろうし、また実際その通りなのだが、こんな雰囲気の店も好きだったと知らされて苦笑すると、ここに誰かと来たのはお前が初めてだと返されて続けて聞かされた言葉に納得してしまう。
「ベラとリッシーはさ、ホーム出身なんだ」
「そうなのか?」
「昔から二人が作るものが好きだったんだよ。だから時々買いに来る」
自分が身に着けるものは露天で買い求めた物でも全く問題は無いが、大切な人達にはここのものを買うと笑い、驚くウーヴェを細めた目で見つめて白い頬に小さな音を立ててキスをしたリオンは、瞬時に真っ赤になる顔に楽しそうに笑いかけて肩を竦める。
「俺がここで買った物を持ってるのはマザーとゾフィーだけだ」
「そう・・・なのか?」
「お前で三人目。でもここに一緒に来たのはオーヴェが初めてだ」
マザーもゾフィーもまだ一緒に来たことはないと、長い足を組み背もたれに腕を回して頬杖をつくリオンに瞬きをしたウーヴェだったが、向かいの丸椅子に腰掛けて二人を見ていたベラが顎に指先を宛がって天井を見上げる。
「そう言えばそうね。あなたが初めてね」
いつもリオンがここに来るときは一人だと笑い、リッシーが差し出すケースを受け取って笑顔で頷いた彼女は、ウーヴェと自身の間にあるテーブルの上にケースを並べて笑みを浮かべる。
「どう、リオン」
「・・・・・・うん、いい感じだな」
ただ一人事情が分かっていないウーヴェだったが、さすがに目の前に並べられたものを見て何となく理解した事を確認する為にリオンを見れば、正解と目を細められる。
二人の前に並べられているのは、自然石がいくつか嵌められた革やシルバーらしい材質でシンプルなデザインのリングやブレスレットなどだった。
自然石を控え目なデザインであしらったリングやお揃いのブレスレットがあれば、動物をモチーフにしたシルバーアクセサリーもあり、あまりアクセサリー類に関しては興味のないウーヴェもつい手にしてしまいそうなデザインのそれらを断りを入れて手に取れば、リオンがシルバーと革だとどちらが好きだと問い掛けてきた為、少しだけ考え込むように小首を傾げるが、逆にお前はどうだと問い返す。
「俺はシルバーの方が好きだな。こんなリングとか結構好き」
仕事の関係上リングは殆ど着けなくなったが、学生の頃は良くシルバーアクセサリーで身を飾っていたと笑うリオンにベラが確かにそうだったと笑い、一瞬だけウーヴェの胸が痛むが気取られないように穏やかさの中に紛れ込ませ、リオンが掌に載せた小さなリングを手に取る。
それはどうやらリザードか何かを象ったもので、一般的なものに比べるとかなり小さなリングだったが、小指に嵌めるものかと首を傾げたウーヴェにリオンが足の指でも大丈夫と笑い、試着すると二人に告げた後、ウーヴェの足を己の腿の上に乗せてあっという間に裸足にさせてしまう。
「・・・こらっ」
「────ほら、こんな感じだ」
足を持ち上げられたことで背後に倒れ込みかけたのを何とか堪え、じろりとリオンを睨んだウーヴェだが、左足の薬指にひやりとした金属の感触が産まれたことに身体を震わせ、リオンの声に足を見つめて目を瞠る。
薬指の付け根では女性デザイナーらしい可愛さを秘めたリザードが、くるりと一周した己の尻尾を咥えるように身を丸めていたのだ。
「あ、何か意外と似合うな、オーヴェ」
まさかシルバーのリザードが似合うとは思わなかったと笑い、隣の指に革で出来たリングを嵌めたリオンだが、やはりリザードの方が似合っているとウーヴェに良く見えるように足を持ち上げてやる。
「・・・・・・良く、分からない」
「俺が良いって言ってるんだ、安心しろよ」
