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その客間は埃まみれだ。いかに立派な屋敷であろうと、掃除が行き届かなければ廃墟のように汚れてしまう。
その中心で色褪せたソファに座りながら、女は孤独な時間を過ごしていた。
着ている服は、血のように真っ赤なローブ。フードは首の後ろに垂らしており、短い白髪をさらけ出している。
彼女はこの家の家主ではない。言わば客人であり、住み着いて以降、丁重にもてなされてきた。
しかし、今は独りだ。
家の外は黒色に飲まれており、街灯の灯りは窓を照らさない。
ゆえにマジックランプが室内に光をもたらすも、彼女の表情は暗いままだ。
(もう十時を過ぎてるって言うのに、あの娘ったら……。勧誘に励んでいるのなら偉いけど、門限を決めておくべきだったのかしら? 二十を超える大人相手に? ふん、馬鹿馬鹿しい)
この家の世帯主はマリシア・ウーベ。
対して、この女の名前はトライア。マリシアを洗脳した教祖であり、今は彼女の帰宅を待っている最中だ。
つまらなそうに背もたれへもたれかかっている理由は二つ。
昼食と夕食を自分で用意せねばならなかったことに不貞腐れており、そして、彼女が帰って来ないことを不審に思っている。
このような状況は初めてだ。マリシアは両親を逮捕されて以降、教祖を自宅に招き入れ、身の回りの世話に従事した。
それこそが彼女の仕事であり、勧誘のノルマは他の信者とは異なり課せられてはいなかった。
その反動か?
聖女という肩書に瞳を輝かせ、二日続けてギルド会館に通い続けており、今朝も意気揚々と家を飛び出した。
トライアはマリシアの帰宅を昼頃と予想するも、その読みはかすりもしない。
陽が沈み、夜空には星々が輝いている。
イダンリネア王国もすっかり静まり返り、今日という一日に別れを告げる頃合だ。
寝ようと、寝まいと、明日は必ず訪れる。
ならば、この女が選ぶのは前者だ。マリシアの帰りを待ち続けるつもりなどなく、この家は乗っ取ったのだから、豪華な寝室でベッドに身を委ねてしまえばよい。
その前に、ソファから立ち上がってリビングの灯りを消すことから始める。マリシアのためにつけっぱなしでも良いのだが、彼女の母親に近い年齢でありながら、そのような気遣いは全く思いつかない。
(明日も自分でご飯作らないといけないわけ? は~、めんどくさ……。帰ってきたら説教しないと)
教祖は心の中で愚痴る。
マリシアが心配なのではなく、メイドのようにこき使うことしか頭にない。教祖ならばその佇まいが正解なのかもしれないが、同居人としては最低だ。
(咄嗟の思い付きで聖女なんて言っちゃったのがなぁ。あの娘は両親共々馬鹿だから顎で使いやすいけど、張り切っちゃう馬鹿ほど面倒臭いものもないわね。まぁ、いいわ。今日はもう寝ましょう)
これが教祖の本心だ。
この家に寄生するため、トライアはマリシアの両親を含む信者達に軍区画を襲わせた。
結果は当然のように全員逮捕されてしまったが、自身は足取りすら掴ませず、見事逃げ切ってみせる。
そればかりか、傷心中のマリシアに近づき、心の隙間に付け入ることで豪邸を入手する。
その後の人生は安泰だ。
女神教のトップとして、それらしいことを信者に伝え、己はこの家からほとんど外出しない。
朝、昼、晩の食事をマリシアに用意させ、金と信者の獲得だけに専念する。
ここまでは、おおよそ成功と言えよう。
貧困街に教会を建設し、そこを女神教のシンボルとする計画は破綻してしまったが、金が動く前だったこともあり、懐は痛まない。
場所の選定、下見、廃墟の掃除。これらが無駄になってしまったことは事実だが、暇を持て余していた彼女にとっては良い運動になった。
その程度の認識だ。
浮浪者が何人死のうと、知ったことではない。
この世界は弱肉強食だと誰よりも理解しているのだから、罪悪感など物心ついた頃には捨て去った。
そもそもこの女は、被害者の正確な人数すら把握していない。
建物四棟に子供達が身を寄せていることまでは理解していたが、王国の民が何人死のうが構わない。ましてやそれが浮浪者なら、彼女にとっては昆虫未満だ。
消灯のため、赤いローブをたなびかせながら歩く。
室内はまさに盛者必衰だ。置かれた家具の一つひとつが自己主張しており、薄汚れてさえいなければ、高値で売り買いされただろう。蜘蛛の巣もあちこちに存在しており、仮にメイドを雇ったとしても、この光景を前にすれば初日で退職を希望するはずだ。
(明日の朝は何を食べようかしら。シナモンロールとリンゴと……)
そんなことを考えながら、女は壁掛けのランプに手を伸ばして垂れ糸をそっと下へ引く。
その瞬間、室内から光が失われ、入れ替わるように黒く染まる。
廊下の灯りはつけっぱなしゆえ、そういう意味では完全な暗闇ではない。
その方角へ、歩みを進めたその時だった。
(え? 複数の殺気? もしかして、この家、囲まれてる?)
