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線上のウルフィエナ

29 - 第二十九章 ウイルとフランと女神と

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2024年02月24日

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どこまでも続く大海原。その方角から空の色移ろえば、それが夜明けの合図だ。

 太陽が顔を覗かせると、黒色が灰色にじわじわと塗り替えられる。

 その勢いは増す一方ゆえ、王国も急かされるように目を覚ます。

 一日の始まりだ。

 眠い目を擦りながら、民衆が次々と外出する。

 その多くが職場を目指すのだろう。彼らの懸命な努力が、この国を滞りなく稼働させている。

 最初は通行量もまばらながら、空の色がすっかり明るくなった頃合には普段通りの大賑わいだ。

 子供も、大人も、老人も、それぞれの理由で歩いている。

 そういう意味では、彼女もその内の一人だ。いつもよりも寝過ごしてしまったが、ある意味個人事業主ゆえ、誰かに咎められることはない。


(うー、ちょっと寝坊しちゃった。昨日は興奮して寝付けなかったからなぁ。腕試しでこんなにワクワクするなんて、私も性根は傭兵だったか)


 ポニーテールを揺らしながら歩く彼女の名前はフラン。今日から草原ウサギ狩りを再開するため、ギルド会館を目指している最中だ。

 ウイルのおかげで身体能力が大幅に高まった。この事実は疑いの余地がなく、見た目に変化こそ見受けられないが、足の速さとスタミナはもはや別人と言っても差し支えない。

 もちろん、まだまだウイルには及ばない。

 それでも、傭兵として成長したことは確かだ。


(うぅ、お腹減った……。今日からは心を入れ替えて、三食食べないと)


 彼女は年下の少年に叱られてしまった。

 ウイルに自身の食生活を暴露したところ、量も栄養も足りていないと指摘されたばかりか、傭兵としての志が低いとさえ言われてしまった。

 当然だろう。魔物退治はあらゆる肉体労働の中で最も過酷な仕事だ。常に最善のコンディションで挑むべきであり、昼食におにぎり一つ、夕食もパン一つでは体が悲鳴をあげてしまう。

 ゆえに、今日からは朝昼晩のタイミングで腹を満たす。その分、出費も増してしまうが、それ以上に稼げば良いと気づかされたのだから、今からギルド会館で軽食をつまむつもりだ。

 貧困街から大通りへ出て、後は道なりに進めばたどり着ける。時間にしてニ十分前後はかかるも、町中を猛スピードで走るわけにもいかず、通行人に紛れて歩かなければならない。

 清潔感あふれる、整った街並みだ。廃墟などどこにも見当たらず、幅広な道にはゴミの類は一つも落ちてない。せいぜいが枯れ葉や小石程度だ。

 イダンリネア王国は東側面を海に面しているのだが、ここまで離れれば生臭い潮風が届くことはなく、大小様々な建築物とそこを行き交う人々で祭りのように賑わう。

 その中でも一際目立つ存在が、焦げ茶色の巨大施設、ギルド会館だ。普段なら武具をまとった集団が世話しなく出入りするのだが、今日に関しては異物のような女性が一人、扉の隣に陣取っている。

 フランは首を傾げながらも、近づく以外の選択肢を見出さない。そこは傭兵にとっての職場であり、食事さえ可能なのだから、その女が誰であろうと近寄るだけだ。


(白いローブを着てるってことは、女神教の信者さん? この前の人は真っ赤だったけど、バリエーションがあるのかな?)


 当人達に問わなければ分からない。それでもフードを深々と被る女に話しかけるつもりなどなく、その隣を素通りして、建物内部へ入るつもりだ。

 その時だった。


「あなたも、傭兵ですね?」


 見知らぬ声が、街中の喧騒に混じって語り掛ける。

 その結果、身構えていなかったフランは驚きと共に足を止めてしまう。

 この時点で白いローブの女は目的の半分を遂げており、これ幸いと相手の反応を待たずに畳みかける。


「魔物を殺してはなりません。女神様が悲しんでおられます。魔物を殺さず、食べず、平和に生きていくべきなのです。その先にこそ、真の幸福が訪れると女神様はおっしゃっております」


 一方的な主張だ。

 それゆえに、フランは発言内容の租借に苦労しながらも、呆れるように眼前の他人へ言い返す。


「そうですか。幸せになれるといいですね。私は私の仕事がありますので、これで」

「安心してください。私達は女神様に見守られております。決して一人ではないのです。あなたにも、必ずやお手を差し伸べてくださいます。さぁ、共に歩んで参りましょう」


 傭兵の行く手を遮るような真似はしないが、白いフードの奥底から魅了するような眼光を向けながら、信者は教団の教えを述べ続ける。

 その語り口から、自分の置かれた状況を察するには十分だ。フランは呆れるように口を開く。


「あ、勧誘ですか? あなた、女神教の人ですよね?」

「私は聖女として、この世界の真実を述べているに過ぎません。みなは真実に気づくべきなのです。女神様の庇護のもと、我々は命を紡げているのですから」


 傭兵として金を稼ぎたいフラン。

 女神教として、それを止めさせたい信者。

 立ち位置が異なるのだから、両者の主張がかみ合うはずもない。


「私は神なんてものを信じていません。それに、そんな暇もありませんから」

「大丈夫ですよ。祈りを捧げるだけで、心安らかに日々を過ごすことが出来ます。魔物の殺生などという野蛮なことはせず、我々と共に歩みましょう」

「あのう、前から不思議に思っていたのですが、なぜ、魔物を殺してはいけないんですか?」


 フランは一旦、入館を諦める。ギルド会館には到着したのだから、女神教に構う必要はないのだが、しつこい勧誘に呆れながらもこの好機を活かすことから始める。

 それが、疑問の問いかけだ。

 魔物を殺してはならない。

 魔物を食べてはならない。

 女神教はなぜかそう主張するのだが、その理由までは謎だ。傭兵ならば、なおさら理解に苦しむ。

 フランの目の前には、当事者が孤独に立っており、シンボルとも呼べる白いローブを身にまとっている。フードを被って姿の露出を最小限に抑えている理由は、これこそが女神教の正しい身だしなみだからだ。


「魔物は私達同様、命ある存在です。だからこそ、むやみに殺めてはなりません。彼らは愛すべき隣人であり、手を取り合って共存することも可能なはずです」


 この信者は本気だ。教祖からそう教わったのだから、疑う余地すらない。

 一方、フランは言葉を失う。

 価値観が根底から異なるのだと、改めて気づかされてしまった。反論すべきか否か、一瞬悩むも、女の満足そうな態度に苛立ちを覚え、やんわりと言い返す。


「魔物は人間を殺す。だから、身を守るためにも狩らなきゃ」


 つまりは正当防衛だ。

 事実、マリアーヌ段丘の草原ウサギは、極稀にだが行き交う人々を襲ってしまう。フランのような傭兵が狩り続けることで、救われる命があるのも確かだ。

 それでも、この信者は揺るがない。痩せた体を凛と立たせたまま、ハッキリと断言する。


「私達が、先人達が、魔物を殺してしまったからです。復讐の連鎖を断ち切るために、今こそ心を入れ替えましょう。その先にこそ、人間と魔物の共存が待っているのですから」

「な……、本気で言ってるの? 何を根拠に……」


 女神教と傭兵。どちらの主張が正しいのか、そんなことは当事者達にわかるはずもない。

 なぜなら、魔物の多くは言葉を話せず、知能も昆虫や動物と同程度だ。

 ゴブリンや巨人は独自の言語を用いるも、それらとの意思疎通はやはり不可能だ。仮に武器を手放した状態で歩みよろうと、挨拶代わりに人間側が殺されてしまう。

 それでも、女神教の信者は言い切ってみせる。自分達が正しいと、心底思い込んでいる証拠だ。


「女神様のお言葉です。私達の幸せは、すぐそこにあります。あなたも平等に掴むことが出来ますよ。魔物を殺さず、魔物を食べず、たったそれだけのことで」

「あの~、私は傭兵です。魔物を倒すことでお金を稼いでいます。勧誘だったら大広間とかでやった方がいいと思うますけど……」


 フランの言う通りだ。自分達は魔物討伐の専門家だと自負しており、女神教とは決して相いれない。

 信者の主張が仮に正しかろうと、耳を傾けることさえ困難だ。それ以外の稼ぎ方がわからないのだから、出入口で話しかけられることさえも迷惑行為に他ならない。


「女神様の教えは確実に広がっております。しかし、ここの人達には理解頂けておりませんので、こうして足を運んでいる次第です。仕事は他にもたくさんありますでしょう? あなたはなぜ、傭兵などという野蛮な行為を?」

