テラーノベル
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午後のやわらかな陽射しが、リビングへ差し込んでいた。
まだ安静にしていた方がいいだろうと、詩乃は乃亜をソファへ座らせると、棚に置かれていたくまのぬいぐるみを手に取った。
「くまさんね、乃亜に会いたかったんだって」
ぬいぐるみを小さく揺らし、乃亜へ近づける。
「乃亜くん、もう大丈夫?」
少しだけ声色を変えて問いかけると、乃亜はじっとくまを見つめた。
返事はない。
けれど、ぬいぐるみが動くたびに黒い瞳がきちんとその姿を追っている。
「昨日ね、くまさんもずっと心配してたんだよ」
詩乃がそう言いながらぬいぐるみを近づけた、その時だった。
手元が滑り、くまがソファからころんと床へ落ちる。
「あっ、くまさん」
詩乃はすぐに拾い上げ、胸元へ抱き寄せた。
「大丈夫? びっくりしたね」
ぬいぐるみの背中を優しく撫でる。
「大丈夫だよ。ここにいるからね」
何気なく口にしたその言葉は、昨夜、熱に浮かされる乃亜へ何度も繰り返したものだった。
苦しそうに身体を震わせるたびに。
不安そうに服を掴むたびに、”大丈夫。ここにいるよ。”
そう言いながら、ずっとそばにいた。
その声を聞いた乃亜の表情が、ふっとほどけた。
口元がゆるみ、今まで見せたものよりもずっとはっきりとした笑みが浮かぶ。
「……乃亜」
詩乃もつられるように笑った。
すると乃亜は、くまではなく詩乃の顔をじっと見つめた。
黒い瞳が、まっすぐに自分だけへ向けられている。
やがて、小さな唇が動いた。
「……ま」
詩乃の心臓が大きく跳ねた。
昨日の朝にも聞いた、一音。
あの時は熱に浮かされ、何を言おうとしていたのか分からなかった。
けれど今、乃亜は明らかに詩乃へ何かを伝えようとしている。
小さな眉を寄せ、一生懸命に唇を動かす。
「ま……ま」
今度こそ、はっきりと聞こえた。
詩乃は息をすることさえ忘れたように、乃亜を見つめる。
聞き間違いではない。
もう一度、小さな唇が開いた。
「まま」
その瞬間、視界が滲んだ。
乃亜が自分を呼んでいる。
この子が、ほとんど言葉を発することさえできなかった乃亜が、初めて自分から伝えようとしてくれた言葉が――「まま」だった。
「……乃亜……っ」
込み上げてきたものを堪えることができず、詩乃は乃亜を抱きしめた。
腕の中の身体は小さく、まだ少し熱を残している。
それでも、確かに温かい。
乃亜は驚いて逃げることも、身体を強張らせることもなかった。
それどころか、自分から詩乃の胸へ額を寄せ、小さな手で服を握りしめる。
その仕草に、涙がとうとう頬を伝った。
「……ありがとう、乃亜」
震える声でそう告げながら、背中を何度も優しく撫でる。
自分は、この子を産んだ母親ではない。
この身体も、本当は自分のものではない。
乃亜の目に映っている顔は果穂のもので、今の自分は本当のことさえ言えずに、この家で母親の代わりをしているだけだった。
ずっと、そう思っていた。
果穂が傷つけたこの子を守ることは、自分がこの身体に入ってしまった以上、果たすべき役目なのだと。
けれど、もうそれだけではなかった。
熱に苦しむ姿を見れば、代わってあげたいと思った。
笑ってくれれば、自分まで嬉しくなった。
小さな手で頼られるたびに、何があっても離したくないと思うようになった。
そして今、「まま」と呼ばれたことが、どうしようもなく嬉しい。
(私……)
腕の中の乃亜を、もう一度そっと抱きしめる。
(この子の母親になりたい)
果穂の代わりだからではない。
償いでも、役目でもない。
この子を愛して、守って、これから先もずっと成長を見ていたい。
初めて生まれたその願いを、詩乃はもう誤魔化すことができなかった。
少し離れた場所では、幸人が二人を見つめていた。
乃亜はほとんど言葉を話さない。
呼びかけにも反応が薄く、自分から何かを伝えようとすることもほとんどなかった。
そんな乃亜が、自分の意思で誰かを呼んだ。
――まま。
それが誰へ向けられた言葉なのかは、考えるまでもなかった。
詩乃の腕の中で、乃亜は安心しきったように身を預けている。服を掴んだ小さな手にも、もう以前のような怯えはない。
幸人は何も言わなかった。
ただ、涙を零しながら乃亜を抱きしめる詩乃から、しばらく目を逸らすことができなかった。
キッチンにいた一恵も、いつの間にか手を止めていた。
「まま」
もう一度、幼い声が響く。
今度は先ほどよりも少しだけ滑らかだった。
一恵は何も言わず、そっと目を細めた。
長い間この家の中で凍りついていたものが、ようやく少しずつ溶け始めている。
そんな穏やかな空気が、三人を包んでいた。
しばらくして、幸人が静かに口を開いた。
「……明日は、一日休みを取ります」
「え?」
思いがけない言葉に、詩乃が顔を上げる。
幸人は少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、詩乃の腕の中にいる乃亜へ視線を向けた。
「熱が下がって、体調に問題がなければですが……この子も、ずっと家の中にいたので」
そこで一度言葉を切る。
詩乃は黙って続きを待った。
幸人が、今度はまっすぐに詩乃を見る。
「……三人で、出かけませんか」
詩乃の目が、わずかに見開かれた。
三人で。
その言葉が、すぐには自分たちを指しているものだと理解できなかった。
幸人と。
乃亜と。
そして、自分。
これまで同じ家に暮らしていながら、家族とは呼べないほど離れていた三人が、一緒に出かける。
「……はい」
しばらくして、詩乃は小さく頷いた。
「行きたいです」
その答えを聞いた幸人は、ほんのわずかに表情を緩めた。
腕の中では、乃亜が安心したように詩乃へ寄り添いながら、相変わらず服を握っている。
詩乃はその小さな手へ、自分の手をそっと重ねた。
――明日は、三人で。
その響きだけで、胸の奥に小さな温もりが灯る。
それがまだ「家族」と呼べるものなのか、詩乃には分からなかった。
それでも三人の間にあった距離は、確かに少しずつ縮まり始めていた。
コメント
1件
「まま」……もう、ここだけで涙腺決壊しました。詩乃さんがずっと「代わり」とか「役目」って自分に言い聞かせてきたのに、乃亜くんの一言で“この子の母親になりたい”って心が動く瞬間が、あまりにも尊くて。ぬいぐるみを介したやり取りも、詩乃さんの優しさが滲んでて本当に素敵でした。幸人さんからの「三人で出かけませんか」も、この家族がやっと動き出した小さくて大きな一歩って感じがして、胸が温かくなりました。
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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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