俺を信じなさいと胸を張る恋人にただ苦笑したウーヴェは、足を下ろさせてくれと控え目に申し出て自らの足を引き寄せると、シルバーのリザードと革のリングが嵌った指をじっと見つめるが、やはりどちらが似合っているのかは判断できなかった。
だからではないが、恋人の言葉を全面的に信頼している事を伝える為にも似合っているかと窺うように問い掛けてもちろんと自信満々に頷かれ、リザードを指から抜き取る。
掌の上でころりと転がるリングだが、リザードの両目に小さな石が嵌められている事に気付き、その瞳に釘付けになってしまう。
小さなリザードに相応の小さな瞳だったが、その色を認識した途端鮮やかさが増したようなロイヤルブルーだったのだ。
ウーヴェがこの色から連想するものはただ一つで、それを確認するように視線を投げ掛ければ、重なった視線に気付いたリオンが程なくして嬉しそうな色を浮かべて目を細める。
「気に入ったか、オーヴェ?」
「・・・・・・うん」
どうだと問われて素直にうんと返せば更に嬉しそうな表情を浮かべたリオンがソファから起き上がり、にこにこと二人を見守っていたベラにウーヴェの手の上で転がっているリザードを差し出す。
「ベラ、これ」
「この子で良いの?」
「ああ。オーヴェが気に入ったみたいだからそれで良い」
他の誰よりもウーヴェが気に入ったことが嬉しい、その顔で頷いたリオンにベラも嬉しそうに笑い、少しだけ待っていてと断って席を立つ。
「お前は良いのか?」
「んー・・・今は欲しいものがないからなぁ」
お前がやっと戻ってきてまた前のように二人で一緒にいられるようになったのだ、今は何も要らないと言葉に込められた口に出されない思いを酌み取ったウーヴェは、自宅ではない場所で精一杯のスキンシップである行為をそっと行ってリオンを驚かせてしまうが、そのまま彼女が戻ってくるのを待つ。
ウーヴェとリオンの間に隠されるように置かれた手だが、しっかりと小指だけの繋がりが出来ていて、リオンがもう少し繋がりを強固なものにしようと無言で誘えば、音にならない声が後でと伝えてくる。
「・・・お待たせ」
トゥリングにするつもりならばサイズ修正の必要は無さそうだと、小さなリングピローにリザードのリングを乗せて戻ってきたベラが嬉しそうな、だが何処か寂しそうな表情でウーヴェの前にピローを置くと、ベルベットのアクセサリー袋に丁寧にしまう。
「・・・アクセサリーはここにあるだけですか?」
店の紙袋にベルベットのポーチを入れていたベラがウーヴェの問い掛けに小さく首を左右に振り、まだ色々あるわと答えれば、ピアスがあれば見たいと申し出られて軽く目を瞠る。
「ピアス?」
「ええ。ありますか?」
患者や初対面の相手には極力悪い印象を残さないように気を遣うウーヴェの言葉にリオンが繋いでいる小指を軽く引いてみるが、ウーヴェはちらりと横目で見ただけでそれ以上は説明をしなかった。
「ピアスよ」
「ダンケ」
先程のブレスレットなどを乗せたケースよりは小振りだが、載っている商品の数は此方の方が多く、ウーヴェと同じように横合いから覗き込んできたリオンが軽く口笛を吹く。
「すっげ」
リオンが喚声を上げてしまうほどの量のピアスが並べられていて、ウーヴェはその一つ一つをじっくりと見ていくが、小さな溜息を吐いてリオンと繋いだ小指を逆に引っ張ってみる。
「ん?どうした、オーヴェ?」
「・・・・・・好きなものを選べ」
「へ?」
ここに並ぶピアスの中から自分で選ぶことが出来れば一番良いのだろうが、似合っているかどうかがどうも分からない為、いっその事好きなものを選べと苦笑し、リオンの蒼い眼を見開かせてしまう。
「お前がするんじゃないのか?」
「どれを選んで良いか分からないんだ。だから選んでくれ」
