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『안녕하세요、菊!』
「こんにちは…………って、ヨンスさん!?どうしたんですかその顔!?」
久しぶりにスカイプを繋ぎ、モニターに映し出されたヨンスさんの顔は、どす黒い痣まみれで、惨たらしく腫れ上がっていた。絆創膏も所々に貼られ、見るからに痛々しい。
『驚かせてミアネヨ。その…………色々あったんだぜ』
「色々あったんだぜって…………その色々が気になるんですが…………」
『言ったところでなんだぜ。気にしたら負けなんだぜ』
「そう言われたら、更に気になるじゃないですか……本当、何があったんですか……」
彼のあまりの怪我の酷さに、泣きそうになるのを堪えながらそう訊ねると、これ以上私を心配させるのも……と思ったのか、ヨンスさんは溜め息を一つ吐き、こう言った。
『まぁ、話せば長くなるんだぜ』
そして彼は、事の経緯を語り始めた────
*
遡ること、数日前の晩。梨泰院の一角にある酒場で、ヨンスさんは高校時代の友達数名と一緒に、お酒と食事を愉しんでいた。
そして、時間が進むにつれて酔いが回ってきたのか、参加していた友達の一人が、こう言った。
「折角だから歌っちゃおうかなぁ、俺?」
それに対して他の友達は、「良いぜ、歌え歌え!」と乗り気で囃し立てた。彼等も当然、酔いが回っている。OKを出されて良い気になったその友達は、早速よく通る伸びやかな声で、歌を歌い始めた。
しかし彼が歌ったのは、少なくとも────ヨンスさんにとっては、耳を疑うものだった。
울릉도 동남쪽 뱃길 따라 이백리
(鬱陵島 東南側の航路に沿って二百里)
외로운 섬하나 새들의 고향
(孤島一つ 鳥たちの故郷)
그 누가 아무리 자기네 땅이라고 우겨도
(誰がいくら自分たちの土地だと言い張っても)
독도는 우리땅 우리땅
(独島は韓国の領土、韓国の領土)
彼が歌ったのは、『独島は我が領土』。韓国にとっては「愛国」の歌であり、日本にとっては「反日」の歌だ。
因みにだが、この時のヨンスさんはお酒を全く飲んでいない。というのも彼はこの日、 バイクで梨泰院まで来ていたからだ。
それが良かったのか、良くなかったのか────
周りの友達も、彼に合わせて『独島は我が領土』を歌い始める。周囲にいた他のお客さん達も、口々にその歌を歌い始めた。
忽ち構築されていく、異様な空気。すると友達の一人が、ヨンスさんに声を掛けた。
「なぁ、ヨンスヤは歌わねぇのかよ?」
「…………っ!!」
ヨンスさんはぎょっとした。まさか、自分に振られるとは思わなかったらしい。
「お、俺は…………その…………」
「韓国国民なら歌って当然だろ!歌えよ〜!」
「そうだぜヨンスヤ、何も恥じることはねぇって!」
「歌わねぇと非国民だぞ〜」
歌え、歌え────これ以上の要求に堪えられず、とうとうヨンスさんは叫んだ。
「いい加減にしろよっっ!!」
刹那、静まり返る辺り一帯。
「恥ずかしくないのかよお前ら!!この店、普通に日本人も来るとこなんだぞ!!此処に来た何の罪もない日本人を、そんな歌で煽って傷付けて、楽しいのかよお前らは!!」
「ヨンスヤ…………」
「大体何なんだよ!!たかが領土如きで、それも小島如きで!! そんなことで躍起になるほど、俺達韓国人は器がちっさいのかよ!!」
ヨンスさんがそう怒鳴った直後────飛んできたのは強烈な右ストレートだった。
それは『独島は我が領土』を歌った、友達からのものだった。
「調子に乗んなや!!親日売国奴がっ!!」
*
『 そっから、そいつにボコボコにされて……かれこれ5分間殴られっぱなしだったかな。誰も助けてくれなくて、寧ろ「やっちまえ」って声ばっかり聞こえてきて……偶々居合わせた店のスタッフが通報してくれて、漸く解放されたんだぜ』