本来ならば、感知不可能なプレッシャーだ。
それでもなお、この女は闇の中で集中力を高めると、その数を見事言い当てる。
(七……、九……、十人もいる。どういうこと? こいつら誰?)
わからないことばかりだ。
ここはウーベ家の豪邸であり、それ以上でもそれ以下でもない。
そのはずだが、一般人ではない集団に包囲されている最中だ。
そう。敵は単なる民衆ではないと、トライアは既に見抜いている。
(やっぱり王国軍? でも、何で? もしかして、あの娘が帰らないことと関係が……? タイミング的にそうとしか考えられないわね。女神教の一斉検挙と言ったところかしら? 勧誘中のマリシアが逮捕されて、私のことをゲロった……。教祖なんだから、手厚い歓迎はごもっともってところかしらね。はぁ、ありがた迷惑……)
寝間着でないことが唯一の救いか。真っ暗な室内で気配を押し殺すと、一人静かに作戦会議を始める。
(逃げるしかない……か。でも、どこへ? はぁ、考えるまでもない、村に帰るしか……。四十過ぎた私に居場所なんて残ってないでしょうけど……。あ、いっそ捕まっちゃうのもアリなのかしら? いや、教祖なんだから首を斬られて終わり……よね。十年以上もがんばったんだから、村長も少しは私のことを認めてくれると思うしか、ない。よし、そうしましょう)
方針が定まったのだから、ここからは行動あるのみだ。
先ずはこの家からの脱出し、そのついでに包囲網を突破しなければならない。
わずかな気配から、ぐるりと囲むように十人もの猛者が配置されていることは把握出来ている。逃げ切れるかどうかはわからないが、大人しく逮捕されるつもりもなく、女は足早に二階を目指す。
灯りのついた空間は、一階の廊下だけ。
一方、彼女が今いる場所は無点灯の自室だ。
クイーンサイズのベッドとも、タンスに収納しているお気に入りの服達とも今日でお別れだ。机の上には読みかけの本が置かれているものの、それを手に取る猶予はない。
(来る……)
殺気からの逆探知で、この女は彼らの位置と動きを読み切ってみせる。
それが正しいと証明するように、玄関のドアノブが腕力だけで破壊されると、音を立てずにゆっくりと開かれた。
侵入者が眩い廊下を眺めると同時に、彼女も行動を開始する。
(作戦は不完全燃焼だけど、十分楽しませてもらったわ。村に帰ったら魔物と魚しか食べられないと思うとゲンナリだけど、おままごとは今日でおしまい。さようなら、お馬鹿な聖女さん)
この家とイダンリネア王国に別れを告げるため、トライアは黙祷のように瞳を閉じる。
「インフェルノ」
赤いローブから魔力の残滓が泡のように湧き上がる中、女は手のひらを開けっ放しの扉へ向ける。
詠唱はたったの四秒で完了だ。
その瞬間、狙った地点に、つまりは二階の廊下に巨大な火柱が発生、邸内を轟々と燃やすだけに留まらず、真っ赤な柱自身が爆発するように周囲へ拡散し始める。
それを合図に、トライアは巻き込まれないギリギリのタイミングで自室から外へ脱出するも、その表情は満面の笑顔だ。
「久しぶりに唱えたけど、やっぱり大火力って気持ちイイわ~。さ~て、ここからが問題、上手く逃げ切れそうかしら」
インフェルノ。上位魔法に位置する、強力な攻撃魔法だ。フレイムが火の玉を射出する一方、こちらは火柱を起点にその周囲を一斉に焼き尽くせてしまう。範囲魔法とも呼ばれており、魔攻系の人間が長い鍛錬の後に会得する。
窓を突き破った彼女の跳躍は、さながら鳥のようだ。
部屋から飛び出した際に、当然ながらガラスが悲惨したが、騒音は業火がもたらした爆音に紛れ込んだ。
彼女を包囲していた集団も魔法の方に注視してしまったため、教祖の脱出を見落とす。
後はこのまま、イダンリネア王国から逃亡し、遥か西を目指すだけだ。
つまりは道半ばゆえ、今は気を抜かずに自宅から離れる。
