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第5部 選択
第28章 輪
舜太の両手は、膝の上で開いていた。
手のひらを上にして。何も握らずに。
柔太朗は、その手をじっと見ていた。
震えていなかった。さっきまで、白くなるほど握りしめていた手が、今は力が抜けている。
爪の跡が、手のひらにうっすらと赤く残っていた。
空の手。
この手が、二年半前の夜、自分の右手を取った。指輪を中指に通した。あのとき冷たかった指先。
世の中に、出さなあかん。
あの声は、嘘ではなかった。
今夜、聞いた声も嘘ではなかった。
閉じ込めたかった、と言った声。どちらも、同じ人の同じ声だった。
矛盾していて、それが舜だった。
柔太朗は、急いで答えなかった。
作業台のライトが、二人の間を静かに照らしている。
隣に二つの封筒。C-016とパリの手紙。二年分の沈黙と二か月分の嘘。
全部、机の上に出された。
ゆっくり息を吸った。
「……舜」
「うん」
「僕も、話していい?」
「僕も、そうだよ」
柔太朗は言った。
舜太が顔を上げた。
「愛情が重いって、自分でも知ってる。独占欲も強い。舜を、誰にも渡したくない。舜が、他の誰かの隣で笑うのを、見たくない。あの人懐こい笑顔を、独り占めしたい」
舜太の目が、見開かれた。
「山梨で気づいたんだ。舜と同じだって」
「……柔も、か」
「うん。同じ」
柔太朗は、小さく笑った。
「だから、舜が怖かったのも分かる。世界が僕を見つけるほど、舜は怖くなる。僕も、舜がどこかへ行ってしまう夢を、見たことがある」
「……」
「違うのは一つだけ」
柔太朗は、自分の胸に手を当てた。
「僕は、舜の手の中にいたいんじゃない。舜の隣にいたい」
舜太の息が止まった。
「手の中に置かれたら、舜の顔が見えなくなる。あのとき、会議室でそうだった。舜の顔、僕を見てなかった。僕は、それが、いちばん嫌だった」
「……」
「隣にいれば、顔が見える。目を見て話せる。だから隣がいい」
言葉は静かに出た。急がず、まっすぐ。
「だから、僕は選ぶ」
舜太の喉が動いた。
「舜の隣を選ぶ。……条件つきで」
「条件」
「うん。三つ」
柔太朗は、指を一本立てた。
「一つ目。大事なことは、隠さずに話して。僕も話す。僕も、舜に言ってないことがある。それも、これからちゃんと言う」
「……ああ」
「二つ目。僕の返事は僕が出す。パリの人への返事も。共同ラインも。舜の承認はいらない。……でも、相談はする。決めるのは僕、話すのは二人で」
「……ああ」
柔太朗は、指を三本目に立てた。
「三つ目」
少し恥ずかしかった。けれど、言った。
「僕が、どこかへ行くとき。行かせへん、じゃなくて」
「……」
「行ってらっしゃい、って言って」
舜の目が大きく開いた。
「帰ってきたら、おかえり、って言って。僕は、ただいまって言う。……それだけでいいんだ」
長い沈黙があった。
舜太の口の端が震えた。笑おうとして、笑えない顔だった。それから頷いた。何度も。
「……言う」
声が掠れていた。
「言う。行ってらっしゃい、て。おかえり、て」
「うん」
「毎回言う」
「うん」
柔太朗は、少し笑った。
「あと、もう一つ」
「まだ、あるんか」
「条件じゃないよ。返してほしいもの」
柔太朗は、手を差し出した。
「名刺」
舜太は瞬きをした。
「パリで、預けたまま。あとで共有するって、言ったでしょう」
舜太の顔が、赤くなった。
「……あ」
舜太は、机の上の封筒に手を入れた。
出てきたのは、名刺の束だった。パリのレセプションで、少しずつ、この人のポケットに消えていった、あの名刺。輪ゴムで留められていた。
「全部、ここにある」
舜太は言った。
「一枚も、減っとらん。……あの日から、ずっと持っとった。共有する言うて、できんまま」
差し出された束を、柔太朗は受け取った。厚みがあった。一枚一枚が、あの夜の、光と声の名残だった。
