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「旦那様。薬種問屋のご主人がいらっしゃっています」
接客を終えた源一郎に、千代がそう声をかけた。
「わかった」
凪は薬箪笥へ薬を納める手を止めた。
「帳場を頼むぞ、凪」
「はい」
凪は、すうっと静かに引き出しを戻した。
「頭痛のお薬をもらえるかしら」
若い女性客がやってきて、すぐに凪が対応する。
「肩も凝りますか?」
「ええ、そうなの。最近、帳場仕事が続いてね……」
「では、川芎がよろしいですね。少々お待ちください」
薬箪笥から乾燥した川芎を取り出し、薬研へ入れる。刻んでいる最中、隣で帳簿を広げ、商談する薬種問屋の主人と父の会話が耳に入った。
「では、ゲンノショウコを二十斤。センブリは例年より多めに頼みます」
「承知しました。しかしご主人、心配したよ。もう無理はなさらんようにな」
「ははっ、まだまだ現役ですよ」
そう笑った途端、源一郎は激しく咳き込み、口元を押さえた。
「……失礼」
それでも何事もなかったかのように、父は帳面へ筆を走らせる。
(父上……まだ無理をなさっている)
凪は手を止め、思わず父の痛々しい背中を見つめた。
台所では、千代が昼餉の準備をしていた。
そこへ凪が様子を見にやって来る。
千代は丁寧に白粥をよそい、薄味で炊いた白身魚と豆腐の吸い物を盆に並べていた。
「旦那様は病み上がりですので、お身体に負担がかからないお食事にしています」
千代は生き生きとした顔で微笑む。
(千代さんも、ここにきてくれて本当によかった)
「ここまで父の身体を気遣ってくれて……千代さん、ありがとう」
「とんでもないです! 私がこうして働けるのも、お二人のおかげですから!」
千代は手を止めず、急須に番茶を注ぐ。
「お嬢様がいらっしゃる日は……旦那様、本当に生き生きとされています」
「私……無理をさせていないかしら?」
千代が慌てて、カシャンとヤカンを戻した。
「反対ですっ! お嬢様がいると安心されるのか、お食事もきちんと召し上がってくださるんですよ⁈」
「……いつもは?」
千代は気まずそうに目を逸らした。
「朝からお客様がいらっしゃいますから……私は素人ですから、薬には手を出せませんし、お一人だと休憩も取れなくて……」
咳き込む父の背中が脳裏をよぎる。
(……父上を守りたい)
凪の胸に、強い思いが芽生える。
台所を出て、店に立つ父の小さな姿を遠目に見つめた。
(私が安藤家を出たら……父上はどれほど悲しむだろうか)
凪は一つ深く息を吐くと、奥の部屋へと向かった。
凪は兄の遺影の前へ座り、静かに手を合わせた。線香の煙が揺らぎ、ゆらりと流れていく。
そっと目を開け、遺影の兄を見つめた。
「……兄様なら、どうしますか」
答えなど返ってはこない。
「声が……届いてくれたらいいのに」
胸の奥から、苦い塊が込み上げてくる。
ふと、棚に置かれた深緑の水筒に目が留まった。泥がこびりつき、無数の傷が刻まれた水筒。
(兄様が……最後まで身につけていた遺品)
「兄様は……最後に何を見たんだろう……」
そっと手を伸ばしかけ──はっと息を飲んだ。
(もし……見たくもない地獄の景色だったら……?)
かつて見た将臣の軍刀の傷──あの血生臭い光景が脳裏をよぎり、凪は恐怖で思わず手を引っ込めた。
すっと立ち上がり、逃げるように身体を翻す。
だが──。
(もし……ここに兄様の本当の遺言が残っているとしたら……?)
足が止まる。
(私に……何か伝えようとしていたら?)
凪の顔は青白く引きつっていた。浅い呼吸のまま、ゆっくりと水筒へ振り返る。
(怖い。……でも、読まなければならない!)
意を決して固く目を閉じ、その指先を深緑の水筒へとそっと重ねた。