たった一度の跳躍で、何件もの建物をあっさりと飛び越えてみせた。その身体能力が偽物でないことは着地の直後に実証される。
落下地点は街道だ。大通りほどの道幅はないが、大きな住宅街の中心ということもあり、普段ならパラパラと通行人がすれ違う。
しかし、夜中ということもあり、運良く、このタイミングでは無人だ。
そこへ、無音ではなかったがスマートに着地を果たすと、一呼吸も置かずに再度跳ね上がる。
二度目のジャンプもかなりの高度だ。三階建ての一軒家ですら、易々と飛び越してみせる。
(追っては……来なさそうね。これだけ離れれば私の勝~ち。お~、燃えてる燃えてる)
暗闇の中、女は空中で体を捻じって反転する。
後頭部と背中で夜風を感じながら、眺める夜景は格別だ。
街灯が作り出す、光の道しるべ。
室外へ漏れ出てしまう、星空のような光達。
そして、赤というよりはオレンジ色に近い、大きな炎の揺らめき。
住み着いていた屋敷が、鎮火すら出来ないほどに燃えている証拠だ。大火力の魔法で内側からあっという間に燃やされたのだから、侵入者も無事では済まないだろう。
(入って来てた二人も、きっと黒焦げね。さらにはもう一人か二人ってところかしら? ざまぁないわ)
この予想は概ね正解だ。
インフェルノの範囲は玄関にまで届いており、この時点で二人が焼き殺された。
次いで、救助のために入り込んだ人間が瞬く間に全身を焼かれて、合計三人。
彼らは治維隊だ。日中に起こったマリシアとの戦闘で情報を得られたことから、教祖を様々な事件の容疑者と断定し、勢いそのままに逮捕するつもりでいた。
その結果が、これだ。
作戦自体は正しかったろうが、今回ばかりは相手が悪かった。
彼らは気配を殺していたのだが、この女はそれ以上に鋭敏な五感を持ち合わせていた。
その上、治維隊という実力者をあっさりと焼き殺せるだけの魔力を有しており、黒焦げの焼死体を三人分こさえてしまう。
トライアが上回っていた。ただそれだけの事実が、勝敗を決した。
(眠たかったのに眠気がどこか行っちゃった。まぁ、いいわ。行けるところまで離れましょう)
バッタのように、静寂の町中をぴょんぴょんと跳ねる。その度にいくつもの建物を突風のように飛び越えるのだから、王国からの脱出はもう間もなくだ。
(こんなところに左遷させられて十五年……。けっこう楽しかったわ、サヨウナラ)
勝ち誇るように。
王国を見下すように。
闇夜に紛れながら、静かに笑う。
この地に忍び込んだ一年後に、女神教を復活させるも、今日まで尻尾を掴ませなかったことは自信に繋がった。最後の最後で逮捕されかけたが、こうして逃げ切れたのだから負けではない。
元いた里に帰還せねばならなくなったが、その後の身の振りはそれから考えれば良いと前向きに捉える。
今はとにかく逃亡だ。追っ手を振りきれたのだから、慌てずに壁の向こう側を目指せば良い。
油断も慢心もしていない。この女は慎重な人間だ。
そうであろうと、突風が吹けば風向きは変わる。その気配を察知した時には手遅れだった。
「やっと追い付けた、グラウンドボンド」
慌てて振り返ると、そこには闇に紛れるように少年が一人。同じルート、同じやり方で距離を詰めていたのだろう、滑るように落下中だった。
両者の距離は魔法の射程範囲内ゆえ、練られた魔力が不可視の本を介し、標的をあっという間に拘束する。
「しまっ……⁉ くそ、動けない⁉」
グラウンドボンドが成立した結果、トライアは着地の直前ながら宙に浮く形でピタリと静止する。足は地面に届いておらず、走ることも飛び上がることも出来ない。
短い白髪の下で、女の表情が悔しそうに歪む。
追い付かれてしまったこと。
なにより、弱体魔法で足止めされたことに困惑の色を隠せない。
一方、治維隊でもなければ軍人でもないその少年だけは至って冷静だ。