「…………っ」
『そいつはそのまま警察にしょっぴかれたんだぜ。でも、そんな大した罪にはならないと思うんだぜ。数週間もすれば娑婆に出てくるだろ』
「……防衛のために、やり返しはしなかったんですか?折角テコンドーやってるのに」
『やり返しても良かったんだけどな…………そいつと同じ穴の狢になっちまうのも癪だから、結局しなかったんだぜ』
あっけらかんとした様子で話すヨンスさん。それがまた、更に痛々しくて。口を動かす度に痛むのか、切れた唇の端を軽く押さえながら、喋り続ける。
『一応あの後、俺を殴った奴以外のメンバーは、みんなカトクを通じて俺に謝ってきたんだぜ。「あの時は酔っていて、正直どうかしてた」って。それでも最早信用ならないから、何も言わずにグループを抜けてやったんだぜ』
「まぁ、そうなりますよね……自分を助けてくれなかったのなら尚更です。それで、肝心の貴方を殴った人とは……」
『保釈されて何か言ってくる前に、こっちから縁を切ってやったんだぜ。カトクのアカウントをブロックしたんだぜ』
「…………」
『こんなことになるまで、あいつらとは結構仲良くやってたんだぜ。進路がばらばらになっても、しょっちゅう連絡を取り合って…………』
周りに対する反対意見と、それに対する暴力を切っ掛けに、崩壊してしまった友情。 出血で赤い斑の出来たヨンスさんの眼に、憂いの色が滲む。
『特に殴ってきた奴は、3年間ずっとクラスが一緒だったんだぜ。だからあの時、どれだけ不愉快でも厭な気持ちを我慢して、皆に合わせて歌っていたら…………あいつらとずっと仲良くいられたのかなって…………』
「ヨンスさん…………」
『でも…………自分の起こした行動に対して、後悔は全く無いんだぜ。寧ろ清々しいくらいなんだぜ。世界で一番大好きなお前を、世界で一番大嫌いな歌から守ったんだと思えば…………友達を失うぐらい、別になんてこと無いんだぜ』
此処にきて漸く、ヨンスさんは笑った。憂いこそ瞳の奥に残っていれど、それでも暖かで澄んだ眼差しが、画面の向こうにいる私に向けられていた。彼はどうやら私のために、笑ってくれているようだった。
『そもそも特定の民族を当たり前のように侮辱する奴なんて、友達でも何でもないんだぜ…………って、何で泣くんだぜ、菊?』
「っ…………ごめん、なさい」
『謝る必要も無いんだぜ。お前は何も悪いことしてないだろ?』
「だって、だって貴方…………本当は、本当はとても辛いでしょうに…………」
嗚呼、嗚呼。
私の国と貴方の国が、もっと早く、本当の意味で和解していたら────あの不埒な歌が生まれることはなかっただろうに。ヨンスさんも傷付かず、友達を失うこともなかっただろうに。
嗚呼、嗚呼。
目の前の現実は何処までも理不尽で、残酷で。そして、そんな現実をどうにも出来ない自分の無力さが、とても悲しくて。
『…………菊』
只管咽ぶ私の耳に聞こえたのは、私の名を呼ぶ、ヨンスさんの優しい声。
『俺に寄り添ってくれてコマウォヨ。お前の気持ちが、俺は嬉しいんだぜ』
「っ、ぐす…………」
『お前がいてくれて、俺は本当幸せ者なんだぜ。どれだけこの社会が、どうしようもない腐った代物でも…………お前がいるから、生きていけるんだぜ』
ちゅ、とスピーカー越しに聞こえる、口付けの音。それは私の鼓膜を震わせて、打ち拉がれる私の心を慰めた。
私は流れる涙を指先で拭い、濡れた瞳をヨンスさんに向けた。
「っ…………ヨンス、さん」
『うん?』
「 サランヘヨ…………私は、私はいつでも…………貴方の味方です」
『…………俺もずっとずっと、お前の味方なんだぜ。サランハンダ』
ヨンスさんはもう一度、屈託のない笑みを私に見せた。
相変わらず傷だらけのそれは、この世の何よりも美しかった。