恋人にプレゼントをするつもりのピアスも自ら選ぶことが出来ないと苦笑を深めたウーヴェをまじまじと見つめたリオンは、伝わった真意に一瞬きつく目を閉じた後、ソファから身を起こしてウーヴェの肩に腕を回し、昨夜泊めて貰った居心地の良い部屋の狭いシングルベッドで身を寄せ合ったときのように白っぽい髪に口を寄せて顔を擦り寄せる。
「────ダンケ、オーヴェ」
「・・・良いから、早く選べっ」
幾らホームで一緒に育った人の前とは言え、ウーヴェにとってはここにいる女性達は今日初めて顔を合わせたばかりの人達なのだ。
そんな人達の前でのスキンシップに赤くなったり青くなったりと、目まぐるしく表情を変えるウーヴェの頬にキスをしたリオンは、ウーヴェの身体を抱き寄せたままケースに並ぶピアスを一つ一つ見ていき、気に入った候補をいくつか横に取り出して並べていく。
「耳に宛ててみなさいよ、リオン」
「そうだな」
他に来客が無いと決めつけたらしいリッシーがベラの横に腰掛け、リオンが選んだピアスについての説明をウーヴェに聞かせる為に始めてくれるついでにリオンの過去も少しだけ教えてくれる。
リオンは小学校に上がる前夜、ホームの自室で事もあろうに火で炙って殺菌消毒をしただけのミシン針で自ら穴を開けたらしい。
聞かされたそれに呆然とリオンの横顔を見つめれば、悪戯っ気満載の蒼い瞳が細められ、痛かったと笑われる。
「・・・それは当然だろう?」
「一番痛かったのは軟骨の部分なんだけどな」
耳朶の柔らかい部分ではなく、上半分の奥まった場所にひっそりと嵌められているピアスを開けた時が一番痛かったと肩を竦めたリオンは、最終候補として二つのピアスをそれぞれ一つずつを耳朶に宛がい、どちらが好きだとウーヴェを見つめる。
「お前が良いと思う方を選べば良い」
自分にはお前と違ってアクセサリーを選ぶセンスが無いと自嘲気味に告げると、意外な程真剣な瞳が真っ直ぐウーヴェを見つめてくる。
「リオン・・・?」
「センスなんて関係ねぇよ。お前が俺を思って選んでくれた、それが大切なんだ」
実際選んでいるのは俺かも知れないが最後はお前が決めてくれと、愛おしむように囁かれて息を呑んだウーヴェは、リオンの指が摘む二種類のピアスをじっくりと見比べ、小さな小さな溜息を吐いて左手に持ったものを指し示す。
「これ?」
「ああ」
その時リオンが左手に持っていたのは、先程ウーヴェの足にぴたりと嵌ってよく似合うと言われたリザードの瞳と似たような色合いの石が光るシンプルなピアスだった。
やはりどうしてもその色に惹かれてしまうと内心苦笑したウーヴェは、お前の髪の色からすると青系が綺麗に映えると肩を竦めてベラの顔を見る。
「これを下さい」
「ありがとう。────リオン、よく似合ってるわよ」
リッシーが差し出した卓上の鏡を見ながら耳に宛がっていたリオンだが、先程最も痛かったと告げた場所に嵌めていたピアスを抜き取り、たった今ウーヴェが買い求めたそれを嵌めてみる。
「・・・・・・うん、オーヴェ、ダンケ」
「良かった」
最終的に自分が選んだものが似合っていると言われて胸を撫で下ろしたウーヴェは、もう嵌めて帰るのかと苦笑し、慌ててリオンがピアスを取った事に小さく吹き出しそうになり、拳を口元に宛がって何とかそれを堪えようとする。
「笑うなよ、オーヴェっ!」
「・・・・・・悪い」
いつもの様に口を尖らせるリオンに此方もまたいつもの様に小さく吹き出したウーヴェは、じとっと見つめてくる目に苦笑し、くすんだ金髪をそっと撫で付ける。
「リーオ」
「・・・っ、うん。ベラ、リッシー、ダンケ」
自分達二人に似合うアクセサリーを良く作っていてくれたと、二人を微笑ましい表情で見つめていた女性達に礼を言い、また気に入りそうなものを作っておくと返されて嬉しさを倍増させた顔で大きく頷く。
