テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
第5部 選択
第29章 ぬるめ
二月十四日の夜九時。
勇斗は、自分のデスクで、契約書のドラフトの最後のページを確認していた。
スマートフォンが震えた。
仁人だった。
『少し、お時間いただけますか。仕事の話ではありません』
勇斗は画面を見つめた。
同じ文面だった。あの夜、屋上で初めてこの人から届いた、あの言葉。
二年間、誰にも頼らなかった人が、初めて自分から送ってきた。
あのときとは、違った。胸の奥が静かに温かかった。
『十五分で行きます。場所は?』
返信はすぐに来た。
『裏通りの喫茶店です。地図を送ります』
地図が続いて届いた。
勇斗はドラフトを閉じた。後輩に「あとは、頼む」と言ってコートを掴んだ。
「勇斗さん」
後輩が、にやりと笑った。
「いいことありましたね」
「うるさい」
エレベーターの中で、自分の顔を鏡に映した。確かに、口の端が上がっていた。
店は、裏通りの古い建物の二階にあった。
階段を上がる。木の軋む音。扉を押す。
小さな鈴が、鳴った。
薄暗い店内。琥珀色の照明。壁には、古いポスターとレコードのジャケット。
カウンターの奥に、マスターが一人。客はほとんどいなかった。
窓際のいちばん奥の席に、仁人が座っていた。
手元に、文庫本。栞を挟んだまま、伏せている。勇斗に気づいて、少しだけ背筋を伸ばした。
「早いですね」
「ええ。走りました」
いつかの屋上の会話と同じだった。仁人の口の端が、わずかに上がった。
勇斗は向かいの席に座った。
マスターが水を持ってきた。
「ご注文は」
「私はぬるめで。ブレンドを」
仁人が言った。マスターは、表情一つ変えずに頷いた。
「かしこまりました。ぬるめですね」
それから、仁人は勇斗を見た。
「勇斗さんは、熱いのがお好きですよね」
「はい。……覚えててくれたんですね」
「見てたんで」
仁人は平らな声で言った。
勇斗は噴き出した。
「それ、もう、完全に、俺の台詞じゃないですか」
「借りっぱなしです」
「いつ、返してくれるんですか」
「そのうち」
仁人は、表情を変えなかった。けれど、耳の端が赤かった。
勇斗は腹を抱えて笑った。口が大きく開いた。店内に少し響いた。
「……熱いの、お願いします」
勇斗はマスターに言った。
コーヒーが運ばれてきた。
勇斗の前に、湯気の立つ厚手の白いカップ。仁人の前に、湯気の立たない同じカップ。
仁人は、カップを両手で包んだ。それから、ゆっくり口をつけた。
「……ちょうどいいです」
小さく言った。
「昨日の夜、」
仁人はカップを置いた。
「二人に話しました。全部」
「……はい」
「舜太は、なんで俺に相談せんかったんや、と言いました。二年間、頭の中で聞いてきたあの声で」
勇斗は黙って聞いていた。
「けれど、その後に言われました。守るんやったら、一緒に背負わせてくれと。守るのと一人で抱え込むのは違うと」
仁人は少し笑った。
「あなたが、屋上で言ったことと、同じでした。二人を守る俺を守る人がいなかった、と」
「柔太朗は、少し傷ついたと言いました。作品に値段をつけたことを。でも、ありがとう、と言ってくれました。言ってくれて、と」
「……そうですか」
「そのあと、店に行きました。高い店で、舜太が奢ると」
仁人は真面目な顔で言った。
「一番高いものを、頼みました」
「……いくらでした」
「言えません」
勇斗はまた笑った。
「二人は、指輪を交換していました。柔太朗が、山梨で作ったと言っていました。少し開いた指輪が、舜太の指に入っていました」
「……そうですか」
「開いているからサイズを選ばない、と。」
仁人は、少し遠い目をした。
「……いい指輪でした」
勇斗は頷いた。閉じていなくても輪なんです。柔太朗の言葉を思い出した。
「勇斗さん」
仁人が静かに言った。
「預けていた荷物を、返してもらいに来ました」
勇斗はカップを置いた。
「……もう、お返しするものはないですね」
正直な気持ちだった。
「あなたは、全部自分で話した。俺が預かっていたのは、秘密ではなくて、あなたが話せるようになる、その日でした。その日が来た。だから」
勇斗は、少し言葉を探した。
「正直に言うと」
「はい」
「寂しいです」
仁人の目が、少し大きくなった。
「預かっている間は、俺はあなたの特別でいられた気がして。あなたが誰にも言えないことを、俺だけが知っている。それが、俺の居場所みたいな気がして」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
「……勇斗さん」
「はい」
「それは違います」
仁人は、はっきり言った。
勇斗は仁人を見た。
仁人は、まっすぐ勇斗の目を見ていた。真剣な眼差しだった。
「あなたが特別だったのは、預かったからじゃありません」
「……」
「屋上で、俺が、初めて自分から連絡したのは、あなたが聞くと言ったからじゃない。……あなたが、あなただったからです」
勇斗の心臓が大きく鳴った。
「最初にお会いした日。笑顔を見て思ったんです。この人は俺の嘘を見破る、と」
仁人は少し苦笑した。