「これ以外に選べなかったからです。私は貧困街の住民なので、どこも雇ってくれなくて……。出来ることなら普通のお仕事で、もっとお金を稼ぎたいに決まってる。だけど、私は傭兵としてがんばるしかないの。私みたいな貧乏人を勧誘しても、女神教には一イールも寄付出来ませんよ? 他所を当たってください」


 自虐的な反論だ。

 しかし、フランの現状を的確に説明しており、本来ならば問答が終わるはずだった。


「でしたらなおさら、我々と共に歩むべきです。もう苦しむ必要はありません。悩む必要もないのです。女神様が必ずや、あなたに幸せをもたらしてくださいます」


 フードの下で、やつれた顔が甘い言葉で誘惑する。神の代行として教わった通りに、教団の教えをつらつらと紡げる理由は、彼女に宿った善意に他ならない。

 だからこそ、止まるはずもなく、他者を救いたいという使命感に突き動かされ、説得にも熱が入る。

 それでもなお、結果だけを切り取れば空振りだ。フランは女神教がどういう集団か、知人から既に聞かされており、ましてや神という存在を信じていないのだから、眼前の信者が熱心に訴えてこようと、一切響かない。


「結構です。私は私のやり方でお金を稼ぎます。魔物のお肉も食べます。だって、私は傭兵だから。ここにいる人達もきっと同じだと思います。だけど、女神教の主張や勧誘についてアレコレ言うつもりもありません。救われる人もいるでしょうし、そういった人達のことまでも否定したくはないから……」


 今度こそ終了だ。

 フランの持論が信者を怯ませる。

 とは言え、勧誘相手が足を止めた以上、女は好機を逃したくない。食い下がるように説得の継続を試みるも、それすらも第三者の登場によって阻止されてしまう。


「フランさん、おはようございます。あれ? その人って女神教の関係者?」


 子供のような背丈。

 灰色の短髪。

 貴族でありながら、庶民着の似合う十六歳。

 左腰に短剣を下げており、武装としてはそれだけだ。


「あ、ウイル君……」

「もしかして、また営業妨害ですか?」


 驚きつつも安堵するフランに、少年は何食わぬ顔で歩み寄る。

 実は、問答の途中から盗み聞きしていた。通行人に紛れて聞き耳を立てていたからこそ、丁度良いタイミングで割り込めた。

 一方、フランへの勧誘に失敗した信者だが、未だ諦めてはいない。それどころか勧誘対象が増えたのだから、二人まとめて取り込もうと画策する。


「お知り合いでしたら丁度良い。どうでしょう、女神様の教えをお二人で学んでみませんか?」


 白いフードの中で目を輝かせながら、女は前のめりに少年へ問いかける。

 この状況、ウイルにとっても好機だ。想像以上に想定通りゆえ、涼しい顔をなんとか保ちながら、罠を張り巡らせる。


「女神教の教義については、実は少し興味がありました」

「素晴らしい。心を入れ替えれば、必ずや幸せを掴むことが出来ますよ」

「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんです。女神教は誰にでも開かれております。何でもお答えしますよ」


 あどけない表情のウイルと、満面の笑みを浮かべる聖女。

 そんな二人を見比べながら、フランは少年の奥底に不気味な気配を感じ取る。

 演技だ。

 それに加えて、何かを企んでいる。

 その予想が正しいか否か、答え合わせが開始される。


「貧困街への建築申請も、女神からの啓示だったんですか?」


 子供らしいトーンで問いかけるも、その内容は女を驚かせるには十分だった。

 対してフランはその意味がわからず、ひとまずは見守ることに徹する。

 三人が黙ろうと、ここは通行量の多い大通りだ。行き交う人々の足音や話し声が止むことはなく、耳をすませばギルド会館の中から笑い声さえ聞こえてくる。

 それでも勧誘行為が中断されたことに変わりない。

 予想だにしなかった質問に対し、信者は必死に考えを巡らせるも、その行為自体が逆効果だ。

 沈黙が何を意味するのか、ウイルはあっさりと看破する。


「聖女って肩書にどんな意味があるのかまではわかりませんけど、予想通り、あなたはそれなりの地位にいる人なんですね。だから、教会だか何だかの施工にも関与している、と」


 ペラペラとしゃべり出した子供に対し、白いローブの女がついに苛立ちを覚える。不釣り合いな言動が腹正しいということもあるが、内容全てが言い当てられてしまったからだ。

 つまりは図星ゆえ、羞恥心と焦りが混じり合い、結果としてイライラを募らせる。


「デタラメを言わないでください。女神様を冒涜する愚か者には罰が下りますよ」

「お姉さんの外見から察するに、どうやら熱心な信者のようですね。魔物を食べずに野菜だけの食生活を送ると、痩せるか太るかのどちらかに偏るって学校で習いました。お姉さんは自分を律することが出来るから、栄養不足だか何だかで痩せてしまった、と言ったところでしょうか。そういった真面目なところが認められた結果、聖女という肩書がもらえた。稚拙な推理ゆえ、外れてそうですけど」


 ウイルは相手を揺さぶるように、小生意気な子供を演じる。半分は本心に他ならないが、眼前の信者から手がかりが得られると判明した以上、手を抜かない。


「私への誹謗は、教祖様ひいては女神教の名誉を傷つけるということになります。そのような愚行は決して許されることではありません。あなた、子供だからと何を言っても許されると思っていませんか?」

「僕は子供ですし、傭兵でもありますが、実のところ、貴族でもあります」

「なっ⁉」


 突然の情報開示が、女を凍り付かせる。

 貴族はこの国の特権階級だ。もちろん、犯罪を犯せば裁かれてしまうが、そうでないのなら一般市民への横柄な態度は当然の権利として許されてしまう。

 普段のウイルなら、このような仰々しい応対はしない。感性はむしろ、小市民に近い存在だからだ。

 しかし、今は貴族を演じている。貴族が貴族を演じる姿は道化師そのものだが、自身が道を踏み外した愚か者だと重々承知しているため、こういった作法はお手の物だ。


「そういえば自己紹介がまだでしたね。僕の名前はウイル・エヴィ。その名の通り、エヴィ家の長男です。あなたのお名前は? あ、もしも逃げたり嘘をついたりしたら、それこそ貴族への反逆とみなし、逮捕、連行します。僕は傭兵ですから、あなたが本気で走ろうと一瞬で追い付けます。無駄な抵抗は謹んでください」