「隊長さんに頼まれたから加勢してみたら……、最後の最後でこんな伏兵と出くわすなんて思ってもみなかったです。だけど、拘束させてもらいました。あなたの命運もこれまでです」
ウイル・エヴィ。着地と共に短剣を右手に構え、逃亡の失敗を言い渡す。
マリシアとの闘いから半日も経っておらず、本当ならば今頃は眠りについていたはずだった。
帰宅後、パオラの遊び相手を務めていた最中に、本日二度目の来客が訪れる。
それが治療を終えたビンセントであり、教祖を間髪入れずに捕らえることから協力を仰ぎたいと頼まれてしまった。
状況的に断れるはずもなく、夕食を前に治維隊の本部で作戦会議に参加、そのままウーベ家の包囲に加勢した。
その際に、治維隊および豪邸からはあえて離れていたことが功を奏した。爆発のような火事には驚かされたが、爆ぜるように飛び出した人影を見逃さずに済んだばかりか、こうして追い付くことに成功する。
この状況、トライアとしてはただただ屈辱だ。
邪魔をされたことも去ることながら、相手が十数歳の子供にしか見えないのだから、おちょくられていると捉えてしまっても仕方ない。
「かわいい坊やだね。良い子だからおうちに帰ってネンネしたら?」
「そうしたいのは山々ですが、先に用事を済ませてからです。あなたには女神教の親玉として、洗いざらい吐いてもらう必要があります。教祖様なんですよね?」
このやり取りが、彼女に自分の置かれた立ち位置を理解させる。
(こいつも、家を包囲してた内の一人……。見た目はただのガキだけど、軍か治維隊に雇われた傭兵ってところかしら? だとしたら……)
侮ってはならない。
そう自分に言い聞かせ、謀るように語りかける。
「女神教? 教祖様? 何のことだい? 私は単なる傭兵さ。これから狩りに行こうって時に、なんてことしてくれるのさ」
「しらばっくれても無駄です。女神教の信者はフード付きの白いローブを着ていますが、一人だけ、まさにそんな感じの赤色を着ている人がいることは調べがついています。そして、さっきの魔法で確信しました。あなたが貧困街の子供達を殺した犯人ですね? 更地にするため、建物をグラニートで壊すなんて……。なんてことを……」
インフェルノを使える戦闘系統は魔攻系だけだ。
そして、それはグラニートにも当てはまる。
ウイルの推理は現状だと決めつけに過ぎないが、教祖は観念したように笑い出す。
「ははは、すごいすごい。王国もでかいだけじゃないのね。そこまでバレちゃあお手上げ、私の負けだわ」
「認めるんですね。だったらこのまま、治維隊に引き渡……」
「なんて言うと思ったの? 足掻いて足掻いて、そのままトンズラこくに決まってるでしょう? まさか、そんなこともわからないの? あんた達ってそういうところが抜けてると言うか、ほんと馬鹿よね~」
話し合いは決裂だ。そもそも両者は追う側と追われる側ゆえ、相互理解など最初からありえない。
「そうですか。だけど僕にはグラウンドボンドがあります。きっかり三十秒、フルに効果があったことから、魔力の優劣はお分かりですよね? 逃げる素振りを見せたら、再度拘束します」
「その点だけは私も驚いたわ。確かに私は、能無しの烙印を押された下っ端の下っ端。その上、ここ十年くらいは完全に怠けてたから、体も随分となまっちゃってる。だけどね、ご存じかもしれないけど、魔力と魔源はそう簡単には衰えないの。この意味、わかるかしら?」
「いえ……」
灰色の髪を躍らせながら、ウイルは首を左右に振る。
今更魔力を誇示されたところで、グラウンドボンドの命中は確実だ。
この少年が腑に落ちない点は、魔力うんぬんの話ではなく、自己評価のくだりに集約される。
つまりは、この女は何かしらの組織もしくは集団に属している可能性が高い。それが女神教だとしても、やはり意味不明な発言だ。
教祖なのだから、グループ内の誰かから罵られるはずはない。