「事実、見破られました。怖かった。でも、同時に、少し安心していた。誰かに、見つけてほしかったのかもしれません」
仁人は、カップを両手で包み直した。
「だから、寂しがらないでください。……終わったから、始められることもあるでしょう」
勇斗は口を開いた。
「……俺も話していいですか」
「どうぞ」
勇斗はカップに視線を落とした。湯気が静かに立ち上っていた。
「最初は、暴きたかったんです」
正直に言った。
「あなたの、完璧な受け答えの裏を。何を隠しているのか。全部知りたかった。それが仕事だと、自分に言い聞かせてました」
「……」
「でも、記録を見て、全部知って。使えば勝てると分かって。それでも、使えなかった。知ったあとに、残ったのは、満足じゃなかったんです」
勇斗は顔を上げた。
「もっと、知りたい、でした。あなたを。秘密じゃなくて」
仁人の目が、静かに勇斗を見ていた。
「俺が、欲しかったのは」
言葉が喉に詰まった。けれど、続けた。
「秘密じゃなくて、あなたでした」
仁人は、しばらく黙っていた。
それから、平らな声で言った。
「そうですか。」
勇斗は、一瞬固まった。
それから、腹の底から笑いが込み上げてきた。
「……はは、はははっ」
口が大きく開いた。堪えきれなかった。この人は、こういう場面でこの返事をする。
あの日の、エレベーターの前と、同じ冷たい打ち返し。
「そこ、そう返します?」
「他に、何と」
「いや、まじでさ」
仁人の耳が真っ赤だった。けれど、耳の先から首筋まで赤が広がっていた。
笑いが収まってきたとき、仁人が小さく言った。
「……勇斗さん」
「はい」
「俺は、これまで、誰かに何かを、預けたことがありませんでした」
仁人はカップを見つめていた。
「預けたら、返してもらわなければならない。頼れる相手がいないと、預けられない。……だから、預けずに、全部、自分で持っていました」
「はい」
「でも、あなたには預けられた」
仁人は顔を上げた。
「それは、たぶん、そういうことです」
勇斗は瞬きをした。
「……そういうこと、って」
にやりと、笑った。
「どういうことですか」
「いじらないでください」
仁人の声が、少し上ずった。
「言ってください」
「……」
「聞きたいです」
勇斗は、まっすぐ仁人を見た。もう、笑っていなかった。
ただ、待っていた。この人が自分の口で話す日を。
仁人は、唇を噛んだ。それから、大きく息を吸った。
「……好きです」
小さな声だった。けれど、はっきり聞こえた。
「あなたが。……好きです」
勇斗の胸の奥で、何かが静かに開いた。
言葉が出なかった。代わりに手が動いた。
テーブルの上に置かれていた、仁人の左手の上に、自分の手を重ねた。
温かい手だった。震えていなかった。
コーヒーカップの湯気が、二人の手の間を、ゆっくり漂っていた。
「……俺も、です」
やっと、言えた。
「俺も。好きです」
仁人は、少し驚いた顔をして、それから目を伏せた。耳の赤さがさらに深くなった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
勇斗は笑った。
しばらくして、二人は、またコーヒーに口をつけた。
勇斗の手は、まだ、仁人の手の上にあった。仁人は振りほどかなかった。
「来週から」
勇斗が言った。
「運営支援の打ち合わせが、始まります。ヴェルディエの工房と、パリのディレクターと、共同ラインの進行。俺はLueurに通うことになります」
「……はい」
「仕事でも、会いますね」
「ええ」
仁人は頷いた。それから、少し間を置いて言った。
「……仕事じゃなくても」
勇斗は目を見開いた。
あの、縁側の夜に自分が言った言葉だった。それを、この人が、今、自分の口から返してくれた。
「はい」
勇斗は笑った。
「仕事じゃなくても、会いましょう」
ふと、思いついて言った。
「一口、ください」
「何を」
「コーヒー」
仁人は、少し眉を寄せた。それから、自分のカップを、勇斗のほうへそっと押した。
勇斗は、それを受け取って一口飲んだ。
「……ぬるいですね」
「ぬるめ、と言いました」
「いや、ぬるいです」
「ぬるめです」
「どっちでもいいじゃないですか」
仁人が吹き出した。
声を出して笑った顔を、勇斗は初めて見た。眉が下がって、目が細くなる。堅い、凛々しい顔が、ほどけた。
勇斗は、その顔を目に焼きつけた。
熱いものも、ぬるいものも。
この人となら、どちらも、ちょうどよかった。
コメント
4件
本当にこちらのお二人らしくて。一筋縄じゃいかない黄さんがここまで心を解いて、想いを口にする姿に悶えつつ、桃さんから重なる手やぬるいコーヒーをひと口もらってみたりとか…もうお二人がやっと見せてくれる仕事を脱ぎ捨てた時の小さく温かな甘さに、胸がきゅんきゅんしてます今🥹✨
るりさん、第30話めっちゃ良かった…!「ぬるめ」ってタイトルからしてずるいよな。最後に勇斗が一口もらって「ぬるい」「ぬるめです」ってやりとり、あの空気感がたまらなかった。屋上からの「見てたんで」「借りっぱなしです」の反復も効いてたし、仁人が「好きです」って口にした時の勇斗の「俺もです」に全部詰まってた。コーヒーの湯気の描写で二人の温度が重なる感じ、すげえ好きだわ。