 背丈はこの少年の方が小さいものの、見下すように言い放つ。

 もちろん、言動の全てが相手から情報を引き出すためのカモフラージュだ。内心は震えあがっており、手のひらはじわりと汗で濡れている。


(こんなところを母様に見られたら、きっとドロップキックおみまいされた後に、小一時間説教されるんだろうなぁ。パッと思いついた生意気貴族を実演してみたけど、自分でもびっくりするくらい腹立っちゃうな、これ。まぁ、でも、嘘は何一つ言ってないんだし、後はこの人の出方次第……)


 信者を袋小路に追い込んだ。自身の身分や個人情報を提示してしまったが、知られたところで痛くも痒くもない。

 ウイルとフランに見守られながら、女は諦めるように口を開く。


「私は、マリシア・ウーベ……です」

「ウーベってあのウーベ? だとしたら、なるほど、合点がいきます」


 女が縮こまりながら名を述べると、少年は記憶の内側に解答を見出す。

 状況を飲み込めていないのはフランだけだ。長らく黙っていたが、条件反射的に問いかけてしまう。


「ウイル君、この人のこと知ってるの?」

「あ、いえ。ウーベ家の方と言いますか、正しくはご両親……ですね。十年くらい前に、女神教の信者が軍区画で暴動を起こしたんです。魔物を殺すなとか何とかって。あっさりと鎮圧されたんですが、その中にウーベ家の当主とご婦人がいたので、貴族の中ではちょっとした騒ぎになったんです。ウーベ家は上層区画には居を構えていませんが、一代で財を成した富豪ということで、知る人ぞ知ると言いますか、貴族連中からは一目置かれていたんです。この人は……、マリシアさんはその一人娘です。まさか家族ぐるみで女神教に入信していたなんて……。いや、考えてみれば可能性の高い話なのか?」


 正確には十一年前の出来事だ。

 光流歴千四年、イダンリネア王国の西に存在する軍事拠点が、暴徒によって襲撃された。彼らの正体は女神教の信者達であり、活動を再開して間もないことから功を焦ったのか、ただただ実績が欲しかったのか、なんにせよ、安上がりな武器で武装し、王国軍に喧嘩を売ってしまう。

 結果は当然ながら完敗だ。素人が剣や槍を握ろうと、本物の戦士には手も出しも出ない。

 狂信者達はあっさりと逮捕され、その後の一生を強制労働の刑に処された。

 ここまでは公にされた情報だ。貴族はその先の事実も掴んでおり、ウイルはこのタイミングで口を滑らせる。


「だけど、ウーベ家の二人は投獄後も反発を続けたから、共に斬首刑が執行されたはず。あ……」


 この瞬間、少年は自身の失言に気づく。

 伏せられた情報を開示してしまったことも去ることながら、眼前には唯一の肉親。彼女自身は父と母が強制労働者として生きていると信じていたのだから、まさしく青天の霹靂でしかない。

 この瞬間、マリシアの思考は完全に停止した。

 同時に眩暈を覚え、俯くと石畳の地面が大きく揺らいでいた。


(お父さんも、お母さんも、死んで……た? 首を、斬り落とされ……て?)


 斬首刑。王国における最上位の刑罰だ。

 強制労働もそれはそれでむごたらしいが、食事が三回与えられることと、睡眠時間がきちんと確保されることから、どちらが厳しいかは主観によるだろう。

 女神教はクーデターを引き起こした。この時点で情状酌量の余地はなく、本来ならば全員が極刑のはずだったが、あまりに稚拙な暴動だったことから、強制労働という落としどころに着地した。

 しかし、王国に対し反抗的な態度を改めなければ、刑罰の悪化は必然だ。

 極秘裏に斬首された者の中にウーベ家の二人がいた。歴史的にはそれだけのことなのだが、その娘は何も知らされておらず、親の死を聞かされれば取り乱したとしても不思議ではない。

 そのはずだが、マリシアは沈黙を保ったまま、ゆっくりと歩き出す。

 呆然としながら。

 絶望しながら。

 そして、神に祈りながら。

 聖者はおぼろげな足取りで大通りを横断、逃げるように裏道へ入り込む。

 残された二人の内、ウイルは自らの過ちを反省しながらも、白いローブ姿を慌てて追いかける。


「フランさん、今日はこれで失礼します。僕はまだあの人に話があるので」


 悪手の結果、自分自身で話の腰を折ってしまった。それでもまだ諦めない。

 相手は魔物ではなく人間だ。盲目な信者ではあるかもしれないが、言葉が通じる以上、貧困街の件について問いたださなければならない。

 有力な手がかりは既に得られた。

 マリシア・ウーベという人物が女神教の信者として熱心に活動していることと、貧困街への建築申請に関わっているということ。

 調査が一歩進んだことは間違いないが、当人がすぐそこにいるのだから、見過ごすという選択肢は選ばない。


「あ、私もついてっていいかな?」


 ギルド会館を背に、フランも足早に駆けだす。ウイル達のやり取り全てを理解出来たわけではないのだが、問答の中に気になる点があった以上、除け者にはされたくなかった。


「わ、わかりました。確かに、フランさんは部外者じゃないですしね……」


 渋々の了承だ。

 ここからの話題は建物の倒壊についてであり、十二人の子供達が犠牲になった上、フランも酷く心を痛めた。不運な事故だと思っている彼女に犯罪の可能性をちらつかせるばかりか、追跡中の信者がその件に関わっているのだから、ウイルとしては一人で尋問したい。

 それでもむげに断らなかった理由は、フランがついて来てしまったということもあるが、真実を伏せることへの罪悪感が作用した。

 二人は人ごみを丁寧に避けながら追いかける。大通りから脇道に入ると道幅そのものが狭くなるも、並走程度なら十分可能だ。

 全力を出すまでもなく、あっさりと白いローブ姿に追いつくと少年は間髪入れずに質問を投げかける。


「貧困街への建築申請について、きちんと教えてください。誰が企てたのか、誰が関わったのか、を」


 行く手を遮るように、ウイルはマリシアの真正面に立ち尽くす。

 追い抜くためには左右のどちらかへ進路を変えれば済む話なのだが、信者の反応はシンプルだ。眉一つ動かさず、呆けた表情のまま、素直に立ち止まる。


「私は書類の用意と提出を指示されただけ……」


 断片的ではあるものの、それでも有力な手掛かりだ。

 聖女を自称する女からはすっかり生気が抜け落ちており、発言の信ぴょう性には首を傾げたくなるも、このタイミングで嘘をつくと思えず、ウイルは心の中で大いに喜ぶ。


(もし本当なら……、すごい、手がかりとしては十分だ。女神教は組織ぐるみでこの犯罪を企ててる。建物を壊した魔攻系についても、調査を進めればたどり着けそうな気がする。ここから先は治維隊の領分だろうけど……)