ゆえに、女神教とは別の何かだと考えるのが妥当だ。
(王国王国言ってるし、この人はルルーブ港とかもっと南の村出身か……。反王国的な連中がバックにいるのかもしれないな。だとしたら厄介過ぎる……)
魔物が相手なら、正面から戦えば決着がつく。
実力が足りなければ殺されてしまうが、裏を返せば勝ち負けはシンプルだ。
しかし、人間同士の争いとなると煩わしい。
犯罪者一人を逮捕するにもしても、目撃情報や証拠と言ったものを揃えなければならない。現行犯ならその場で取り押さえてしまえば良いが、計画的犯行ならばそのような期待は無駄だ。
「ここはどこかしら? ほ~ら、右見て……、左もよ」
街灯が二人の近くにないことから、両者は薄暗い夜道でにらみ合いを続けている。
同時に、ここはイダンリネア王国の領土内であり、西側ゆえ、住宅や軍区画に近い。
そう。両者の左右にはずらりと一軒家が立ち並んでいる。住民の多くはまだ寝ていないのか、そのほとんどからは明かりがこぼれている。
「ま、まさか……」
「グラウンドボンドの最中だろうと、魔法は使えるでしょう? インフェルノを一発お見舞いしたら、この辺りってどうなっちゃうのかしら? ねえ、教えて、お姉さんに」
(お姉さんじゃなくておばさんだろうに……。だけど、確かにまずい。ここで追いつめたのは失敗だ)
攻撃魔法のフレイムなら、一度に一軒の放火が限界だろう。火の玉を一つしか発射出来ないためだ。
しかし、インフェルノだったらそうもいかない。半径数十メートルを火の海に変えられるのだから、右か左に撃ち込まれたらその時点でウイルの負けだ。
「う、うぅ……」
言葉に詰まる。
多数の王国民を人質に取られている以上、グラウンドボンドの使用は悪手だ。今は大人しく相手の出方を伺う他ない。
「私はこのまま逃げるけど、その前に教えて。どうして私のことがわかったの? 具体的には、あの家にいるってことを」
「それは……、マリシア・ウーベを逮捕したら、あなたのことを供述したからです」
少年は嘘をつく。
マリシアは既に死んでおり、眼前の女についてもそこまで白状しなかった。
それでも治維隊はものの数時間で教祖の潜伏先を特定してみせる。ウーベ家の屋敷には娘しか住んでいないはずだが、実際にはもう一人の女性が出入りしているという目撃情報を得られた。手がかりとしては十分だ。
金持ちの家に身を寄せるという立ち回りは、賢い身の振りだろう。そのおかげで治維隊は長年に渡って教祖を特定出来なかったのだから、マリシアとの死闘は無駄にはならなかった。
「そうなの。やっぱりあの娘は捕まったのね。あ~あ、失敗しちゃったな~。まぁ、でも? 王国の人間をいくらかは減らせたでしょうし、ひとまずはオーケーとしましょう」
呆れるように、トライアは笑う。
この女は全てを失った。
女神教とその地位。
信者達。
そして、帰る場所。
状況としては最悪なはずだ。ましてやこうして追い付かれてしまったばかりか、素顔さえも見られてしまった。
素性までは明かしていないが、それでもイダンリネア王国からは去らなければならない。
ウイルもそこまではわかっている。追いつめているという自負もあるのだが、今回は相性があまりに悪かった。
魔攻系。この戦闘系統は攻撃魔法を会得出来てしまう。そこから一歩も動かずに、周囲を焼け野原に変えることが可能だ。
そして、ここは城下町、その西側。彼女の足ならものの数十秒で国外へ出られるだろうが、ここは道半ばだ。
住民を人質に取られているに等しい以上、グラウンドボンドの使用は意味を成さない。犠牲を払うことをよしとするのなら、この女を捕らえることは可能だろう。
選べる選択肢は三つ。
このまま教祖を逃すか。
拘束後、被害に目をつぶって治維隊を連れてくるか。
もしくは、インフェルノを使われるよりも先に相手を気絶させるか。
(詠唱時間は四秒。やるしか……ない!)
