テラーノベル
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視界がぐにゃりと歪んで、街の灯りがいくつにも枝分かれして見える。
足元が地面に吸い込まれるような、宙に浮いているような、ひどく頼りない感覚。
「あー……ふわふわするぅ……」
自分の口から漏れた声が、やけに遠く、知らない誰かの音みたいに聞こえた。
ふらつく足取りで、どうにか橋の手すりまで辿り着き、そこにもたれ掛かる。
鉄の冷たさが掌に伝わってくるけれど、それさえも、どこか夢の中の出来事のように現実味がなかった。
飲みすぎた。
そんなことは分かっている。
分かっているけれど、そうでもしないと、頭の中を埋め尽くす濁流を止める方法が分からなかった。
橋の下を通り過ぎる車のライトが、色とりどりの残像を残していく。
綺麗だな、なんて、らしくない感想が浮かんでは消えた。
「……みんな、そんな急いでどこいくのさ」
ろれつの回らない舌で、夜の空気に問いかける。
冷たい風が吹くたびに、酔いが回って意識がさらに濁っていく。
寂しいとか、冷たいとか、そんな小難しい感情は全部、このふわふわした感覚の裏側に押し込めてしまえばいい。
手すりに顎を乗せて、ぼんやりと下を覗き込んだ。
ヘッドライトの光が川のように流れている。
このまま、この光の海に飛び込んで、一緒に流されていけたら、どれだけ気持ちいいだろう。
遠くから響く車のクラクションや、名前も知らない居酒屋の呼び声。そのどれもが、ここまでは届かない余熱みたいに濁って聞こえた。
深夜0時。ギターを抱え、コードをなぞり、浮かんできたフレーズを録音ボタンに叩きつける。けれど、スピーカーから返ってくる自分の声は、驚くほど空っぽで、ひどく安っぽく聞こえた。
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
再生を止めて、迷わずデータをゴミ箱に放り込む。消去する瞬間の、あの無慈悲なクリック音だけが、今の自分にはお似合いな気がした。
何度も、何度も。指先が弦を弾く感触さえ、今はただの作業に成り下がっていた。
深く吐き出したため息が、静まり返った部屋に重く居座る。
どれだけ自分を削っても、納得のいく欠片が見つからない夜がある。焦りだけが足元から這い上がってきて、身動きが取れなくなる。このまま何も生み出せなくなったら、僕という存在には何の価値が残るんだろう。
気づけば、滅多に飲まないお酒を浴びるほど飲んでいて、そのまま吸い寄せられるように外へ出ていた。
目的地なんてなかった。ただ、部屋の閉塞感から逃れたくて、フラフラと夜の街を彷徨い、この橋に辿り着いた。
やりたいこと、伝えたいこと、作らなきゃいけないもの。頭の中には、形になるのを待っている音の欠片たちが飽和している。それを一つずつ丁寧に拾い上げている余裕なんてない。溢れ出す前に、すべてを使い切ってしまいたい。
そういった焦りがあるからか、周りの人の笑顔が、時々ひどく遠くに見えることがある。
自分だけが、何かに追い立てられている。
「大丈夫?」なんて誰かに聞かれるたびに、内側で何かが冷たく笑う。大丈夫なわけがない。でも、大丈夫じゃないからこそ、この曲が書けている。この苦しみが消えてしまったら、自分の価値はどこにあるんだろう。
誰もいない歩道橋の上、吐き出した息が白く濁って、すぐに闇に吸い込まれた。
このまま、この冷たい空気に溶けて、楽になれたらいいのに。
そんな思考が頭をよぎるけれど、それでも心臓は、癪なほど規則正しくリズムを刻んでいる。生きて、何かを形にし続けろと、急かすように。
手すりの上で腕を組み、その中に顔を深く埋めた。
冷え切った腕の感覚が頬に伝わって、自分の体温がどんどん奪われていくのがわかる。
苦しい。
すべてを投げ出して消えてしまいたい衝動が、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
もし、今ここで自分がいなくなったら。
橋の下では、あっちにも、こっちにも、誰かの人生が走っている。
明日、この場所を通り過ぎる人たちは、ここで起きたことなんて微塵も知らずに、昨日と同じように歩いていくんだろう。