「じゃあそろそろ帰るか」
「・・・ああ」
二人とも会計を済ませて買い求めた商品を受け取ってソファから立ち上がると、女性二人も釣られたように立ち上がり、またぜひ遊びに来てとウーヴェの手を握っていく。
「・・・必ず」
「ええ。リオンがいなくても来て」
仲の良い二人だから多分来るとすれば二人揃ってだろうが、もしアクセサリーが必要になったときはぜひ立ち寄ってくれと、押し付けがましくない程度に懇願されて頷き、ドアを開けて待つリオンの声に顔だけを振り向ける。
「ベラ、リッシー、また来るな」
「ええ。気をつけて帰ってね」
同じ孤児院出身の家族とも言える女性達に片手を挙げ、やって来たウーヴェに笑顔で頷いたリオンは、此処に来たときのようにウーヴェの愛車のキーを片手に店を出て行く。
「これからどうする、オーヴェ?」
「そうだな・・・早く買い物に行かないと店が閉まるな」
「それもそうだな・・・」
車に乗り込んで二人どうすると視線だけを重ねると、買い物をしてウーヴェの家に向かおうとリオンが笑うが、行きたいところがあると考えていた思いを漸く口に出せたような顔でウーヴェがリオンの横顔を見つめ、どこに行きたいと朗らかに返されて目を細める。
「お前の家に行きたい」
「へ?」
「・・・・・・家に行きたいんだ、リオン」
その控え目な言葉にリオンが沈黙してしまうが、程なくして了解と戯けたように指を立てて出発しまーすと明るく告げてシフトレバーを操作する。
「買い物はどうする?」
「ああ、先に行ってしまおう。レバーケーゼのスープが食べたいんだろう?」
「ぃやっほぃ!あ、じゃあさ、メシ食ったら何か甘いもの食いたい!」
「・・・チョコレートは二つだけだぞ?」
「えー!信じられねぇ!せめて三つにしてくれよ!」
幌を掛けたスパイダーの車内で今までと何ら変わることのない言葉のやり取りを繰り広げる二人だが、シフトレバーの上に載せたリオンの手にはウーヴェの手がずっと重ねられていて、外からは見えない二人だけの空間でのスキンシップを楽しみながら買い物をするために行き慣れた店へと車を走らせるのだった。
老朽化の進んだアパートの階段を先に昇るリオンの広い背中を見つめつつ荷物の半分を小脇に抱えたウーヴェは、辿り着いたフロアの二つ目のドアをリオンがガチャガチャと音をさせながら開けた事に目を細め、ここを黙ったまま出て行った早朝の光景を脳裏に思い描く。
あの日、結局山間の村に出向くことを伝えられずに黙って姿を消してしまったが、別件で尋ねてきたとはいえその訪問先で再会を果たせた。
そして、ウーヴェが抱えている過去をリオンも共に背負い、これからも一緒に歩いていこうと笑ってくれたのだ。
その笑顔が何よりも嬉しかったが、どうしても伝えることの出来なかった事実が胸の奥底で渦を巻いて思い出した笑顔をかき消してしまう。
幼馴染みのベルトランにさえも告げていないある事実がウーヴェの中で蟠り、出口を求めるように首を擡げようとするのを何とか押しとどめ、自分のために開かれたドアを潜って懐かしさすら感じる部屋に一歩足を踏み入れる。
「・・・・・・相変わらずだな」
「前も言ったけどさ、綺麗になればそれは俺の部屋じゃない」
悪びれることなく買い求めたものをキッチンスペースの狭い床に下ろして冷蔵庫を開けたリオンだったが、中を覗き込んで奇妙な声を上げる。
「すっかり忘れてたっ」
リオンが冷蔵庫から取り出したのは、何故そんなものがそんなところに入っていると思わずウーヴェが眉を寄せる様なものだった。
それは、あの夜ゲートルートから持ち帰った、ラクレット用のフライパンだった。
「・・・知らなかったな、フライパンは腐るものなのか?」