 眼前の信者に指示した存在がいる。

 つまりは、単独犯ではないということだ。

 ならば女神教が組織だって動いていると言っても差し支えない。

 現時点で確定していることは一つ。

 この女は共犯者だ。事情を知らずとも、殺人の片棒を担いでしまった。

 浮浪者であろうと子供が十二人も殺された以上、この自白をネタに治維隊へ引き渡せば、犯人らは芋づる的に逮捕されるだろう。

 ゆえにこの段階で引き返しても良いのだが、ウイルはもう一歩踏み込む。


「あなたに指示したのは誰ですか?」


 しかし、この問いかけに対し返答はなく、三人しかいない細道に静寂が訪れる。

 居心地の悪い間だ。誰も殺気立ってはいないのだが、空気がわずかにひりついている。

 催促のため、少年が再度問いただそうとするも、早かったのはフランだった。


「ウイル君、話の腰を折るようでゴメンなんだけど、さっきから話してる建築って何のこと? この人達、貧困街にお店かおうちを作ろうとしてるの?」

「い、いえ……。おそらくは教会とかそういう大きな拠点だと思います。だけど、その、この事件の焦点はそこじゃなくて……」


 ウイルの返答はたどたどしい。女神教の信者が目の前にいるからではなく、ここまでフランにはその一切を伏せてしまっていたからだ。

 廃墟四棟が子供達を巻き込んで倒壊した理由。彼女は未だに老朽化だと思い込んでいるが、そうではない。

 そのことを、ウイルは意を決して伝えることから始める。


「実は、あの日の倒壊は、女神教の仕業だと言うのが治維隊の見解です」


 暴かれた真実を前に、彼女らの反応は正反対だ。

 マリシアは興味なさげに聞き流す一方、フランは青ざめながらも怒りに震える。


「え? どう……して? 何で? そんなことを……?」

「更地にするためです。翌日、女神教は役所に書類を提出しました。それ自体は鼻が利くんだな、とか抜け目ないな、って思えなくもないんですが、それにしても早過ぎます。こうして疑われて、犯行に魔法を用いたことがバレちゃったんですから、迂闊と言う他ありません。しかも、貧困街は王族の管轄。通常とは異なる手続きが必要なんですが、女神教にそこまでの教養も人脈もありませんから、あっさりと却下です」


 ウイルが疑問に思い、治維隊の調査によって犯行が暴かれた。

 土の攻撃魔法が廃墟の破壊に用いられたことが判明した以上、次のステップは犯人探しだ。

 眼前の信者は破壊活動には関与していないようだが、携わったことには変わりない。

 事実を知らされた結果、彼女が正気を保てるはずもなかった。


「あ、あんた達が! そんな理由でみんなを! ふざけないで!」


 若葉色の髪を逆なでながら、フランは白いローブに掴みかかる。そればかりか傭兵特有の腕力で女を持ち上げると、怒りをぶつけるように地面へ叩きつけてしまう。

 それでもなお、彼女の感情は昂ったままだ。歯を食いしばり、拳を震わせながら、マリシアを見下ろす。


「私達をなんだと思ってるの⁉ 後ろ指差されながらでも精一杯生きてるの! それなのにあんた達は……。許せない、殺してやる!」

「ちょっ、フランさん! それだけは! う、すごい力!」


 片足を持ち上げ、その頭部を踏み潰そうとするも、フランの凶行はウイルによって阻止される。背後から羽交い絞めにされ、じりじりと後方へ引きずられたからだが、その程度の邪魔では殺意は収まらない。


「やっていいこととダメなことがあるって、何でそんなこともわからないの⁉ 家もお金もあるんでしょう⁉ 恵まれているから⁉ だから私達を除け者にするの⁉ 殺すの⁉ ねぇ! なんで⁉」


 怒りをぶちまけるように、フランは大粒の涙を流しながら叫ぶ。その大声は周囲の住人を驚かせるには十分だ。

 そんな中、マリシアは起き上がろうともせず、はだけたローブから桃色の髪を覗かせつつも、虚ろな瞳で天を眺める。


「ころ……す? 知らない、私は何も知らされてない」


 石の道に打ち付けられたのだから、全身を激痛が駆け巡る。後頭部の強打だけは避けられたが、もはや自力で立つことさえ困難だ。打ち所が悪ければ即死もありえたのだから、そういう意味では運が良かった。

 対照的な女性二人を見比べながら、ウイルは抱き着くようにフランを拘束するも、マリシアへの質問も怠らない。


「あなたに指示を出したのは誰ですか? いや、教祖以外にありえない……のか?」


 彼女の肩書は聖女だ。その下が一般信者だとしたら、上の役職はある程度絞れてしまう。

 信者ですらないウイルだが、予想は見事的中だ。それしか思いつかなかっただけだが、正解を言い当てられた以上、女は苦しそうに口を開く。


「教祖様は……、女神様は絶対の幸福を、私達にもたらしてくださいます。約束された事実、です。教えに従えば、必ず訪れ……ます」


 そのはずだ。

 そのはずだった。

 連行された両親も、いつの日か釈放されると思っていた。

 自分がこれほどの痛みに晒されるはずもなかった。

 内臓が暴れており、体は今にも張り裂けそうだ。

 四肢を動かすことさえためらわれるほどの激痛。

 喉の奥からにじみ出る、気持ち悪い鉄の味。

 硬い地面の上で仰向けに寝そべったまま、信者は祈るようにつぶやくことしか出来ない。

 対照的に、フランは拘束されながらも声を張り上げる。


「殺してやる! あんたを! あんた達を! 許せるもんか!」

「フ、フランさん、少し落ち着いて。この人はほっといても治維隊によって逮捕されますから。それに、おそらくは他の信者達も同様です。情報を吐かせるためにも、今殺すわけにはいかないんです」


 三人の中で最年少かつ最も小柄なウイルだが、それでもフランから自由を奪うことは可能だ。身体能力の差であり、なによりその冷静さが状況の悪化を未然に防ぐ。


「離して! みんなの仇を取らないと! 離して!」

「お気持ちはわかりますが! 今は堪えてください……。実行犯の逮捕には、一つでも多くの供述が必要なんです」


 駄々をこねるように暴れるフランを、少年は必死に縛り続ける。

 もし少しでも力を緩めれば、彼女はあっという間に細腕を振りほどき、容疑者を完膚なきまでに殺すだろう。

 それだけは阻止しなければならない。敵を守るようなことはしたくないが、相手は既に負傷しており、立ち上がる気力すら失っている。

 このまま治維隊に連行してもらうことが最善手だと考え、フランへの説得を試みるも、彼女としては怒りが収まらないのだから、押し問答は継続だ。

 そんな中、マリシアの意識は霞みがかる。

 石畳の道がわずかにひび割れるほどには激しい衝撃だった。

 ゆえに、決して無事では済まない。命に別状はないものの、その鈍痛は意識を刈り取るには十分だ。

 思考が定まらない中、女はすがるように祈りを捧げる。


 (殺された。お父さんとお母さんが……。この国は、魔物だけでなくお父さんとお母さんも殺す。どうして? なんで? 私も殺されるの? 助けて……ください。教祖様、女神様)


 精一杯の自問自答。

 本来ならばこの行為に意味などないのだが、神はこの信者を見捨てない。

 その人生があまりに哀れだからか?

 聖女という肩書のなせる奇跡か?

 どちらにせよ、信じる者は救われる。

 救われてしまう。


(あなたの祈り、確かに届きましたよ)


 知らない声だ。

 凍えるような女の声だ。

 直後、マリシアは当然のように真実を言い当てる。


(女神……様?)


 頭の中での意思疎通。彼女としても初めての経験だが、ためらうことなく、やってのける。


(あなたは選ばれし者です。このようなところで命を落とす人間ではないのです)

(あなた様は……、あぁ、あぁ! 女神様! 女神様なのですね!)

(その信仰心が本物であることは承知しております。なぜなら、神はいかなる時も人間を見守っておりました。いえ、見定めておりました。この意味、あなたならわかりますね?)


 寒気さえ感じる圧迫感だ。

 もしくは、格の違いがそう思わせるのか?