自分が抱えているこの巨大な空虚も、他人から見ればただの夜の一部でしかない。
そう思うと、消えたいと願うことさえ、酷く滑稽で空虚に思えてきた。
自分の存在が世界にとってどれほどちっぽけなものか、突きつけられているみたいで。
「……はは、」
乾いた笑いが零れたけれど、それはすぐに冬の風に掻き消された。
特別でありたいと、誰かの救いになりたいと、喉を枯らして歌っている自分。
その一方で、世界の歯車の一枚にすらなれていないような、寄る辺ない孤独。
もういいか、このまま消えても。
誰のためでもなく、何のためでもなく。
全部あの暗いアスファルトの上にぶちまけて、粉々に壊してしまえばいい。
明日、太陽が昇らなくても。
僕の声が誰にも届かなくなっても。
この世界が、僕という人間を最初からなかったことにしたとしても。
静かで、冷え切った諦めが全身を浸食していく。 震えていた体も、いつの間にか動かなくなっていた。
抗うのをやめると、寒さは牙を剥くのをやめて、優しく身体を包み込んでくれるような錯覚さえ覚えた。
体勢を立て直そうとして、足がもつれて手すりに派手に肩をぶつける。痛いという感覚よりも先に、自分の不器用さがどうしようもなく可笑しくて、笑い声をこぼす。
ふと、ポケットの奥で鈍い振動が走った。
「んん……?」
かじかんで上手く動かない指をポケットに突っ込み、格闘すること数秒。ようやく取り出した画面には、若井の名前が浮かんでいた。
何も考えず、ただ光る画面をなぞる。
「はぁい」
自分でもびっくりするくらい、間の抜けた声が出た。
「元貴? ごめん寝てた?」
「……んー、ぅんー……ねてたあ」
嘘をつく脳みそも半分溶けているから、語尾が妙に伸びてしまう。
「……元貴?大丈夫?」
怪訝そうな若井の声。その戸惑いがまた可笑しくて、口元を緩めたまま鼻を鳴らした。
「……お酒飲んでるの?」
「……のんでない……」
「珍しいね、そんな飲むなんて」
核心を突かれて、一瞬だけ思考の霧が晴れそうになる。けれど、すぐにまた心地よい浮遊感に飲み込まれた。
「のんでなーい……ただ、ちょっとふわふわしてるだけ…」
手すりを掴む手に力を込めて、夜空を見上げる。星は見えなかった。
「飲むなら俺も誘ってくれれば良かったのに」
「んー……ごめんねえ……」
若井の少し拗ねたような声が、鼓膜をなでる。
返事をするのも億劫になってきて、そのまま橋の地べたにすとんと腰を下ろした。冷たいアスファルトの感触が、厚手のズボン越しに伝わってくるけれど、それさえも今はどこか遠い。
膝を抱えて、小さく丸まって体操座りをする。
視界の端を、仕事帰りらしき誰かの靴が通り過ぎていった。
冷ややかな視線を感じるけれど、今はそれを受け止めるフィルターが壊れていた。
「んふっ、みんな、歩くの早いねぇ……」
急に、耳元の若井が黙り込んだ。
スピーカーから漏れる微かなノイズだけが、静寂を埋めている。
「……わかいー?」
「元貴さ、今、家じゃないよね」
「……んー? いえだよぉ」
「嘘。車の音近いし、信号の音も聞こえる。どこいるの」
若井の声から余裕が消えて、鋭さが混じる。
隠し事が下手くそな自分に呆れるよりも先に、若井の耳の良さに感心してしまった。
「わかいはすごいねぇー……ばれちゃったあ」
「ねえ、どこいるの? 外だよね?」
受話器越しでも伝わってくる焦燥感。
なんでそんなに焦ってるんだろう。
その様子がまた可笑しくて、くすくすと笑い声が漏れる。
「なんで怒ってるのぉ…? わかいはおもしろいねぇ…」
「今から迎えいく。元貴の家から近い?」
受話器の向こうで聞こえる声がどんどん切迫していく。
その温度差が、なんだか他人事みたいに思えた。
もういいじゃん。 ほっといてよ。
そんな投げやりな思考が、泥水のように頭の隅っこで渦を巻いている。
「…いいよもう…よるおそいし…」
「俺が元貴に会いたいの。俺が言ってること分かる? 俺が、会いたいから。場所教えて」
若井の言葉が、鼓膜を震わせて真っ直ぐに入ってきた。
心配だから、とか。危ないから、とか。そんな綺麗事じゃなくて、ただ「会いたい」って。
若井がそう言うなら、まあ、仕方ないか。若井が会いたいって言うなら、教えてあげてもいいかな。