「分かってる癖に。そーんなイヤミを言うのはこの口か?ん?」
リオンの手がそっと口元に宛がわれたかと思うと、軽く唇を摘んで引っ張られてしまう。
ウーヴェに対してこのような事をするものなど当然のことながら今までおらず、ある意味新鮮さに瞬きをすれば、楽しそうな顔で笑みを浮かべて肩を竦める。
「俺の家に来るよりもオーヴェの家の方がゆっくり出来るんじゃないのか?」
この部屋は見ての通りの惨状だしと苦笑したリオンの言葉を声に出さずに否定したウーヴェは、ベッドに腰掛けて室内をゆっくりと見回した後、深呼吸を繰り返す。
全身を包み、今呼吸とともに体内に入り込んだ空気に混ざる、この部屋だけが持つ雑多なものがもたらす温もりとしか言い様のないそれに目を閉じれば、より一層感覚が鋭敏になって閉ざした瞼の裏に一つの笑顔が浮かび上がる。
独りでここを出る時にも秘かに願ったその表情を脳内に刻むようにきつく目を閉じた後、ゆっくりと瞼を持ち上げれば同じ目線の高さになる様に膝を着いた笑顔の持ち主がじっと見つめていた。
「・・・・・・お帰り、オーヴェ」
あの日の別れが永遠の別れにならなくて良かったと、心底安堵している事を示す笑みを浮かべ、ウーヴェの膝に両手をついたリオンが俯き加減の頬に手を宛がい、また感じられるようになった温もりに目を細める。
「うん」
リオンの思いの籠もった言葉にウーヴェも短い一言で返すが、そこに込められた思いはリオンにも負ける事は無かった。
互いの思いを感じ取りながらウーヴェがリオンの頭を胸に抱くように引き寄せれば、リオンはウーヴェの細い腰をしっかりと抱きしめる。
「オーヴェぇ、やっぱりお前の家に行こう」
「・・・・・・ああ」
腹に届けられるくぐもった声が何を求めているのかを察し、同じ気持ちであることを伝える為にくすんだ金髪を何度も撫でてキスをしたウーヴェは、もう少しだけこの温もりに包まれていたいと囁きかけて耳朶にキスをする。
今身体の前面に触れる温もりと、意識しないでも行う呼吸から流れ込んでくる空気にもう少し浸っていたいとリオンの頭に頬を寄せて目を閉じる。
「何、この部屋の空気がそんなに気に入った?」
「この部屋にいれば・・・」
まるでお前に抱かれているみたいだと、ひっそりとだが自慢すら込めて囁くと同時に背後のベッドに押し倒されてしまい、何が起きたのか理解出来ずに瞬いてしまう。
「リオン?」
「みたいじゃなくてさ・・・本当にしようぜ、オーヴェ」
だから早くお前の家に行こうと、ぎらりと強い光を湛えた双眸に見下ろされて息を呑み、仕方がないと溜息混じりに腕を伸ばして広い背中を抱きしめる。
「堪え性がないな、本当に」
「お前にそんな事を言われて我慢できると思うか?」
くすくすとにやりと、音に出せば違うそれだが本質は同じ笑みを浮かべ合い、互いの耳に流し込んで熱くなり始めた身体をセーブする様に溜息を吐く。
「ここでって思うけどさぁ。お前の声、隣に聞かせるなんてもったいない」
「バカタレっ」
ウーヴェの家と違って壁の薄い老朽化の進んだアパートなのだ、この後の時間の過ごし方を思えば場所を移した方が絶対に良いと断言され、仕方がないともう一度溜息を吐いたウーヴェは、起き上がる前に背中を抱いたリオンの身体ごと寝返りを打って乗り上げ、薄く開いた唇にそっと口付ける。
「・・・ん、・・・っ」
最初は触れるだけのキスだったが、次第に深く互いの口内をまさぐるようなそれに変化していき、離れたときにはどちらの息も上がるほどだった。
またこうしてキスを出来る様になった喜びを胸に秘め、軽く額を触れ合わせて早く家に行こうと急かすリオンに苦笑しつつも満更ではない顔でウーヴェも頷いて起き上がるのだった。