あの子の名前を、誰も覚えていなかった。
夏の帰省。数年ぶりに戻った村は、蝉の声がずっと鳴っていた。
祖母の家に荷物を置いたあと、なんとなく歩いて、昔の遊び場だった丘に来た。
そこには向日葵畑が広がっていた。
いや、そんなはずはない。
この丘は、子どもの頃はただの雑木林だった。向日葵なんて、咲いていなかった。
なのに、夕焼けを背にして、何百本もの向日葵が風に揺れている。
まるで、太陽が沈んでいることに気づかないふりをしているみたいだった。
「向日葵は、夜には咲かないはず…」
誰に言うでもなく、つぶやいたとき。
「夜に咲く向日葵も、あるんだよ」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返った先に立っていたのは、あの子だった。
麦わら帽子をかぶり、すこし背が伸びていたけど、目元と笑い方は昔のまま。
「……ユイ?」
名前が口からこぼれた。
けれど、思い出せたのは名前だけだった。
いつ、どこで、どうして彼女と遊んでいたのか、なぜ忘れていたのか。何一つ思い出せない。
「久しぶり、お姉ちゃん」
「あたしは、ユイの姉じゃないよ」
「でも、わたしがそう呼んでたでしょ。昔」
彼女は笑って、向日葵畑に背を向けて歩き出す。
吸い寄せられるように、そのあとをついていった。
「ここ、いつから向日葵が咲くようになったの?」
「たぶん、誰かが忘れたときから」
「……誰か?」
「わたしみたいな、“忘れられた人”のこと」
ユイは、向日葵の花びらにそっと指を触れた。
その花は、他の向日葵と違って、太陽とは逆のほうを向いていた。
「この花が咲くとね、”1人だけ”その人のことを思い出せる人が、こうしてここに来るの。わたしは、今夜だけ、会いに来れるの」
「……でも、どうして誰も君のことを覚えてない」
「たぶん、本当はわたし、いなかったのかもね」
淡々と言ったその声に、責めるような響きはなかった。
夜風が、向日葵をゆらす。
あたりはすっかり暗くなっていたのに、花たちは今も、夕日があるかのように空を向いていた。
「わたし、夏が好きだったよ。姉さんと、いつもここで遊んでた」
「……ここ、昔はただの林だった」
「そう。だから向日葵は、わたしの記憶の中だけ」
ユイがにっこり笑う。
「明日には、また忘れちゃうと思う。わたしのこと」
「いや。忘れたくない」
「でも、大丈夫。ちゃんと会いに来てくれたから」
その瞬間、向日葵畑の奥から風が吹いた。
ユイの髪が揺れ、花たちがざわめき、空が少しずつ明るくなっていく。
「もうすぐ朝だ」
ユイはそう言って、ふっと目を細めた。
「ねえ、お姉ちゃん。覚えてなくても、寂しがらなくていいよ」
「なんで」
「向日葵はね、毎年咲くから」
朝焼けが丘を照らしたとき、ユイの姿はもうなかった。
代わりに、あの向日葵畑も跡形もなく消えていた。
そこにはただ、乾いた草と、踏みしめた足跡だけが残っていた。
ポケットの中に、何かが入っていた。
それは、子どもの頃に誰かにもらった、小さな向日葵のブローチだった。
握った手が、少しだけ温かかった。
向日葵は夜に咲かない
コメント
2件
文才ありすぎ😭😭😭 テーマも 唯一無二で 超素敵❕❕ 作品として完成されすぎてて、 ホントに 最高 😽❤️🔥 参加ありがとう ❕❕❕