思考の回路がショートして、そんな単純な理屈にすとんと着地した。
「……いえからちかい……はし……」
「分かった。すぐ行く。あ、電話繋いどいてね、喋んなくていいから」
「ん?……んー……わかっ、たあ」
なんで電話を切っちゃいけないのか、そんなことを考える余裕なんて一ミリも残っていない。ただ、耳元で聞こえる荒い息遣いや、衣擦れの音、急いで階段を駆け下りているような振動。それだけが、自分をこの世界に繋ぎ止める細い糸みたいに感じられた。
地べたに座り込んだまま、また膝の間に顔を埋める。
若井の声を聞いた瞬間、それまで麻痺していた感覚がどっと押し寄せてきた。 魔法が解けたみたい。
さむい。
ただの気温のせいじゃない。体の芯から、もっと深いところにある心の空洞から、凍てつくような冷気が噴き出している。
寂しくて、どうしようもなくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
本当は分かっているんだ。これは誰のせいでもなくて、僕自身が向き合い、僕自身で片付けなきゃいけない感情だってことくらい。
でも、今日だけは。
積み上げてきたものも、背負わなきゃいけない未来も、全部どこか遠くへ放り出してしまいたかった。
腕に額を押し当てたまま、荒い呼吸を繰り返した。
肺の奥がひりひりと焼けるように熱い。冷たい空気を吸い込んでいるはずなのに、酸素がどこにも行き渡らない感覚。
「はっ、……ひゅ、……っ」
喉の奥が狭まったように、音が上手く出ない。
浅く、速く繰り返される呼吸の音が頭に響く 。
心臓がドクンドクンと脈打つたびに、視界がチカチカと明滅した。
指先が冷たさを通り越して、痺れるように固まっていく。
「……はっ、…はっ、ぁ、はぁっ、」
呼吸の仕方が、分からなくなった。
吸っても、吸っても、足りない。
胸が締め付けられるように痛くて、酸素を求めて口を大きく開けるけれど、入ってくるのは冷え切った空気だけだ。
「はっ…、っ、…ぅ、っはぁ、はぁ…」
こんな夜中に若井に迷惑をかけて、僕は何をやってるんだろう。
普段の練習であれだけ厳しく当たって、自分の理想を押し付けて、振り回しているくせに。
それなのに、いざ独りで立てなくなったら、真っ先に甘えて、わがままに付き合わせて。
最低だ。
自分の弱さが、浅ましさが、吐き気がするほど嫌いだった。
こんな奴、放っておけばいいのに。
助けてなんて言える資格、どこにもないのに。
「…っ、はぁっ、はぁっ、…ひゅ、…ぅ…」
自責の念が喉を締め上げ、呼吸はさらに乱れていく。
心臓が肋骨の内側を激しく叩き、逃げ場のない苦しさが全身を支配する。
僕が消えれば、若井も楽になれるんじゃないか。
そう思えば思うほど、酸素は遠ざかり、意識の輪郭がドロドロに溶け出していく。
スマホを握っていた指先から、ふっと力が抜ける。
コンクリートに当たる硬い音がして、そのまま地面に転がった。
自分から勝手に逃げ出してきたくせに、いざ独りになると不安に震えている。そんな自分が、ひどく滑稽で、惨めで。
視界がゆっくりと、溶けるように歪んでいく。
座っていることさえままならなくなって、抗うのをやめた。
ゆっくりと体が傾き、横向きに倒れ込む。
頬に触れたアスファルトは、驚くほど無機質で、刺すような冷たさを湛えていた。
全身の熱が、地面に吸い込まれていく。
重たい瞼の裏側で、若井の呼ぶ声がまだ微かに鳴っているような気がしたけれど、それも遠くの波音みたいにぼやけていく。
このまま、この冷たさに身を任せて眠ってしまえば、明日なんて来ないんじゃないか。
そんな甘い絶望に浸りながら、意識はゆっくりと、深い闇の底へと沈んでいった。
遠くで、激しく地面を叩く足音が近づいてくる。
「元貴! 元貴っ!」
必死に名前を呼ぶ声と、肩を揺さぶる手の温もりが、沈みゆく意識の端に触れた。
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語彙が凄すぎるし、過呼吸をここまで詳細に表現してる小説初めて読んで大興奮してます、、、!!!!! 主様も経験あったりするんですか、、? 続きも楽しみにしてます