 この声の前では人間などちっぽけな存在に過ぎない。抗うことも、疑うことさえも不可能だ。

 もっとも、彼女は信じてやまない。女神教の信者であり、この声を誰よりも待ちわびていたのだから、体の痛みは消え去り、気づけば歓喜に震えていた。


(私を……お救いください。あなた様の光で、お導きを……)


 強く願うと同時に、頭の中が白色の光で支配される。

 もはや、目を開けることさえ困難だ。そのはずだが、マリシアは凛としてその光を浴び続ける。

 光源を注視すると、そこには何かが立っているのだが、逆光ゆえその姿を捉えることは叶わない。


(人間は醜い生き物です。そうであると、あなたも痛感したことでしょう。それでもめげずに、よくがんばりました)

(あぁ、ありがとうございます! されど力及ばず、無力さを痛感しております……。人間と魔物の共存、なんと困難な道なのでしょうか)


 実現しない理由は明白だ。その望みが非現実的なだけであり、傭兵ならば当然のように理解していた。

 人間と魔物。

 殺すか、殺されるか。

 それ以上でもそれ以下でもない。そうすることが宿命づけられているのだから、女神教の教えは最初から破綻していた。

 それだけのことだ。

 そのはずだが、この第三者は儀式のように言葉を紡ぐ。


(あなたの想い、決して無駄にはなりません。さぁ、あなたが今日から私の代行者。仮初の自由から解き放たれ、この瞬間から真なる自由をつかみ取るのです。神の名のもとに)

(私が……? 教祖様では、なく?)

(そうです。あなたこそが、マリシアこそが選ばれたのです。すべきこともすぐに理解出来るでしょう。そのための力、そのための知識……。あなたに授けます。さぁ、生まれ変わりなさい。そして、降臨なさい。この世界に、ウルフィエナに……)

(ウルフィエナ?)

(世界の名です。在りし日の思い出……、いえ、理想郷。いかに神であろうと、私に出来ることは寄り添うだけ。あなたは真の使者として、その命を使いなさい)


 その時だ。

 騒ぎを見かね、緑色の大人達がバタバタとウイル達の元へ駆けつける。

 その制服は治維隊のものであり、四人の内の一人とは顔見知りなことから、少年はフランを拘束しつつも口を開く。


「このタイミングで現れるということは、その人のことを尾行してたんですか? ビンセントさん」

「うるせー、おまえこそ調査の邪魔しやがって。こちとら朝から監視してたんだっつーの」


 治維隊隊長のビンセント。威嚇するように白い歯を見せるも、三人の部下へ指示を飛ばす。


「野次馬をここに近づけるな。それと、そいつの手当をしてやれ。死にはしないだろうが、この嬢ちゃんも傭兵だ。加減もなしじゃ、無事じゃ済まないはずだ」


 二人がこの場から離れ、残った一人がマリシアに寄り添う。

 ウイルは手際の良さに関心しつつも、対照的にフランを落ち着かせることには成功していない。

 治維隊が駆け付けた以上、この騒ぎは終了だ。そうであると伝えるためにも、説得を試みる。


「フランさん、女神教はこれで終わりです。ビンセントさん、その人は貧困街の建築申請に携わっています。名前はマリシア・ウーベ。ウーベ家の……、おそらくは娘さんです」

「ウーベ家……、なるほど。一家で女神教にのめり込んだ結果がこれか。目も当てられん」


 手短な説明によって、ビンセントも状況を察する。

 横たわる女は信者だ。白いローブは女神教のシンボルそのものであり、外傷は見当たらないものの、身動きが取れない程度には負傷している。

 間接的にだが廃墟の倒壊に関わっている人物ゆえ、治維隊による逮捕は免れない。

 獣のように唸るフランを羽交い絞めにしながら、そして、駆け付けた大人達を眺めながら、ウイルはこの件が自分の手を離れたと実感し始める。

 それは思い違いだ。

 突然の叫び声が、状況の進展を知らせる。

 発生源は、マリシアを介抱していた女性隊員。慌てた様子で振り返ると、すがるような視線を隊長へ向ける。


「隊長! こ、この人……、何かヤバイです!」

「報告はもっと具体的に! いったいどうしたって言うんだ?」


 大声がビンセントを苛立たせるも、次の瞬間、居合わせた全員が目撃者となる。

 地面に倒れている、女神教の女。その体が姿勢を一切変えずに、ゆっくりと浮上を開始した。

 フードや桃色の髪を揺らしながら。

 白いローブをたなびかせながら。

 その光景は奇跡という他なく、ウイルとしても感嘆の声をあげずにはいられなかった。


「魔法? 戦技? いや、こんなのは……ない」


 当然ながら、手品でもない。

 当人は眠るように瞳を閉じたままだ。それでも寝たまま浮かび上がり、ついには手を伸ばしても届かない高さにまで至ってしまう。

 理屈は不明だが、目的は明白だ。隊長として、ビンセントが声を荒げる。


「おい、女!」

「マリシアさんです」

「おい、マリシア! 無駄な抵抗は止せ! しまいには叩き落すぞ!」


 ウイルから教わった名前を叫ぶも、容疑者は反応を示さない。無視するように上昇を続けており、その高度は家屋の屋根に届くほどだ。

 このままでは逃亡を許してしまう。

 部下達やウイルが焦る中、それでもなお、隊長だけは冷静だ。


「なめるなよ……。逮捕する!」


 普通なら届かない高さだが、この男なら問題ない。わずかに腰を落とした直後、ばねの様に飛び跳ねる。

 治維隊は軍人ではない。管轄からして異なるのだが、隊員の身体能力は一人ひとりが軍人以上だ。

 彼らは魔物との戦闘を想定しておらず、取り締まる相手は人間だけ。それでも犯罪者や無法者を鎮圧するためにはそれ相応の実力が必要だ。

 そういった事情から、治維隊の実働部隊は精鋭揃いだ。

 隊長となれば、その中でも最上位の逸材と言えよう。単なる跳躍であろうと、家屋を飛び越える程度なら容易い。

 だからこそ、上昇中のマリシアも届いてしまう。

 それどころか、勢い余って追い越したほどだ。

 空中で儀式のように眠る女へ、ビンセントはいくらか力を緩めつつも、トンカチのように拳を打ち込む。

 地面へ叩き落し、あわよくば部下に受け止めてもらいたい。

 しかし、その目論見は泡のように霧散する。打撃は彼女の体に届くことはなく、その理由は謎の反発力によってビンセントの方が吹き飛ばされたためだ。


「なんだとぉー⁉」


 悔しそうな声が遠ざかる中、残された者達は静かに見上げる。

 視界の中心には、白いローブ姿。青空に浮かぶ雲のようにも見えるが、実際にはそこまで離れてはいない。

 今なお、上昇しているのか。

 そこに静止しているのか。

 落ち始めているのか。

 地上からではその見極めさえも難しい。

 わかっていることは一つ。彼女が次の段階へ進もうとしていることくらいだ。


「ウイル君、もう落ち着いたから一旦離して欲しいな」

「あ、すみません。あれって……」

「空中で立とうとしてる……のかな?」


 フランの発言通り、マリシアの体がゆっくりと傾くと、ついには直立へ移行する。足場などないはずだが、二本の足で立っており、だらんと垂れた両腕がたなびくローブを押さえつけていることからも、そこは無風ではないようだ。

 彼女の両眼がグンと開く。

 その瞬間、観客達はまたも奇跡を見せつけられる。

 マリシアの背中から、一瞬にして鳥のような羽根が花開いた。

 雪のように白く、暖かそうな白い翼。一対のそれは羽ばたく必要すらないのか、見せつけるように大きく広がりながら、太陽の陽射しを浴びて輝いている。

 ここからが始まりだ。

 女はその視線を眼下へ向ける。


「ワタシは女神様の代行者。ニンゲンよ、その愚かさを嘆きなさい。そして、ワタシを畏れなさい」


 冷たい声だ。声質そのものはマリシアのものだが、ウイル達は違和感を拭えない。


「思い込みが激しくなっちゃってません?」

「私もそう思う。偉そうと言うか、なりきっちゃってると言うか……」

「お、フランさん、上手いこと言いますね。確かに、宗教っぽさが醸し出されて気持ち悪さがアップしちゃってます。だけど、単なる早着替えとかではなさそうなのが厄介……」


 正しくは着替えてすらいない。背中から純白の巨翼を生やしただけなのだが、それを浮遊しながらやってのけたのだから、手品の類ではないはずだ。


「私がぶん投げた時に、頭を打っておかしくなっちゃった、とか?」

「どちらかと言えば覚醒したと言いますか、文字通り、覚醒者になっちゃった……とか。にわかには信じがたいのですが、現在進行形でその光景を見せつけられていますからね……。こんなの、天技としか考えられないです」