「見せて」
柔太朗は輪ゴムを外した。一枚めくる。バイヤー。次の一枚。記者。次。デザイナー。
「……こんなに、いたんだ」
「ああ。ぎょうさん、いたで」
舜太が少し笑った。
「柔の作品を見たい人が」
柔太朗は、束を作業台に置いた。
「これも、これから一緒に見よう」
「……ああ」
柔太朗は、左手を持ち上げた。
人差し指に、細い銀の輪があった。両端の間に一ミリ半の隙間。山梨で作ったもの。
「舜」
「うん」
「これ、あげる」
柔太朗は、指輪を外した。ゆっくりと。指から抜けていく感触は軽かった。
舜太は目を見開いた。
「……俺に?」
「うん。僕が、山梨で作った」
柔太朗は、指輪を掌に載せて見せた。
「開いてるでしょう。閉じてない」
「……ああ」
「閉じてないから、サイズを選ばないんだ。少し広げれば、舜の指にも入る」
柔太朗は、舜太の右手を取った。
手のひらに熱があった。震えていなかった。
人差し指に、指輪を通した。細い銀の輪が、指をゆっくり包んだ。隙間が少し広がって、そこに収まった。
ぴたりと、閉じない。けれど、落ちない。
「舜が、僕を閉じ込めそうになったら」
柔太朗は、指輪を見ながら言った。
「その隙間を、思い出して」
舜太は、自分の指を見つめていた。銀の輪の隙間。そこから、作業台のライトが細く通り抜けていた。
「……これ」
声が出なかった。
「僕は、こっちをつける」
柔太朗は、右手を持ち上げた。
中指の、細い銀の輪。
「これは、舜が僕を見つけてくれた、証拠だから。外さない」
閉じた輪。二年半前の、あの夜に通してくれた。
「こっちは、僕が舜を選んだ証拠」
舜太の目の縁が、赤くなった。堪えていた。けれど、視界が揺れているのが分かった。
「柔」
「うん」
「……俺でええんか。こんなに、面倒くさい男で」
柔太朗は、声を出して笑った。
「うん。ええよ」
舜太は笑った。うまく笑えない顔で笑った。
柔太朗は、舜太の手を取ったまま、顔を近づけた。
額が、触れた。
舜太の体温が、伝わってきた。息が混じる。まつげが、触れそうな距離。
それから、唇が、一度だけ触れた。
短く。静かに。確かめるように。
離れたあとも、額は触れたままだった。
「……柔」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
それ以上、言葉は、要らなかった。
しばらくして、柔太朗はスマートフォンを開いた。
仁人に送る。
『話した。飯行こう』
すぐに返信が来た。
『先に店で待っている。一番高い店にした』
柔太朗は声を出して笑った。
「仁ちゃん、本気で、高い店えらんでた」
「……せやろな」
舜太が苦笑した。
「覚悟しとく」
二人は立ち上がった。作業台の上に、二つの封筒と名刺の束を、並べたまま。
全部、明日、一緒に見よう。
上着を着る。扉を開ける。
廊下の、夜の空気が冷たかった。けれど、隣に体温があった。
柔太朗は左手を見た。指輪のない人差し指。そこに、少し跡が残っていた。光が当たった跡。
右手の中指には、閉じた輪。
隣を歩く、舜太の右手の人差し指には開いた輪。
二つの輪が、夜の廊下の明かりの下で、静かに光っていた。
閉じていなくても、輪だった。
みら

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#bl
コメント
1件
るりさん、今読み終わりました……もう、ほんとにすごい回でした……「隣がいい」って柔太朗が言ったところ、心臓がぎゅってなりました。手の中じゃなくて隣にいたいって、あの距離感、全部を物語ってるなあって。それに、開いた指輪の隙間から光が通る描写が、昨日の章とつながって泣きそうになりました。閉じてなくても輪、っていう一文が心に残ってます。お互いの指にはめた指輪の対比も美しくて……もう一度読み返しますね。本当にありがとうございます🌷