魔法の発現には準備期間、すなわち詠唱という手順が必要だ。
グラウンドボンドなら一秒。
回復魔法のキュアならその半分。
そして、上位魔法でもあるインフェルノは四秒も詠唱に専念しなければならない。
その間に邪魔が入って集中力が途切れれば、詠唱はやり直しだ。
ウイルは欲張りゆえ、諦めるはずもなく、一方で被害を出したくもない。
ならば、選ぶ選択肢は消去法で一つだ。
一対一の戦いを申し込み、インフェルノを使わせずに鎮圧する。
そもそも、そうする他ないのだから、少年はあっさりと腹をくくる。
「良い案が浮かばないので、あなたを倒すことにします」
「そう。私にも子供がいたら、きっと君くらいの年齢だったでしょうね。だから、私のことはお母さんだと思って、手加減してくれると嬉しいわ。さっきも言った通り、体がなまりになまっちゃってるの。これだけは本当よ?」
彼女の発言は紛れもない本心ながら、ウイルには響かない。
言われるまでもなく、トライアは相応の年輪を刻んだ大人の女性だ。その顔は苦労が垣間見えるほどに小じわが存在しており、赤いローブからチラリと露出している手の甲にもたるみが見える。
そういう意味でも、若くはない。実際にはウイルの母親よりも年上ゆえ、手心の一つも加えるべきなのだろう。
それでもそうしない理由は、眼前の女が決して弱くはないからだ。脚力やインフェルノの習得から、ある程度は推し量れてしまう。
侮れない相手だ。
憶測ながらもそこまでわかっているのだから、傭兵はボロボロのアイアンダガーを前面に突き出しながら、腰をゆっくりと落とす。
それを合図にその姿が夜道から消えるも、この女はあっさりと対応してみせる。
「があっ⁉」
悲痛な声はウイルのものだ。相手の背後へ移動し、両脚を斬りつけるつもりでいたのだが、気づけば石畳に顔面を押し付けられていた。
そればかりか、下へ圧迫された結果、少年の上半身は路面を砕きながら頭ごと埋没してしまう。
「あら~? 随分とトロいのね。それとも、本気を出さないでくれたの? だとしたら嬉しいわ」
この状況がトライアに笑みをこぼさせる。
安堵するように。
勝ち誇るように。
惨めな傭兵を見下しながら、灰色の髪ごしに頭を押し込み続ける。
「ぶふ、うぅ……」
「この程度で降参なんて……しないわよね? お姉さんとちょっと遊んでもらおうかしら」
本来ならば、トライアは逃げることを優先すべきなのだが、そうしない理由は追っ手が来ないことを見抜いたからだ。
この傭兵に追い付かれてから、既に一分以上は経過している。
その間に誰一人として駆けつけて来ないのだから、女はうっ憤を晴らすように暴力を振るう。
灰色の髪を掴み、人間一人をあっさりと持ち上げると、先ほどとは別の地点へウイルの顔を打ち付ける。
一度ならず、二度、三度と、容赦なく。
その度に、石畳の道には亀裂が入り、おぞましい騒音が夜の城下町を駆け巡る。
「あら~? もう動けないの? 少し力を入れ過ぎたかしら? 傭兵って存外脆いのね」
逃亡中でありながら、今はおもちゃで遊ばずにはいられない。
殺すつもりなどないのだが、ウイルは既に虫の息だ。
顔面はあちこちが赤色に塗られており、鼻からの出血も止まらない。持ち上げられてもなお、反撃に転じられない理由は、突き刺さるような痛みに意識がかき乱されているためだ。
一方、教祖は敗者を同じ目線まで持ち上げながら、このタイミングで認識を改める。
「もしかして、この国って警戒するほどじゃ……、ない? 傭兵がこの程度だったら、軍も有象無象なんじゃ? だとしたら、次は私達の圧勝? うん、間違いない。十五年前も不運が重なっただけなんじゃ? そう……、そう思いたくなるほどには、この子弱すぎ」
考えをまとめるように独り言をぼやく。
この行為自体に悪意はないのだが、ウイルを刺激するには十分過ぎた。
まだ負けてはいない。そう主張するように、闘志を再燃焼させながら、反撃を開始する。
二人の視線を遮るように純白の本が出現。それは宙に浮いたまま、意思を持つようにパラパラをページをめくりだした。
「なに? この本? 表紙も中も真っ白なままじゃない」
だからこそ、彼女の名前は白紙大典だ。契約主に従い、時間稼ぎにしかならないとわかった上で、その一手を繰り出す。
丁度真ん中のページに達したタイミングだ。左右の厚みが同等になるや否や、ピタリと止まると、噛みつくように女の顔を挟み込む。
「きゃっ⁉ ちょっと!」
さすがのトライアも驚きを隠せない。
本が手品のように現れた時点で理解が及ばなかったが、それに顔を挟まれたのだから、小さな悲鳴は必然だ。
その結果、右手の握力が弱まる。
それこそがウイルの思惑であり、浮いていた体がすっと落下すると、宙ぶらりんだった足が着地する。
激痛を言い訳に泣き叫びたいが、今は我慢だ。歯を食いしばりながら、倒れるように体を下げ、回し蹴りの要領で女の足を払ってみせる。
「のわっ⁉」
邪魔な本が消失した理由は役目を果たしたからだ。
同時に、彼女の視界が急激に傾く。
暗闇の地面が近づく中、トライアの思考は定まらず、ゆえに追撃への反応など不可能だ。
ウイルは間髪入れず、拳を撃ち出す。
眼前の女はわずかにだが宙に浮いている状態だ。両足をロープで結ばれ、真上に引っ張られた直後のような姿勢ゆえ、方向感覚を失いながらその打撃を受け入れる他ない。
傭兵の握り拳が、赤いローブと腹部にめりこむ。
その衝突エネルギーはすさまじく、トライアは滑るように吹き飛ばされた。
(まだだ!)