 天技は、魔法や戦技に次ぐ第三の神秘だ。

 努力によって公平に習得出来るそれらとは異なり、天技の会得は生まれついた才能に起因する。

 天技に目覚めた者を覚醒者と呼ぶのだが、その数はイダンリネア王国においても数十人しか確認されていない。

 ウイルもその内の一人だが、浮遊するマリシアが新たに加わった。少なくともこの少年はそう捉えている。

 雑談が終わり、訪れた沈黙。それを破ったのは、遠方から近づいてくる男の声だった。


「事態が飲み込めねーぞ! 一体全体どうなってやがる⁉」


 空中で吹き飛ばされたビンセントだが、当然のように無傷だ。悔しそうな、困惑しているような表情を浮かべており、二枚目な顔が台無しだが、非常事態ゆえ仕方ない。


「おかえりなさい。ビンセントさんもご無事でしたか。と言うか僕達の方こそ何が起きているのか知りたいくらいです」

「だろうな。ここからは俺達の管轄だ。傭兵共は避難しろ。おい! 応援を呼べ!」


 隊長の指示を受け、紅一点の部下が走り去る。

 残りの二人は野次馬を遠ざける必要があるため、持ち場を動けない。

 ならば、消去法でここには治維隊が一人のみだ。それが隊長ゆえ、戦力的には申し分ないが、相手の手の内が読めないため、部下の召集は必須と言えよう。


「おい、ウイル。前言撤退、おまえだけは手伝え」

「それは構いませんけど、いったい何を?」

「グラウンドボンド使えただろ? とりあえずは足止めだ。出来るな?」

「魔法の射程外です、ここからじゃ届きません。あぁ、ビンセントさんみたいに飛んで撃ち込んで来い、と」

「そういうことだ。ひとまず様子見でも構わないだろうが……」


 魔法の効果範囲は有限だ。

 攻撃魔法も、弱体魔法も、回復魔法さえも、対象が遠くにいる場合、近づかなければ詠唱にすら至れない。

 その距離はおおよそ三十メートル。

 容疑者は既にそれ以上の高さまで浮き上がっており、彼女の真下付近まで移動したとしても、ウイルの魔法は残念ながら届かない。


「翼の意味もわかりませんし、未だに上昇してるっぽいし、あの人は何がしたいのやら……」


 少年はぼやく。

 女神教の聖女、マリシア。単なる狂信者だろうという読みは、先ほどあっさりと否定された。

 何らかの力によって浮き上がり、ついには天使のような翼を生やしたのだから、その在り様は人間よりも魔物に近い。

 もしくは、神の真似事か。


「俺を吹き飛ばした方法も不明だ。いや、跳ね返されたと言うべきか。なんにせよ油断ならん」

「ビューンって飛ばされましたね」

「うるせー! 俺だから無傷で済んだが、あいつを取り押さえるにはどの道近寄るしかない。どうしたもんか……」


 ビンセントすらも頭を抱える。

 一刻も早く逮捕したいが、現状は相手の出方をうかがうことしか出来ない。

 何をしようとしているのか?

 何をしてくるのか?

 予想すらも困難だ。

 現在、判明している能力は二つ。

 空中浮遊と接近する者を吹き飛ばす力。これらに殺傷能力はなさそうだが、それでも楽な相手ではない。


「ウイル君、私はどうしたらいい? ううん、何が出来ると思う?」


 フランとしてもこの状況は面白くない。避難の指示に従う必要があるのなら考えを改めるが、女神教の信者は上空に浮いたままゆえ、ある意味無害だ。手伝えることがあるのなら、手を貸したいに決まっている。


「互いに魔法が届く距離でもありませんし、僕としては様子見に徹したいところですが、あの人、物騒なこと言ってたから出鼻をくじくのもありかもしれません。今度は僕が飛びかかってみます」

「おう、行って来い」

「が、がんばってね」


 言い出した上に背中を押された以上、少年は力強く一歩を踏み出す。

 魔法も、おそらくは弓やボウガンの矢すらも届かない高度だろう。銃についても断定は困難な上、そもそもそんなものは持ち合わせてはいない。

 相手は浮いている。ならば、地上戦を諦め、空中戦を申し込むことから取り掛かる。


「ふんぬ!」


 助走もなしに飛び上がる。垂直飛びそのものながら、飛翔距離は三階建ての建築物をあっさりと抜き去るほどだ。

 常人には決して真似できない。ウイルだからこそ可能な領域であり、風を突き破りながらグングンと昇り続ける。

 女の反応次第だが、チャンスがあれば足を掴むなりして地面へ引きずりおろしたい。

 そんな願望を抱きながら、少年は大声で叫ぶ。


「届きませんでした!」

「だろうな……。あの女、俺の時よりもっと上へ行ってやがる。どうしたもんか……」


 結果、ウイルは何事もなく着地すると、顔を赤らめながら二人の元へ帰還する。


「暴力では何も解決しません。説得を試みましょう」

「第一声がそれか。届かずとも近寄れたんだから、今度は魔法の一発でも撃ち込んで来い」


 少年の冗談混じりな提案は、当然ながら却下だ。ビンセントは腰に手を当てながら、もう片方の腕で空中を指差す。


「グラウンドボンドならちゃんと試しました。だけど、ダメでした」

「ほう?」

「効かないとか弾かれたとか、そういうことですらなく、何と言うか、手応えとしては吸収されたような感じでした。弱体魔法を受け付けないのか、属性相性か、そこまではわかりませんけど……」


 グラウンドボンドは対象をその場に縛り付けることが可能だ。相手が地上ではなく空中にいようと、本来ならば効果を発揮する。

 そのはずだが、今回は失敗だ。

 不発という表現が正しいのだが、ウイルの魔法は発動すらせず、魔源だけを消耗させられてしまった。

 ありえない現象だ。

 数多と存在する魔物の中には近いことをやってのける種族がいるのだが、今回の敵は人間。白い翼を生やし、浮き上がる王国民は過去に実例がないが、少なくとも姿かたちは普通の女性に他ならない。


「あれか? 火の精霊にフレイムやアイスクルが通用しないのと一緒か?」

「違うような気もしますが、そうなのかも?」


 精霊。魔物の一種なのだが、その在り様は全くの別種だ。

 例外はあれど一般的な魔物は、動物や昆虫の姿を模倣している。

 対して精霊は、生物でもなければ有機物ですらない。現象が具現化したような見た目をしており、火の精霊の場合、マッチや蝋燭の先端で燃える炎に近い。

 砂漠のような暑い地域で、メラメラと燃える火球を目撃した場合、そしてそれが迷い人のように右へ左へうろうろしていたのなら、それこそが火の精霊だ。

 人間が近寄ろうと、不意に襲ってくることはない。殴ったり、魔法を放てば話は別だが、精霊は草原ウサギ以上に温和な魔物だと考えられている。


「ウイル君、どういうこと?」


 三人の中で、フランだけが状況を読み取れない。傭兵としての経験の浅さも去ることながら、何より教養が少なすぎた。


「属性の力関係と言いますか、得意なのか苦手なのか、効果があるのかないのか、って話です。火の精霊はそのまんま火属性なので、戦うなら水の魔法で攻めるのがセオリーですが、火や氷の魔法は無効化されてしまいます。あの人にグラウンドボンドが通らなかった理由もこの法則なのだろう、と一先ず納得した次第です」


