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編集という仕事は、突き詰めれば人間関係の仕事だ。仁人はそのことを、この仕事に就いて七年目にして、ようやく骨身に染みて理解していた。
今日も、担当している作家との打ち合わせは難航した。原稿の方向性について、仁人は率直に意見を述べた。妥協するくらいなら、初めから口を出さない方がいい。それが仁人の信条だった。だが、その真っ直ぐさが、時に相手の神経を逆撫でする。伝え方もよくなかったのかもしれない。
「仁人さんは、いつも正しいことしか言わないから、疲れるんですよ」
打ち合わせの終わり際、作家からそう零された一言が、まだ胸の奥に小さく刺さったままだった。
──正しいことを言って、何が悪い。
そう開き直りたい気持ちと、少しだけ、確かに疲れている自分がいることを、仁人は認めざるを得なかった。人と近い距離で関わり続けることは、決して得意なことではない。相手の顔色を読み、言葉を選び、それでいて自分の仕事に妥協はしない。そのバランスを保ち続けることに、日々、静かに消耗していた。
まっすぐ家に帰る気になれず、現実逃避か、仁人は会社からの帰り道、これまで入ったことのない路地に、ふらりと足を踏み入れた。
看板の出ていない、小さなバーだった。疲れた頭には、これくらい目立たない店の方が、かえって好都合に思えた。扉を押すと、乾いた音を立ててベルが鳴る。
カウンターの向こうに立っていたのは、モデルのように均整の取れた体つきの男だった。オーセンティックな装いなのにあまりにも自然で、隠しきれない色気が滲んでいる。くっきりとした二重の目が、こちらを見た瞬間、まるで珍しいものでも見つけたかのように、大きく見開かれた。
「──いらっしゃいませ、お一人?」
やけに雰囲気に似合わない明るい声だった。仁人は無言で頷き、カウンターの端の席に腰を下ろす。
「初めて見る顔だ。この辺、あんまり歩かないタイプ?」
「別に。……たまたま、通りかかっただけです」
素っ気なく返す仁人に、男はまるで気にする素振りも見せず、にこにこと笑いながらグラスを差し出した。
「まぁまぁ、堅いこと言わずに。何か飲む? おすすめ聞きたい?」
「──適当に、強いのをお願いします」
「あーーね、了解! そういう気分の日、あるよね」
男は手際よくシェイカーを振り、仁人の前にグラスを置いた。仁人はそれを一口含み、思わず眉を上げる。悪くない。むしろ、今日の気分にはよく合っていた。
「──おいしいですね、これ」
「でしょ! こう見えて、腕には自信あるんだよね。俺、勇斗っていいます」
聞きもしないのに名乗られて、仁人は反射的に軽く会釈を返しただけだった。名乗り返す義理はない、とでも言うように、視線をグラスへと落とす。だが勇斗は、それだけで気を悪くする様子もなく、興味深そうにこちらを見つめ続けていた。
「──なんか、疲れてる感じするけど、仕事?大変な感じ?」
「……別に、そんなことないですよ」
「いやいや、目元にめっちゃ出てるって。俺、そういうの見抜くの得意でさ」
図星を突かれ、仁人はわずかに顔をしかめた。初対面の相手に、これほど無遠慮に踏み込まれることに慣れていない。人と近すぎる距離は、仁人にとって、常に居心地の悪さを伴うものだった。
「──そういうの、あんまり得意じゃないんですよ、俺」
「そういうのって?」
「初対面で、こう、ずかずか踏み込んでくるやつ」
「あ、ごめんごめん。でも、悪気はないんだって。ただ、気になったら放っておけない性分でさ」
悪びれもせずそう言って、勇斗はからりと笑った。その笑顔には、不思議と嫌味がない。仁人は毒気を抜かれたような気分になりながら、また一口、グラスを傾けた。
「──放っておいてください、こういうのは。慣れてないんで」
「なるほどね。──じゃあ、放っておく代わりに、一つだけ聞いていい?」
「なんですか」
「また来てくれる? ここ」
その率直な問いに、仁人は思わず言葉を詰まらせた。営業トークにしても、あまりにストレートすぎる。仁人は塩対応で切り返すことに決めていた。
「──さあ。気が向いたら」
「分かった、じゃあ待ってる」
冷たくあしらったつもりの一言を、勇斗はまるで前向きな返事のように受け取って、機嫌よく笑っていた。仁人はその図太さに、少しだけ呆れながらも、なぜか不快には感じない自分に、内心で戸惑いを感じていた。
グラスを飲み干し、会計を済ませて店を出る。夜風に当たりながら、仁人はふと振り返った。看板の出ていない、目立たない扉。あの店のことを、なぜか、もう忘れられない気がした。
──別に、また来るつもりなんてない。
そう自分に言い聞かせながらも、仁人の足取りは、来た時よりも少しだけ、軽くなっていた。
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