ウイルの反撃は終わらない。
くの字で遠ざかる教祖に、この傭兵はあっという間に追い付いたばかりか、踏みつけるようにかかと落としを命中させる。
爆ぜるような騒音は、女と道路がぶつかった衝撃そのものだ。
石畳が裂けるようにひび割れる最中、少年はその手を止めない。馬乗りへ移行し、打ち下ろすような打撃を雨のように浴びせる。
そこまでもしても、まだ足りない。
それほどまでに、この人間は頑丈だ。
殴り飛ばした時に。
かかとをぶつけた時に。
本能で気づかされた。
絶対的な実力差。
それを埋めるためには、この犯罪者を完膚なきまでに負傷させるしかなく、騒動に気づいた住民達が徐々に現れる中、ウイルはそれでもなお、悪役のように一方的な暴力を浴びせ続ける。
「ふふ、やっぱりこの程度なんだ~」
無傷では済まなかったが、怯むほどでもない。トライアは目元や唇から出血しながらも、妖艶な笑みをこぼす。
左腕はウイルの右足に押さえつけられて動かせないが、右腕は自由だ。ゆえに、容赦のない連撃の多くを片手だけで防いでみせた。
この状況、野次馬達には女性が襲われているように見えたが、実際は真逆だ。絶好のポジションから殴っているのは傭兵ながら、相手を倒すためでもなければ殺すためでもない。
自身の防衛も兼ねている。
攻撃の手を緩めたら最後、手痛いしっぺ返しが来ると察しており、その予感は次の瞬間に的中してしまう。
無呼吸から繰り出された連続殴打だったが、女の発言と余裕な態度に気負わされ、その手がわずかに鈍ってしまう。隙と呼ぶにはあまりに短い時間だったが、彼らレベルの死闘においては看破できない間だ。
トライアの右腕が、防御から攻撃へ。寝ながらの姿勢ゆえ、コンパクトに拳を打ち込む。
予備動作は最小限、溜めの時間すら一切なかったが、この状況を打破するには十分過ぎた。
「ぐっ⁉」
腹部を押すように殴られた結果、ウイルの体はふわりと浮き上がる。
滞空時間は一秒足らずだ。トライアの足方向に押し戻され、尻餅をつくように倒れこむ。
命が削られるほどの負傷ではない。
しかし、立ち上がるには幾ばくかの猶予が必要だ。
顔中を血液で汚しながら、そして血と唾液と胃液を口元からこぼしながら、殴られた箇所を抱きしめるように悶え苦しむ。
対照的に、女の動作は軽やかだ。朝を迎え、一日の始まりを祝うように、平然と立ち上がる。
とは言え、無傷とも言い難い。意地の悪そうなその顔は、あちこちが切り傷や打撲で痛々しい。赤いローブも相まって、その姿は負傷者そのものだ。
「外野が騒がしくなっちゃったわね。うるさかったのは私達の方なんでしょうけど。まぁ、逃げるだけだし? 追手が来る前にサヨウナラしましょ。だけど、やっぱりその前に……」
ステップを踏むような一歩が、両者の距離をわずかに縮める。
「あんただけはムカつくから、殺しちゃう」
死刑宣告だ。
相手が子供であろうと容赦はしない。彼女には凄味と覚悟が備わっており、二歩目が平然と体を進ませる。
「ま、まだ、だ……」
茶色い半袖を多量の血液で汚しながら、ウイルもまた、起き上がる。その立ち姿は弱々しく、勝敗は誰の目からも明らかだ。
騒動を聞きつけた住人達だが、女の発言からどちらが悪かは把握出来た。
それでも加勢出来ない理由は、彼女から漏れ出るプレッシャーがあまりにも恐ろしく、血だらけな少年を庇うことはおろか、足を前へ進めることさえ出来ない。
ゆえに、この一対一は継続される。
優劣は確定しており、これから起こる出来事は公開処刑そのものだ。ウイルの闘志は未だ健在ながら、根性論で埋まるほど、その差は小さくなかった。