 属性とは、この世界の根幹を成す要素だ。

 火、氷、風、土、雷、水。

 そして、光と闇。

 全部で八種存在しており、グラウンドボンドのような土の魔法は雷属性の相手に大きな影響をもたらす一方、土ないし風属性の相手には通用しない。


「あの女、ふわふわ浮いてやがるし、風属性をまとってるんだろうな。知らんけど」

「今はそう決めつけるしかないと思います。ところで、これからどうしますか? 浮いてるだけで何もしてこないのなら、それならそれで構いませんが、多分そうもいかないでしょうし……」


 ビンセントとウイルの表情は暗い。

 今なお上昇中の白いローブは、言ってしまえば殺意の塊だ。気球のように浮いているだけなら害はないが、降り注ぐ圧迫感がそうではないと物語っている。

 警戒が必要だ。自分達に、もしくはこの国の人間に対して明確な殺意を抱いている。

 そのような人物が城下町を見下ろすだけで終わるはずもなく、三人は眉をひそめながら、翼の女を見上げ続ける。


「ニンゲンよ、傾聴なさい。いえ、女神様の声はワタシにしか届かない……。フフ、かわいそうなニンゲン達。ワタシが救って差し上げましょう。これは解放なのです。さぁ、始まりです」


 準備は整った。

 マリシアの眼下では、数え切れないほどの国民が蟻のように蠢いている。与えられた力では、一度にその全てを葬り去ることは叶わないが、真下の三人程度なら十分可能だ。

 自身の能力を把握し終えたのだから、後は狙いを定めて引き金を引けば良い。

 そのことに躊躇いなど感じない。人間の数を減らすことが使命だと気づかされた以上、鼻歌を口ずさむように攻撃を開始する。

 ブゥンと出現した魔法陣。

 その大きさは大皿程度か。青白いそれは新円を描いており、彼女の眼前で標的方向へ傾きながら、つまりは地上に狙いを定めながら、銃口のように光線を発射する。


「うっ⁉」

「フランさん!」

「な、なんだ……?」


 その後の反応は三者三葉だ。

 フランは鳩尾付近を撃ち貫かれ、苦痛に顔を歪めながら倒れる。

 ウイルは慌てた様子で駆け寄るも、二射目の可能性にまでは考えが及ばない。

 ビンセントも、ただただ困惑中だ。空から一本の光が降り注いだと思った次の瞬間、傭兵が負傷したのだから、状況の整理が追い付かない。

 一方、空中のマリシアだけは冷静だ。授かった力に酔いしれながら、多幸感に体をくねらせる。


「なんと素晴らしい! 女神様、感謝致します。ワタシはこれで! あなた様の代わりにニンゲンを駆逐致します! やはり、ニンゲンに慈悲など不要なのですね! 代行者として、その務めを必ずや全う致します」


 試射に成功したのだから、ここからが本番だ。

 再度、彼女は魔法陣を呼び出すも、今回は一つではない。二つ同時の展開さえも可能だ。

 その面は当然のように下方向へ向けられており、その先には二人の男が這いつくばっていた。


「フランさん! フランさん! くぅ、服と体に穴が空いて……、出血がひどい。場所もやばい気がする」


 ウイルは困惑しながらも、負傷者に身を寄せる。

 彼女の腹部には槍で突かれたような、もしくは銃で撃たれたような傷が作られており、それは背中側から観察したとしても同様だ。

 内臓の損傷および体内での出血から、軽傷では済まない。その証拠にフランは体を起こすことさえ出来ず、咳き込みながら吐血している。


(急いで手当しないと……。治維隊の中に魔療系の人がいてくれれば……)


 彼らの到着を待つしかない。ウイルはそう判断するも、状況がそれを許さない。


「次が来るぞ!」


 この声はビンセントだ。

 状況の変化を手短に説明しているのだが、今のウイルには反応すら出来ない。頭上ではなく下しか見ていなかったため、避けるという選択肢すらも失念していた。

 それでも、とっさにフランへ覆いかぶさる。自身の体では盾にすらならないことは百も承知だが、本能的に庇ってしまったのだから、共倒れ以外にありえない。

 そのはずだった。


「チィ!」


 結果的には二人共助かる。機転を利かせたビンセントが、光線を避けながらウイルを蹴飛ばしたからだ。

 少年は代償に臀部を容赦なく蹴られてしまったが、胴体のどこかしらに風穴が作られるよりかは遥かにマシだろう。


「イタタタ、あ、ありがとうございます」

「いいからそいつを連れてさっさと逃げろ! ここからならギルド会館が近いだろう⁉」

「で、でも……、いや、確かにその通りだ」


 大人に説き伏せられたことで、ウイルは考えを改める。

 ここに居座って助けを待つということは、マリシアに狙われ続けると同義だ。怪我人を庇いながらの防戦などおおよそ不可能だと悟り、少年はフランを両腕で持ち上げるや否や、チラリとビンセントへ視線を向ける。


「すぐ戻ります」

「邪魔だから避難してろって。あの野郎は俺達がぶっ飛ばす。治維隊をなめんじゃねー」


 頼もしい軽口を合図に、傭兵は風のように走り出す。

 前だけを向いて走れる理由は、追撃の標的が居残った隊長に絞られるだろうと考えてのことだ。

 ましてや、目的地は目と鼻の先なため、頭上を気にする暇があったら急ぎたい。

 その予想は正しかった。白いローブと桃色の長髪を風で躍らせながら、聖女は遠ざかる子供を眺めることしか出来ない。


「ハエのようにうろちょろと……。目障りな……。ニンゲンの分際で」


 標的は米粒のように小さい。その上、高速で動かれたら、狙うのも一苦労だ。離れ過ぎた弊害に悩まされながら、女は改めて標的を定める。


「でしたらアナタから殺して差し上げます。オトウサンとオカアサンを連れ去った治維隊から……。オトウサン? オカアサン? 誰? 何? 思い出せない。大事な、人達だったと思うけど……。ううん、そんなことはどうでも良い。ワタシには女神様の加護があるのだから」


 掃除の再開だ。そのための力を与えられたのだから、この世界から人間を一人残らず排除する。


「死になさい。ディバイン・レイ」


 この殺傷手段をそう名付けた。

 神の光線。

 命名権さえも委ねられた以上、聖女は歓喜と共にその名をささやく。

 直後、魔法陣が発現。

 そこから一直線に光線が射出され、光の道筋が男を貫く。

 それこそがマリシアの望んだ光景だった。

 しかし、現実は否定される。

 獲物は有象無象の人間ではない。治安維持のために日夜戦う部隊の隊長だ。目が慣れてしまえば、対応可能な範疇だ。


「速いだけだな。第一、ご丁寧に攻撃の合図をしてくれんだから、当たるわけねーだろ」


 緑色の制服にすら、かすらせはしない。動作としては体を半歩、左へずらしただけなのだが、光線の太さは貨幣程度ゆえ、タイミングさえ掴めたのなら回避は造作もない。

 もちろん、この男だからこそだ。ただの王国民なら、来るとわかっていても避けられない。魔法陣の展開にあわせて走り回れば可能性もあるだろうが、被弾するかどうかは運否天賦だ。

 勝ち誇る人間を見下しながら、マリシアは下唇を噛みしめる。二射目が避けられた理由は偶然だろうと思っていたが、三射目すらも当たらなかった以上、受け入れるしかない。


「なんと愚かな……。ニンゲンのいない世界こそが女神様のお望みだと言うのに……。そうとも知らず、受け入れないばかりか、拒絶する、その浅はかさこそが罪なのだと知りなさい。いいえ、違いましたね。女神様に代わり、その使命をワタシが果たせば良いのです。ワタシは代行者、選ばれしニンゲン」