「これでごっこ遊びはオシマイ。さようなら、お馬鹿な傭兵さん」
「く……」
(大丈夫)
女の右腕が左から右へ疾走する。
その一閃は刃物のように鋭く、殺意をまとった必殺の斬撃だ。首を斬り落とせるほどの威力ゆえ、一連の動作は夜道ということを差し引いても野次馬には視認さえ出来ない。
その事実は、朦朧としたウイルにも当てはまる。
頭が割れるほどに痛い。
顔は手当を求めたくなるほどにはボロボロだ。
腹に至っては、内臓が悲鳴を上げてしまっている。
さらには眩暈や吐き気を感じているのだから、コンディションとしては最悪だ。
抗うことさえ出来ない。
ギロチンのように頭部が斬り落とされてしまう。
もしくは、既に斬首が済んでしまったのではないか?
そう思えてしまうほどには、不思議な時間が訪れる。
(何が大丈夫なの?)
直立すら困難な状況で、白紙大典に問いかける。
大丈夫。この発言の真意がわからないのだから、確認せずにはいられなかった。
(なにって、ほら、間に合ったじゃん。あれ? お~い。え、もしかして見えてないの? あ~、そんなにフラフラなんだ。まだまだ修行が足りてないね~)
彼女の言う通り、この傭兵は気づけていない。
自分が生き延びた理由を。
真横に立つ、その人物を。
それほどに、意識が混濁している状況だった。
「な、なによ、あんた? いきなり現れたと思ったら邪魔してくれて……。離しなさい!」
「君が手を焼くほどの相手だったか……。ふむ、女神教の教祖という肩書は想像以上だったようだね。でも、大丈夫。ここからは私が受け持つから。責任をもって……ね」
二人から三人へ。
これをもって、戦いは新たな局面を迎える。
赤いローブの女はたじろぐしかない。掴まれた右腕をどの方角へも動かせないのだから、脅すように啖呵を切って自身の動揺を誤魔化す。
「その身なり、傭兵じゃないわね? 治維隊とも違う……、軍人?」
「残念、どれもハズレさ。一応名乗っておこうか。あなたも知りたいだろう? 誰に逮捕されるのか、を」
暗闇よりも黒い短髪。
中性的な顔立ちは一見すると女性のようだ。
青色の礼服は装飾で彩られており、その華やかさは身分を証明していると言えよう。
ウイルもやっと状況把握を完了させる。視界はクリアになり、呼吸もやっと整った。
「え? なんで、こんなところに……」
驚くのも無理はない。その地位ゆえ、この場にはいるはずもない存在だからだ。
「私はプルーシュ・ギルバルド。四英雄が一つ、ギルバルド家の当主だ。もっとも、代理だけどね」
「ギ、ギルバルド……。はっ! 冗談も休み休み言いな! そんなの……、ありえないよ!」
彼女の反応は至極当然だ。英雄は王族の次に高貴な身分ゆえ、城下町に降りる時は必ず護衛が付き添う。
ゆえに、犯罪者の追跡や逮捕に直接乗り出すことなどありえない。
ありえないのだが、トライアは口では否定しながらも、掴まれた腕から常軌を逸した生命力を感じ取っている。
「そう思うのも無理はない。だけど、女神教の解体という大仕事を部下とウイル君に押し付けるのもどうかと思ってね。さぁ、観念するんだ。女神の信奉者だろうと今がどういう状況かってことくらいはわかるだろう? 女神教は今日限りで終了だ」
歴史の闇へ消え去った集団、女神教。
それがなぜこの時代に蘇ったのか?
解明のため、英雄がついに参戦した。
彼らは皆、生まれ持った超越者だ。
そうであることを、これから証明する。
新たな局面。第二ラウンドは、ここからだ。