 理解したのだから、ここからは行動で示す。

 そのための手段は既に手の中にあるのだから、淡々と実行に移すのみだ。

 いくつもの魔法陣を展開した理由は、人間の数を減らすため。

 狙うは先ほどの男以外。

 眼下には数えきれないほどの住宅が並んでおり、異変に気付いた住人達が遠巻きにマリシアの姿を見上げていた。


「ま、まさか⁉」


 このタイミングでビンセントも気づく。

 しかし、もう遅い。多数の光線が雨のように降り注ぐと、その一本一本が人間を問答無用で始末する。運良く即死を免れた者もいるが、体に穴が空いた以上、拷問のように苦しむだけだ。


「ハハハハハ! 死になさい! 消えなさい! いなくなりなさい! それこそが女神様のお望みなのですから!」


 呪言を吐き続ける姿は狂信者そのものだ。血だまりに倒れ、動かなくなった人間を見下しながら、恍惚な笑みを浮かべている。


「こ、こいつ……!」


 治維隊の隊長として、見過ごせるわけがない。状況は最悪の方向へ転んでしまったが、さらなる惨事を防ぐため、覚悟を決して真っ向勝負を挑む。

 後方へ走り出し、勢いそのままに反転。行先を定めれば、全力疾走の後に跳躍だ。


「うおおぉぉ!」


 助走のおかげか、ビンセントの高度がマリシアに届く。

 後は斬りかかるだけだ。鞘からは既に片手剣を引き抜いており、その刃で肉を切り裂けば、被害は抑えられる。


「無駄な足掻きを……」


 この状況はマリシアにとって好機だ。相手は飛翔中ゆえ、前後左右へ逃げ回ることが出来ない。ディバイン・レイで狙い放題なのだから、迎え撃たない理由がなかった。


「朽ちなさい」


 三つの魔法陣から生み出された白色の光線。それらが容赦なく彼を貫いてしまう。

 右胸。

 左腕部。

 腰。

 緑の制服を突き破り、肉体と内部の臓器を破壊するように貫通した。

 致命傷だ。

 それでも男は怯まない。この状況は既に織り込み済みだ。

 光線に晒されようとも勢いまでは失わず、覚悟を乗せて刃を振り下ろす。

 しかし、勝敗は初めから決していた。

 失念していたとも言えよう。


「愚かな」

「なん……だと……」


 女が嘲笑う中、ビンセントは不可視の力に跳ね返され、録画映像の逆再生のように吹き飛ばされる。

 浮遊とも光線とも異なるそれが、彼女の三つ目の能力だ。

 敗者はマリシアの脅威度を改めながら、あふれ出る血液と共に地面へ落下していく。


「ふふ、呆気ないものです」


 勝ち誇る姿は、紛れもなく勝者のそれだ。

 もしくは神の使いそのものか。

 純白の翼はどこまでも美しく、信者以外も魅入する。

 聖女は空に浮かびながら、頭上を見上げずにはいられない。

 女神教の信仰が起こした奇跡。

 もしくは、運命のイタズラか。

 どちらにせよ、彼女は止まらない。

 絶対の力をその身に宿した以上、その使命を果たすことこそが宿願だ。

 これこそが待ち望んだ幸福なのだと気づかされた。

 手始めに、イダンリネア王国を滅ぼさずにはいられなかった。

 ゆえに、止まらない。

 誰かに阻止されない限り、止まるはずもない。

 対抗出来る存在などいないのだから、勝ち誇ることは必然だ。

 だからこそ、決着は次の瞬間に訪れる。


「女神様! 必ずやニンゲンを滅ぼし……」


 信仰していた神に、感謝の言葉を伝えたかった。ただそれだけのことが、なぜか阻止された。

 重く、気持ちの悪い音が彼女の耳に響く。

 何かが、腹部にぶつかったことで生じた騒音だ。

 ここは上空ゆえ、野鳥か何かだろう。マリシアはそう考えようとするも、現実逃避は許されない。

 それは、彼女の腹を通り抜けるほどの勢いで衝突した。

 矢は届かない。

 銃弾もそのはずだ。

 ならば、何だ?

 神に祝福された結果なのか、痛みは感じない。

 そうであろうと、漏れ出る血液が多量だったため、顔や指先から血の気が引くのは当然だった。


「ゴフッ、何を……されたと言うの?」


 わからない。

 わかるはずもない。

 彼女の視線は空の向こう側に向けられていたため、後からでも自身の負傷具合は推し量れるも、凶器の特定は困難だ。

 慌てず、しかし茫然と、首を折り曲げ腹部を眺める。

 白いローブにも拳大の穴が空いており、その周りは既に真っ赤だ。赤色の侵食がさらに広がる理由は、血液があふれ出ている証拠に他ならない。


「嘘? このままじゃ……」


 唯一の救いは、やはり痛みを感じないことだろう。

 もしも痛覚が正常に作用していたら、ショック死さえもありえた。

 何が起きた?

 何をされた?

 もちろん攻撃なのだが、それすらもわからないまま、解答は向こうから現れる。


「ひい!」


 気づいた時には、もう遅い。

 前方から。

 正しくは、城下町の方角から。

 灰色の小さな何かが、ありえない速度で迫り来る。

 飛翔体の正体を理解するも、迎撃は間に合わない。反射的に悲鳴が漏れたが、それが最後のリアクションだ。

 飛んできたそれは、小石と呼ぶには少々大きな丸石だ。重力を無視するような勢いゆえ、その破壊力は大砲のように人体を破壊出来てしまう。

 マリシアは桃色の頭髪ごと、頭部を大きく欠損させられ、その結果、脳しょうをまき散らしながら落下を始める。

 いかに力を与えられようとも、絶命したのならそこで終わりだ。

 頭部および脳の一部が破壊された刹那、彼女の思考も停止したのだが、それでも一つの疑問を抱いた。

 この石は、どこからやってきた?

 残念ながら、わかるはずもない。発射地点はそれほどに遠く、その高度からでは人間などちっぽけな存在だ。

 その内の一つが、全力で放り投げた。

 近寄れないのなら。

 銃の類も届きそうにないのなら。

 だったら、鍛えた己の肉体を試すまでだ。


「戦いの最中に余所見するから……。いや、勝ち誇ってたのかな? だとしたら、あいつみたいでムカつくな」


 勝者の名は、ウイル・エヴィ。

 適当な石を拾って、本気で投げつけた。

 単なる投石でしかない。それでも、人間程度なら容易く殺せてしまう。傭兵とはそういう人種であり、その点が女神の誤算だった。


「やりすぎちゃったかもしれないけど、取り調べも出来なくなっちゃったけど、許すことは出来ないし……。ここから先は、治維隊が何とかしてくれる……はず。あ、ビンセントさん無事かな?」


 ざわつく町中を少年が駆ける。

 王国の民は知らない。

 女神教の信者が、単身で暴れたことを。

 その結果、何人もの住民が殺されたことを。

 凶行を、この傭兵が終わらせたことを。

 女神教とは何だったのか? 真相は未だ闇の中だ。

 ならば、当事者に尋ねるしかない。

 聖女は死んだ。

 彼女は重要なポジションに就く信者かもしれないが、それでもその内の一人でしかない。

 ここからは次のステージへ移行する。それもまた治維隊の仕事であり、ウイルの出番はここまでだ。

 そのはずだった。

 闇はまだ蠢いている。

 そのことを知る者は、ほとんどいない。

線上のウルフィエナ

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